謹告――拙著『マックス・ヴェーバー研究総括』 (未来社) の刊行遅延をお詫びし、この間の経緯をやや詳しくご報告する一文「コロナ禍と地域医療、翻って執筆スタンスの問題」を掲載します。(529日)

 

小生、「マックス・ヴェーバー没後百年」(2020) を期して、『マックス・ヴェーバー研究総括』 (未来社) と題する拙著を上梓すべく、一昨 (2019) 年夏、執筆に着手しました。ところが、昨年の秋から今年の五月にかけて、連れ合い (折原慶子) と小生に、思いがけない体調の異変が生じ、執筆の中断を余儀なくされました。今後、健康を回復し、なるべく早く執筆を再開して、上梓にこぎ着けたいと念願しておりますが、当面は、無期延期とせざるをえない実情です。

出版を引き受けてくれた未来社の『未来』春季号巻末には、「六月刊行予定」とする拙著の出版予告が載っています。としますと、6月の刊行を心待ちしてくださっている読者もおられるか、と拝察します。つきまして、予告どおりにいかなくなってしまったいま、この間の経過を少々詳しくご報告し、小生の反省点も綴り、遅延のお詫びに代えたいと思い、下記の一文を草しました。

ご多忙の砌、たいへん恐縮ですが、お暇の折、お目通しいただき、ご寛恕くださいますようお願いいたします。(529日、折原浩)

 

 

 

コロナ禍と地域医療、翻って執筆スタンスの問題

折原

今日にいたった経過は、下記のとおりです。

4 13: 小生、口内炎発症、夕方、383分の発熱。

414: かかりつけの近隣の医院 (以下、A医院) に、診察予約の電話を入れたところ、「発熱者は、コロナ感染の疑いがあるので、当院では受け付けられない」との応答。このA医院は、院長が、専門の整形外科のほか、一般総合外来も担当し、他に内科などの主要診療科も揃えており、連れ合い (折原慶子) と小生にとっては、自宅における老々介護-終末体制に、訪問検診を依頼する必要上、不可欠で、常日頃良好な関係を維持しており、今後もそうしたいところ。

416: (その後しばしば37度を越えていた) 熱も、徐々に平常の36度台に戻る。しかし、口腔内の痛みがひどく、食事ができない。小生はそれでも、快方に向かってなんとかなるのではないか、と楽観。ところが、連れ合いは、このまま衰弱がつづくのではないかと心配し、A 医院で栄養剤の点滴を受けるためにも、コロナのPCR 検査を受けなければならない、と判断。

419: 近辺の総合病院 (B病院) に、電話でPCR 検査を依頼-予約。

420: B病院でPCR検査を受ける。受検者は、小生以外、皆、自家用車で来院し、構内の道路に駐車し、メディカル・スタッフが出てきて、準ドライヴ・スルー方式の検査を実施。車を持たない小生は、B病院の救急車に隔離されて受検。結果は陰性。検査結果のコピーをもらう。口内炎の塗り薬も処方してくれたので、薬局で買い求め、塗布するも、少なくとも即効はなし。効能書きには「数日経っても、効果が現われない場合には、医師に相談すること」とある。

42124: A医院で、午前中4時間、栄養剤と抗生物質の点滴を受ける。

426: 専門に口腔外科のある病院への転院を考え、小生としては、(若い頃、現職中に通院していた、東京都内の)T病院を希望し、A医院の主治医に紹介状を依頼。しかし、「現在、県境を跨ぐ東京都への移動、とくに病院への行き来は、自粛すべきで、まずは取手地域の拠点病院 (C病院) の口腔外科を受診してはどうか」との勧告。「現時点のコロナ感染状況ではやむなし」と応諾。

427: A医院の紹介状を携え、C病院に出向き、口腔外科内の高齢者歯科で受診。ようやく、(口内炎は口内炎でも)「カンジダ性」と診断されたようで、長期服用薬の使用停止と、柔らかい歯ブラシで口腔内白苔を削ぎ落とすことなど、消極的ながら療法も指示される。

唾液を採取してのSARSCoV2 核酸検査も陰性。

この間、Fingertip Pulse Oximeterで測ると、SpO は、常時95%以上。

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経過は以上のとおりで、発症から2週間経っても、口腔中の痛みがひどく、薬局に相談して、市販の口内炎薬もいろいろ試してはみましたが、どれも即効はないようでした。ものが食べられないので、体重が40kgにまで減りました。

その間、「家庭医学書」の類を読みますと、口内炎には、「① アフター性、② ヘルペス性、③ カタル性、④ カンジダ性」の四種類があり、小生の場合は、この に当たり、C病院の口腔外科専門医も、はっきりと断定はしないものの、この と診断したようです。

 

④「カンジダ性」口内炎とは、抗癌剤、血圧-、血糖-、尿酸などの抑制降下剤を、長期間服用していると、それらの副-相乗作用で、口腔内常在菌のバランスが崩れ、口腔内が白苔様の炎症に覆われて痛む、その種の薬剤を長期間服用しがちな高齢者に発症しやすい、厄介な類型のようです。

小生の場合、故高橋晄正さんから、「薬は基本的には毒、それでも限定的に使わなければならないことはある」というフィロソフィーは学んでいたのですが、最近ではつい、「ある期間服用した薬を止めると、元に戻って、再発しないか」という不安があり、医師への処方箋変更申し入れを怠り、痰切り薬、筋収縮剤、催眠剤といった類まで、半ば惰性的に服用していました。

C病院の口腔外科専門医は、「お薬手帳」を調べて、抗癌剤と催眠剤 (一錠に減量) 以外、すべて止めるように、あとは、痛くとも口腔内を柔らかい歯ブラシで掻き、白苔皮膜を削ぎ落とし、517日に再来院するように、と指示してくれました。発症後2週間が経ち、しかもABACと、四回目に訪ねた医療機関で、やっと納得のいく診断がくだされ、消極的ながら、療法も指示されたわけです。

 

さて、小生、新型コロナ・ウイルスにじっさいに感染して発症するか、感染防止措置のために生業を失うなど、直接に被害を受けている人々に比べ、口内炎による発熱だけで、間接的に軽微な影響を受けたにすぎず、「文句をいう筋合いではない」とは重々承知しています。また、なにか地域の悪口をいうつもりもありません。地域の隣人は、親切で実直な人柄で、常日頃、気持ちよく付き合っています。

ところが、こと医療にかんするかぎり、患者のほうは指定の時刻のずっと前に病院に着いて、辛抱づよく順番を待っているのですが、医師-、病院側に、「平気でひとを待たせる」スタンスと、(おそらくはそれと連動している)医師相互間のコミュニケーション不足とが目立ち、結果としては、延々と待たされ、時間の無駄遣いを強いられます。そういう現状に黙々と耐えている患者側の、(親切で実直という長所と裏腹の)「人の好さ」も、やはり問題で、「そのうち、患者と付添い家族の立場から、一石を投じなければならない」とも実感しました。

これは、かつて1967-68年に「青医連」が提起した「三時間待って三分診療」という問題です。それが、50年以上経った現在、どれほど解決されているのか、解決されている病院とそうでない病院とがあるとすれば、そういう二類型の分化を規定している要因はなにか、というふうにも、再設定されましょう。

 

じつは昨年9月、連れ合いに腹痛と嘔吐の症状が現われ、同じC病院で診てもらったことがあります。一般受け付けで内科を、内科受け付けで消化器内科を、それぞれ指定されて、直行しましたが、消化器内科の担当医師は、(腹部CTやエコー検査ならともかく)なぜか心電図と血液検査を指示し、双方とも結果が出るまで延々と待たされ、午前9時から午後2時頃まで費やしました。問診も要領をえず、別の (午後担当の) 医師への引き継ぎもなく、けっきょくは診断がつきませんでした。その挙げ句、当の医師の、10日後の検査出勤日に再来院せよ、と指示されたのです。

その間に連れ合いの病状は悪化し、数日後、(当時はまだ、県境を跨ぐ東京都への移動自粛要請もありませんでしたので)T病院に出向いて受診しました。

 

T病院では、来院者への初めの受け付け窓口でも、若手の研修生とヴェテラン看護師らしい二人が組んで、交互に応答し、「実務をこなしながら、研修の実もあげる」体制が整っていました。午前から午後にかけて、(蕁麻疹が出ていたので)皮膚科 一般内科 消化器内科と回りましたが、複数の医師相互間、また、看護師との間にも、連携がとれていて、腹部レントゲンおよびCT 検査の結果、即日、複数の医師間で所見が一致し、腸閉塞との診断がくだされました。早速入院して、「イレウス管」により、腸内に溜まった液体の排出が開始され、その処置が数日つづきました。その後、手順を踏み、閉塞の原因にかんする内視鏡検査に移りました。小生、その間、C 病院にキャンセルの電話を入れ、経緯を詳しく伝えました。

 

いつか、この事例も併せ、患者による具体的な「現場報告」として、(とくに病院内のコミュニケーション体制という「医療社会学」的側面に焦点を合わせて)二類型を比較-対照し、問題として提起したいとも思いました。

15歳以上」として「一括成人扱い」されるものの、特有の問題も抱えている高齢者の立場から、医療問題、とりわけ地域医療の現状を、改めて問い、高齢患者同士の、相互の健康のための経験的交流も交えながら、地域医療改善への一契機として、なにほどか活かすことはできないか、とも考えました。

 

ちなみに、腸閉塞や口内炎は、独立の疾病というよりもむしろ、それぞれ、他の根本原因から派生する症状-症候と見られるようです。

としますと、わたくしども老夫婦にとり、ここ数年は、東大闘争から数えてちょうど50年の節目にあたり、関連の行事や、寄稿の要請や、寄贈-送付される著書ないし論文抜き刷りへの応答の要請が、例年に比して多く、それだけストレスが溜まっていたようにも思われます。

 

かつて、東大闘争の直後、197179年にかけて、千葉港から成田空港まで、住宅地を横切って、軒先にもジェット燃料輸送のパイプラインを埋設しようとする計画が持ち上がり、地域住民がこぞって反対し、埋設コースの迂回と川底深部への変更は余儀なくさせる、住民運動が起きました。その一員として「市民の会」に加わり、地域住民自治会間の連絡にもあたっていた連れ合いは、昨年夏、8年余にわたる、やや厖大な資料を読み直して、経過をまとめ、(住民と提携-連帯して運動を担った)土木工学者・湯浅欽史氏の、一昨年 (2019年)の逝去を悼む一文を草しました。七月末の原稿締め切りには間に合いましたが、日頃慣れない資料繙読と執筆に、若干苦労したようです。

 

小生のほうは、やはり「東大闘争後半世紀」の節目のせいか、寄贈-送付される著書や論文抜き刷りが、例年になく増えました。それ以前には、(小生にとっては関心外ないし専門外の) 多種多様な寄贈文献が殺到しても、即答とはいかないまでも、日を決めて、小生自身の執筆その他の仕事は中断しても、なにほどか感想を添え、礼状を送り返す、余力がありました。ところが、「寄贈の趣旨は、読んでくれれば分かるだろう」といわんばかりに、「謹呈、著者」の短冊を挟んだだけの著書群、あるいは寄贈の趣旨を丁寧に記した挨拶状が添えられていても、「とてもそこまでは付き合いきれない」と感じないわけにはいかない文献群が、ひっきりなしに郵送されてきて、それらがある限度を越えると、応答できずにいること自体に気が重くなり、「そういう関係性に思いを馳せないのは、学者の自己本位主義」と、苛立ってみたり、反転して「自分も寄贈-送付するくせに」と自己嫌悪に囚われたり、なにかそういう不毛な悪循環に陥って、解決への気力が失せることも、しばしばありました。

こういうことを書くと、寄贈者側の折角のご好意に逆らうことになるので、書くべきではない、あるいは少なくとも書かないほうが無難、とも思えます。しかし、あるひとりの受け手において、別々の寄贈がある総量を越えると、場合によって、とくに受け手の年齢いかんによっては、以上のように「苦行」を強いることにもなりうる、という事実 (したがって、若い寄贈者には看過されやすい事実) として、小生自身の反省もこめ、ひとつの問題提起として、やはり明記したほうがよい、と考えました。

 

そういうわけで、ここ数年、老夫婦には、この歳になるまでは経験せず、思ってもみなかったことが、ストレスとして溜まるようになり、(「心因主義」に傾くことは避けなければなりませんが) 腸閉塞や口内炎を発症するか、あるいは、症状がなかなか収まらない、一要因にはなったのかもしれない、と思われます。

 

*

 

ところが、上記のとおり地域医療の問題に直面し、寄贈文献への対応に難渋する、ずっと以前から、小生のライフ・スタイルそのものに、むしろ問題がありました。「仕事」中心に心身を制御し、「病気」はもっぱら「仕事」の妨害要因として、速やかに「はね除け」、旧態に戻って「仕事」の効率を回復しようとする、いわば「頑強な仕事中心主義」が根付いていて、一方では「コロナ禍のしわ寄せ」、「待たせるのが平気な医療」、「医療機関選択権の地域制限」、他方では、「小生ひとりにはとうてい対応しきれない、多種多様な文献の寄贈過多」に、それだけ苛立ち、ストレスもつのらせたようです。それはやはり、小生として反省すべき問題で、このさいむしろ、「病気」という「生の一範疇」、したがって「病気」を含む「生き方」全体を、再検討する必要があろうか、と考えるにいたりました。

 

その間、幸いなことに、少しずつではありますが、口腔内の痛みが和らぎ、ものも食べられるようになってきました。それでも、どういうわけか気力が湧かず、四六時中ベッドのうえでゴロゴロしていて、「そのまま『寝たきり老人』になるぞ」と脅される始末でした。しかし、癌手術後の入院中と同様、ルーティン・ワークから解き放たれたせいか、思いがけない着想も浮かびました。

というよりも、多少客観的に捉え返しますと、小生、本来は停年退職時に考えるべきであった「生き方」の再編成を怠り、フルタイム「執筆」に専念できる「余暇のある年金生活者ein abkömmlicher Rentner」のライフ・スタイルに、「これ幸い」とばかり完全移行しました。そのかぎり、「仕事中心主義」をむしろ強化し、著書発表を「状況内の実践的企投」として規律するスタンスも維持し、八十路の半ばまで、そのまま「ひた走ってきた」というほかはありません。そこに「無理がある」とようやく気がつきました。

 

とりわけ、執筆のスタンスに、問題がありました。小生、現職期間中よりも、停年退職後に、量的には多くの著書を発表しています。そのさい、学問上の著書も、状況内への実践的企投として意味づけ、その観点から、意味のある刊行期日を選定しようと心がけました。たとえば『日独ヴェーバー論争』は、「カテゴリー論文」発表百周年の2013年、『東大闘争総括』は「安田講堂事件」50周年の2019年、今回の『マックス・ヴェーバー研究総括』は「ヴェーバー没後百年」の2020年、というふうに、刊行予定と原稿引き渡し期限とを先に決め、そこから逆算して起稿し、執筆に集中-専念し、未來社西谷能英氏の協力もあって、当の期日までに刊行する、という原則を守ってきました。しかもそのさい、故向田邦子さんの「プロ根性」を範とし、「約束の期日には、耳をそろえて完成稿を手渡し、編集者に、原稿督促などで迷惑はかけない」という規範にしたがっていました。

ところが、です。最終の状況内企投と目していた『マックス・ヴェーバー研究総括』では、上記の事情から、その原則も、向田規範の遵守も、ともに破綻を来し、出版社にはかえって迷惑をかけてしまいました。

しかし、小生自身には、この挫折は、かえって、『マックス・ヴェーバー研究総括』を終末までには仕上げられるように、ここでこれ以上無理をしてはいけない、という警告として、受け止められようか、と思えてきました。

 

連れ合いと小生は、2002年、名古屋から、あえて取手と守谷との中間地点にある当地に、ひとつには書斎の静謐を求めて移り住みました。最近の10年は、ほとんど「巣籠もり生活」同様で、週一~二回、近辺のスーパーに食材の買い出しに出掛ける以外、(利根川を渡ってくる南風で) 換気もよい集合住宅の一角に蟄居し、コロナ・ウイルスの感染をおそらくはもっとも受けにくい環境にありました。ところが、思いがけず、コロナ感染も被らないのに、執筆を中断する羽目に陥ったのです。

しかし、かりにそうはならず、予定どおりの脱稿をめざして、 (一日中のもっとも気分のよい午前の三時間に加え、午後にも三時間、夕食後にも三時間、という具合に) 無理を重ねていたとしますと、どうなったでしょうか。なにかもっと深刻な事態に見舞われていたにちがいありません。としますと、口内炎の執拗な症状に閉口はしましたが、相対的には軽微で好適な警告ではなかったか、とも思えてきます。

そう考えて、西谷氏には、『マックス・ヴェーバー研究総括』の無期延期を願い出、健康を回復して、少々ゆっくり最終作として仕上げたい旨、申し出て、了承をえました。そうする以外にはなかったのです。

 

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さて、「この期におよんで、『マックス・ヴェーバー研究総括』の状況内企投に、なぜそれほど拘るのか」とも問われましょう。その問いには、他ならぬこの状況下で、こうもお答えできようか、と思うのですが、いかがでしょうか。

この間、一般のマス・コミ報道にかぎってではありますが、コロナ禍をめぐる状況の推移を見守ってきますと、世界的な感染にかんする事実認識は、ジョンズ・ホプキンス大学の情報収集-集計結果に、わたしたち日本人の今後の死活にかかわる、肝要なワクチンの供給は、ファイザー・ビオンテク、モデルナ、アストロゼネカ、ジョンソン&ジョンソン、ノババックスなど、欧米、それもアングロ・サクソン系の企業に、頼りきっているばかりか、そういう依存関係をなにか自明の前提として受け入れてしまっているようです。ジャーナリズムの議論はもっぱら、集計結果の解釈とワクチン接種の手順と進行にかぎられ、現象の追跡一辺倒で、わたしたち自身の死活にかかわるこの欧米依存状態そのものを、事実として直視し、問題として提起しようとはしません。去る316日に、NHK BS 1の番組予告に「国産ワクチンの開発に挑め」とあるのを見て、「さすがNHK (BS)」と視聴したところ、なんと江戸時代の小山肆成の話でした。

 

日本は、明治開国から第二次世界大戦にかけて、また、その敗北後、「欧米に追いつき、追い越せ」の旗印を掲げて「近代化」を目指してきました。ところが、それがまたしても頓挫し、死活問題にかかわる、見紛いようのない事実として、明るみに出ているのです。ところが、日本の学界もジャーナリズムも、この事実を直視し、問題として採り上げようとはしません。肝要なことには「目を背け、口を噤み」、「やり過ごして」「胸をなで下ろし」、「喉元すぎれば暑さを忘れ」て「素知らぬ顔」という「学界-ジャーナリズム複合態」の「優柔不断」と「集団同調性」は、いっこうに変わっていないようです。

前著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』では、50年前の「東大闘争」の経過に即して、(事実誤認処分の踏襲-温存という)大学として致命的な過ちの事実を掘り起こし、具に論証し、現職者や東大闘争OBOGの「応戦」を求めて「挑戦」したつもりだったのですが。

 

この状況で、「欧米近代の光と影」という両義的パースペクティヴから、事実を見据え、「突破」と「克服」にそなえる「内 (精神) からの革命」が、またしても求められるのではありますまいか。

としますと、マックス・ヴェーバーなんと56歳の「比較歴史社会学」の到達限界を、(かれ後期の) 哲学的科学論・「法則科学」としての社会学・「現実科学」ないし「歴史科学」としての連字符文化諸史学という三者の総合として、相互補完的に捉え、「没後100年」の後続世代に手渡し、批判的継承と展開にそなえる課題が、なお、残されているのではないでしょうか。

否。そんな大それた集成には到達できないとしても、敗戦後の限られた一時期を、一個の実存として、どう生きてきたか、そういう実存にとって、マックス・ヴェーバーとは何者であったか、について、前著『東大闘争総括』ともども、自分なりに納得のいく等身大のまとめをつけられれば、「もって瞑すべし」というべきかもしれません。

*

以上、『マックス・ヴェーバー研究総括』刊行遅延のお詫びに代え、この間の経過について、少々立ち入ってご報告しました。ところが、書き始めると止まらず、元気も出て、ご迷惑を顧みず、つい長話になってしまいました。ご多忙のところ、お時間をとらせ、まことにもうしわけございません。

ともかくも、日一日と元気になってきてはおりますし、高齢者ワクチン接種の第一回は、(かつて若い友人に手ほどきを受けた)IT技術のお蔭で、迅速に予約がとれて、59日に無事済ませ、第二回も、530日に予約していて、これもなんなく乗り切れそうです。他事ながらどうかご放念ください。

例年になく、気候も不順の砌、どうかくれぐれもご大切に、ご健勝に過ごされますよう、お祈り申し上げます。

 

2021529

折原