「境界人」遍歴と建築作品創造――隈研吾著『僕の場所』に寄せて(1231日)

 

[別項、恵贈著作 2014  Nr. 48への付記を、ここに移す]

 

建築家・隈研吾氏の著書『僕の場所』を繙き、思いがけず「境界人」「マックス・ウェーバー」という二節に出会って、びっくりした。

じつは、「境界人 (マージナル・マン)」とは、マックス・ウェーバーその人が創始した概念ではなく、アメリカはシカゴ学派のロバート・E・パーク (18641944) らが、192030年代の移民 (とくに「親の文化」と「学校の文化」との双方に挟まる移民二世) の「社会問題」「社会病理」を研究するために編み出し、相応に否定的な評価を籠めた、対象把握の範疇であった。しかし、そういう「境界人」が、(たとえば移住前と移住後の) ふたつの文化の狭間で動揺を繰り返し、類型的には「情緒的不安定」から「人格解体personal disintegrationdisorganization」に陥ることが多いとしても、そうした「窮境」をいわば逆手にとって、むしろ双方の文化に距離を取り、批判的に対峙し、そのつど自分自身も相対化しながら、多様な諸文化の統合を模索し、やがては「現在的文化総合gegenwärtige Kultursynthese(エルンスト・トレルチ) に到達する、ということも不可能ではなかろう。「境界人」のそうした積極的可能性は、パークがドイツに留学して「境界人」論の着想をえた、ゲオルク・ジンメル (18581918) の「異邦人der Fremde」概念に、示唆されていた。また、ジンメルとほぼ同時代人のマックス・ヴェーバー (18641920) や、ひとつ若い世代のカール・マンハイム (18931947) は、 (自分とは異なる「立ち位置Standort」に相応の「存在被拘束性Seinsgebundenheit」を帯びて形成された) 異質な価値観・世界観に、身を閉ざすのではなく、むしろみずから「越境」して分け入り、そのつど生ずる「自己分裂」の「危機」を、かえって「自己相対化」に活かし、そのようにして視界を広げながら、そのつど自己同一性を回復・把持しては「現在的文化総合」を目指す「(社会的・文化的空間を) 自由に漂う知識人freischwebende Intelligenz」として生きた。ただ、かれらは、第一次世界大戦の渦中や、戦間期の激動のさなか、そういうある意味で「無理な」生き方を選んで実践したため、おそらくは過労から、早死にしている。

さて、隈氏が駒場に入学した当時 (1973) の理科生向け「社会学」講義で、筆者が、パークらの「境界人」論の要旨を紹介し、こうした積極的転用の可能性を抽象的に示唆することは、あるいはあったかもしれない。しかし、隈氏は、この発想をいちはやく「わがもの」として、氏の生育地を、横浜と東京という大都市圏の「境域」で、画一的な「郊外住宅」が立ち並ぶ以前の、私鉄沿線で「山」のつく二駅のひとつ、都会と田舎、町と里山 (台所の床から青大将が顔を出す「ジュンコちゃんち」) との「境界」というふうに、また、生活の基調をなす宗教性についても、隈家の郷里・長崎県大村の (「キリシタン」から改宗を迫られての) 日蓮宗、田園調布のプロテスタント系幼稚園、中・高一貫教育のイエズス会系栄光学園、というふうに、氏の生育史に織り込まれ、多様に交錯している諸要素を取り出して、みずからを「境界人」と位置づける。そのうえで、氏は、「境界人でありつづけること」を選択し、その可能性の積極的展開に転ずる。「境界人的な宗教観」から、たとえばル・コルビュジェのモダニズム建築とカルヴィニズムとの関連を (ヴェーバーのプロテスタンティズム論も援用しながら) 解き明かすというふうに。ただし、そのつど「ちょっとちがう」という否定的直観から、拒否を重ね、視点を転換し、脱工業化建築のヒントを「森」に譬えられるゴシック建築や、竹藪や積み木や「千鳥」や増築や「ブリコラージュ」や紹興酒の甕など、思いがけないところに探り出していく。そうした縦横無尽の「脱境界的創造」が、一齣一齣の「外化・対象化」態としての建築作品の写真に、そのつど形象化され、そこから読者も、氏の「趣向のカリスマ」を、ある程度「内化・獲得」して、発展のスバイラルを一定程度共有し、共振できる。それらの空間構造は、息を飲むほど斬新で、しかも親しみと解放感にみち、日本の伝統的職人芸・名人芸の繊細さも採り入れていて、いつか機会があれば、じっさいに訪ねて、しばしそのなか、ないし傍らに憩い、存分に内化・獲得したい、つまり氏によって創造された空間の「共同性」に参加したい、という願いを掻き立てて止まない。

ところで、「若い人を意識して、一般教養の教科書という隠し味もつけ」(p. 7)たという、隈氏の多彩な叙述を読み進むと、氏の「越境遍歴」をとおしての創造が、いったいどこに行き着くのか、「僕の場所」とはどこか、どこに通じるのか、との問いに誘われよう。この問いをめぐっては、これまた思いがけず、ある意味で「すべての建築は犯罪です」(p. 135)「プロの建築家がしばしば、自分の建築、自分のテイストに対して罪悪感を持たないことに対して腹が立つ」「建築家は、自分の感性を相対化できてない」(p. 136)という言葉に出会ってドキッとする。この「罪悪感」は、作品の素材が自然からの収奪物であるという面はひとまずおくとして、作品がしばしば「個人の欲望やエゴを、物質を通じてリアライズする」「他人からみれば、はなはだ迷惑なもの」という規定や、「田園調布の成り金住宅への嫌悪」という例示から、なお「疎外-私的 (排他的) 所有」論の枠組みのなかにあるようにも見える。しかし、はたしてそうか。それに尽きるのか。

ここで、議論の起点に、ゲーテからの引用を許されたい。「職人を見ても造形芸術家を見ても、人間は、自分自身に専属しているものを自分のものにするのがもっとも難しいということが、いとも明瞭にわかる。かれの作品は、鳥がたまごからかえってしまうと巣を見捨てるのと同様に、かれを見捨てるのだ。だれにもまして建築家というものは、この点でいとも奇妙な運命にある。なんとしばしば、かれは、精神と愛情のかぎりをつくして、自分自身が閉め出されなければならないような場所を生み出していることだろう。王宮の広間が豪華なのは、かれのおかげだが、その豪華さの最大の効果を、かれはともに享受するmitgenieβenことがないのだ。寺院では、かれは、自分と至聖所との間に境界線を引く。かれは、心を高めるような儀式のために自分が築いた階段を、もはや踏んではならないのである。それはちょうど、金細工師が、聖体顕示台のエナメルや宝石をはめあわせておきながら、それをただ遠くからおがむのと同様である。建築師は、宮殿の鍵とともに、あらゆる便益と安楽を富者に手渡すのだが、そのうちのなにひとつをも、ともに楽しみmitgenieβenはしない。嫁入り支度をしてもらった子のように、作品がもはや、生みの親にたいして逆にはたらきかけなくなるとすれば、こうして芸術は、しだいに芸術家から遠ざからざるをえないのではなかろうか。それに比して、芸術が、公共のものdas Öffentliche、万人に属していて、それゆえにまた芸術家自身にも属しているようなものdas, was allen und also auch dem Künstler gehörteにのみ、携わることを使命としていた時代には、さぞかし芸術は、それ自身を推進したにちがいない」(『親和力』より。出典については、とりあえず拙著『デュルケームとヴェーバー』下、1981年、三一書房刊、pp. 91-92、参照)

さて、マルクスは、ドイツ古典文学のこの思想を引き継ぎ、芸術家の創作活動を捉え返していった。すなわち、「対象的・感性的自然存在」としての人間は、同時に「(そのときどきの特殊な欲望に緊縛されずに普遍性を志向しうる、その意味で自由な) 類的存在Gattungswesen」として、「美の法則」にしたがっても対象に働きかけ、(対象を消尽するのでなく)造形し、自然に、いわば自然自体が欲する本来の形態規定を与えることもできる。そして、そうした作品を制作者自身から奪って「遠くから拝む」しかないところに置く「疎外-私的(排他的)所有」の関係を廃絶していけば、芸術家が自己を対象に刻みつけた「分身」としての作品群を、万人とともに内化・獲得し、互いに自己成長を遂げ合う「人間発達のスパイラル」のなかに、「万人に公開され、享受される記念碑、記念館」として、おおらかに立てることができよう。

しかし、現代では、ゲーテの時代とは異なり、建築作品を「王侯」「(教会や寺院の) 教権制的支配者」「富者」が独占し、制作者自身や一般享受者大衆を排除-疎隔して寄せつけない、というような関係は、支配的ではない。むしろ、現代の産業-、商業-、金融資本は、マルクスの時代とも異なって、「産学協同」ばかりか「産芸協同」も奨励し、「工業デザイン」「商業デザイン」を商品の生産、流通の両面に編入し、場合によっては「万人に公開され、享受される記念碑、記念館」の設立も後援して、大衆の「社会的統合」に活用する余力も取得している。それで結構ではないか。その局面で、建築家はなぜ、「万人に享受される公共記念碑、記念館」の創造に、なお「罪悪」を感じなければならないのか。あるいは、ハイデガーの比喩 (pp. 35-36) にあるとおり、建築が人々をつなぐ「橋」として実現されるならば、建築家は「罪悪感」から解放されるはずではないか。

ここでひとつ考えられるのは、作品がそのように「万人に享受され」、制作者が「自分もその作品を享受して、そこに対象化された自己を確認すると同時に、『自分の作品がそのように万人に享受される事実』自体をも (したがって二重に) 享受できる」という関係が、かれには開かれてくればくるほど、そうした制作者・創造者と享受者との区別が範疇として固定化し、「互いに、制作者とも、享受者ともなり合って」「相乗的な相互豊饒化に入れる」互換的関係が、それだけ困難になる、という事情である(全般的・全社会的な「合理化Rationalisierung」とそれにともなう芸術領域またそのジャンルそれぞれの「専門化」「自立化」)。そうであるとすれば、自分が卓越した作品を制作-発表して「創造者」の「仲間入り」を認められるとき、そうした自己確証と世間の承認に、むしろ有頂天になってもよいのではあるまいか。ところが、そういう「仲間」に違和感を抱くばかりか、自分が「趣向のカリスマ」に恵まれて「創造者」の範疇に属すること自体に、秘かに「罪悪」を感じ、「驕り」を虞れ、むしろ「建築家も使い手も、作る人も職人も、フラットでオープンな場で、一緒に物を作るべきだ」(p. 229)と思いなおすことができる、というのは、並外れて繊細な感性の持ち主であろう。それと同時に、そうした「境位」に安住できず、自己充足できない、その「場所」からこそ、たえず新たに、とてつもなく多様な「制作と享受の共同関係」を創り出そうとする希望と意欲が生まれ、まさにそれゆえ「越境」が繰り返され、「境界」の消去が目指されるのであろう。筆者には、「作品と同じ数だけ」(p. 244)「粉々に砕けた隈研吾『達』の中に」(p. 245) 、この想念が「共通に流れている」ように思える。

加えていま一点、早とちりを虞れずにいえば、こうしたスタンスは、1954年生まれで、栄光学園時代に「高校闘争」に触れ、1973年に「東大闘争」後の駒場に入学した隈氏が、全共闘運動にたいする「奥手(レイトカマー)」として、先行世代の問題圏に「後から、距離を取って接近-接触」し、まさにそれゆえ、その窮境からも脱しえた、稀有な世代的位置(-位置価)の所産とも思える(ちなみに、マンハイムは「永遠に生き続ける種族がかりにあるとすれば、必ずやみずから忘れることを学んで、「新しい接触」の欠落を埋め、創造性と柔軟性を回復するであろう」と語っている)。

「東大紛争-闘争」が、あれほど長期にわたり深刻化したのは、全共闘系学生・院生が、(医学部と文学部の学生処分という一見小さな具体的問題について) 問うても問うてもまともに答えず、既得の利害と特権にからめ捕られて「自己正当化」を重ねる東大教員の姿に、「学知の驕り」を感知したからであろう。それゆえに全共闘運動は、「七項目要求」といった個別問題処理の域を越え、「学知の驕り」を再生産するような「大学の解体」と、翻って (「自分は『かれら』のようにはならない」という)「自己否定」の思想を孕んだ。しかも、この想念が、「自己否定に自己否定を重ねて、『ただの人』となり、そこから再出発(して、たとえば古典物理を研究)する」というような段階論に抽象化され、この図式が、「どこまで『自己否定』を重ねればいいのか、自分はまだ『ただの人』になりきれていない、いったい何をすればいいのか」という反問となって、呪文のように全共闘系の学生・院生を縛り、機動隊による物理的闘争圧殺以上に、抜き差しならない苦境へと、かれらを追い込んでいったのである。この経緯と結末を、故平井氏のように「バカ」と決めつけることは、あるいはできるかもしれない。しかし、それで「利口」になって、なんになるか。

この窮境からは、(市民運動であれ、専門的職業であれ、なにか)自分と世界との結節点を見つけ、あるいはすでに与えられていた結節点に気づき、引き継ぎ、担いなおし、そこをとおして(旧社会学共闘の標語を用いれば)「世界に埋もれる」「自己否定」を重ね、そのつど湧き出る「希望」を汲みながら、さらに「世界に埋もれていく」プロセスへと、歩み出るほかはなかったろう。駒場に開設された「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」と西村秀夫氏の「進学相談室」は、市民運動と学問に跨がるこの方向で、旧全共闘系学生の再起を介助しようとする試みであった。そうして初めて、全共闘の切り開いた地平を内在的に乗り越えることができよう、と考えられた。そうでないと、「日大・東大の地平を越えて」という抽象的スローガンが空転し、具体的な争点と論証なしに大学本部をバリケード封鎖する、といった戦術エスカレーションの「一人歩き」を招き、「封鎖はしてみたものの、なかで何をすればよいか分からない、日常性を持ちこたえられない」という羽目に陥り、先細り、自滅するほかはない、と危惧された。

さて、隈氏は、里山に隣接する旧「農場付属宿舎」を改造した自宅で、脱サラに近い禁欲的で厳格な父君が、これだけは珍しく息子の提言も受け入れる増築計画とその実現に、十全なメンバーとして加わる、という幸運な体験を重ねて育った(期せずして、その後一段と厳しくなる「早期専門化」を「先取り」していたことになろう)。そういう「自然な」素地のうえに、隈氏は「レイトカマー」として「見通しのきく地点advantage point」から、先行世代の陥った窮境の意義ばかりか、その突破口をも、いちはやく察知し、躊躇うことなく建築というジャンルを選び、あるいは担いなおして、(「世界に屹立する」のでなく)「世界に埋もれる」「自己否定・即・自己肯定・即・世界肯定」の営みを重ねて今日にいたったのであろう。この「場所」の特異性を浮き彫りにするため、ある比較の準拠枠を引き合いに出してよければ、1935年生まれの筆者は、「縁故疎開」(小学校のクラスないしそのサブ・グループまるごとの「集団疎開」とは異なる、個別家族ごとの分散・移住で、「同輩」「近隣」など、それまでの「第一次集団」の喪失をともなう) と敗戦直後の父の病死とで、「故郷喪失」と「超自我不在」の「境位」に置かれ、それだけ頭でっかちの「思想的首尾一貫性」にこだわって生きてきてしまった。その点、隈氏は、戦中から保たれていた里山と、家族で増築の年輪を重ねられる住まいとが、なお「高度経済成長」による破壊を免れている稀有な (時間的) 「境界」で、順調に、のびのびと育った。現場で五人前後のフラットな会議を開き、諸事万端の手筈を整える父君の流儀は、そのまま隈建築都市設計事務所と建設現場の作風に引き継がれ、活かされていると見える。

話は変わるが、1973年といえば、筆者も(196911819日の機動隊再導入に抗議して、その春に踏み切った)四年越しの授業再開拒否をみずから解除し、4月から講義も再開した年にあたる。その直前、筆者は、高橋晄正、宇井純氏らとともに、約二週間、中国を旅した。「文化大革命」が頂点を過ぎた時期である。しかし、農村の人民公社では、さながら大塚史学の「農村の織元」という生産力段階にあって、農民が代わる代わる織機や旋盤のまえに座り、分業の固定化・農工格差を招かない「みなで豊かになろう」式の工業化に挑戦していた。村落では、水車場兼 (村の電力需要はまかなえる規模の) 小発電所をしばしば見かけた。小学校にも学校工場があって、児童が役割交替を繰り返しながら協力して、中国将棋のセットを製造していた。北京の百貨店では、ラジオやテレビの完成品もあるにはあるが、むしろ自分で組み立てるパーツの売り場に、アマチュアの人だかりがしていた (筆者も少年のころ、『ラジオ技術』や『電波科学』を購読し、東京は神田小川町から須田町にかけて並ぶ露店で、パーツを買い集め、「五球スーパー」あたりまでは自分で組み立てた。テレビには手が出なかったが、その後、電気器具や家具は、できるかぎり修理して使い、質素倹約に喜びを感じてきた)。当時の中国では、「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」という儒教の根本的立場から、無理をしても「近代」の出直しを企てようという「レイトカマー」の文明挑戦が、広範囲にわたって息づいていたのである。もとよりその後、激烈な権力闘争の末、「できる人士から豊かになろう」式の欧米追随路線に、破れたのではあるが。

さて、隈著について縷々語ってきて、このへんで、氏が東大工学部教授として健在であることにも、一筆触れないわけにはいくまい。「隣の芝生」とくに「遠くの庭」を覗くことは滅多になかった筆者も、「196263年大管法闘争」時には、学内各部局・各層の対応を見渡そうと、丹下健三氏のエッセにも目を通したことがある。それまでは、芸大とか (普通大学では) 建築学科とかは、「われこそ芸術への天分とカリスマに恵まれて、他人に優る」と自負する若者がしのぎを削る「アゴーン(競技)」の土俵にちがいないと、近寄り難いものを感じていたが、当の部局の「大ボス」ともいうべき丹下氏が、どうしてどうして、戦後近代主義の社会学に通じていて、「どういう空間を創れば、働きやすいか、『物言えば唇寒し』の伝統的精神風土から解き放たれるか」と考えぬいて仕事をしている、と知って驚いた。隈著によれば、丹下氏は、原爆によって破壊されたフラットな廃墟から立ち上がり、あえて「垂直性」を追求して、戦後復興の記念碑を樹立したのだそうである。また、隈氏より先輩で、水口俊典君とともに建築共闘のリーダーとして安田講堂に立て籠もって闘い、その後、専門性も活かしつつ「(未解放部落その他の)住民の立場に立つ町づくりと都市計画」を追求した故内田雄造君と、当時建築学科主任の梅村魁氏や工学部長内田祥哉氏との間に バリケード越しにも、全幅の人間的信頼が通っていた事実を知って、たいへん感銘を受けた (HP2012年度の記事「『ゆっくりとラジカルに――内田雄造追悼文集』のこと」参照)。隈氏の師匠筋にあたる原広司氏の天才肌の奇人ぶりにも、建築学科とは、よくもまあこの人と折り合って、その力量を思いのままに発揮させたものだ、との感懐を禁じえない。東大工学部内で、建築学科とはどうやら、„Enklave“  (自国内に入り込んだ異国の飛び地) なのであろう。今後、その現場で、「自国」と「異国」との「境界」を越えて、どれほど率直で深い議論が交わされていくか、注目したい(20141230日記)。