2011年の仕事、年次報告(20111231日)

 

 今年も、法政大学サステイナビリティ研究教育機構(機構長: 舩橋晴俊氏)のフォーラムとシンポジウムに、計4回、フロア参加しました。

1. フォーラム第14 (221)「地域のエネルギーとお金を地域と地球に活かす――再生可能エネルギーによる地域と都市の新たな連帯」(岡田久典、飯田哲也、江原幸雄、舩橋晴俊、丸山康司、山本陽介、谷口信雄、石川裕二、の各氏)

[こういう問題関心は、311日の原発事故以前からあって、この企画も立てられたのでしょう。]

2. フォーラム第15 (428)「持続可能な開発と環境分野国際協力――開発途上国の現場から」(吉田充夫氏)

3. フォーラム第16 (526)「原子力エネルギーは制御可能か」(山口幸夫氏)

4. 緊急シンポジウム (73)「震災・原発問題の投げかけている課題と復興への展望: 地域再生の視点から」(赤坂憲雄、伴英幸、茅野恒秀、小山厚子、山岸秀雄、の各氏)

  筆者は、いずれの回にも、各氏の報告と討論に、おおいに啓発されました。が、とくに、吉田充夫氏と山口幸夫氏からは、下記の点で、筆者自身の関心事に引きつけて考えるべき問題を投げかけられました。

 

吉田氏は、国際協力機構 (JICA) の国際協力専門委員として、バングラデシュのダッカとパレスチナのヨルダン川西岸地域で、「廃棄物管理事業」(「ゴミ処理」) の「キャパシティ・ディベロップメント」(当事者の包括的対処能力の向上) 支援に従事されたのですが、その経験に即したお話からは、つぎの二点を学びました。すなわち、①「ゴミ処理」という生活上の必要に応える事業への支援は、「政治的中立」を押し通すことによって、ヨルダン川西岸という係争地でも、一方ではイスラエル、他方ではハマス勢力からの妨害も受けずに (あるいは、受けたとしても、なんとかはね除けて、ともかくも) 完遂できたということ、②その効果は、都市衛生の向上という目的達成の範囲を越えて、たとえば、ゴミ処理に携わる (東パキスタンだったバングラデシュにも温存されていたらしい「カースト制」の遺制による)() 不可触賤民カースト」の成員にも、「人びとに役立っている」という誇りと仕事への意欲を目に見えて触発しえたということ、このふたつです。後者について、吉田氏は、国際協力事業の政治的・社会的側面には、あえて立ち入らない、というご意向のようだったので、フロアから質問して確認したわけではありませんが、正面から社会変革・人間変革を掲げるわけではない、こういう地道な生活支援が、かえってまさにそれゆえ、人間変革・社会変革上の随伴効果もともなうという逆説的関係の証左といえるかもしれません。

ODA (政府開発援助) にも、あるいは、(対イスラエル関係などを考えると) ODAなればこそ、これだけのことができると知って、筆者は、かつてNGO (非政府組織)「ペシャワル会」の中村哲氏が、やはり現地の生活上のニーズに応え、日本の伝統的な井戸掘りの技術を伝えて喜ばれた経験にもとづき、その後小泉内閣が (というよりも小泉首相が独断で) イラクへの自衛隊派兵を決めたさい、中村氏が自信をもって「有害無益」と断じたことを思い出しました。このふたつの事例から、筆者も一日本人として、今後の国際貢献と、それにもとづく国際的地位の「革新」を、どのような方向で、どのように進めるべきか、考えさせられました。こういうところで、日本人の「清潔好き」(欧米に「ウォシュレット」が普及しないのは、なぜでしょうか)、「きめの細かさ」(欧米に公共交通機関の時刻表が普及しないのは、なぜでしょうか)、「(いったん目的がきめられて、その意義を確信したばあいの) 骨惜しみしない献身」といった長所を、国際場裡でも活かしていけるのではないでしょうか。もっとも、長所は短所と裏腹で、「清潔好き」は「過度の潔癖」となって「異質な他者の排除」に、「きめの細かさ」は「大局的判断の欠如」に、「骨惜しみしない献身」は、「献身の目的にたいする批判的思考力の欠落」に、それぞれ通じていることも、忘れるわけにはいきません。

ちなみに、「イラクには『大量破壊兵器』が蓄蔵されている」という戦争の大義名分が誤りであった事実を、戦争責任者のアメリカ大統領ブッシュも、事後に不承不承認めましたが、その誤りに追随して自衛隊を派兵した日本政治の責任者は、沈黙したままです。このように、「責任当事者が、『長い物には巻かれろ』式に沈黙して責任を回避し、周囲も黙認してそれを許す」というのが、日本社会の隅々にまで浸透している最大の欠点ではないでしょうか。

 

この点に関連して、山口幸夫氏は、福島第一原発一号機の建屋が水素爆発で吹き飛ぶ光景を、BBCが撮影した映像として、報告の冒頭、紹介されました。ところで、筆者は、311日以来、テレビを見続け、新聞にもずっと目を通してきたのですが、この映像は見たことがありません。まさか、BBCにも撮影できた光景を、日本のマスコミ各社がことごとく撮影し損なった、というわけはないでしょう。筆者の見落としでなければ[後の報道によると、314日午前、福島中央テレビの監視カメラで撮影された三号機の爆発が、4チャンネルで放映されていたようです。「プロメテウスの罠」、『朝日』1月3日朝刊、3面、14日補遺]、これは、「衝撃的光景に視聴者が動揺するのを避ける」という「暗黙の了解」があって、マスコミと政府が「期せずして」一体となり、事実を隠蔽した結果ではないでしょうか。こういうとき、筆者の世代は、1960年反安保闘争の最終局面で、マスコミが「七社声明」を発表し、(安保承認の採決を強行した)自民党政権に擦り寄った事実を、思い出します。こういうところに、状況のクリティカルな問題に直面するや、思考と判断を停止し、「当たり障りなく」振る舞おうとする当事者の無責任体質が、つねに露呈するようです。

それでは、学者はどうでしょうか。この点に関連して、山口氏は、つぎのようなエピソードを紹介されました。多分1950年代の末、「原子力の平和利用」にかんする日本学術会議の公開討論会が開かれ、(当時、湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一氏らとともに、理論物理学の長老格で、阪大教授の)伏見康治氏が、「廃棄物はどうするのですか」という一学生山口氏のフロアからの質問に、壇上ではたと当惑し、一分間絶句したあと、「それは重要なことだが、これまで考えてこなかった、問題提起として受け止めよう」と応答したそうです。この話に、筆者は、鋭い質問をストレートに投げかけた学生も学生ながら、それに正面から対応しようとした (がゆえに絶句した) 伏見教授のほうにも、「不都合な事実」を指摘されてもごまかさない「知的誠実性」が残されていた、と評価したくなります。もとより、かれらもまた、「学者がボヤボヤしているから札束で頬を引っぱたいてやる」と言い放ったという粗野な政治家に駆り立てられ、「平和利用なら」と浮足立った事実を忘れることはできません。

ではその後、山口氏の問題提起は、どう扱われたのでしょうか。既成事実に引きずられて「原子力工学」を担った「原子力村」の学者たちは、かりに同じ質問を受けたとしたら、どうでしょうか。「そんなことまで考えていては、なにもできない[では、あなたはなにをしようというのか]」とか、「そのときはそのときで、新たな技術問題として解決しよう[あなたならどう解決するのか]」などと、はぐらかし、異見・異論を封殺しにかかったにちがいありません。というよりも、かれらはそもそも、そうした公開討論会を恐れて、避け通してきたのではないでしょうか。

 

さて、山口氏と筆者は、1968-69年大学闘争以降、旧知の間柄です。氏は当時、確かサルトルにちなんで『ぷろじえ』と題する同人誌を発行していた異色の理学部院生グループに属し(ほかに確か、梅林宏道氏もいた、と記憶しています[創刊後しばらくして、高木仁三郎氏も加わった――『市民科学者として生きる』1999、岩波新書、pp. 125-26――とのことですが、氏にはお目にかかった記憶がありません。2012127日補遺])、その後長らく三里塚に常駐し、「地域共生委員会」の仕事が一区切りついたところで、芝浦工業大学、法政大学の研究教育職に復帰し、停年退職後、高木仁三郎氏の後任として「原子力資料情報室」の共同代表をつとめ、「市民科学者」として今日にいたっている人です。筆者は当時、高橋晄正氏や宇井純氏 (ともに故人) はもとより、山口氏を初め、(物性物理で山口氏の数年先輩に当たる、中学時代からの畏友で、反原発をひとつの柱とする『科学・社会・人間Science, Society and Humanity』誌の編集主幹)白鳥紀一氏、(千葉港から成田空港へのジェット燃料輸送に使われるパイプラインの安全性につき、地域の住民運動に関与し助言してくれた、土木工学者で当時東京都立大学助教授の)湯浅欽史氏ら、1968-69年大学闘争に共鳴して持論を展開していた自然科学者たちとも、ときどき議論し、かれらの科学論とヴェーバー科学論との意外な親近性に気がつき、そこから反原発の原則的スタンスを固めていました。

それゆえ、「科学論と原発事故」という問題は、今年の311日以降、ずっと筆者の念頭にあり、「一人文社会科学者として自分の専門的関心事に引きつけて、原発事故にどう対応するか、いかなる課題を担うべきか」、考えつづけてきました。この問題は、著作関係7.「後期ヴェーバーにおける科学論の展開と社会学の創成――とくに『革新』の理論」の一執筆動機をなしてもいますので、後段でまた、立ち返ってみたいと思います。

 

さて、研究会関係としては、今年も、一橋大学法学研究科アジア研究教育拠点事業「東アジアにおける法の継受と創造――東アジア共通法の基盤形成に向けて」(一橋大学法学研究科・中国人民大学法学院・釜山大学校法科大学) 基礎法部門(責任者: 水林彪氏)の研究会「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」に、19-10(一橋大学・佐野書院)723-25(奈良女子大学)1119(一橋大学・佐野書院) の三回、全日程に会員として参加し、(同じ事業の、合同で開かれた姉妹会)「比較近代法史研究会」にも (723日の午前を除いて) フロア参加しました。

「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」のほうでは、今年も、三回の定例研究会をとおして、主観的には、そのときどきに話題にのぼる事項につき、そのつどヴェーバーの所見を再構成して伝達するのが筆者の責任、と感じて努力したのですが、客観的には、発言が多く、長く、しかも早口で、とても翻訳して中国や韓国の同僚には伝えられない、との批判を受けました。これは、いわれてみれば至極もっともで、その後、反省して注意しましたが、身についた長年の癖からは、なかなか抜け出られません。それにつけても、『「経済と社会」(旧稿) の再構成――全体像』を早く上梓して、そのつど口頭で再構成しなくとも済むように、「準備書面」をととのえたいと思いました。しかし、これもなかなか、思うようには進みません。下段の著作関係6. に記載しますが、「日独マックス・ヴェーバー論争――『経済と社会』(戦前草稿)の『全集』版編纂をめぐって」シリーズで、『全集』版の編纂にたいする否定的批判をいったん総括したうえ、その積極的展開として、来年には、『「経済と社会」(旧稿) の再構成――全体像』の執筆に(「何度目かの正直」で)こんどこそ本腰を入れて取り組みたいと思います。

 

723日午後の「比較近代法史研究会」では、「近代日本における法専門職(弁護士)の確立過程」と題する林真貴子氏の報告に、たまたま筆者の曾祖父・磯部四郎への論及がありました。そこで、当夜の懇親会では、法専門職の制度的確立という報告主題に、側面からかかわり、四郎の「志操Gesinnung」とその形成史につき、簡潔にスピーチし、「専門職倫理professional ethics」の問題に、ひとつの話題を提供しました。

懇親会とはいえ、半ば公的な席で、自分の家系と先祖について語ったのは、これが初めてです。じつは今年の五月末、それまで親戚関係を取り仕切ってくれていた長姉が、85歳をまえに死去し、末弟ながら長男の筆者は、この機会に自分の血縁ルーツについても知っておこうと、かねて贈られていた木々康子著『蒼龍の系譜』(1967年、筑摩書房)、『陽が昇るとき』(1984年、筑摩書房)、『林忠正とその時代』(1987年、筑摩書房)、平井一雄・村上一博編『磯部四郎研究』(2007年、信山社) を(じつは初めて)繙読しました。すると、越中高岡の藩医で蘭学者・長崎浩斎の子孫として、西洋文化 (蘭学、フランス法および美術) と日本の伝統 (漢学、国学、古美術) との間を揺れ動き、しばしば「過同調」に陥りながらも「マージナル・マン」として生きた一族 (浩斎の子で、蘭医として家業を継ぎ、浩斎とは異なって、蘭学を技術とは割り切れず、その心も知ろうと腐心しながら、最後には国学に傾倒して宮司となった長崎言定や、言定の子・四郎の従兄弟で、長くパリに住んで画商を営み、印象派の画家や作家と昵懇に付き合った林忠正ら) の問題圏に引き込まれて、筆者もやはり同じ立ち位置にいるな、と感じました。浩斎の孫・磯部四郎は、幼くして足軽の上野家に養子入りした富山藩下級武士の四男(幼名は林秀太郎。家計逼迫した当時の下級武士は、長男を除いて残らず養子に出すつもりで、みな ○太郎と名づけました)で、実家に帰っても、(武家に嫁いで、武家の娘以上に武家らしく振る舞おうとする浩斎の娘の) 実母に、土間で挨拶し、食卓をともにしてもらえない、といった封建制的身分差別を受け、これがトラウマとなったようです。それだけに、明治政府の第一期留学生としてフランス近代法を学んで帰国するや、ボアソナードを助けて (嫡子にも庶子にも財産を均分すべしという)「民法第一草案」を起草したのでしょう。もとよりこの草案は、日本の醇風美俗に反するとして骨抜きにされましたが、そのあと、啓蒙活動を経て、弁護士法の制定にかかわり、最終的には専門職に人権保障を期待して、みずからも幸徳秋水の国選弁護人を引き受け、膨大な調書を読み、被告の無実を確信して最善を尽くしたようです。東京は本所(現墨田区)の伊達藩下屋敷跡に住みましたが、1923年、関東大震災で「被服厰跡」に追い詰められ、近辺の下町住民とともに焼死。いずれ、もう少し詳しく調べてみたいと思います。

 

 

著作関係では、論文を五点 (そのうち三点は脱稿)、随想を二点、執筆しました。以下のとおりです。

1.「マックス・ヴェーバー『経済と社会』(旧稿)の基礎範疇と体系構成――『全集』版編纂をめぐる対シュルフター論争の総括」

(426日脱稿、19,723字、『名古屋大学 社会学論集』第32 [2012年春刊行予定] に寄稿)

  内容目次

はじめに――『経済と社会』(旧稿)はなぜ、全体として精確には読まれないのか

1.    『全集』版の題材別分割――「そもそも頭のない五死屍片」

2.    全篇の統合的再構成を求める理由――比較歴史社会学の固有価値と応用価値

3.    対シュルフター論争の争点

4.    「支配の社会学」章における基礎範疇の適用例

5.    「カリスマ的支配」節と「範疇論文」との連結環――参照指示ネットワークの例示

6.    基礎範疇と「ゲマインデ」概念――「教団ゲマインデ」「村落ゲマインデ」「都市ゲマインデ」の統一的把握

小括と今後の課題

 

2.「範疇論文とトルソの頭――『経済と社会』(旧稿)の社会学的基礎範疇

Kategorienaufsatz und Kopf des TorsosSoziologische Grundkategorien des „alten Manuskripts“ von Wirtschaft und Gesellschaft

(51日脱稿、32,654字、いわき明星大学で開かれた第3回「日独社会学会議」への報告 20101122日]を推敲、茨木竹二編の論集 [2012年、時潮社より刊行予定] に寄稿)

  内容目次

  問題の所在――誤編纂による読解不全の現状

1.    叢書『社会経済学綱要』の包括的問題設定と「範疇論文」

2.    シュタムラー批判と「範疇論文」の社会学的基礎範疇

3.    「アンシュタルト」と「団体」

4.    「社会 (秩序) の合理化」の意味――その普遍的随伴現象

5.    「範疇論文」と「旧稿」のⅠ「概念」篇-2法と社会」章

6.    「範疇論文」と「旧稿」のⅠ「概念」篇-3「社会と経済」章

7.    原著者自身による「旧稿」全篇の内容構成予示

8.    小括と今後の課題

 

3.「マックス・ヴェーバー」

(98日脱稿、5,239字、大澤・吉見・鷲見編『現代社会学事典』[2012年、弘文堂より刊行予定] に寄稿)

内容目次

  () 経歴と学問

  Ⅰ.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

  Ⅱ.「理解社会学のカテゴリー」

  Ⅲ.『経済と社会』「第二部」

  .「世界宗教の経済倫理」シリーズ

【主著】

【主要文献】

 

4.「内田雄造君の急逝を悼む」

  (71日脱稿、1,242字、追悼文集 [2012126日の一周忌に刊行予定] に寄稿)

 

5.「小箕俊介さんのこと」

(831日脱稿、1,872字、未来社60周年へのアンケート[回答]、『ある軌跡――未來社60年の記録』、20111130日、未來社刊、pp. 33-35)

 

そのほか、全篇の脱稿にはいたらず、来年度にひきつぐ論稿が、二種あります。

6.「日独マックス・ヴェーバー論争――『経済と社会』(戦前草稿)の『全集』版編纂をめぐって (1):「範疇論文」「第二部」の所在と執筆期をめぐるモムゼン-、シュルフター-、ヘルメス説の位置づけ」(630日脱稿、10,891)

  内容目次

  1.「頭のない五死屍片」――『全集』版における『経済と社会』(「旧稿」)の解体

  2. 未定稿刊行にともなう陥穽と編纂者の規律

  3.「範疇論文」「第二部」の所在と成立期をめぐる三説

 

「日独マックス・ヴェーバー論争――『経済と社会』(戦前草稿)の『全集』版編纂をめぐって (2): モムゼン批判」(630日脱稿、7月4日改訂、36,979)

4.「範疇論文」の基礎範疇と「もろもろのゲマインシャフト」への適用

5.「経済と秩序」の位置――第三分巻「法」への繰り下げ編入の問題

6.1914年構成表」の信憑性と妥当性

7.「都市」章の「旧稿」編入と位置づけ

8. モムゼン「執筆期順」方針の批判――執筆期は異なるテクスト群の、「1914年構成表」にしたがう架橋と体系的統合

 

「日独マックス・ヴェーバー論争――『経済と社会』(戦前草稿)の『全集』版編纂をめぐって(3): シュルフター批判(1)(815日脱稿、15,400)

9. モムゼン「四分の三年前」説にたいするシュルフターの批判

10.  モムゼン批判の不徹底――シュルフターの「勇み足」と自己矛盾

11. 日付の一致を採るが、その意味は正反対

12.1914年構成表」の意義をめぐるシュルフターのモムゼン批判

13.1914年構成表」の意義をめぐるシュルフターの折原批判とこれへの応答

 

以上、(1) (2) (3) の三篇は、水林彪氏に依頼し、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」の一参考資料として、メールで会員全員に送りました。これで、『マックス・ヴェーバー全集』全体の編纂者 (モムゼンとシュルフター) にたいする筆者の批判は、ひとまず完了したことになります。

しかしその後、『全集』版編纂のいわば副産物として、各分巻の編纂者・編纂協力者の世代 (モムゼン、シュルフターらよりも一回り若い世代) で、「旧稿」研究がかなり進み、なかには、そうした研究にもとづいて全巻の編纂に批判を加える人も現われました。たとえば、第三分巻『法』の編纂協力者ジークフリート・ヘルメス(ボン大学)のシュルフター批判がそれです。

そこで、論争のそうした広がりも視野に入れて、筆者の論稿も拡充すべく、構想を練り直しました。いまのところ予定している続稿の表題は、つぎのとおりです。

    「日独マックス・ヴェーバー論争――『経済と社会』(戦前草稿)の『全集』版編纂をめぐって (4): ヴェルナー・ゲッファートによる第三分巻『法』編纂にかんする中間報告」

「日独マックス・ヴェーバー論争――『経済と社会』(戦前草稿)の『全集』版編纂をめぐって (5): ゲッファート報告へのシュルフターの対応」

「日独マックス・ヴェーバー論争――『経済と社会』(戦前草稿)の『全集』版編纂をめぐって (6): シュルフター対応へのヘルメスの批判と、これにたいする折原の評価」

このように、第三分巻『法』をめぐる編纂者-編纂協力者間の論争を重視して軸に据えるのも、第三分巻『法』は「旧稿」草稿中唯一、ヴェーバーの手稿そのもの(数種のタイプ稿と手書きの書き入れや付箋など)が残され、継承されているので、テクストの「群」ないし「層」を識別することができ、そこから(『法』分巻のみでなく)「旧稿」全篇の成立経緯も推論し、検証する手がかりがえられるかもしれない、と期待されるからです。

なお、筆者が、『全集』版編纂への否定的批判を、それ自体として (その積極的展開からは切り離して)「日独マックス・ヴェーバー論争」と題する一連の論稿にまとめ、そのうち著書としても発表しておこうとするのは、ドイツにおける『全集』編纂がやがて(おそらくは筆者の死後)完結し、日本でも邦訳『全集』の企画が持ち上がったときに、その編纂への一参考資料として活かしてほしい、と念願するからです。少なくとも、『経済と社会』(戦前草稿) 関連の巻は、ドイツ語版『全集』そのままの翻訳 (つまり「そもそも頭のない五死屍片」) ではなく、「日独マックス・ヴェーバー論争」を踏まえ、「全篇の体系的統合」が見通せるような新版として編纂し、日本の社会科学、少なくともヴェーバー研究が、欧米学界への永年の依存から脱却して自律した証として、出版してほしい、と思います。

   

7.「後期ヴェーバーにおける科学論の展開と社会学の創成――とくに『革新』の理論」

  この論文は、前段でも触れたとおり、「一ヴェーバー研究者として、311原発事故にどう対応すべきか」という問題提起にもとづき、ある切っ掛けもあって、起稿を思い立ちました。1112月に、とりあえず引用資料集を作成した段階です。

内容構成は、つぎのとおりで、ヴェーバーの「革新Neuerung」理論を軸に、『科学論集』(科学方法論) から『経済と社会 (旧稿)(=ヴェーバー固有の「一般社会学」) を経て、「世界宗教の経済倫理」シリーズ (=「一般社会学」の個性化的・比較歴史社会学的展開) にいたる「社会学の創成と展開」を追跡します。

 内容目次

Ⅰ.『科学論集』より

Ⅱ.『経済と社会(旧稿)』より

Ⅲ.『宗教社会学論集』より

 

まず、Ⅰ.『科学論集』からは、「科学の権能」論と「現実科学と法則科学との区別」論とを取り出して再考します。前者については、さんざん論じられてきて、もはや議論の余地がないようにも思われがちですが、1968-69年大学闘争における自然科学者たちとの議論を踏まえ、311原発事故以後の状況のなかで再読-再考しますと、けっしてそうではありません。

いちおう周知のとおり、「客観性論文」では、科学一般の権能が、①ある目的が与えられたばあいに、当の目的達成に「適合的」な手段を考え、その適合度を検証すること (ただし、その手段が適合的との理由で、ただちにそれを実践的に選定し、採用すべきだ、ということにはなりません)、②当の手段を採用して目的達成をめざしたばあいに、どんな随伴結果 (=犠牲) が生じてくるかを、予測すること、③目的自体の意義にかんする知識を提供すること、に求められます。ところで、この①については、「われわれは、(われわれの知識のそのときどきの限界内で)いかなる手段が、ある、考えられた目的を達成するのに適しているか、それとも適していないか、ある妥当性をもって確定することができる」(富永・立野訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』1998、岩波文庫、p. 31) と、はっきり限界づけがなされます。②についても、同様です。

「もしも、ある、考えられた目的を達成する可能性が与えられているように見えるばあい、そのさい必要とされる[当の]手段を[現実に]適用することが、あらゆる出来事のあらゆる連関[にいやおうなく編入されること]をとおして、もくろまれた目的のありうべき達成のほかに、いかなる[随伴]結果をもたらすことになるかを、当然つねにそのときどきのわれわれの知識の限界内においてではあるが、確定することができる。そうすることで、われわれは、行為者を助けて、かれの行為の意欲された結果と、意欲されなかったこの [随伴] 結果との [相互] 秤量が、できるようにする。すなわち、れわれわは、意欲された目的の達成が、予見できる [かぎりの] 出来事の連鎖を介して、他のいかなる価値を損なうことになるか、そうした形でなにを『犠牲にする』か、という問いに答えることができる。大多数のばあい、もくろまれた目的の追求はことごとく、この意味でなにかを犠牲にする、あるいは少なくとも犠牲にしうるから、責任をもって行為する人間の自己省察で目的と結果の相互秤量を避けて通れるようなものはない。とすれば、そうした相互秤量を可能にすることこそ、われわれがこれまでに考察してきた [科学にもとづく] 技術的批判の、もっとも本質的な機能のひとつである」(上掲書、pp. 31-32)

 ですから、ある目的をめざす技術の採用にたいする科学者の責任ある関与は、そのときどきの科学的知識の限界にかんする自己批判的認識をともなわなければなりません。その限界をこえる「想定外の」事故とそれにともなう「犠牲」の発生を、つねに念頭において、目的達成との相互秤量を重ねなければならない、というのです。

としますと、原発のばあい、万一事故が起きて、原子炉の制御がきかなくなったばあいには、アメリカ軍によって広島と長崎に投下された原爆の数倍にのぼる破壊と犠牲が生ずるであろうことは、確実に予測されましたし、現に予測されます。なるほど、それにたいしては、「でも、事故の防止に万全を期すれば、よいではないか」という議論がありましたし、今後ともありえましょう。しかし、事故とは、「操作ミス」などの人為的条件も含む、無限に多様な諸条件の個性的な布置連関によって生ずる個性的な現象で、そうである以上、いかなる科学にも、そうした条件をことごとく予測し尽くすことはできません。科学にはなにかそういうこともできると、科学を万能と信ずるのは、科学ではなく、「科学迷信Wissenschaftsaberglaube」です。科学の限界内に止まる以上、事故を完全に予測し、防止することは不可能ですし、不可能と分かっていたはずです。ですから、原発は、科学と(無謀な冒険は避けようという) 普通人の常識から考えて、採用されてはならない技術だったのです。

そのうえ、原発の高レベル放射性廃棄物を、どう処理すればよいのか、(山口氏の質問にたいして、伏見康治氏も率直に認めたとおり)見通しが立ってはいませんでしたし、いまもって立ってはいません(廃棄物の処理施設は、世界中で唯ひとつ、フィンランドのオルキルオト島にあるだけとのことです。熊本一規『脱原発の経済学』2011、緑風出版、p. 98)。この点からも、廃棄物処理を先送りして、将来の世代に「ツケをまわす」原発技術の採用は、無謀で無責任でした。この点でも、科学と普通人の常識からして、原発技術は、採用されてはならなかったのです。

 

さて、いまこんなことをいいますと、「それは、事故が起きてからの『後智恵』というものだ」との非難が投げ返されるかもしれません。しかし、いまこそ、科学と普通人の常識から考えて、原発は廃絶あるのみというこの原則を確認しておくことが、なによりも重要です。というのも、万一事故が起きれば取返しがつかず、廃棄物処理の見通しもない、という原発技術の特異性を看過し、[目的達成と随伴結果との] 秤量が無意味ではない他の技術と同様に考え、「事故に教訓を学んで『前向きに』安全対策に活かそう」といった、(一見もっともでも、原発には通用しない) 一般的な建前をかざし、それで煙幕を張り、背後で既得権益を温存し、原発の存続そのものは容認していこうとする方向に、議論が流される恐れなしとしないからです。

  とはいえ、いまの時点で、「そもそも、今回の事故が、なぜ起きたのか、安全管理のどこに不備があったのか」を具体的に検証し、「同じ轍を踏まないように」対策を講ずることを、一概に否定するわけではありません。そういう検証作業と議論は必要かつ重要です。しかしそれには、つぎの前提を置くことが必要不可欠です。すなわち、「今回なぜ、メルトダウンで止まって、格納容器の爆発にまではいたらなかったのか。格納容器の爆発にいたった公算、およびそのばあいに生じえた破壊と被害の公算は、どのくらいだったのか」という最悪事態の想定と被害の推定を避けないこと、いいかえれば、「メルトダウン止まり」をあたかも不動の与件であるかのように思いなして「安心し」(余人をも「安心させ」)、今回の事故と「同じ轍を踏まない」安全策を考案するだけでよいとし、さらに想定外事故が起きて格納容器の爆発にいたる可能性は考慮せず、それだけで原子炉の運転再開と存続を認め、正当化するような議論の「落とし穴」に誘導されないこと、安全対策はもっぱら全原発の廃絶を前提とし全廃炉にいたる工程の安全確保に限定すること、これです。

 

 報道されているところでは、今回の事故でも、たとえば「イソコン」(電源が途絶えてもはたらく二次水系の循環式冷却装置)が機能しなかったという事実があり、なぜかといえば、その弁は、電源が途絶えるといったん閉じて、手動で弁を開かなければならないのに、現場の管理棟では、それとは知らずに「イソコンは働いていると思い込んでいた」とのことです。あるいは、「ベント」(放射能を含む蒸気を放出して、格納容器の内圧上昇による爆発を防ぐ非常措置)のために格納容器に向かった [このイタリック体の箇所は記憶の誤りで、「イソコンが働いていないと気がついて、弁を開けに建屋に向かった」と訂正、2012127] 作業員が、防護服を着用せずに行ってしまい、放射能が許容限界を越えて引き返した、というような、一見「信じがたい」失態が繰り返されたようです。しかし、こういう失態を(事実として明らかにすることは重要ですが)、いかに糾弾してみても、それこそ「後智恵」で [とはいえ、スリーマイル島の事故の後、「非常用(補助)給水系の弁の開け忘れ」が「重大な管理ミス」として議論されてはいたようです。高木仁三郎『プルトニウムの恐怖』1981、岩波新書、pp. 48-49, 53, 592012年1月27日補遺]、そこからはなにも始まりません。そういう議論はむしろ、「そういう失態さえなければ、あるいはいっそう厳しい対策を立てて、マニュアルを徹底遵守させれば、原子炉そのものは安全に管理できる」という方向に誘導されて、原子炉の存続、「安全」運転再開の論拠に転用されかねません。

 しかし、よく考えてもみましょう。非常用電源が途絶えたときの「最後の頼みの綱」という「イソコン」が、そもそも電源が途絶えたときに自動的に機能するようには設計されておらず、わざわざ出掛けていって手動で弁を開かなければならない、というのは、なんとも愚かな設計ミスではないでしょうか(報道番組は、この点を衝かず、「アメリカではスリーマイル島の事故以来、現場の作業員が、マニュアルをよく心得ている」と指摘するだけで、済ませてしまいました)。非常用の電源(バッテリー)が地下にあり、水没して使えなくなったというのも、 [また、炉の状態を検知する水位計の規準となる水が、炉の温度上昇にともなって蒸発してしまい、炉が空焚きになっているのに、まだ水があるかのように誤指示を出して判断を誤らせたというのも] (2012127日追記)、愚かな設計ミスというほかはありません。こういう事実が明るみに出てみると、そういう「無用の長物」をくっつけて安心していた、原発用原子炉の設計者も製造者も管理者も(アメリカを含めて)現場の作業員も、「なんと愚か」で「間抜け」だったか、と非難せざるをえませんし、事後にそうするのは簡単です。

しかし、人間、痛い目にあえば、すぐ「賢く」なれるものでしょうか。あるいは、当面は「賢く」なれても、時が経つうちに「喉元すぎれば熱さも忘れ」て、「元の木阿弥」に戻りはしないでしょうか。というよりも、そのようにして浮かび上がった問題点にかぎっては当面いくらか厳しい対策を立てるにちがいないとしても、まさにそれゆえそれで安心し、こんどはまた別の、「想定外条件連鎖から、思っても見なかった事故が起きる可能性への想像力が凍結され、考慮を怠ることに、ならないでしょうか。この問題にかかわるひとつの証拠として、阪神・淡路大震災後に出された『ニュートン』200010月号は、「ワーストケースとして「震度7の巨大地震」によるコンビナート火災は予測していますが、原発事故による放射能汚染はまったく想定していません。

もっとも、ある人の意見では、そこは「想定内」と「想定外」との「線引き」をするからいけないので、そうすると人間どうしても「想定内」に関心を呪縛され、「想定外」への配慮を怠ることになる、とのことです。しかし、そうした線引きは避けて、従来であれば「想定外」とされる方向に関心を向けるのはよいとしても、それは一種の「気休め」で、そうしさえすれば、個性的現象の条件連鎖をことごとく認識しつくし完全な安全対策を講ずることができる、というわけにはいきません。そうできる、と信ずるのは、むしろ「科学迷信」ともいうべき陥穽で、じつのところ、いっそう無謀で危険なことです。その点、筆者は、ヴェーバー(およびヤスパース)とともに、科学知の限界(どんなに「想定外」の方向に想像力をはたらかせても、「旅人と地平線」のように、行けば行くほど後退して、捉え尽くせない限界)を弁え、「万一事故が起きたばあいに、棄損される価値が圧倒的に大きい (ことは確かに分かっている) 技術は、最初から放棄するのが賢明」という人間常識に与します。いかにして放棄を達成するかは、原則的な放棄決定があってから後の、プラグマティックな問題で、その点で前後逆転、本末転倒に陥ってはなりますまい。

 

技術の「合理化」が進んで、「合理的」日用財が製造され、利用されるようになればなるほど、当の財を利用する側の公衆と大衆、あるいは(一歩進めて)当の財の製造と運転操作にかかわっている人びとさえも、当の技術の基礎にあって初発には当該財の製造に意識的に適用された科学的原理ないし法則からは、ますます疎隔されてゆき、ただそれらの装置が「平常には予測どおりに機能すると信じているにすぎない――ということはつまり、予想外の事故に遭遇すれば、その「信」が崩れ、パニックに陥る――という、「合理化」の普遍的随伴結果にたいするヴェーバーの (透徹しているがゆえに悲観的な) 洞察(海老原・中野訳『理解社会学のカテゴリー』1990、未来社、pp. 120-22)が、ここで改めて想起され、強調され、銘記されなければなりません。ということは、普遍的「合理化」にたいする「敗戦後近代主義」流の楽観を捨てよ、ということにほかならず、問題はただちに、ヴェーバー研究のスタンスに跳ね返ります。

さて、ここまでにもすでに、筆者の立論にたいしては、「危険をそのつど克服する科学-技術の進歩によって、生活を『より豊かに』改善していく『人類の』努力と可能性を否認するのか」という反問が芽生えていることでしょう。そこで、そうした問いを正面から受け止めますと、問題は、「『ある目的の追求自体にいかなる意義があるか』との問いに答える知識の提供」という科学の権能 の次元に移されます。そうした反問の根底にある「欧米近代」の価値観への「信頼」(科学迷信を含む)と、それにもとづく「進歩」が、はたして人類の普遍的進歩だったのでしょうか。かえってそれは、人類の生活と文化を破滅に陥れる寸前の限界にまできている、とはいえないでしょうか。「坂の上の雲」をめざし、そういう「進歩」に「追いつき追い越せ」という夢を、一途に追い求めて(たとえば、科学技術の限界にかんする)内省を忘れてきた日本の近代とは、いったいなんだったのでしょうか。むしろ、そうした(根のない)「過同調」ゆえに、かえって先に、限界を踏み越えて破滅にいたる、ということにはならないでしょうか。こうした一連の疑問に答える方向で、欧米近代と日本近代との関係を、普遍史の地平で相対化して捉え返し、そこから生活と文化の質を変える「革新」をめざし、ヴェーバーの比較歴史社会学をその潜勢とともに継受、展開していく、という課題が、設定されましょう。

ここではとりあえず、この方向で、いくつかの論点を提起し、続稿で敷衍したいと思います[当の論点につき、年次報告ながら、ここで年明け後の続稿に接続。20111231日記]。

 

 

なお、以上の想念を、新年のご挨拶に、つぎのとおり集約しました。

 

新年のご挨拶を申し上げます。

1968-69年の大学闘争当時、友人の自然科学者たちは、「科学は、一定の条件を設定して結果を予測するけれども、すべての条件は考慮しきれないから、事故の可能性は残る。したがって、万一事故が起きたときに、取返しがつかず、廃棄物処理の見通しもない技術は、採用できない」と唱えて、原発には原則的に反対していました。

その後、大学のあり方を問うた全共闘運動が、政治闘争に先細りし、科学論と人間常識に根ざす批判勢力を大学現場に残せなかったことに、責任を感じます。

今後、議論が、「事故は反省して『前向きに』安全を期す」との建前を掲げ、既得権益を温存し、原発の存続自体は容認する方向に流されはしないか、心配です。

今年も、脱原発を含め、生活と文化の質を変える方向で、その根拠づけの一端 (比較歴史社会学にもとづく欧米と日本の近代文化への批判) を担っていきたいと思います。