まえおき(中筋氏による書簡発表快諾への7月13日付け再信)

中筋直哉様

拝復

 早速、返信をいただき、HPの件についてもご快諾くださり、まことにありがとうございます。

 貴兄がこのように、ご労作のほんの一部分にかかわる批判を正面から受け止めてくださり、再考を約してくださったのですから、書簡は所期の目的を達成し、あえてHPに発表するにはおよばない、とも考えましたが、つぎの三理由から、貴兄がフェアに受け止めてくださった旨の、この返信を「まえおき」として、やはり発表させていただくことにしたいと思います。

1.公刊されている貴著をとおして、そのほんの一部分とはいえ、ヴェーバー解釈の問題点(とヴェーバー研究者としての小生が理由あって考えざるをえないところ)が読者の間に広まることは、極力避けたいこと。

2.その問題点の中身は、客観的には、「読み手の側の読み落としの責をヴェーバー側に転嫁する」という一点にかけて、貴兄のフェアな対応とはまったく異なるものの、羽入氏が落ち込んでいる陥穽と一脈通じるものがあることは争えず、貴兄へのメッセージを、貴兄と同じ世代の若手の研究者にも警鐘として伝える必要を感ずること。さもないと、正確な文献読解力の低落傾向が、なにか羽入書だけの特異性に帰せられ、小生がこの間に展開してきた批判活動の射程をみずから狭めることになってしまうこと。

3.大学院の粗製乱造と「水膨れ」にともなって、研究指導の「手抜き」が目立ち、「口に苦い良薬」を処方する教師がとみに減っている実状を憂い、その方面にも警鐘を発する責任を感ずること。

 以上です。[中略]

 なお、デュルケームの「社会形態学」と「社会生理学」との関係、デュルケームとル・ボン/タルドとの関係、かれらとヴェーバーとの関係(なぜ、デュルケームとヴェーバーの双方が、ともに直接論及を避けているのか、を含め)につきましても、それらを理論的に再検討し、それらを素材としてひとつのスケールに再構成することが可能と思われ、そうすれば実証的群衆研究にもきっと役立つのではないかと考えます(ちなみに、小生は、デュルケームとヴェーバーを対蹠的に見る学史の常識には反して、両者を相互補完的に統合可能と考えており、その基本方針は、拙著『デュルケームとヴェーバー--社会科学の方法』の補説でスケッチしています)。ぜひ、貴兄の研究計画のひとつにお加えください。

 小生、仕事をしやすいように片田舎に引きこもってはおりますが、そうした構想を携えてご足労でも拙宅をお訪ねくだされば、いつでもお目にかかります。

 では、向暑の砌、くれぐれもご自愛のほど、祈り上げます。

早々。7月13日。折原 浩

 

6月29日付け書簡本文

中筋直哉様

拝啓

 鬱陶しい季節となりました。お元気でご活躍のことと拝察します。

 さて、先般は、ご労作『大衆の居場所――都市騒乱の歴史社会学』(新曜社刊)をご恵送いただき、まことに有り難うございました。刊行が二月のことですから、もうずいぶん経ってしまいましたね。御礼も遅れ、まことに申しわけありません。部分的に一読して、じつは専門的な小さいことですが、批判的コメントをやはりお伝えしたほうがよいかな、と返信を思い立ちながら、少々事情あって、この間ずっとお便りする余裕がありませんでした。なにとぞ、お許しください。

 小生、教職にありました頃には、専門を同じくする、あるいは専門に近い方々からご恵送いただく著書なり、論文抜き刷り(とくに若い方々の習作)に、一読して応答したい、専門家としてそうする責任がある、とつねづね思いながら、ついつい多忙にかまけて、怠慢/失礼を重ねることが多くありました。歳をとるにつれ、だんだんその重荷がつのることもあって、2002年3月には、定年を待たずに退職して、時間を確保し、年来の研究課題に専念するとともに、ご恵送いただく著書や論文抜き刷りにも、一言はコメントして応答するようにしたい、と考えてはおりました。

 ところが、じっさいには、思いどおりにはならず、(ご承知かと思いますが)羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ書房刊)という途方もない書物が「言論の公共空間」に登場して、これへの対応を余儀なくされました。この本は、内容上、学問的なヴェーバー批判の体をなさないばかりか、恣意に居直って罵詈雑言と自画自賛を連ねる、知性領域におけるファシズムの萌芽とも見られる代物です。ところがこれを、保守派論客が絶賛し、「山本七平」賞を授与して推奨するのは「さもありなん」としても、羽入書の原論文が、東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻から学位を授与され、学会賞「和辻賞」も授与されたというのですから、驚きです。こうした状況は、学問そのものの存立基盤を危うくしかねない、「価値(下降)平準化」をともなうポピュリズムの潮流として、放っておくわけにはいきません。そこで、羽入書への内在批判と外在考察をくわだて、やむなく年来の研究(ヴェーバー『経済と社会』旧稿の再構成、『トルソの頭』の続篇『全体像』)も中断し、念願していた恵送著書や論文抜き刷りへの応答も、この間は先送りせざるをえませんでした。ある人からは、「わたしは毎年、『紀要』論文の抜き刷りをせっせと送りつづけてきたのに、ほとんどコメントをもらえなかった。それなのに、羽入書にだけは、あれほど詳しいコメントを書き連ねるなんて、まったく不公平ですよ」と、冗談混じりにいわれたほどです。それがようやく、この間インターネットのあるHPに発表してきた、羽入書への反批判論稿を改訂/増補して、『学問の未来――ヴェーバー学における末人の跳梁 批判』と『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』という二著書にまとめ、校正の段階に入って、やっと一息ついたところです。

 そこで、ご恵送いただいたご労作に、御礼とごく細かい一論点にかんするコメントをしたためる余裕ができました。まだ全篇は精読しておりませんが、ヴェーバー研究の専門家としてお伝えしなければならないと思いますのは、ヴェーバー理解社会学のカテゴリーにかんするご議論と、貴兄がそれで「アンチ・ヴェーバー」と自称しておられる点です。

 貴兄は、27ぺージで、「理解社会学のカテゴリー」の一節を引用しておられます。原文/邦訳文にはこうあります。

「路上でにわか雨にあった一群の通行人たちが傘をひろげるという反応をしても、それはゲマインシャフト行為[ご承知のとおり、『基礎概念』では「社会的行為」に改称――折原]ではない(それは「大量的・斉一的massenhaft gleichartig」行為なのである)。また意味の上での関係づけを媒介とせず単に他人の行動の影響によって惹起された行為もゲマインシャフト行為ではない。パニックの場合がその例であり、また、押しあいへしあいをする路上の一群の通行人たちが何らかの『群集心理』に支配されるばあいもその例である。そうした例のように、ある状況に関与している他の者たちが特定の行動様式をとっているという単なる事実によって[つまり、意味関係ぬきに――折原]個々人の行動が影響される場合を『群衆に制約されたmassenbedingt行動』と呼ぶことにしよう。」(GAzWL, S. 454, 海老原/中野訳、82ぺージ)

 ところが、貴兄は、第一文と第二文との間にある、小生がアンダーラインを付した一文を、省略符号なしに省略して、引用しておられます。その結果、第三文に見える「パニックの場合……の」が、省略された第二文を飛び越して「一斉に雨傘をひろげる反応」に当たるかのように読まれてしまいます。

 原文では、「複数の通行人が驟雨に一斉に雨傘を広げるといった、自然現象にたいする大勢の[互いに意味関係はないが]斉一的[ではある]反応」と、パニックのばあいのような(他者の行動によって因果的には制約されているが、「意味関係」はまだ発生していない)「群衆に制約された行動」とが、別個の二カテゴリーとして明晰に区別されて、定立されています。ところが、貴兄の引用文では、両者が「恣意的に混同」(27ぺージ)されているかのように読めます。しかし、ヴェーバーならずとも、社会学者としてあまりにも稚拙な、そうした「混同」は、原文にはなく、貴兄が(けっして「意図して」とは思いませんし、申しませんが、事実上、省略符号なき省略によって)創作しておられるだけです。ちなみに、羽入氏なら、これを「引用操作」と称して「読者を欺く詐欺師」と決めつけるでしょう。羽入氏は、そうきめつけて「ヴェーバー藁人形」を撃つ一方、自分では随所でそうした操作をしていながら、気がつかないのですが。

 さて、そのうえで貴兄は、「しかし、ゲマインシャフト行為の諸要素を含むことが自明な群衆を、傘をさす人びとのような最もゲマインシャフト行為から遠く、かつ実践的意味もほとんどない事例を典型として挙げることによって研究対象から退ける[?]ヴェーバーの態度には、科学者精神以前の、群衆への直感的な恐怖のようなものが感じられる。逆に、ヴェーバーの個人的な偏見を取り除き、……云々」と述べて、(これも残念ながら、羽入氏と同様に)虚像の「ヴェーバー」に向かって価値自由な「感情投入」をされます。なるほど、ヴェーバーは、確たる理由あって、政治的ないし倫理的に「群衆」を高く評価してはいなかったでしょう。しかし、それと理解社会学のカテゴリーとは別の問題です。そこを、貴兄は区別せず、二重の「混同」に陥っておられます。

 率直に申しますが、これでは「アンチ・ヴェーバー」どころか「はるかヴェーバー以前への退行」というほかはありません。批判相手を誤解あるいは矮小化したうえで「批判」したつもりになっても、批判者自身は旧態依然で、いささかも向上しません。[第三者への言及ゆえ中略]

 じつは、ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」は、「群衆に制約された行為」のただなかから「意味を孕む(→含む)ゲマインシャフト行為」がどこでどう発生し、さらに「アモルフなゲマインシャフト行為」から「諒解行為(「理解社会学のカテゴリー」ではこれもゲマインシャフト行為)」を経て「ゲゼルシャフト結成(というこれまたゲマインシャフト行為)」にいたるのか、といった「類的理念型」の(現実が流動的相互移行関係にあればこそ、概念上は明晰な)スケールをなしていて、(さればこそ)群衆現象の経験科学的研究に役立つのではないかと思います。一方では「自然現象への大量的・斉一的反応」と、他方では「没意味的模倣」(「意味的模倣」となると「ゲマインシャフト行為」)という(ともに一見ゲマインシャフト行為に見紛われやすい)「ゲマインシャフト行為」を起点とし、「群衆に制約された行為」から「同時に意味関係を孕んだ(→含んだ)群集行為」をへて、「『身分』的な意味志向をともなうゲマインシャフト行為」にいたる当該の議論が、カテゴリー論文全篇のなかでは、「諒解行為」「諒解ゲマインシャフト」を定義するコンテクストのなかで、「ゲマインシャフト行為」にも「als ob」メルクマールに該当するものがあるという問題を取り上げ、詳細に区別を立てている議論として出てくることの意味を、熟考なさってみてください。

 それにひきかえ、たとえば清水幾太郎著『社会学講義』(岩波書店刊)では、(いま手元にないので確かめないままに申しますが)「社会学論」と「社会集団論」という二本の柱から編成されているのに、肝心の「社会集団」が、二本の柱の後者をなすにもかかわらず、「一定の刺激に同様の反応をする一群の人びと」というふうな趣旨で定義されており、なんと「雨傘反応」が「集団」の典型になり、「同様の反応」ではない「ゲマインシャフト形成」(ヴェーバーによれば、暴漢に襲われた「群集」が「手分け」して暴漢を取り押さえる、あるいは「手分けして」負傷者の救護にあたる、まさにそのときに「意味関係」が発生し、「ゲマインシャフト(集団)形成」に移行するわけで、「ゲマインシャフト行為」とは「一斉雨傘」のような「同種のgleichartig」行為ではないのですが)ないしは「分業的に組織化された集団」は、「集団」ではない、という奇妙なことになっています。清水氏は、困ったことに『基礎概念』を自信たっぷりに邦訳してもいるのですが、ここでも「準拠Orientierung」と「遵守Befolgung」との基本的区別を混同して「俗流化」に陥っていることは、『再構成――トルソの頭』で指摘したとおりです。こうした、「これ見よがし」でも不明晰なポピュリストの議論に比べて、ヴェーバーの概念構成は、きっと貴兄の群衆研究にも、スケールとして役立つことでしょう。ぜひ、ご再考のうえ、お役立てください。

 以上、些細な一点にかんして、苦言を呈しました。これはけっして、ヴェーバー研究者としてヴェーバーを擁護しよう、ヴェーバー研究の既得権を守ろう、というような姑息な仕儀ではありません。将来性豊かな貴兄が、やがては本物のヴェーバーを乗り越えていかれるように、それには学問的に慎重なスタンスをとり、ゆめゆめ「虚像を撃って得意になる」ような邪道に陥るなかれ、と思えばこその老婆心からです。若い世代に、なにか「大物を『批判』して自分も大物になった」かのようなポーズをとりたがり、自己満足に耽ろうとする「末人」根性が浸透し、「大人」がそうした退嬰的傾向をたしなめずに迎合したり、「見て見ぬふり」をしている昨今、どうか、世の風潮に合わせて「低きに就く」のではなく、「志を高く」もって進んでください。

 ご労作ご恵送への御礼と、応答の遅れをお詫びするつもりで書き始めたこの便り、どうやら針小棒大なお説教に行き着いてしまったようで、恐縮です。他意はありませんので、どうかご寛恕のほど。

 異常気象の砌、くれぐれもご自愛のほど、祈り上げます。

敬具

2005年6月29日

折原 浩