080316「研究会21」報告レジュメ                                    折原 浩

 

はじめに――本報告の三部構成

  松井著にたいする基本的スタンス (『未来』3月号稿§3および4月号続篇)  

  ⒉「諒解」概念の展開可能性 (『未来』3月号稿§2) 

    Ⅰ.「緩怠Bremsen」問題

    Ⅱ.アメリカ精神史とヴェーバー

    Ⅲ.「官僚の (義務と) 名誉」

    Ⅳ.組織の逆機能と「内部告発」

  ヴェーバー研究の現況に思う――今後の諒解形成に向けてここで追加

 

松井著にたいする基本的スタンス

折原にたいする松井氏の積極的批判

①「『カテゴリー論文』の基礎概念にもとづく「旧稿」全篇の体系的解釈」という基本方針は採用し、

   ② 「諒解関係」をもっぱら「ゲゼルシャフト関係」の「没意味化」「頽落態」として捉えるのは (社会理論として) 一面的、と批判し、

「諒解」視点を機軸に、ヴェーバー社会理論の活性化を企てる。

折原の対応:①を多とし、②を承認し、③に協働して、「連続的発展軌道」に乗り、「旧稿」の体系的再構成を進めたい。ただし、②の一面性は認めながらも、実存的スタンスとしては堅持。①の意義についてここで、補足→別紙資料1

 

2.「諒解」概念の展開可能性

  . は留保。Ⅰ. . Ⅳ. はいずれも、「官僚制」組織にたいする内部からの抵抗 (「無気力な歯車」であることの拒否) に関連。ヴェーバーは、Ⅰ.とⅢ.について、主として「旧稿」以外で論及。ここで多少敷衍→別紙資料2

  松井氏への質問 組織内抵抗問題を、「旧稿」の枠内では、「諒解」概念との関連で、どう取り扱えるか。 (対シュルフター論争に関連して)「諒解とその合成語」が、「旧稿」中、家-、近隣-、氏族-、種族-、宗教-、市場ゲマインシャフト関連のテクストに(たとえば「諒解ゲマインシャフト」として)出てこないのはなぜか。

 

3.     ヴェーバー研究の現況に思う――今後の諒解形成に向けて

ヴェーバー研究の現況を (松井著と『現代思想』特集に限定せず) 広く見渡してみると、今

野元著、野口雅弘著、佐野誠著、雀部幸隆著など、政治-政治思想関係の活況が目立つ。それらを視野に収め、「今後、ヴェーバー研究をいかに進めるか」につき、(基調報告として多少一般的に) 考えてみたい。→別紙資料3

 

 

別紙資料1 基本方針(「カテゴリー論文」の基礎概念にもとづく「旧稿」全篇の体系的解釈)にかんする共通了解=連続的発展軌道の敷設                                      

 

ヴェーバー研究とくに社会学にとって『経済と社会』は基本テクストのひとつ。その不備は研究上・教育上の障碍。「学界」が「『連帯』なき『利己主義・アノミー』」状態にないとすれば、不備の是正を、「インフラ整備の優先共通課題」と認め、複数の研究者が手分けして取り組むか、さなくともモラル・サポートは寄せるであろう。ところが、ヴェーバー研究とくに社会学分野の実情は、そうした「整合型」からは程遠い。

日本国内:とくに戦後社会学には、「学学」「二流学」「訓詁学」という貶価。『経済と社会』の不備に薄々気づいても、「触らぬ神に祟りなし」「首を突っ込んだら大変」とタブー視して放置。テンブルックの否定的批判によって「二部構成」神話が崩壊し、誤編纂から解放されたテクストをどう読み、どう再構成するか、という問題が提起されても、いちはやく反応したのは経済学の水沼知一。これを受けた折原の研究には「ますますヴェーバー読者が減る」との苦情から、「些事拘泥」「聖マックス崇拝」「ヴェーバー強迫観念神経症」といった非難。「社会学史学会」の主流は、「いつまでも『ヴェーバー学』とは『もったいない』」「まあ、そういう人も、ひとりくらいいてもいいだろう」。いくつかの好意的書評。対シュルフター論争が始まると、自著の注に双説併記(レフェリーとしての判断は停止)

国際論争:欧米の学界は、受け入れ体制に乗る留学生には親切で好意的。しかし学会の事業に批判を掲げて立ち向かうと、厳しい対応。「貴説は所詮、一私人の一解釈で、編纂の基礎たりえない。編纂には、複数ありうる一々の解釈を超える、相応に客観的な規準がなければならない」「思想連関ではなく、テクスト連関が肝要」という(それ自体として抽象的・形式的には正しい)論法。それでは編纂陣はどうかというと、無解釈・無規準。便宜的・出版技術的な「等量五分巻」編纂方針を採用し、「頭のない五死屍片」に解体。

そこで折原は、「一私人のたんなる一解釈」とあしらわれる (解釈水準の) 自説提起は禁欲し、前後参照指示のネットワークや術語用例の網羅的検索といった(テクスト内の客観的指標に準拠する)「文献学的philologisch」議論に傾斜。モムゼンは、未公刊資料に依拠する「作品史的werkgeschichtlich」議論で対抗(公刊されてみると杜撰な恣意的主張)。シュルフターは、三手法併用を主張し、「体系論的systematisch」議論に力点を置いて対抗。論争中。

折原が、上記の事情で「文献学的」論証に集中すればするほど、それ自体としては無味乾燥なので、国内では不評(出版難航)。「本店-出店」意識の壁。他方、ドイツ編纂陣は、議論不足・論証不備のまま、「旧稿」該当MWGAⅠ/22の分巻刊行に踏み切り、既成事実を積み重ねる。「無責任体系」としてのドイツ学界(分巻編纂担当者や在野ヴェーバー学者の「官僚」主義が、頂点における恣意の横行を支える→「学者の(義務と)名誉」論の必要)

2007年、残るのは第三分巻『法』と第六分巻『編纂資料集』のみ。「勝負あった」かのとき、「負け」仕事を「拾って」、基本的な読解方針として採用し、そのうえで積極的批判の対象に据える松井著と雀部著が、「同門」からでなく、もっぱら学問上、思いがけず出現。

 

 

別紙資料2「諒解」概念の展開可能性                   

 

.「緩怠Bremsen」問題

「閉鎖的大工業労働者の淘汰と適応 (職業上の淘汰と運命) にかんする社会政策学会の調査のための方法序説」(1908) 、「工業労働の精神物理学に寄せて」(1908-09)、これに関連して、1908年夏、エリングハウゼンの親戚の織物工場に滞在して、予備調査 (参加観察)

調査の問題設定:「一方では、閉鎖的大工業が、その労働者の即人的特質persönliche Eigenart、職業上の運命、および職業外の『生活様式』に、いかなる影響をおよぼすか、かれらのなかにいかなる肉体的また心理的な性質を発達させるか、これらが労働者の生活営為全体にどのように現れるか、他方では、大工業が、これはこれで、その発展可能性と方向において、労働者の種族的ethnisch、社会的、文化的出自、伝統および生活条件によって生み出されている所与の性質に、どの程度拘束されているか」(MWGA,/11, 80; 鼓肇雄訳『工業労働調査論』、1975、日本労働協会、3; 鼓著『マックス・ヴェーバーと労働論題』、1971、お茶の水書房、101227)

結語:「[マックス・ヴェーバーがアルフレート・ヴェーバーとともに強調するところでは]大工業の生産組織が住民の『頭上にかぶせた』、かの独特の装置Apparatの構造は、運命としての意義を帯び、生産の『資本主義的』組織か、『社会主義的』組織か、という問題の射程をも超えている。というのも、この『装置』そのものは、当の二者択一から独立に存立するからである。じっさい、近代的な工場は、職階制amtliche Hierarchieと規律Disziplinをそなえ、労働者を機械に縛りつけ、集積によって巨大化しながら、同時に労働者を (過去の紡ぎ小部屋に比しては) 孤立させ[]、労働者がごく簡単に操作できるようになった巨大な計算装置を装備している。そういう近代的な工場は、概念上、生産が『資本主義』的に組織されているか、それとも『社会主義』的に組織されているか、とは無関係である。そうした近代的工場は、人間と人間の『生活様式Lebesnstil』に、特定の深刻な影響をおよぼすが、これは徹頭徹尾近代的工場に特有の影響である。とはいえもとより――ここにまた、かの観点の限界が認められるであろうが――、……私経済的収益性の原理にしたがう今日の『淘汰』が、なんらかの形態の共同経済的gemeinwirtschaftlichな『連帯性Solidarität』によって取って代わられるならば、この巨大な殻Gehäuseのなかに現に生きている精神Geistは、根底から変えられるであろう。それがどんな結果をもたらすか、だれも、想像することさえできない。当面の調査では、そうした展望を企てることは、問題外である。この調査ではただ、ここで研究に着手しなければならない、そうした作用をそなえた、今日あるがままの『装置』が、人類の精神的相貌を、ほとんど識別しがたいほどに変えてきたし、今後もさらに変えるであろう、ということ、この事態の確定をもってよしとしなければならない」(MWGA,/11, 148-49; 鼓訳、66-67; 鼓著、300-01)

注「労働の間に、どの程度会話することができるか、それとも (なにゆえに) できないか、どんな (職業上、その他の) 資格が、労働者仲間のサークルで重きをなすGeltung verschaffenか、その内部で倫理的価値判断がいかなる方向に傾くか、こうした問題、またこれに類した問題が、職場『共同態』Werkstatt- „Gemeinschaft“ (これは根本的にはけっして共同態„Gemeinschaft“ではない) によって、 また、労働にたいする純然たる金銭上の関係が (どの程度) 優先されるかに応じて、いかに制約されるか、という点について、研究されなければならないであろう」(MWGA,/11, 149 Anm.; 鼓訳、67-69; 鼓著、301)

. アメリカ精神史とヴェーバー

「倫理論文」で、カルヴィニズムとバプテスト系とが「禁欲的プロテスタンティズム」として一括して取り扱われるのは、教会制度と教会規律をひとまず捨象し、「個々人による禁欲的宗教性の主観的取得が、当人の生き方 [とくに私経済的営利追求] にいかに特徴的に作用したか」(Archiv 21: 71-2, RS: 161, 大塚訳: 284, 梶山訳/安藤編: 290-01) という問題設定ゆえ。教会制度と教会規律に焦点を合わせると、前者はアンシュタルト、後者はゼクテ(→「ゼクテ論文」)。さらに、宗教思想として、また、その精神史的-政治的意義について見ると、両者の類似よりも対立が重要。アメリカにおけるバプテストの創立者ロジャー・ウィリアムズ: 前者の「魔女狩り」や先住者駆逐に反対し、「信教の自由」を提唱。「……フリースラントやニュー・イングランドのような、オランダ・北ドイツやイギリスの文化圏の外縁地域」(MWGA,Ⅰ/21-1, 529, 内田芳明訳, , 508)独立宣言と信教自由法案の起草者トマス・ジェファスン:「私は、カルヴィンのように、彼の神によびかけることに与することはできません。……もし偽りの神を拝した人があったとすれば、彼こそその人です」(世界の名著、33: 303)。「……私は平和を愛します。そして、アメリカが、不正、権利の侵害を罰する方途として、戦争以外の方策を (ヨーロッパの人々に対し) 示しうるならば、アメリカは世界に対し、(アメリカの独立革命と建国とのうえに) さらにもうひとつの有益な教訓を与えることになることを私自身熱望しているのです。なんとなれば、戦争は、刑罰手段としては、受刑者たちに対するのと同じ程度に、処刑者にとってもひどい刑罰とならざるをえないからです」(: 287-88)ここには、人類文化史における新参「脱落衆国United Dropouts」の「過補償動機」も、垣間見える。

 

.「官僚の(義務と)名誉」論

⑴事実問題として、行政官僚は「上訴」を避け、むしろ上司の意向を「あうんの呼吸で」「先取り」「自主規制」。上司も「下僚」の「服従可能性の幅」を考慮し、「上訴」されかねない業務命令は事前に回避。⑵ヴェーバーは、一方では「職業としての政治」で「政治家の名誉」と「官僚の名誉」を対比し、他方では「職業としての学問」を講じながら、「学者の (義務と) 名誉」には論及せず。この欠落のヴェーバーにとっての意味 (→別紙資料3)。日本の現実における意義: 「学者の責任」が、「政治家の責任」ないし「(行政) 官僚の責任」にすり替えられ、「学者としての無責任」が「(大学政治家、大学行政官、学会政治家、出版政治家などとしての) 責任倫理」論を援用して、隠蔽-正当化される。この問題が顕在化する二三の事例。

 

. 組織の逆機能と「内部告発」

「真理を直視、伝達する責任」(「学者としての責任」の組織一般への拡張) にもとづいて、組織の腐敗 (組織目的を裏切る逆機能) と随伴被害の拡大を防止する責任。ヴェーバーは、官僚機構の制御をもっぱら外部 (の政治家による行政査察など) に求めたが、公害問題という「新しい文化問題」の点灯にともない、官僚制組織の内部からの、あるいは内外呼応する「真理への責任」と、それにともなう組織の再編という問題が浮上。翻って「官僚の権限」「学者の責任」も再解釈され、「新しい諒解」(「警鐘発信義務」「同僚批判義務」など) が形成されよう。

 

 

別紙資料3 ヴェーバー研究の現況に思う――今後の諒解形成に向けて    

 

近年の研究成果として、松井著と『現代思想』特集以外に、政治-政治思想関係の活況

[今野元『マックス・ヴェーバーとポーランド問題――ヴィルヘルム期ドイツ・ナショナリズム研究序説』(2003、東大出版会);野口雅弘『文化と闘争――マックス・ヴェーバーの文化社会学と政治理論』(2006、みすず書房);今野元『マックス・ヴェーバー――ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(2007、東大出版会);佐野誠『ヴェーバーとリベラリズム――自由の精神と国家の形』(2007、勁草書房);雀部幸隆『公共善の政治学――ウェーバー政治思想の原理論的再構成』(2007、未来社)]

厖大かつ多面的なヴェーバーの仕事につき、各分野で研究が進むのは、慶賀すべきこと。同時に、全域を見渡すことがますます困難になってきたし、今後もそうであろう、と痛感。各分野の研究者個々人が、自分にとって「関心の焦点focus of interest」をなす側面を、「これこそヴェーバーの神髄」と絶対化して排他的になることなく、むしろ自分の一面性を自覚し、自分の「関心の焦点」からは外れる「考察範囲scope」を「関心の焦点」としている、あるいは、そういう「考察範囲」では重なる、他分野の研究者に、「開かれたスタンス」を堅持し、その業績を謙虚に学び、自分の足らざるところを補っていくことが、ますます必要。そのようにして、各分野のヴェーバー研究者が、相互に、あるいは各分野から「応用研究」に乗り出した「……からの研究者との間に、ゆるやかな「連帯関係」(論争を含む「対抗的相互補完関係」) を創り出し、互いに裨益し合っていくことが、大切ではないか。

 

折原は今回、松井著との関係で、自分の一面性を自覚することができたが、同じことを、政治-政治思想関係の業績との関係について問うてみると、どうか。

「学者ヴェーバー」を「関心の焦点」とし、「政治評論家ヴェーバー」にも「考察範囲」を広げると: まず目に入るのは、双方の相互背反関係: ヴェーバーは、「神々の争い」「業績には諦念が不可避の前提」と認識していたにもかかわらず、政治への「度外れた」関与ゆえ、「学者としては無責任」の数々 (第一次世界大戦勃発にともなう『社会経済学綱要』編集と執筆の放棄。戦中・戦後の政治関与・過労ゆえの、学問的遺言なき急逝。「世界宗教の経済倫理」シリーズの中絶。教職に復帰し、学生とともに祖国の学問的・文化的再建に取り組もうとする矢先の挫折)ヤスパースの控えめな批判 (日本では不評)。「無責任」を直視し、態度決定をくだす必要。「無責任」の数々をあげつらうのではなく、「無責任」ゆえに遺された学問的課題を(「潜勢」を含めて)引き受ける「積極的批判」(「聖マックス崇拝」「学習」)

つぎには、双方の相互促進・相乗関係: 二神に仕える「緊張関係」を生きた積極的「マージナル・マン」(「西洋文化」の独自性――野口説)。それゆえの相互促進相乗関係。この関係に注目して、「学者ヴェーバー」を「関心の焦点」とながらも、「政治評論家ヴェーバー」も「考察範囲」に収め、それだけ学問像、学者ヴェーバー像そのものを彫琢していきたい。

翻って政治-政治思想関係の業績を顧みると: ①政治価値優先の前提 (学問上の「無責任」は不問)。②学問的著作と政治評論との関係をどう捉え、どう取り扱うか(さまざま)