戦後史証言PROJECT「日本人は何をめざしてきたのか」

「知の巨人たち」第三回「民主主義を求めて~政治学者~丸山眞男」

  去る719 () 11時~1230分、NHK Eテレで、上記の番組が放映されました。

小生は、取材を受けたひとりとして、翌日早速、渡辺考氏ほか制作スタッフに感想を寄せましたが、下記の一文は、それに若干の補足を加えたものです[723日記]

 

拝啓

昨晩、番組拝見しました。

非常に丁寧に編集されていて、ご苦労のほど、お察しいたします。

全体をとおして、視聴者が、どんな印象から、どういうメッセージを受けとられたろうか、といろいろ考えました。

小生としましては、自分の視点から、丸山眞男氏の大いなる意義と、それにもかかわらず、いな、まさにそうであればこそ、残されている課題の大きさが、印象深く浮き彫りにされた、と受け止めております。

民主主義とは、たしかに永久革命ですが、それも、ひとりひとりが自分の日常現場から変革を積み上げていく闘いでなければならないと思います。

その点、敗戦直後に丸山氏も講師をつとめたという静岡県三島市の庶民大学の聴講者は、そういう民主主義を、講義から汲み取って、現地の石油化学コンビナート建設阻止の市民運動に、文字通り活かされたようです。

丸山氏の教え子という福島県郡山市長の品川万里氏は、民主主義を、「絶え間ない日常の活動こそが大切」「ミクロの現場革命の終わりなき継続」というふうに、見事に定式化され、311東日本大震災と原発事故の「災後」(山口二郎氏の言) を生きておられるようです。

 

としますと、こうした果実の種を蒔かれた丸山氏の功績は、たいへん大きかったと評価されましょう。が、それと同時に、では当の丸山氏自身は、自分の職業現場・東大法学部で、「永久革命としての民主主義」(という抽象的提言)にふさわしい具体的行動を、どれほどとられたのか、という疑問も生じます。たとえば196869年の東大闘争時、争点となった医学部と文学部の処分という現場の問題について、「当該学部教授会→総長・学部長会議・評議会→他学部教授会」というルートで降りてくる一方からの情報を鵜呑みにせず、他方の学生側の言い分も、よく聴き、よく調べ、双方の言い分 (甲説乙説) を比較対照してそれぞれ相対化し、理非曲直を明らかにし、(教授会という集団に埋没しない) 個人としての意見を形成して、「おかしいと思うこと(たとえば不在者への冤罪処分)はまっすぐにノーといおう」となさったでしょうか。敗戦後のそういう初心は生きていたでしょうか。番組では、江田五月氏が、討議・意見形成・意思決定のそういう方法論を、丸山ゼミから学んだこととして、抽象的に要約して見せましたが、では、当の丸山氏は、そういう意見形成と意思決定を、現場でみずから実践されたでしょうか。小生には、論客たちの抽象的正論が、ことごとく、丸山氏自身 (と、おそらくは論客自身) の実態を衝く皮肉ともとれました。日本の戦後史には、抽象的本質よりも現「実存」在を重んずる思想が根付かなかった、という事態の証左でもありましょう。

 

番組中、「ここがロードスだ、ここで跳べ」ともいうべき一点を衝いたのは、なんと丸山氏のご長男・丸山彰氏でした。彰氏の発言は、光っており、この番組の一番のメリットでしょう。

他の学者や政治家の言い分はほとんどすべて、どうとでも取れる抽象論で、問題のポイントをはぐらかす「欺瞞の言語」(安富歩) でした。とりわけひどいのは、当時の法学部教員、佐々木毅氏と三谷太一郎氏で、「なにを他人事のように」と唖然としました。こういう人たちが、後に総長となったり、「学問と実践」について語ったりしているのです。肝心なときに「師匠」に諫言せず、「師匠」を乗り越えようとはしない人々が、はたして「弟子」でしょうか。してみると、この番組は、こういう「口舌の雄」が、丸山民主主義論と196869年東大闘争から、およそ何ひとつ学んでいない、という事実を、こよなく浮き彫りにしたといえましょう。視聴者とくに196869年闘争の経験者には、そのように受け止められたのではないでしょうか。

 

ただ一点、画面が先を急ぎすぎるため、東大全共闘が、617第一次機動隊導入後、「学園の民主化」要求からただちに「大学解体」へと急進化した、という印象が生じかねません。ちなみに、番組では、学生側の要求に、丸山「民主化」論との関連から、あえてこの「民主化」という呼称をあてられたのでしょうが、当時これは、主として民青のスローガンに使われていました。

じつは、1968617第一次機動隊導入から、196911819導入まで、医・文 両処分の事実認定について、半年にもおよぶ具体的議論の継続・蓄積がありました。ところが、丸山氏を含む東大教員は、個人として全共闘学生と本気で話し合おうとはせず、当局からの「召集令状」を受けて安田講堂前に「整列」し、「出てきて話し合え」とシュプレヒコールには唱和するなど、外向けマスコミ向けのパフォーマンスに終始しました。問題の事実経過については、多様な情報収集や甲論乙駁はおろか、そもそも議論を回避し、そのように「集団に埋没」していながら「理性の府」「民主主義」の空念仏は唱える、さながら「上品な軍隊」の様相を呈していたのです。こういう当局と教員に、冤罪処分を受けた当の粒良君が、「こんな東大なら、つぶれたほうがいい」といい放ち、「東大解体論」が登場したのです。

こういう経過を捨象しますと、全共闘がなにかいきなり「大学解体論」「教育解体論」といった「暴論」を唱えた、と受けとられ、「これではどうしようもない、いったん機動隊で整理したうえで……」という佐々木毅氏流の (当事者責任の自覚をまったく欠く) 傍観者的言辞が、なにかもっともらしい「正当性」を帯びてしまいます。

 

この番組は「東大闘争論」ではないので、無理もないとは思いますが、取材にご来宅のさい、小生が長時間を費やして、617機動隊導入から、11411林健太郎「軟禁」事件への抗議声明(丸山氏の唯一の公的態度表明)をへて、 691月の機動隊再導入にいたる事実経過を、論証のうえ、具体的に細かくお伝えしたのも、そういう印象を避けたい、と考えたためでした。

しかし、番組全体として、「民主主義とは、自分の生きる現場の日常から出発する永久革命である」、「ひとりひとりは、たんなる『パート・タイマー』ではなく、そういう現場の実践を踏まえ、その要求を押し上げるような政治参加をめざして、闘いを継続しなければならない」、「そういう現場の実践を抜きに、抽象論で他人を『啓蒙』しながら、いざ自分の現場で(たとえば、学部長職を、代役として引き受けてもらった、というような)卑近な縁故関係や利害が絡むと、口を噤み、抽象論に逃げ、後になって安全地帯に身を置いて初めて雄弁に語り出す『学者・文筆家』は、じつは当人自身、『民主化』の担い手ではない」、「各人が、現場の困難と取り組み、日常的な闘いを担っていくのでなければ、日本社会の民主化は一歩も進まない」というメッセージを、ほかならぬ丸山眞男氏の生涯をとおして、しかも、現場の困難に直面しての挫折に光をあてて、それだけ鮮明に打ち出した、と申せましょう。

 

今後も、優れた番組の編集に、いよいよご活躍になられますよう、祈念いたします。

ひとこと、感想まで。

 

720 [23日、改訂]

折原浩

 

追記

その後、『大塚久雄と丸山眞男――動員、主体、戦争責任』(200112月、青土社刊)の著者・中野敏男氏から、「丸山の思想を『戦後思想』という観点から捉えていたわたし[中野氏]には、戦争(それゆえ、侵略や植民地支配を含む対外関係)という視点が抜けて、もっぱら日本内部の『民主化』という線でのみ構成された」[ドキュメンタリーの]「内向きな」志向が、ひどく気になり、「あれだけひどい戦争と戦後を経たのに、そこから遠く離れていよいよ内向きに萎縮している現在の日本の思想状況が[この番組によって露呈され、顕示されて]あらためて心配になった」という趣旨の感想が寄せられました。

 

なるほど、日本の「民主化」という課題意識から、日本の過去にも「民主化」の萌芽を求め、荻生徂来や福沢諭吉に遡り、「作為」や「個の自律」といった契機を抽象的に探り出す丸山氏の政治思想史は、当の「個」の「作為」「自発性」「能動性」が、(「日本と欧米」「欧米近代に追いつき追い越せ」という準拠枠のもとでは)近隣諸国への加害(侵略や植民地支配)に転ずる、という問題傾向を、射程に入れず、あるいは、いとも容易に看過し、したがって「戦争責任」問題にしても、日本の軍隊で自分たちが受けたひどい処遇や、被爆や被空襲という日本国民の「被害」のみから出発して、近隣諸国への加害責任は問わない、という制約を免れません。したがって、東大闘争のさい、自分たちが特別権力を行使した学生処分が問題とされても、事実誤認による冤罪処分を受けた学生の痛みとそこに発する批判的主張を、加害者側の一教授会メンバーの責任において、「エンパシー」(当事者と共苦・共感する想像力)をはたらかせて捉えようとするスタンスには乏しく、他方、加害者仲間の旧友・林健太郎氏の「人権」(じつは身分特権)には敏感で、唯一この件では公的に(マスコミに向けて)発言する、というのも、けっして偶然ではなかったでしょう。教育現場で身近にいる学生の痛みにさえ鈍感で、自分の加害者性を対象化できず、「ロマン主義」等々と相手方に責任を転嫁して議論を回避する「教育者」・思想家が、いったいどうやって、日本軍国主義の侵略によって傷ついた近隣諸国民の痛苦に「エンパシー」をはたらかせることができるでしょうか。

 

そういうわけで、196869年東大闘争には、当の現場における丸山氏の対応への直接的批判から、そこに顕在化した氏の思想的スタンスとそのうえにたつ氏の学問内容にたいする内在的・外在的批判へと発展する契機が含まれていました。しかし、小生自身は、(安田講堂に立て籠もって闘い、逮捕され、訴追された) 学生・院生にたいする裁判への関与をとおして、196769年闘争の経過を精確に論証すること、各地の「公害・教育・反差別」の住民・市民運動に馳せ参じながら、大学を解放していくこと、などに手一杯で、個別丸山氏への思想的・学問的批判は「後回し」にせざるをえませんでした。

 

あのころは、日大と東大の、個別的争点がはっきりした闘争のあと、「日大・東大闘争の地平を越えて」という抽象的スローガンのもとに、あらゆる問題提起が一斉に噴出し、「これはどうだ」「あれはどうか」と、個別具体的に問題を突き出しては、一見無関係な他者の不関与も厳しく問う、という追及形式が、いわば「一人歩き」し、「バリケードのなかで何をやればよいのか、じつはよく分からない」という空洞化も生じました。そういうなかで、四方八方から問い質され、「このままでは潰れる」と直感した小生は、いわば戦線を縮小して、学問をとおしての「論証・熟議民主主義」のバック・アップと、とりわけマックス・ヴェーバー研究をとおして、「日本と欧米」「欧米近代に追いつき追い越せ」の準拠枠を批判的に乗り越える、という課題に、かえって狭く専念・集中するようになり、敗戦後の思想史・精神史における196770年闘争の総括という大きな課題には、さしあたり取り組めませんでした。その間、東大闘争における丸山批判の契機を引き継き、氏の学問内容に即して展開しようとする批判者は、なかなか現れず、むしろ、こと「丸山眞男」となると、「人生は形式です」「人生は、そして文化は形式です」というような(ジンメルの「生と形式の弁証法」も解した)発言さえ、「凛然と言い放った」というふうに神秘化・権威化する亜流たちが育ってしまいました。そのとき、与件としてのそうした思想状況に、後から距離をとってアプローチし、批判的にかかわれる後続世代の一人として、中野敏男氏が現れ、「戦後思想」とくに「戦争責任問題」という観点から『大塚久雄と丸山眞男』批判を鋭く提起したのです。小生は、こうした世代の「ずれ」とともに、この接点と共鳴対峙関係を大切にし、「第一次世界大戦敗戦後の政治状況にたいするマックス・ヴェーバーのスタンスとコミットメント」という (三者共通の) 準拠標の批判的究明も含めて、議論を継続していきたいと思います。

 

ちなみに、問題のヴェーバーのスタンスは、西欧の「後進国」ながら、19世紀初頭にはナポレオン軍に蹂躙され、流産とはいえ1848年の3月革命を経ていて、ヴェーバー自身、君主制そのものは擁護しつつも、ヴィルヘルム二世の親政を再三、公然と批判し、ヨーロッパ諸列強と隣接諸小国との狭間にあるドイツの「歴史的使命」を問い、無賠償・無併合の早期講和を呼びかけながら、内政改革(議会の「行政査察権」による批判的少数派の強化と「政治家」的リーダーシップの育成など)構想・提唱し、翻っては、大学の「官僚制化」にともなう学者個々人の「ビジネスマン」(この場合、要するに「日和見的立身出世主義者」)化を、場合によっては同僚の告発も含めて剔抉し、対抗措置としては汎領邦的・全国的「大学教員会議・組合」の結成を呼びかけ、自分の個人的経験も交えながら、文部行政 (「アルトホフ・システム」) を告発する、というような質 (実存と学問とを連ねる批判性) をそなえていて、けっして「内向き」かつ「集団埋没」的ではありませんでした。日本の敗戦後「近代主義」者は、ヴェーバー・テクストの精確な読解も怠りながら、自分たちに都合のよい側面だけを、恣意的かつ無批判にピックアップして、厳密な対比による自己対象化には活かせなかった、といえるのではないかと思います。[726日記]