年次報告 2015 (1231)

 

今年、80歳になりました。

 70歳代後半から、体力・気力の衰えというか「波」を感じていましたが、「80歳になれば『後期高齢安定期』に入り、それなりのペースで仕事もできよう」と楽観していました。それでも「初年度のペースづくり」「助走」と感じてはいたのか、今年は老生なりにけっこう「頑張って」、

二研究会への報告をつとめ、

一論文

三つの状況発言をまとめ、

ひとつの新しい企画にも着手しました。

 

これもみな、みなさまの直接また間接のご支援のお蔭と感謝しております。間接のご支援とは、年金生活者としてフルタイム仕事に専念できる「余暇 (スコラ)」を与えていただいていることです。現役の方々の多忙を垣間見るにつけても、そう痛感します。

 

研究会とは、324日に東洋大学白山校舎で開かれた「ヴェーバー研究会21」第七回と、919日に早稲田大学早稲田キャンパスで開かれた「比較歴史社会学研究会」第一回です。前者では「ヴェーバー生誕100周年シンポの総括に向けて」、後者では「社会科学の弁証法的発展を期して――ヴェーバーの比較歴史社会学とくに『宗教社会学』の研究に即して」と題して報告し、討論しました。

後者では、司会者が「時間ピッタリに報告を終えてくれた」と、特別にねぎらいの言葉をかけてくれました。じつは、以前から、レジュメと資料を事前に本ホーム・ページに載せて、事務局の負担を軽減すると同時に、「報告時間超過常習犯」をみずから矯正しようとつとめてはいたのですが、80路にさしかかって漸く「結果」が出たというわけです。現役のころ、院生に勧められ励まされて渋々習得したパソコンIT術が、加齢とともに意義を増し、いまでは「後期高齢安定期」に不可欠のメディアとして、大いに役立っています。

 

一論文とは、上記「ヴェーバー研究会21」第七回への報告と討論を経て、連休あけの締め切りギリギリに (これも指定枚数をさほど超過せずに) まとめた「歴史社会学と責任倫理――100年シンポの証言と一総括」と題する論考です。

(2014) 127日、早稲田大学早稲田キャンパスで「マックス・ヴェーバー生誕150周年記念シンポジウム」が開かれました。これへの提題・報告・討論・寄稿・総括を一書にまとめる論文集(中野敏男編)『マックス・ヴェーバー研究の現在――資本主義・民主主義・福祉国家の変容の中で』が、明年3月の年度末までに、創文社から出版されます。拙稿はこの論集への一寄稿です。

 

三状況発言の一は、本ホーム・ページに載せた「1960年代精神史とプロフェッショナリズム」です。

その二は、712日、法政大学市ヶ谷キャンパスの一教室 (故舩橋晴俊君が教養課程の社会学講義に使っていたというやや古めかしい大教室) で開かれた「舩橋晴俊先生を偲ぶ会」で、「飛び入り」に近い形で発言した要旨 (というか、語りたかった思い) を敷衍してまとめ、やはり本ホーム・ページに載せた「1960年代の問題状況――舩橋晴俊君の思想形成に寄せて」です。故舩橋晴俊君については、昨 (2014) 年のホーム・ページに、「舩橋晴俊君の急逝を悼む」(922)、「市民運動と学問との狭間に生き抜いた人――舩橋晴俊君との交信より」1231日)ほか、を掲載しました。

 

この一年、ずっと、安倍自民党政権による「安保法制国会」の、なりふり構わぬ理不尽な強権行使と、これに反対する反戦・平和運動の、街頭行動の高揚を、後者への共感・支持とともに注視してきました。それと同時に、「60年安保」闘争の一関与者として、翻って「60年安保」後の経緯を振り返り、(強硬姿勢ばかりではない) 国家権力の出方と、今後の運動の対応を、慎重に検討し、議論の輪を広げていくことが大切と考え、そのためには「比較の準拠枠」を用意することも必要と思い、おのずと「1960年代」を論ずることになりました。

老生には、半世紀後の今日でもやはり、街頭行動の盛り上がりを、参加者各個人の「日常現場」に還流させ、「現場からの民主化」の道を切り開き、堅実に担って、その成果を大状況に押し上げていくことが重要と思われます。そしてそのためには、(老生にもできることとして) 遠回りのようでも「現場の問題を捉えて議論することを好み、必要とあれば論争も厭わない気風・エートス」の涵養と伸展を課題とし、その達成に連なるような仕事に、今後とも微力を尽くしたい、と願っております。

 

状況発言の三としては、「碑をめぐる追想――旧東独の旅と1960年代の精神史から」という一文をしたため、その第一次草稿(今年中の発言のひとつとして)本ホーム・ページに収録しました。ずっと以前、今年の春でしたでしょうか、「108山﨑博昭プロジェクト」の発足直後、山本義隆君の呼びかけを受け、「東大闘争裁判特別弁護人」として、賛同人のひとりに名を連ねたのですが、この126日、事務局から賛同人一同に「一口メッセージ」を寄せてほしい、という要請がありました。昨今では「東大闘争裁判特別弁護人」と名乗っても、なんのことか、何者なのか、分かってはいただけない方々も多いのではないかと思い、自己紹介も兼ねて、(直接の面識はないのですが) 山﨑博昭君との (わたしにとってもじつは深い) かかわりを、1960年代の精神史のなかで確かめようと、一文を草し始めたのですが、思いがけず、とめどなく膨れ上がりました。

山﨑博昭君は、ご記憶の方も多いと思いますが、1967108日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に反対するデモに加わり、羽田・弁天橋で警察官に撲殺された京大生です。「108山﨑博昭プロジェクト」は、かれの死を悼み、志を偲び、わたしたち自身がどう引き継いでゆくか、現場にモニュメントを立てるという目標に向けて、議論の輪を広げながら、わたしたちの反戦・反権力の決意を、モニュメントに刻み出し、同世代者の闘いの「よすが」にすると同時に、「歴史」の一契機として、次世代に伝えていこうとする企画です。山本君ほか、山﨑君の出身校の同期生・同窓生や、その他、志を同じくする人々が発起人となって立ち上げました。広く賛同人をつのり、議論を広げていますので、ぜひ、Webページ (yamazakiproject.com) を開いてごらんになってください。

拙稿「碑をめぐる追想」は、長文となり、見出しがなくては読み難いので、いま、プロジェクト事務局で、見出しをつけるなど、編集を進めてくれています。こういう文章はもっぱら、「108山﨑博昭プロジェクト」について知っていただき、その発展に寄与することができれば、目的は達成され、著作権とか掲載権とかは問題ではありません。したがって、事務局のほうで読みやすい見出しをつけて編集し、Webページの「私にとっての108」欄に、そのような協働作品として発表してもらうことにしました。他方、わたしの第一次草案は、重複となっても、これはこれで、筆者の今年内の発言として、本ホーム・ページ2015年欄に、収録することにしましたpdfに変換してffftpでアップ・ロードしようとしたのですが、どうやら容量が大きすぎて不可です。そこで、写真抜きの文章のみ、アップしました]

拙稿をお読みいただくと、「碑の意味」をめぐり、(「旧東独」ばかりでなく)「旧西独」ではどうか、(第二次世界大戦戦勝国の) 米英仏露、(中立国の) スイスではどうか、他方ベトナムや中国ではどうか、駆け足でも旅すると、それぞれどういう思いを触発されるのか、というようなご疑問が生ずるかもしれません。それにお応えしていくと、続篇として「碑の比較歴史社会学」を副題とするエッセーが書けそうですが、それはまた、機会があれば投稿したい、と考えております。

ただ一点、旧西独の各都市には、(自国の戦死者の追悼碑一色の米英仏露とは異なり)「ここにシナゴーグ (ユダヤ教会堂) があった、が、水晶宮の夜、暴漢に破壊された」という碑が立てられ、これに呼応して、各ゲマインデ (地方自治体) の庁舎など、旅行者の目にも止まる公共空間に、「ユダヤ教徒の市民仲間Mitbürgerにたいする往時の迫害を忘れず、共に生きる決意を新たにしよう」という趣旨のプラカートが貼り出されています。保守派の大統領ヴァイツゼッカーも「過去を忘れる国民に未来はない」と語る思想性をそなえていましたが、それが、やや類型的にではあれ、各都市の市民の間にも浸透し、公共空間にも刻み出され、「忘れたい意思」とせめぎ合っています。

それに比べて、どうでしょう。昨日からのマス・コミ報道によりますと、安倍内閣は、ソウルの日本大使館前に立てられた「従軍慰安婦」像の撤去を要求し、10億円による「最終的、不可逆的」「買収」を企て、アメリカ政府も歓迎の意向を示しているとのことです。かつて「60年安保」後の池田政権下、日本人は、(計算に長けた「セールス・マン」首相のイメージとのダブりで)「エコノミック・アニマル」といわれ、ひどく「傷つけられた」と感じましたが、「公害」垂れ流しの「高度経済成長」によって「豊か」になり、「ナンバー・ワン」などと煽てられると、「結果オーライ」で、その感性さえ「水に流して」しまったようです。敗戦を直視せず、「終戦」と言いくるめ、言いくるめられて、ひたすら欲望充足に走り、「飽満したgesättigt」気分に浸された日本人は、「やりっぱなし」「いいっぱなし」の無思想性・無歴史性のまま、「背に腹は替えられぬ」とばかり、「グローバリゼーション」の「波間に浮かれて」「あてどなく彷徨う」のでしょうか。

「勝者が敗者となり、敗者が勝者となる。豊かさは貧しさ、貧しさは豊かさ。当事者が傍観者となり、傍観者が当事者となる」――この弁証法を見据えて、議論の輪を広げ、碑を立て、「歴史」を創ろうではありませんか。

 

最後に、新しい一企画とは、『マックス・ヴェーバー「経済と社会」の再構成――全体像』として予告してきた著作を、まず手始めに、いっそ『マックス・ヴェーバー「宗教社会学」の全訳および解説』として、世に問おうとするものです。そう決心するにいたった理由は、下記のとおりです。

わたしはこれまで、「学知」としての抽象性の高い領域で仕事をする場合、たとえばマックス・ヴェーバーの社会科学方法論・科学論にかんする論文を執筆する場合にも「学知主義」に閉じ籠もる(そのテーマを「学知」のかぎりで自足完結的に取り扱って「能事終われり」とする)のではなく、そのときどきの状況で、当のテーマを採り上げて論ずる「意味」も考え、当の論文を、状況への思想的投企の一環として位置づけようとつとめてきました。

ごく一般的にいって、科学は「問い-応答新たな問い-新たな応答また新たな問い-またあらたな応答……」というにふうに、無限に発展を遂げ、そのときどきの限界は「旅人にたいする地平線のように」そのつど後退して、「完成」「完結」にいたることがありません(別言すれば、ある応答を「完成知」「全体知」として固定化・絶対化することは、ヤスパースのいう「科学迷信」にほかなりません)。したがって、科学のそうした本質に即し、「科学者責任に徹して生きようとする学者(別言すれば「純粋力作型」)は、いかなる「部分知」にも安住せず、つぎつぎに「問い」を発して、そのつど「論争」を提起することにならざるをえません。「一生に一度も論争しない学者」が、はたして学者といえるのかどうか。ところが、わたしたちの周囲を見回しますと、そういう「論争しない学者」が圧倒的多数を占め、その属性が「人格円満の証左」として、尊重され、称揚されてもいます。

分かりやすい具体例をひとつあげますと、なにも「偉大な学説」とはいわず、翻訳の類でも、「大先生」なり「学界を代表する巨匠」なりの訳本について、誤訳や問題点を指摘しても、本人が反論して「論争」になることは、まずありません。「巨匠」を取り巻いている「弟子たちも、「先生はご不快かもしれませんが、あの指摘は、真面目で、重要な問題提起ですから、正面から受けて立たれてはいかがですか」と諫言して、師匠の応答を勧めてくれるといいのですが、圧倒的多数は (学界では力量を認められ、相応の地位を占めている人でも)「首をすくめて黙り込み」ます。師匠は師匠で「自分の学問の中心部に攻め込んでくるのならともかく、たかが訳本なんか」と「タカをくくって」います。そういう「大先生」に「下手なこと」をいって「逆鱗に触れる」のは避けたほうが「身の安全」「得策」という直感がはたらくのでしょう。

つまり、みな、「科学者責任よりも縁故 (コネ) 責任を優先させて生きています。あるいは、科学者として論争をやりぬく実力がなく、それだけ「縁故(コネ)」に頼って「身過ぎ世過ぎ」を計っているのかもしれません。

 

そういうなかで、ごくたまには、真面目な(別言すれば、「コネ力作型」ではない「純粋力作型」の)若者が出てきて、「大先生」を囲む「知的不誠実」の(「不都合な事実を直視しない」)「縁故共同態」に挑戦することがあります。しかし、当初には丁重に説得につとめていても、やがて、頭から無視してかかる態度に「業を煮やし」、憤って、追及の語調を強めますと、「縁故共同態」はすかさず反撃に出て、「内容」は無視したまま「形式」をあげつらい、「学界功労者への礼に欠ける」「人格的に問題がある」「狷介固陋」「あの人とはつきあえない」などと、「茫漠たる非難」を醸成し、暗黙に協定を結びます。そのようにして、まっとうな若者は孤立に追い込まれ、結果として誤謬のほうが生き残ります。

 

ここにはじつは、誤訳だらけの文庫本でも、どんなに誤謬が暴かれても、「弟子たち」と同じように無視し、学界「縁故共同態」と癒着して商売をつづけようとする某「権威主義」大出版社の利害も絡んでいます。この問題は、無名の若者のころ、別の中小出版社に育てられ、学知のかぎりでは確かに実績を挙げた学知家を、「名を成した」と見るや横合いから「奪い取って」、『著作集』や『全集』を大々的に出版する、不明朗な商法とも、そういう誘惑に屈して「権威主義」的大出版社に「寝返る」学知家たちの「不甲斐なさ」といった実情とも、結びついています。「学界-出版界」関係には、こうした類の問題が無数にあり、いつかはそうした問題群を切開して、正面から問うていかなければならない、と思います。

 

そういう精神状況ですから、ヴェーバーの「社会学上の主著」とされる『経済と社会』の、初版から (第六版に相当する)『全集版』にいたる一世紀間の誤編纂を暴き、論証して、「日本ヴェーバー学界」の無疑問的踏襲の責任も問うた拙著『日独ヴェーバー論争――「経済と社会」(旧稿) 全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて』(2013、未來社) にたいしても、「日本社会学会」を初めとする日本社会科学の諸学会は、当面は無視し、風見鶏の対応に出て、まともに受け止めて論争しようとはしません。

拙著では、既成の誤謬を暴く「ネガ」に加え、「では、お前の『編纂』と『読解-解釈』はどうなのか」との反問に答える「ポジ」として、「全体像の骨子提示しました。しかし、そのうえで、その「骨子」を「全体像」に拡充する著書を上梓しても、「一研究者の試論」(にはちがいないのですが) として、「『いろいろあらァね』のうちのひとつ」として、「相対化」「平準化」され、またしても「なかったことにしようや」と「闇に葬ら」れ、誤編纂と誤訳本のほうが逞しく生き残っていくことになりかねません。「196869年東大闘争」の最終局面でも、解決のネックとなった「文処分」問題について、機動隊導入による強権的秩序回復の後、1969年の秋、窮地に追い込まれた文学部教授会は、文処分は「なかったことにしようや」と唱え、「消去」の挙に出て、「生き延び」ました。それと、まったく同根・等価・同質の対応なのです。

そこで、「そうはさせじ」と、ヴェーバーの『経済と社会』(旧稿) 中、二大雄篇のひとつ「宗教社会学」の全訳と解説に打って出て、真っ向勝負しようと思います。

 

このさい確認しておきたいのですが、既訳 (武藤一雄・薗田宗人・薗田坦訳『宗教社会学』1976、創文社) は、翻訳一般のスタンダードはクリアした、粒々辛苦の労作です。宗教史上の諸事象にかんする豊富で詳細な訳注は、宗教 (教理) 学者ないし宗教史家ならではの優れた研究成果として、わたしたちも大いに学ばせてもらいましたし、今後ともそうでしょう。しかし、マリアンネ・ヴェーバー以来の(基礎範疇術語の変更を告げる原著者の注記を無視した)誤編纂本を、無造作に底本として採用してしまったため、変更後の「改訂稿」(1920) の社会学的基礎範疇を、変更前の「旧稿」(191214) に持ち込んで、概念上の混乱に陥り、「旧稿」で展開され始めたヴェーバーの「宗教社会学」を、それ自体の社会学的基礎範疇に即して読解し、再構成することができませんでした。その点では、いまだに読者を誤導しています。この問題は本来、宗教 (教理) 学者や宗教史家よりもむしろ、社会学者の責任なのですが、社会学者は誰も、問題提起すらせず、責任を感じずにきた、あるいはうすうす感じても「目を背けてきた」としかいいようがありません。そこで、今回はわたしが、「補訳者」ではなく、はっきり「訳者」と名乗り出て、ヴェーバーの「宗教社会学」を復元し、邦語の読書界に問いたいと思います。これは、「知的誠実性」を貫かれた故世良晃志郎先生の遺言にお答えすることでもあります。

 

最後に、これは遺憾なことですが、「恵贈著作」欄を、今年かぎりで閉じようと思います。その理由は、いずれ詳細に述べるつもりですが、今年の応答の最終回として、尾中文哉論文へのコメントを、同君の許諾をえて、本ホーム・ページに掲載しました。

 

本ホーム・ページへの今年のアクセス・ご高覧、まことにありがとうございました。どうかよいお年をお迎えください [1231]