昨今の仕事プラン――戦後精神史の構想とヴェーバー研究の前提反省

 

[本稿は、このHPの別項「舩橋晴俊君の急逝を悼む」のなかから、その一部を移したものです。去る727日、生前の舩橋晴俊君が、表題の件につき、親切に質問してくれて、筆者が答えた内容を、要約した部分です。長文となってバランスを失したため、別項として独立させました。2014927 折原浩]

 

筆者は昨年末、『日独ヴェーバー論争――「経済と社会」(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて』(2013、未來社)を上梓し、すぐにでも、しばしば予告してきた続篇の『「経済と社会」「旧稿」の再構成――全体像』に着手したいとは思ったが、じつはちょっと躊躇している。というのも、『東大闘争と原発事故』(2013、緑風出版)への寄稿「授業拒否とその前後――東大闘争へのかかわり」を改訂増補する方向で、ある構想が念頭に去来する。それは、1935年生まれ世代の「戦争体験」「戦争から派生した体験」の類型分析から始めて、(典型的には「戦前左翼-戦中右翼-戦後にまた左翼」という時流迎合の変身に示された)論壇知識人の「戦争責任」「戦後責任」を問い、それと同時に、「60年安保闘争」「6263年大管法闘争」「6869年大学紛争-闘争」への筆者なりの関与を対象化・自己対象化して、その延長線上に「1972年授業再開・教授会復帰」後の闘争継続を位置づけ、そうした一連の経過とヴェーバー研究との関連についても総括を試みたい、との思いである。この課題をはたすことで、1935年生まれで戦争を生き延びた世代の一員として、自分の「生き残りの意味」にたいする内外の戦争犠牲者の問いかけに答え、他方、後続の世代にたいしても、「生き残り」への意味付与とその結末を、「戦後精神史のひとこま」として記録し、批判的克服への「叩き台」として遺したい、そのようにして「(前後の世代にたいする)二重の責任性存在」として「歴史を創る責任」の一端をはたしたい、そういう思いが、同世代者の訃報を聞くにつけても、つのっている。

そこで、老生としては、「どちら」が叶わず、「どちら」となれば、『経済と社会』「旧稿」の全体像という学知の面は、①「旧稿」から(第一次世界大戦敗北の体験を挟んで)「新稿」へという思想展開の追跡、②「旧稿」中の「宗教社会学」章と③同じく「法社会学」章との内容的再構成と「旧稿」全篇中への位置づけ、その他、残された研究課題は、『日独ヴェーバー論争』に示した「旧稿」の骨子を補充して、筆者よりもいっそう適切に「ヴェーバー社会学」の「全体像」を構築し、その到達限界を再現・再確認して、その活用と展開にも乗り出してくれそうな、実力のある適任者が、幸いにも数多く出てきてくれているので、安心してその人たちに任せ、筆者自身はむしろ「1935年生まれ世代の『戦後精神史』に向けて、自分史を再構成する」課題のほうを優先させてもよいのではないか、と思う。

とはいえ、「それでは、ヴェーバー研究は全面的に放棄するのか」といえば、そうではなく、『経済と社会』の全体像構築 (①~③とは別に、むしろ「戦後精神史との関連で、つぎの課題をはたしたい、と考えている。つまり、筆者はこの間、ヴェーバーを準拠人としてつねに念頭に置き、重大と思う局面に立たされるつど、「ヴェーバーなら、ここでどうするか」と尋ね、(「上に向かっても下に向かっても、自分の属する階級に向かっても、『耳に痛いこと、嫌がられること』を、はっきりいってのけるのが、われわれの学問の使命である」など、そのかぎりで抽象的には賛同できる言辞を、しばしば引用して、自己確信を固め、同時に自己正当化してきた。ところが、ヴェーバー自身がその言辞を発した政治社会状況、その歴史的境位、したがって当の言辞の (その状況とコンテクストにおける具体的意味内容は、厳密にいえば、筆者のそれとは異なっていて、筆者の「独りよがり」も多かったにちがいない。筆者の側からも、ときとしてウェーバーに違和感を抱きながら、そうした齟齬の対象化・自己対象化は怠って、先送りしてきた、というほかはない。

たとえば、顕著な差異だけ、思いつくままに拾い上げるとしても、――

1. フランス大革命後の19世紀初頭、ナポレオン軍に蹂躙されたドイツ、

2.  1848年の「三月革命」を (挫折したとはいえ、ともかくも多数の市民が決起して企てたドイツ、

3.  187071年の晋仏戦争に勝利し、旧敵国フランスの王宮殿内で戴冠式を挙行し、第二帝国を樹立したドイツ、そしてなによりも、

4. ビスマルクの専権政治によって (気骨ある政治指導者が斥けられ、制度と精神の両面で「政治的未成熟」という「遺産」に呪縛されつづけたとしても)、ヨーロッパ大陸において地続きの (あるいは地続きに近い諸列強の狭間に、「大国としてのし上がり、期せずして周辺の諸「小国」に、「西洋中世内陸都市と等価の「漁夫の利」を占めさせ、「小国それぞれに独自の文化発展を事実上保障することにもなったドイツ、

ヴェーバーは第一次世界大戦中、この歴史を引き受け、ドイツが、(内容はいかなるものであれ)アングロ・サクソン的またはロシア的「統一文化の制覇にたいする防波堤となり、諸「小国」も含む多様な「ヨーロッパ的文化発展を保障するという一点に、「権力国家ドイツ」の存立理由を求めた。なるほどそうした見解には、自国ないし自国民の権力主張を正当化するという契機が、潜まないわけではなかったとしても、国家や国民を超越する普遍的理念が厳存し、これによって自国ないし自国民の権力主張が意味づけられると同時に相対化され、限定されている関係を、看過してはならない。その点で、かれは、単純な「国民主義者」ないし「国益論者」ではなかったし、ましてや、イギリス国民の「政治的成熟」にたいする「劣等感」と(その裏返しとしての)スラヴ系諸民族にたいする「優越感」とに一喜一憂するような (いうなれば「二流受験秀才」レベルの)「政治評論家」だったのではさらさらない。「西洋中世内陸都市」の普遍史的意義をただちに同時代の政治現象に「翻案して適用できる「比較歴史社会学」の洞察に裏付けられ、「多様なヨーロッパ的文化発展の保障者」たるべく、もっぱら当の保障のため、そのかぎりで「狭間の大国ドイツ」に (政治権力を (留保し、そうした歯止めを欠く「権力のための権力」あるいは「権力自体の威信のための権力」を戒めて止まなかったのである。肝要なこの一点を看過し、かれをparticularisticな「ドイツ国民主義者」ないし「ドイツ国益論者」に還元しようとする解釈、あるいは、「品位型ナショナリズム」として「偏狭で野蛮なナショナリズム」とは区別しながらも、当の「品位」の内実とその学問的根拠は解き明かさない、たんなるラベル論の類は、かれの中世都市論と同時代の「状況診断」「政治評論」に通底する学問の深み――歴史的変遷を貫く基底的一般経験則を法則論的に定式化する「普遍史的比較歴史社会学」――に視線が届かず、射程に収めきれない、「政治論」中心の狭隘化・浅薄化というほかはない。しかし他面、ヴェーバーの「都市論」を、かれの「支配社会学」の体系構成中に位置づけ、その全射程を捉えるにいたらなかった、「旧稿」研究の遅れにも、もちろん責任がある。

5. そうしたドイツの歴史-社会状況におけるヴェーバーの個人史に絞ってみても、国民自由党代議士の父ヴェーバーが首都ベルリンの郊外に構えた大邸宅に、当代一流の大政治家や大学者が集い、談論風発、政治の裏話にも花を咲かせるサロンに、利発な長子として招じ入れられ、葉巻を配って歩き、そのように幼いころから「われこそ、生まれながらの、あるいは物心ついてこのかたの、余人の追随を許さない政治通と自認し、ドイツの将来を背負って立つ」という気概と自負と高ぶりを隠さなかった、長男で筆頭家父長候補のマックス・ヴェーバー、他方、

6. 第二帝政下のドイツにおける家父長制の過酷な女性抑圧と、まさにそれだけ反動も激越で「アナーキー」に傾く、世紀末以降の「女性解放運動」にも、心動かされ、エルゼ、二人のフリーダ(オットー・グロスの妻と、DH・ロレンスと駆け落ちした、エルゼの妹)、ピアニストのミーナと、華麗な女性遍歴を重ね、よくもまあマリアンネ・ヴェーバーに叩き出されなかったマックス・ウェーバー、

このさい、そういうヴェーバーと、政治への精通ならびに学問的力量との桁違いの格差は問わず、あえて同一平面に並べて比較するとすれば、いちいち対照項を挙示するまでもなく、敗戦後日本の歴史社会状況と、敗戦後「母子家庭」に育った (筆者の個人史との間に、とうてい架橋できない「落差」があることは否めない。ヴェーバーの状況内実践を、厳密な意味でも、等価にも、繰り返せないことは、いうまでもない。

とすると、ただちに、そういうヴェーバーの「実存と学問」を学んで、学べば学ぶほど開いてくる「落差」を、いったいどう処理するのか、「埋める」のか、それとも、埋めようもない「落差」を見据えながら、われわれ自身の状況実践に、かえって「活かす」のか、とすればいかに、という問題が、提起されよう。この観点から日本のヴェーバー研究史を振り返って点検することは、それ自体ひとつの大きな研究課題で、とうてい片手間には取り扱えない。ただ、この問題に鮮やかな解答を示した、いうなれば理念型のひとつに、雀部幸隆氏の研究がある。

マルクスからレーニンをへてヴェーバーと取り組み、ヴォルフガンク・モムゼンのヴェーバー解釈(一口にいえば、ヴェーバーの提唱した「人民投票による大統領」制が、結果としてナチズムの露払いの役を演じたという説)とも格闘して、批判的に乗り越えた雀部さんは、「返す刀」で (じつは、前提的要請としても)「戦後(日本の)民主主義」のヴェーバー像(たとえば「議会制民主主義の擁護者としてのヴェーバー」像)を(少なくとも、一面的で、しかも本末転倒の袋小路に陥っている解釈として)否認する。というのも、ヴェーバー自身にとっては、「国民の生活利害Lebensinteressen」・「公共善res publica (国益) が、究極の問題至上の目的で、「国家」も「社会契約」の所産として抽象的に基礎づけることはできず、歴史的に発展を遂げた「アンシュタルト」のひとつにすぎない。したがって君主制・貴族制・民主制(の諸類型)といった国家形態も、ひっきょう、当の至上目的のもとに、そのときどきの政治状況における適否を検討され、換骨奪胎して採長補短の具に供されるべき、技術問題の域を出ない。

雀部さんは、ヴェーバーの、多岐にわたり、変遷も遂げる政治評論の内容を、周到な文献実証をくぐらせ、ワイマール憲政史とその結末にかんする最新の研究成果とも照合して、そういう「公共善 res publica の政治学」として原理論的に再構成した。雀部さんの筆致は、明晰で歯切れがよく、第一級の学問的業績といえよう。

ただ一点、筆者が問題と感ずるのは、そういうスタンスの含意にある。つまり、第一次世界大戦前から戦中をへて戦後のワイマール共和国におけるナチズムの台頭-制覇にいたるドイツ政治史のなかで、状況存在としてのヴェーバーの発言内容を典拠に、かれの政治思想の原理論を、そのように、解釈者の先入観を交えず、それによって色付けせず、対象に即して厳格に再構成するには、雀部さんによれば、われわれ解釈者の側が、なによりも「戦後民主主義」によって植えつけられたDNA殺ぎ落としてかからなければならない。他方、そうして初めて再構成されるヴェーバーの政治学原論は、翻って、当の殺ぎ落としに拍車をかけ、少なくとも、「戦後民主主義」の相対化と、日本政治史そのものの再解釈に、道を開くという。とりわけ、「戦後民主主義」にとっては「不都合」で、それゆえに看過されたり、否定的に評価されたりする側面を、「国益論」の観点から再評価する、そういう確たる規準になろう、と説くのである。この方向における雀部さんの、日本政治史にかんする具体的所見は、断片的には発表されているようであるが、少なくとも『日本政治史総論ないし概論』と題するような著作にはまとめられていない。氏の急逝が惜しまれる。

ただ筆者は、そうした「国益論」が、かりに、「何が真の『国益』か」を批判的に識別する、(政治評論・政治現象論からは引き出せない筆者には思われる)普遍的な超越的規準を欠くとすれば、歯止めがなくなり、目前の政治現象と政治勢力に引きずられ、漂流のはて、政治権力に吸い寄せられはしないか、その「轍を踏む」おそれはないか、と危惧する。筆者は、1935年生まれで、雀部さんとほぼ同年代に属するが、当初から、ヴェーバーにおける「政治」と「学問」との緊張関係に注目しながらも、かれの「学問内容のほうに、それも「普遍史的比較歴史社会学」に、筆者として、また、同世代者にとっても、学ぶべきものがある、と確信し、そうした基本的態度決定のうえに、上記のような数々の差異にもとづく違和感は胸中深く留保したまま、ひたすら「旧稿」の再構成に携わり、その面で雀部さんとの交流もつづけてきた。筆者は、ヴェーバー自身による執筆後、一世紀が経過しても、厳密には読解されたためしのない「旧稿」の読解と再構成を、それがあたかも前後千年の学問的懸案であって、この鍵を解くこと自体に、なにか自足完結的な至高価値が宿るかのように思いなして、取り組んできた。

生前の雀部さんには、ある別件で緊張が生じた折に、このスタンスを「所詮はヴェーバー護教論」と決めつけられたことがある。なるほど、筆者のヴェーバー研究は、「旧稿」を切り取って至高価値に据えるかぎり、「抽象的護教論」と評されてもいたしかたない。しかし、護教論者が、護教対象の「理解社会学」を、神殿奥に鎮座させておくのでなく、方法として大学現場に出動させ、伝統的な「正当性」の神話と衝突するようなリスクを、あえて犯すであろうか。それに、雀部さんのヴェーバー研究は「護教論」でないといえるのか。ヴェーバーを、歴史と時代の異なるドイツの状況に戻して、原理論を取り出すこと自体に、学問として異論があろうはずはない。しかし、その原理論を、そのまま日本政治史研究の規準に据えようとするのでは、当の原理論がやはり、日本の状況からは浮き上がった、一種の護教対象として機能し、アリストテレース以来の西洋政治学の正統を継ぐと権威づけられるだけ、日本政治史、とくに「戦後民主主義」にとって「厄介な」DNAと化すのではなかろうか、――そういう方向で、雀部さんに反論できるぞ、と思わないでもなかった。しかし、「売り言葉に買い言葉」は避け、「よくぞ、そんな護教論者と長らく付き合ってくださった」と感謝して別れた。それ以来、筆者の胸底にわだかまっている違和感をむしろ掘り起こし、他方、第一次世界大戦敗北後のドイツと第二次世界大戦敗北後の日本との、歴史-社会状況の差異を、前景に取り出し、ヴェーバーの学問的業績中、日本政治史ないし精神史にとって規準となりうる視点とそうでない事項とを識別し、ヴェーバー研究の現状況における意味を、そうしたコンテクストのなかで捉え返す、という難題を、意識し、抱えてはきた。この課題を解決して初めて、雀部さんの批判にも積極的に答えられようか、とも思う。しかし、雀部さんに先立たれてしまったいま、議論を再開することはできないし、筆者の所見をまとめて著作にまで仕上げるのは無理である。しかし、そうした思索の途上に浮かび上がってくる問題点を、いくつかの項目にまとめ、雀部追悼論文の意味も籠めて発表することは、あるいはできるかもしれない。

 

2014927

折原 浩