196869年大学闘争と反原発運動――ある座談会(47日)への問題提起メモ (201246日記、同16日補追)

 

1)「学問は、大学は、いかにあるべきか」という1968-69年大学闘争の問題提起に、正面から答えようとした人びとはかなりいた。しかし、「教官研究者の知的不誠実・御用学者性の暴露」という否定的批判の域を越え、それぞれの専門性に即して、実質的に意義のある内容的応答を積極的に提示した人は、宇井純氏 (公害原論)、高橋晄正氏 (生存基盤原論) ほか、自然科学者に多かった。

 

2) 当時、筆者は、千葉港から成田空港にジェット燃料を送るパイプラインについて、その安全性を問う住民運動にかかわり、東京都立大学の湯浅欽史氏 (土木工学) に、専門家としての助言を求めた。氏は、「土壌中の金属疲労」「断層面に沿った土層の移動にともなう埋設管の破断」など、机上のシミュレーションでは予想し難い現実の諸条件によって起きる事故の可能性を、無数に指摘してくれた。

 

3) ヴェーバー科学論との「(当時としては) 意外な」一致が、筆者の印象に残った。というのも、ヴェーバーは、「科学は、そのときどきの知の限界内で、①与えられた目的にたいする手段の適合度を検証し、②その手段を採用したばあいに生じうる随伴結果を、一定程度は予測できるけれども、必ず未知の領域が残るので、「絶対安全」という保障はできない (そう豪語するとすれば、それは、もともと科学知の限界をわきまえない「科学迷信」か、あるいは、「科学外の」利害を受け入れて、科学知の限界を顧みない「御用科学」か、どちらかにちがいない)、③適合的で犠牲を伴わない――伴うとしても僅かか、あるいは容易に克服できる――手段が見出せないばあいには、目的そのものを問い返し、採否を選択することになろうが、そのさい科学は、当の目的の意義にかんする知を提供することができる」と説いていた。これは、「ヴェーバーに固有の」というよりも、普遍的な「責任倫理」論の一環であった (この点について詳しくは、本ホーム・ページに収録されている「ヴェーバーの科学論と原発事故」を参照されたい)

 

4) ただし、当の住民運動の争点は、パイプラインで、原発ではなかった。筆者の関心と想像力も、パイプラインにかぎられていた。とりわけ、「一定の損益秤量のもとに試行し、(想定外の) 不都合が生じたら一歩一歩是正していける (あるいは、そうするほかはない)」「通常技術」と、「万一事故が起きたら致命的で、取返しがつかず、目的の撤回を迫られる」「特異技術」との範疇的区別に、思いいたらなかった。

なるほど、広島、長崎への原爆投下、ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験によって、放射能を被爆した国民のひとりとして、原水爆にはもとより反対してきた。しかし、原発が、「核の平和利用」といっても、原爆と同じく、原子核への中性子照射による核エネルギーの解放にほかならず、ただ、瞬時の解放ではなく、「小出し」の解放にすぎず、放出される放射能の量も、長期的には原発のほうが多い、という関係を見きわめ、深刻に受け止めてはいなかった。

随伴結果の一種としての廃棄物についても、「そのうちにはなんとかなろう (処理・再処理・最終処理の技術が発明され、確立されよう)」くらいの甘い見通しのもとに、操業を開始し、髙レヴェル放射性廃棄物の累積という危険は「先送り」して、将来の世代に「ツケを回す」、そうした無責任な意思決定とその体制についても、特段に採り上げては考えず、論じなかった(いまにして思えば、「教官研究者の知的不誠実・御用学者性」の延長線上にある問題であった)。

 

5) なるほど、原発についても、一般的な科学論から、原則的には反対し、物理学者・科学史家たちの反原発声明を支持してはきた。しかし、「通常技術」と「特異技術」との範疇的区別によって、科学論から反原発・脱原発の論理を導き、自分のスタンスを明確に決定するにはいたらなかった。

現在、「今回の福島原発事故にかんして原因を究明し、そのかぎりで『万全の』対策を立てれば、(大飯原発ほか) 既設原発の再稼働を認めてもよい」とする議論が、出回っている。しかし、再稼働した原発で、特定の条件を想定してのシミュレーションにおける事故の「確率は微小」でも、再度想定外事故が起きる可能性は否定できない。そうでなくとも、再稼働にともない、確率100%で、必然的に累積されていく廃棄物の放射能は、自然消滅に、これまでの人類の歴史をはるかに超える何万年という年月を要する。まえもって処理・再処理・最終処理する見通しも立ってはいない。

とすれば、「万一、再度事故が起きたら、そのときはそのときで、また事故原因を究明し、同種の原因による事故を防げばよい」という容認論は、「特異技術」を「通常技術」にすり替えての議論であり、「そのうち、廃棄物の処理技術も開発されよう」という闇雲の楽観論も、ともに、将来世代の生存を脅かす無責任というほかはない。事故を繰り返せばその都度一段と、そうでなくとも日常的に刻一刻、超猛毒の放射能とそれによる(少なくとも潜在的な)汚染は累積されていき、人類絶滅の危機を、刻一刻、あるいは一挙に、手繰り寄せるのである。

 

6) 2000年、当時在職していた椙山女学園大学人間関係学部に大学院が新設され、社会学専攻の新入学生に、それぞれ研究テーマの発表を求めて議論する機会があった。そのとき、一新入生が、福井県出身と名乗って、原発問題を採り上げたいという。その数年前、敦賀の高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れの事故が起き、現場データの隠蔽工作も発覚して、動燃の一職員が自殺するという事件が起きていた。かの女は、この件を、「県外の人びとが大勢やってきて騒ぎ、犠牲者まで出した」と、多分に感情的に (「地域ナショナリズム」ともいうべきスタンスで) 受け止めていた。そこで、上記3の科学論、「責任倫理」論の概略を説明し、「原発そのものにたいする賛否両論の比較検討から始めて、独自に損益を秤量し、県内外の賛成派-反対派双方にたいする評価も含めて、原発が地域社会 (さらには日本社会全体、世界全体) におよぼす影響を考えてほしい」と要望した。一年後、修士論文の中間報告会で、かの女は、見違えるばかりに、原発問題への冷静な批判的態度を示し、「あのころは幼かった」と述懐している。

 

7) さて、筆者がこれまで、反原発に向け、直接、具体的になしえたことは、これくらいしかなく、「いままで何をしてきたのか」と非難され、批判されてもいたしかたない。基本的には(このように取返しのつかない事故が起きてしまうまで、何もできなかった自己にかんする)「一億総懺悔」から出発すべきであろう。しかし、それだけでは、一方で「(直接当事者としての) 責任者の放免」、他方では「直接当事者への事後の糾弾による自己放免・自己責任解除・自己正当化」という同位対立に陥り、(第二次世界大戦における)敗戦直後の轍を踏みかねない。そこで、各人が、「これまで具体的に何をなし、何をなしえなかったか、どうすればよかったか、――そうした反省から、いま何をなすべきか、何なら自分にもできるか、……」といった、きめ細かな議論・相互批判に踏み出す必要があろう。

(大学闘争にかんするそうした主体的な問いかけとしては、唐木田健一『1968年には何があったか――東大闘争私史』、批評社、2004年、土谷邦秋・岸江孝男共編『東大全共闘から神経病理学へ』、明文書房、2010年、岸江孝男・辻村信一・遠山稿一郎・山崎清『東大全共闘から三島由紀夫へ』、明文書房、2011年、などがある)。

 

8) その延長線上に、「日本戦後思想史」(さらに遡って、幕末開国以降の「日本近-現代史」) 総体の再構成という巨大な課題が、横たわっているのではないか。ここでは、この視点から、筆者がこだわりたい二争点のみ、採り出して問題提起としたい。

 

9) 上記の「学問はいかにあるべきか」との1968-69年大学闘争の問いを、「科学者としていかに生きるか」という実存的な位相で受け止め、否定的批判から積極的応答に脱皮し、実質的・科学的内容をもって現代巨大技術 (とくに原発) に警鐘を鳴らしつづけた自然科学者のうち、鮮やかに「大学闘争後」を生ききったひとりとして(その意味の「理念型」の例示として)、高木仁三郎氏を挙げることができよう。

今回、氏の著作をひととおり通読して、真摯にして熾烈な、そのうえ周到でも情感豊かな、闘いと思想形成の軌跡に、改めて感嘆した。氏は、原子力という「パンドラの箱」を開けてしまった人類に迫っている「終末」を見据え、脱原発の「希望」を訴えつづけた「二○世紀の『予言者』(それも、ヴェーバー『古代ユダヤ教』の語義における『禍の予言者』)」といっても過言ではなかろう。ただ、このカリスマ的予言者の思想を継承し、「日常化」するさいには、つぎの二点に留意する必要があろう。

 

10) ひとつに、高木氏は、既存の大学で化学の基礎は習得し、「原子力事業」の (一社員・研究員として、企業の管理組織と産業プロジェクト工程との、両様の) 現場を経験し、原子核研究所、マックス・プランク研究所で、宇宙化学者としての研究実績を挙げ、いったんは東京都立大学理学部に就職している。そこで、大学闘争に直面して「造反教官」となり、(企業組織と同質の) 大学組織のなかで (逐一原則的な発言を繰り返して) 日常的に闘うことは煩わしいと感じ、(「造反教官」を含む) 同僚の慰留も拒んで辞表を出し、「職業科学者」の道を断って「市民科学者」に転じた。この鮮やかな転身と「市民科学者」としての強靱な自己貫徹には、脱帽のほかはない (人文・社会科学畑で、こうした闘いを貫徹した人に、裁判闘争を闘った後に北大を辞した、花崎皋平氏がいる)

しかし、当時、同一の問題に直面した「造反教官」には、時期の僅かなズレと、闘争にかかわる位相の違いから、「辞職は、目前の闘争の放棄と逃亡にすぎない」とする (一時期支配的だった) 見解のほうを採り、むしろ大学現場にとどまって「同僚教官研究者の知的不誠実・御用学者性」を実証的に暴露し、そのうえは、一方では、上記「(科学の) 基礎の習得」「(研究上の) 現場経験」「研究実績」という (高木氏の後輩が「市民科学者」として活動するためにも必要な) 先行要件 (大学内における) 確保・保障につとめながら、他方では、大学から学生を伴って住民運動に出向いたり、逆に大学外の住民運動を大学内に持ち込む (「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」のような) 企画を立てて実施したり、あるいは、啓蒙書を執筆・刊行して広く反原発を訴えたり(たとえば、佐々木力『科学論入門』、1996年、岩波新書、同『科学技術と現代政治』、2000年、ちくま新書、など)、「体制内抵抗」(高木氏自身の命名によるカテゴリー) の道を選択した人も多かったろう。この人びとの多くは、「昇任停止」の冷遇を受けたり、(たとえば「セクハラ」の名を借りた) 処分・追加処分 (とりわけ、大学院において後継者を育成する研究指導権の剥奪) を被ったりして、「批判的少数者」としての受難と闘いを持続しなければならなかったし、現に持続している。

もとより高木氏自身は、この「体制内抵抗」の選択肢を否定したわけではない。氏は、反自然・反生命・反科学的な現代巨大技術とりわけ「特異技術」としての原発の廃絶という文明史的転換を目指して、双方が提携して進むことをこそ、望んでいたと思われる。氏が「高木学校」を開設したのも、一面では、上記の先行要件を確保する必要に迫られたからであろう。しかし、氏自身の軌跡があまりにも鮮やかであったために、かえって「市民科学者か、職業科学者か」の二者択一を範疇的に固定し、双方を分断する発想が生まれかねない。そうなると、氏にとっても不本意ではあるまいか。

 

11) いまひとつ、高木氏は、大学を去って、実験的検証と学術論文発表の便宜は捨てたにせよ、核化学とくにプルトニウムの「振る舞い」の研究にかけては、発見者シーボーグの衣鉢を継ぐ、世界的な専門科学者であったろう。そればかりでなく、氏は、自然循環の外に出ようとして自然を搾取し痛めつける人間中心主義の驕りを戒め、「自然との共生」を説く自然哲学者・科学史家であり、「市民の目線に立つ科学」の系譜を遡っては宮沢賢治を論じ、みずから小説も書く批評家・文学者であった。

しかし、「自然」は人間にとって二面性をそなえている。人間は、確かに自然循環のなかで、自然の恵みに頼ってのみ生きられるが、自然は他方、地震と津波のように、人間にとって脅威となる面も併せ持っている。後者には、科学を「通常技術」として立ち向かうほかはない。グスコーブドリも、自然の冷害を、自然の火山活動の導入をもって緩和しようとした。そこでは、責任ある「通常技術」の適用が要請されている。

原発についても、「特異技術」としての廃絶を、目標として前提としつつも、その目標達成を目指す過程工程では、その安全性確保のためにも、「通常技術」をフルに動員していくほかはないであろう。

 

12ところで、「夢のエネルギーの開発」といったバラ色の幻想のもとで技術開発に専念することは、それに携わる人間の主観的なスタンスとしては、相対的に容易であったにちがいない。ところが、現にそういう夢を追って創り出してしまった厄介な施設と廃棄物を、こんどは廃絶するため、そうした否定的目標を目指して、「通常技術」的に工夫を凝らし、努力を重ねるというスタンスは、(バラ色の夢に立ち返りたい惰性の誘惑と絶えず闘わなければならない、という一点にかぎってみても) 逆説的で、従事者の主観的「心意Gesinnung」としてはそれだけ困難をきわめ、それだけいっそう高度の「責任倫理」が要請されよう。早い話、「原子力工学科」を「廃炉工学科」に改称するとしたら、学生が集まるであろうか。集まるとすれば、どんな学生であろうか。

 

13) この点、多分に抽象的・哲学的に、「近代科学技術の全面的否定」「自然との伝統的共生・調和の復権」を説く思想潮流は、やや勇み足・短絡気味で、「近代主義との同位対立」に陥りかねない。むしろ、科学と技術とを峻別し、前者には、「無知の知」にもとづいて (科学知の限界を踏み越える) 無謀な技術を「科学迷信」として批判する契機が内包されていることを銘記したい。そのうえで、それぞれの発展を、普遍史の地平で相対化したうえ、「責任倫理」の一環をなす、そのかぎりにおける近代科学には、あくまで依拠し、現代の巨大技術とりわけ原発のような「特異技術」は、その科学にもとづいて批判しつつ、そうした否定的批判を積極的に実現・貫徹するためにも、科学を「通常技術のかぎりでは活かす、そうした微妙なスタンスが、確立され、堅持されなければなるまい。

この難問に目を背けて、(幕末開国以降の「富国強兵」・「アジア侵略」・「戦後復興」・「原子力の平和利用」・「高度成長」というふうに、「坂の上の雲」から「アメリカ流の豊かな生活」へと「バラ色の夢」を追ってきた)「日本近-現代史」総体の惰性に戻るか、「機械的反定立」「同位対立」としての「自然崇拝」に陥るか、どちらかであれば、かりに運よく (スリーマイル、チェルノブイリ、福島につづく)「第四の大惨事」には見舞われないとしても、処理の見通しもない髙レヴェル放射性廃棄物を、時々刻々、慢性的に蓄積していき、「『(ある種のネズミが大挙して海中に雪崩れ込む) レミング現象』としての集団自殺」にも似た破局を、全世界に先駆けて招き寄せるほかはあるまい。(46日記、同16日補追)