記録と随想39――柏原兵三と同人誌『運河』(旧友の芥川賞作家・柏原兵三の没後50年記念に、富山・高志(こし)の国 文学館で開催された企画展の図録 [2022924日発行] への寄稿を、僅かに改訂して収録。202319日)

 

出会いは、1954年、東大教養学部の駒場キャンパスでした。春、文科類独語修クラス (1-A) の「新入生」有志が、同人誌『運河』を企画し、クラス担任の齋藤榮治先生(ゲーテ研究者)に顧問をお願いしたのです

このクラスは、一風変わっていました。新入生は大半、修外国語の独、仏、中国語で、3040人規模の大クラスに分けられたのですが、新入生のなかには、ごく僅かながら、独、仏語の修者もいて、別途、少人数クラスに編入されました。

そこには、いろいろな「新入生」が集いました。たとえば、 旧制の第一高等学校に入学して独語は履修したものの、肺結核などを患って休学していた「降年年長者」、 柏原のように、いったん医学を志して他大学で独語は学んだり、あるいは、駒場で学生運動に没頭していて語学の必修単位を取り損なったりした「長期留年者」、 数少ない特定の高校で、「第二外国語」として独語を履修し、英語に比して易しい受験科目に選んで、それだけ自分の関心事に没頭してこられた「鬼才・超脱者」など、すこぶる多様な「新入生」が、ひとつの「るつぼ」に混ぜ込まれたわけです。

小生は、独語修クラス (3-B) でしたが、柏原とともに『運河』結成を主導した、上記 に属する奈良正博が、高校の先輩で、かれに誘われて『運河』に加わりました。1-Aには、文学と哲学の志望者が多かったのですが、小生は社会学に関心を寄せ、その視点を生活史や社会状況に適用して小論文を書いたりしていたので、「面白そうだ、誘ってみよう」ということになったのでしょう。

『運河』創刊号は、19564月に出ました。奈良正博起草の「マニフェスト」には、こうあります。

「ぼくらは何よりも創るものでありたい。創るものだけが明日を語ることができるからだ。そしてぼくらは、ぼくらがまたそのような力であることを確信する。

ぼくらは過去の桎梏・非人間的な一切のものを拒否する。ぼくらはまさに歴史的である。ぼくらは変革と闘争の過程そのものであろうとする。ぼくらはどこまでも現代の生命である。ぼくらの逞しい前進、そこに新しい時代精神の息吹がある。

だから、ぼくらは怠惰に通じる楽しさを拒否する。ぼくらは客観的真理によりかかることなく自己の主体的責任を追求する。

ぼくらは生きることを選ぶ、生きるとは可能性を信じることである。」

なんとも、怖れを知らない若者の意思表明でした。とはいえ、同人はみな、この種の想念と高志を抱き、持てる力を尽くそうと決意していました。

『運河』同人は、第11 (1980) まで、発行のつど、あるいは正月などに、齋藤先生のお宅にうかがい、奥様のご馳走に与りながら、合評会を開くことができました。

齋藤先生は、全作品に目を通され、それぞれに周到な批評を述べてくださいましたが、わけても作家志望の同人、とくに柏原には、出来栄えを褒められた後、克服すべき難点をつぎつぎに指摘されました。「このあたりは、内容上の焦点がぼけていて、衣の厚い天ぷらのようだ」という比喩も飛び出しました。

そのうえで、「では、君たちから……」と引き渡されると、同人みな「待ってました」とばかり、前置きも抜きに、「てにをは」にいたるまで、難点を衝いたものです。ところが柏原は、泰然自若、「君たちも、なかなかいいことを言うではないか」と面白がっている風情でした。

かれはしかし、なにか自作に役立ちそうな素材に出会うと、俄然、問い返しに転じました。ある時、『長い道』の構想が熟してきた頃でもあったのでしょうか、小生がふと「疎開」体験に触れると、もう放してはくれません。帰途、西片町の柏原邸に引っ張っていかれ、互いの体験を延々と語り合う羽目になりました。夜半におよび、悦子夫人が「もう、折原さんを解放してあげなければ……」と執り成しに入ってくれて、やっと放免されました。

平明で滑らかに読める柏原作品ですが、そこには、なんと豊かな人間経験が詰め込まれていることか……素材の蒐集にかけて、かれは「貪婪」ともいえる情熱と努力を傾けて止まなかったのです。

  ちなみに、『長い道』に描き出されている、富山県入善町への「縁故疎開」は、小生の類例とは、やや異なっていました。

小生は、一県に一師範学校のある県庁所在地の付属小学校に、小三から転入して、なんと「東京っぺ」と呼ばれました。しかし、「番長」を頂点とする権力構造に、なんとか適応して、「取り巻き連中」から成る「補佐幹部」の一角にも食い込めたのです。ところが、「番長」の権力になにかで陰りが生じたとき、当の仲間たちから、このときとばかり海に連れ出され、沈められました。

ことごとく、柏原が描き出したとおりでした。

小生は、『長い道』を、「少年時代」の心情をこよなく謳い揚げた珠玉作と受け止める一方、作者柏原が、さまざまな「縁故疎開」から「集団疎開」という別の類型をへて、「引揚」という (国家権力の外に放り出された) 極限類型、翻っては、多少とも「余所者」扱いされる「転勤族の子女」など、世代体験の多様な諸相をひとつひとつ形象化して、やがては「戦後」という一時代を映し出す「大河小説」、しかも、その時代の「人間形成」を温かく見つめ、彫琢する「教養小説」に仕上げていってくれるように、期待を籠めて見守っていました。そういう方向で、類型論者(ただし、諸対象の「知るに値する」個性的特徴を、概念上、際立たせようとする、そういう「理念型」論者)の小生との対話も、なにかヒントにはなろうか……、と秘かに願ってはいたのです。

  ところで、柏原作品の形成には、熟成を待って彫琢する「ゆったりした時間」が必要だったにちがいありません。しかし、かれが「芥川賞」という登竜門をくぐり抜けると、出版社の執筆依頼が殺到し、かれはそれに応えて、矢継ぎ早に新作を発表し、「もうあと一息」と無理を重ねざるをえなかったのでしょう。

8歳の突然の訃報に、小生は声もありませんでした。それこそ、こんどはこちらから、西片町の柏原邸に乗り込んでも、無理を止めなければならないところでした。しかし小生、いつも自分を「運河の弟」と感じていて、各号への寄稿に最善を尽くすこと以外には、考えがおよばなかったのです。

やがて、多くの同人も鬼籍に入り、柏原が書くはずだった『運河』群像の一端を、ここに小生が記したことを、柏原よ、先立った同志よ、どうか赦したまえ。

2022815日  折原 浩