書評――石岡繁雄・相田武男著『氷壁・ナイロンザイル事件の真実』を読む

 

 厳寒の北アルプス・穂高岳で遭難があいつぎ、いずれも命綱が切れ、ひとりの若者は墜落して絶望、とラジオ報道で知ったのは、今から約五十年前、大学一年生のころだったと思う。その後、この事件を題材とする井上靖の小説『氷壁』が、朝日新聞に連載され、「山のロマン」として評判になった。筆者も、とびとびには読んだ記憶がある。作家はたしか、「ナイロンザイルに欠陥があって切れた」と、はっきりとは語らなかった。しかし、読者はおおかた、「これほど大々的に取り上げられるのだから、すでに原因は明らかにされ、決着がついているのだろう」くらいに受け止め、山好きの人以外、事件そのものにはあまり関心を向けず、そのうちに忘れてしまったのではないかと思う。筆者も、そのひとりだった。

 ところが今回、思いがけず石岡繁雄・相田武男著『石岡繁雄が語る氷壁・ナイロンザイル事件の真実』20071月、株式会社あるむ刊)を読み、真相究明の経緯と、石岡氏をはじめとする関係者の闘いを知った。この本は、(三重県鈴鹿市にある登山クラブ)「岩稜会」の会長で、後に豊田と鈴鹿の両高専で応用物理を教えた石岡氏が、実弟の遭難死以来、事件にかかわり、真相究明と再発防止に立ちはだかる壁と闘った経緯を、途中から取材に当たった元朝日新聞記者の相田武男氏に語り、相田氏と(石岡氏の豊田高専時代の教え子で、名古屋市内で編集印刷業を営む)川角信夫氏とが、関連資料を織り込んで編集、出版したものである。四六判全460頁、巻末に年表が付されている。本体頒価、2300円。

 石岡氏は、本書刊行の半年前、20068月の半ば、八十八歳で逝去された。「はじめに――若い人に伝えたいナイロンザイル事件」 の結びにはこうある。「私たちが体験したことと同じような事件は、今日もなお同じような形で起きています。そういうことが起こるたびに、私は、二十一世紀を担う若い人たちに、ナイロンザイル事件の解決がなぜこんなに長引いたのか、企業や学問、科学技術にたずさわる人たちが社会的な責任というものをどう考えて行動したのか、また事件の渦中で示された人間の真実といったことを、理解してもらいたいと思ってきました。本書では、複雑な展開をしたナイロンザイル事件を、できるだけ理解してもらいやすいように語ります。……肩書や役職などは、当時のものをそのまま使わせてもらいました」(ⅴ)。つまり本書は、石岡氏が、生涯にわたる闘いを総括し、あとに残るわたしたち、とくに将来を担う若い人たちに、広く伝えようとした遺書なのである。

 

 19551の事件直後、石岡氏は、前穂高の岩角で切れたザイルの一方を握っていて切断面を持ち帰った岩稜会員の証言を偽りないと見て、つぎのような仮説を立てた。すなわち、ザイルメーカーの東京製綱が「麻ザイルよりも強く、一トンの重さにも耐える」と保証し、諸外国でも使われているナイロンザイルではあるが、「鋭いエッジの岩角には意外に弱いのではないか」と。そして、この仮説を、自宅付近の松の木、自宅庭先にしつらえた木製架台、名古屋工業大学および名古屋大学工学部の土木研究室でおこなった実験によって検証し、1月の末には、「(登山用として売られ、穂高の登山隊も使った)直径8ミリのナイロンザイルは、90度の岩角を支点に、60キロの重量がかかり、約50センチ落下すると切断する。命綱に使うと、自然の岩角でも切れるから危険」76-77頁)との結論をえた。この実験結果が、追検証に付され、承認されて、安全対策に活かされていれば、その後、同じ原因による犠牲者を出さなくてすみ、実弟の死も、本人や仲間の「ザイル取り扱いミス」による「自己責任」ではなく、当時には予測できなかった原因による初の犠牲として、その後の安全に活かされ、弟の霊も浮かばれよう。石岡氏は、そう考えたろうし、およそまともにものを考える人間であれば、そう考えて当然と思われる。

 ところが、名古屋大学などにおける実験の数日後、29日に開かれた日本山岳会関西支部主催の事故検討会に、石岡氏が実験結果とデータを報告すると、座長をつとめていた日本山岳会関西支部長の大阪大学教授篠田軍治氏が引き取って、「死因を明らかにし、今後の登山者の安全を守るため、事故原因の究明を急がなければならない。自分がその任に当たる」と申し出た。出席した新聞記者のなかには、「肉親がやった実験の結果は、はたして公正だろうか」と、疑念を表明する人もいた。

 さて、この篠田発言は、抽象的には正論である。また、記者の疑念も、みずからデータと結論をつき合わせて検証するいとまがなければ、それ自体としては「一般経験則」に即した、無理からぬ疑惑ともいえよう。そこで、篠田氏が、公平な第三者として、みずから研究に当たり、納得のいく結論をえようと、仲裁役を買って出た、とも解釈できる。本人も、このときには、半ばそのつもりでいたのかもしれない。

 しかしまもなく、420日ごろ、東京製綱から三重県山岳連盟に、愛知県蒲郡市にある同社の工場で、連休初日の429日、篠田氏指導のもとに公開実験をおこなうから、立ち会ってほしい、との招請状が届いた。ところが、石岡氏は、岩稜会の会長として、連休中に実弟の遺体捜索に出向く予定を、すでに1月の遭難現場撤収時に決めていた。そこで、当日の実験立会いは岩稜会の副会長と三重県山岳連盟の理事に託すこととし、事前に篠田氏を、副会長とともに阪大の研究室に訪ねた。このとき篠田氏は、石岡氏らにこう語ったという。「東京製綱は、事件によるイメージダウンで他の商品の売り上げも減り、かえって被害者を恨んでいる。筋違いだが、気の毒には思う。しかしそれよりも、ザイル事故は登山界にとってきわめて重大なので、原因究明を急がなければならない。ただしそれは、科学者というよりも一アルピニストとしての課題で、公費を使って研究するわけにはいかない。たまたま東京製綱から研究依頼があったので、その資金を使って実験をおこなうことにした。遺族とメーカー、双方の見解が対立しているときに、一方の援助で研究するのは不本意だが、そのために結論を誤るようなことは絶対にない。結論は、公開実験後、5月中旬には出せるから、それまで待ってほしい」(79-80) と。これを聞き、石岡氏はホッとして、実家の父親に朗報として伝え、安心して捜索登山に出発したという。

 ところで、この事件が起きたのは、196869年全国学園闘争以前のことであった。水俣病などの公害問題にかかわる大学教授の姿勢がつぎつぎに明るみに出て (たとえば「昭和電工の工場廃水が流れ込む阿賀野川流域に発生した『第二水俣病』の原因物質は、新潟地震のさいに信濃川河口の倉庫から流れ出た農薬だ」と説く学者が現れたりして)学者・研究者・専門職のモラルと社会的責任が広く問われるようになったのは、それ以降である。とすればこのとき、もともと人を疑うことを知らない山男の石岡氏が、大阪大学の教授、それも日本山岳会の関西支部長をつとめ、登山の安全のために科学的原因究明の必要を力説する篠田氏を信頼したのは、無理からぬことだったといえよう。

 しかし、事件は、思いがけない方向に発展する。なお雪深い穂高で、捜索の手を休め、「蒲郡実験」の報告を受けたときのことを、石岡氏は後に、こう語っている。

「……私はテントの前で、到着した〔副会長の〕伊藤さんが黙って震える手で差し出してくれた新聞を受け取りました。51日付けの中部日本新聞でした。広げた途端、私は、『エーッ』と、思わず大声を出しましたよ。周りの雪の風景が、目の前で、どういうことなのか、みるみる紫色に染まっていったんですよ。それぐらいショックだったんです。あの時の紫色は、いまでもはっきり目の奥に残っていますね。

『初のナイロンザイル衝撃試験、強度は麻の数倍』と、大きな見出しの活字にがく然としました。つまり、公開実験で、ザイルが切れなかった、というんです。

私は、伊藤さんから新聞を見せられた一瞬後に、『この実験はインチキだ! 手品だ!』と叫んでいました。『これは、実験用の岩角が、丸くしてあるにきまっとる!』と、断言しました。怒りで、体が震えた、なんていうもんじゃなかったですね。『なんだ、これは!』と、実験を指導した篠田氏、それに、私に『公開実験には出ない方がいいでしょう』と、電話で言ってきた〔登山家で知人の登山用品販売店主〕熊沢氏に迫りたいほどでした。

それは、何回も岩角や鋼鉄の角で、エッジの実験を繰り返しやって、エッジの角にごくわずかの幅の面取りをすれば、ナイロンザイルはとたんに強くなって、切れなくなることを私は知っていたからです。つまり、面取りをすると、岩角や鋼鉄の90度の角が実際には丸くなってしまって、90度ではない、丸みを帯びた状態になるんですね。

しかし、これは、実際に実験をした者じゃないと、わからないことです。見た目には分からない程度の丸みをつけてナイロンザイルを岩角で急激に強くすることなんて、実験をした当人と実験の身近にいて手伝ったりした人以外、なかなか理解できないことです。また、少し離れていたら、1ミリぐらいの面取りが肉眼で見えるなんてことはありえないでしょう? 気づかないですよ。……ヤグラの高さが10メートルあったそうですが、それだけの高さがあれば、下から見上げている人からはエッジのアール〔面取り〕なんて見えるわけがありません」(87-91)

 連休中、遺体は発見されなかった。石岡氏は、疲労困憊し、事件の前途への暗い予感におののきながら、「五郎〔実弟の名〕よ、早く姿を見せてくれ」〔そうすれば、堅く体に巻かれているであろうザイルの片方の切断面と、仲間が持ち帰った他方とを照合して、ザイルの切断とその実相を証明できよう〕と念じて、山を下りた。マスコミは一斉に、蒲郡実験の結果を報じた。これを受けて、早稲田大学の山岳部監督が、『化学』誌上で、「露営中、寒気払いに足踏みし、鉄のカンジキでザイルを傷つけたのではないか」と推測し、「第三者が見ていないところで、自分たちの初歩的なミスをナイロンザイルのせいにしようとする気持ちも、分からぬではないが」と書き添えた。『山と渓谷』七月号では、熊沢氏が、「東京製綱の科学的テスト」に触れ、「事故原因は、誤用によるザイル切断か、指導者はザイルを知らなさすぎたのではないか」と述べた。石岡氏ら岩稜会は「失敗を直視できず、責任をザイルに転嫁する卑怯者」という烙印を押されたのである。世論のこうした動向に、石岡氏の実父さえ、「世間を騒がせて申しわけない」と、氏に勘当を言い渡したという〔こういう律義で一徹な性格は、じつは石岡氏にも裏返された形で受け継がれているように見える。後に石岡氏が鴨居にザイルをかけて実験して見せたところ、「切れるんだな」といって、勘当も自然消滅したそうである〕。他方、東京製綱は、728日、約50人の学者を集め、「ナイロンザイルは切れない」と見せて、追い討ちをかけた。はたせるかな、これを機に、多くの山岳関係者や学者が、篠田氏のデータをもとに、「ナイロンザイルは切れない」と論評し始めた。

 これについて、石岡氏はいう。「このような論議や記述は、篠田氏のマジックを見破った私たちにとっては、どんなに立派に書けていても、いわば砂上の楼閣です。ところが、日本山岳会関西支部長、国立大学の教授という『権威』が、故意であろうとたまたまであろうと、まさか間違ったことはしないだろう、といった意識が、世間にはあるんでしょうね。とにかく、私たち岩稜会に反ばくする意見、見解は、その拠って立つデータの客観性を意識しているのか、いないのかは別として、まさにクロをシロと言いくるめる類のものでした。ここで明らかになったのは、権威やメーカーの与えるデータをただありがたく貰い受けるだけという学者や学識経験者の多さとその態度です。権威のデータに対立する実験をし、偏らないデータを持ち、それを明らかにしている立場にあるものに目も向けず、耳も貸さないという姿勢には、ただただあきれ、失望しましたね。また、その種の論評や記述に対して、私たちがデータを示して反論しても、反応してもらえなかったですね。いわば、てんから無視、という状況でした」(96-97、強調-折原)

 こうして石岡氏は、東京製綱のような企業の(製品ユーザーの安全を無視する)無倫理の営利至上主義、その走狗となって人を欺く実験を主導した篠田軍治氏の「御用学者」性、他方、権威になびき、いかに対話や論争を呼びかけても、黙殺するか、無関心を装うか、議論を回避して保身に走る、多くの学者や評論家の事なかれ主義、といった「無責任体系」の露頭に、はからずも激突し、この壁に素手で立ち向かう険しい道に、踏み出さざるをえなかったのである。その後の粘り強い闘いの経緯については、ぜひ、本書の詳細な記述を参照していただきたい。

 しかし、ここでも概略だけは摘記すると、石岡氏、岩稜会側は、篠田氏を名誉毀損の廉で告訴し、これが理不尽にも不起訴になって葬られると、次々に公開質問状を発し、(「蒲郡実験」に依拠してナイロンザイルの安全性を謳う)日本山岳会編『山日記』の記事に、訂正を申し入れていった。いずれのばあいにも、実験で確証された事実にもとづく周到な論証を添えて、である。その後、紆余曲折を経て、石岡氏ら三重県山岳連盟は、相田氏の助言を入れ、岩角に面取りをつけない、ザイルが当然切れる対抗実験を、自分たちの側から公開する。

 やがて、石岡氏ら岩稜会による闘いの甲斐あって、1972年からの「消費生活用製品安全法」制定にともない、1975年には世界初の登山用ロープの安全基準がつくられた。このとき、石岡氏は、実母とともに、実弟が荼毘に付された地を訪れ、「お前の死をこれからもけっして無駄にしない」と誓う。と同時に、鈴鹿高専の実験設備に、世界中の登山用ザイルを取り寄せ、実験を重ねた末に成立した安全基準について、これでやっと「日本は世界の登山界に誇れる国」、「科学技術、科学に伴うモラルも見なおされる国」(210) になれる、と語っている。氏は、1983年、定年の一年前に、鈴鹿高専を退職し、自宅敷地内に「高所安全研究所」を建て、高所作業用緩衝装置、脱出装置、福祉用介助器具などの開発、改良に携わった。つまり、安全を損ない、脅かす、似非科学への否定的批判から、科学にもとづく安全装置、安全器具の案出、試作へと、闘いを否定面から積極面へと連続的に展開していったのである。

 その石岡氏が、闘いの生涯から紡ぎ出した言葉を、ここにふたつ引用したい。

「私は、……多くの人たちからの励ましや助力、協力で、権威や企業に対して、安易な妥協や屈辱的に膝を屈することなく、ナイロンザイル事件の解決まで、長いたたかいを続けられました。言葉では尽くせないことで、感謝の気持ちでいっぱいです。これまで、私の人生で知りえた大きなことは、人間の弱さというものでした。どうしても、私たちは生きるために、誰にもあることですが、たとえば、分かれ道に立った時、険しい道と楽に進めそうな道があれば、楽に行けそうな道に足が向くのは当然です。しかし、目標が定まっていて、この目標が社会の広い視点で観察した時、目標として選択することが正しいものであり、険しいコースをたどらなければ目標に到達したことにならないという時、その道筋が険しいものであっても知恵をしぼり、工夫をこらして、越えて行かなくてはならないわけです」(241-42)。

「私は、これまでの人生から、社会が気づかないままでいたり、あるいは自分たちの利益を確保するために気づかないふりをしたり、面倒なことを避けてしまうことがあるように感じています。そのために、世の中には、ナイロンザイル事件と同じような問題が社会的に大きな声にならないまま、ごく限られた関係者以外に知られないまま、いわば、秘密状態で存在していて、当事者が、本来負うべきでない理不尽な重荷を背負わされて日々歩まされているのではないか、と思えてならないですね。最近の新聞やテレビのニュース、出来事を見るたびに、ナイロンザイル問題で無念の思いをし続けた私たちと同じ状況に置かれている人たちが、ニュースの陰にいるのではないかという思いがぬぐえないのです。このことは、マスコミに従事する人たちにはぜひ理解してもらいたい、と思っています。これは、私の体験から声を大にして訴えたいことです」(244)。

 この訴えを受け止め、共著者の相田氏が、巻末の「私にとってのナイロンザイル事件」にこう書いている。「新聞社、放送局に身を置く記者は、次々に起こる事件、ニュースの後追いで毎日を過ごさざるを得ないのが実情だ。いわば、毎日の『流れ』に身を置けば、仕事をした形にはなる。しかし、『流れ』に乗らない記者は、協調性がない、勝手なヤツ、という評価が生まれる。私自身の経験を語れば、『君、ナイロンザイル事件は、石岡さんがやっているだけなんだよ。ナイロンザイルが弱いなんてことは、みんな知っているんだ』と、昭和47年秋に、名古屋社会部の日本山岳会員を自称するデスクに言われた。大学時代、山岳部員だったという先輩記者もそのデスクに同調して同じようなことを言った。何回か石岡さんにまつわるナイロンザイルの記事を書き、出稿した私は彼らにとって、問題のある若造だったに違いない。日本山岳会の『山日記』の21年目のお詫びの原稿を出稿した時、デスクの発した一言は『またか!いいかげんにしろよ、何回ナイロンザイルのことを書けば気が済むんだ、お前!』だった。……消費生活用製品安全法が制定され、登山用ロープが同法の対象となったことが伝えられたころ、突然、先輩記者が私のところに、『石岡さんのことをデスクから書くように言われたんで、ちょっと話を聞かせてくれよ』と、言ってきた。私はナイロンザイル問題を取材する記者が一人でも多くなればいいことだ、と考えていたから彼の要望に応じた。彼は、私が話したことを石岡さんに確認して記事を書いたかどうか知らないが、数日後、彼の署名記事が紙面に載った。しかし、彼が石岡さんに関する記事を書いたのは、デスクから指示されて出稿したその記事一本だけで終わった。彼の記者生活は定年まで、いわゆる陽の当たる場所であった。

〔三菱自動車ブレーキ欠陥事故、ガス湯沸かし器不完全燃焼事故などに露呈したとおり〕企業がユーザーのクレーム、指摘をまじめに受け止め、早期に欠陥を率直に認めて改善策をとっていたら、人命にかかわる不幸な事故がなかったことは、誰が考えても明白だ。ナイロンザイル切断から50年。いまだに、『クロをシロ』と装ったり、主張したりして社会を欺く、モラルに反した企業がまかり通る日本の社会があるのだ。さらに金を得るために、法が規制しないところを捜したり、くぐり抜けたりすることを現代の先端を走るビジネスと心得るような風潮、それを先端企業ともてはやすような社会になっている現在だから、石岡さんたち岩稜会が、ザイルメーカーや日本山岳会に対して言うべきことを言い続けることが、いかに大変なことであったか理解できるし、石岡さんや石原さん〔遭難事件のさい、ナイロンザイルの片方を握っていた岩稜会員〕たちの行動に心を打たれるのだ。一方で、私たちが周囲に起きていることに対して、無関心を装ったり、発言を控えることによって、『石岡さん』や『石原さん』『岩稜会』の苦闘を将来もつくり出してしまうことになるのだ。その結果は、いつか私たちの生活にも影響を及ぼす可能性がある、ということだ」(44144)。

 

  さて、それでは、わたしたち読者は、石岡氏、相田氏の訴えに、どう答えていけばよいのであろうか。

  筆者自身は、石岡氏ほど、簡明で首尾一貫した闘いを、粘り強く闘い抜いてきた者ではない。とはいえ、大学教授という「権威」の実態、多くの学者・研究者の「権威」への弱腰、および、それと裏腹の関係にある社会的責任感の欠落にたいして、大学の内部で細々とは闘ってきた。また、企業による事故隠蔽、おおかたのマスコミ記者や評論家による「その日暮らしの『後追い取材』や『言いたい放題』」など、専門職のモラルと社会的責任にかかわる事件について、それぞれの組織の外部から、つとめて「もの申し」てはきた。そのようなひとりとして、石岡氏による――当然の悲憤慷慨を避け、どちらかといえば控えめな――実態の暴露と報告に、「こういうことは、確かにある」とひとつひとつうなずき、その訴えに心から共鳴して、本書を読んだ。筆者も、若い人たちが、本書を読んで、人生の岐路にさしかかったときの参考とし、支えにもしてほしい、と切望する。そのうえで、一社会学者としての老婆心から、つぎのことも、申し添えたい。

  本書を、感動をもって通読した後、やや距離をとって、「では、この日本社会のなかで、石岡氏らはなぜ、上述のような険しい道を選び、闘いを担いきれたのか」と反問してみると、おおよそつぎのように答えられよう。

まず、一口に「社会」といっても、じつに多種多様な人々によって構成されている。そのなかの「学者」、「ジャーナリスト」も、これまた千差万別である。一方に石岡氏や相田氏のように、社会的責任を自覚して闘う人もいれば、他方には篠田氏、あるいは、(相田氏の記事に「デスク」「先輩」として登場する)「現象処理に明け暮れる記者」もいる。「日本社会」の「学者」および「ジャーナリスト」は、社会的責任という観点から見て、石岡氏と篠田氏、相田氏と「デスク」にそれぞれ代表される、ふたつの対極(「理念型」)の間に、スペクトル状に分布しているといえよう。

筆者としては、事態をそのように、いったんは相対化して見たほうがよいと思う。そうしないで、性急に「シロとクロ」「善玉と悪玉」とに決め分け、石岡氏らの闘いへの感激のあまり、「他の学者はひとしなみに篠田氏のような卑劣漢ばかりか」と悲憤慷慨して止まないとすれば(否定的にせよ肯定的にせよ、「学者」という範疇を抽象的に一括してしか捉えられないとすれば)、そういう共鳴は意外に脆く、やがて跡形もなく消え失せて、自分のじっさいの生き方はいつしか篠田氏型に近づく、あるいは「現象後追い型」に近づく、ということもありえないことではない。196869年全国学園闘争に決起した学生のうち、あるタイプの帰趨が、この陥穽を鮮やかに露呈している。

 むしろ、「別様にも生きえた石岡氏が、なぜ――どういう状況で、いかなる契機の出会いないし連鎖から――、現に語られたような、独自の闘いに踏み出し、かつその闘いを担いきれたのか」というふうに、問題を立て直してみよう。すると、石岡氏のばあい、①(おそらくは父親ゆずりの)律義で一徹な性格と、②科学者・物理学者としての真理尊重と自信・実力に加えて、③登山家としての自信と誇りが、とくに当初は大きくものをいったように思われる。御在所岳の岩場で訓練を積み、前穂高東壁、北尾根などの冬期初登攀を企てるまでのヴェテランたちが、仲間のひとり(石岡氏にとっては手塩にかけた実弟)を遭難によって失ったうえ、その原因を「初歩的なミス」に帰せられ、しかも「責任を回避してナイロンザイルのせいにする卑怯者」呼ばわりされ(石岡氏は、実父にさえ勘当扱いされ)る窮地にまで、追い込まれたのである。人間、ここまで追い詰められ、誇りを踏みにじられれば、腹を決めて闘う以外にない――真実にもとづいて雪辱を期するほかはない――とも思われよう。「権威と結託した企業優先の基本姿勢、庶民の人権無視の社会の趨勢では勝ち目はない」としても、「何もしないでそのままでいるということは、人間としてどう考えてもできることではない」(136)、たとえ敗れても、闘うほかはない、というわけである。もとよりそういう決断は、側から見るほど、単純明快ではなかろう。石岡氏はここで、実弟の遭難死という運命的な状況で、これら諸契機の連鎖により、いわば実存的に「難船者として生きる」ことを余儀なくされた。石岡氏の語りが真実として人の心を打つのは、それが、(語り手自身にとってじつはどうでもよい)「権威の受け売り」や「世間に通用する決まり文句の反復」ではなく、そのつど実存としての命運が賭けられた「難船者の思想」だからである。

 他面、石岡氏の責任意識のおよぶ範囲は、実存として避けられない「狭さ」に制約されて、当初は「登山家の安全」にかぎられていたように思われる。それが後に、おそらくは相田氏の助言を受け入れ、(レーンジャーや高層ビルの窓ガラス清掃者など)高所作業者一般の安全へと拡大-普遍化されたのであろう。しかし、そうなっても、当初からの実存的核心は揺るがないから、問題意識が抽象化され、希薄化されることはない。むしろ、全世界のザイルを取り寄せて、安全性をテストし、「世界に誇れる安全基準」を制定する。そこに、石岡氏の具体的で実のある愛国心も発露している。

 

 さて、難船者の思想は真実であるが、だからといって、みずから難船者になろうとしたり、人を無理やり難船者にしたり、というわけにはいかない。しかし、人間誰しも、いつ、どういうことで、難船者の状況に追い込まれないともかぎらない。あるいは、じつは難船者の状況にあることに、ある日突然、気がつくこともあろう。自分は難船者でないと自認している人も、そのときにそなえて、難船者の苦難を知っておくことは賢明であろうし、現在も、どういう位置で、どう難船者にかかわるか、想像力をはたらかせることは、その人の人生を豊かにするにちがいない。そうした視点から、本書を読み返すと、石岡氏と篠田氏とを双極とするスペクトル上に、さまざまな人間模様が描き出されていて、改めて興味をそそられる。

まず、石岡氏寄りの近くに、(蒲郡実験を学者に追認させるための)728日の実験を見学した名古屋工業大学の一教授が登場する。石岡氏が自分の実験データを持参して説明したところ、さまざまな資料を点検したあと、「恐ろしいことがあるものですねぇ。注意しなくては」(94)と嘆いたという。この教授は、蒲郡実験の虚偽を見抜き、騙されたと察知しはしたが、他人事のように「嘆く」だけで、関与は避けたのであろう。つまり、科学者としては共通の見解に到達しながら、石岡氏のようには、虚偽を告発する実存的動機がなく、「義を見てせざるは勇なきなり」の義侠心も持ち合わせていなかったのであろう。

思うに、日本人学者の過半は、この範疇に属している。石岡氏ら当事者には、「生ぬるい」「煮えきらない」と感得されたにちがいないが、氏らは、そうした対応を糾弾はせず、荷担を求めて深追いもせず、いわば「潜在的支持者」のままでいてもらっている。この関係は微妙で、かれがいつ支持を顕在化させるか、分からないし、つぎの機会ないし別の状況では、かれが難船者となって、石岡氏と同じような闘いに立ち上がるかもしれない。

 

 それにひきかえ、篠田氏寄りで公然と篠田支持を表明した「関西の著名大学の教授U氏」のスタンスは、注目に値する。かれは、電気の専門家として、当局からある火災事件の鑑定を依頼され、原因は銅を鉄で代替したための過熱で、火災の責任はまぎれもなくメーカー側にあると判定し、明言しながら、こういう。「それをそのまま発表しますと、メーカーの信用が落ち、メーカーは非常に大きな損失をこうむることになるわけですが、そのメーカーは大メーカーですからこれは社会にとっても大きな損失ということになります。ところが『別に電気器具は悪くなかった』といえば、それは家人の失火となってその人には気の毒ですが、その人一人だけの被害ですみます。国家的にみてどちらをとるべきかといえばもちろんメーカーを助けるべきです。私は、このように社会全体から判断して、電気器具に異常はなかったと発表しました。私のとった方法は現在でも正しいと思っています。篠田教授のご行為はこれとよく似たケースで篠田教授がそうなされたのは正しいことだと思います」(176)と。石岡氏(ないし相田氏)は、これには驚いて、「製造物責任という考え方が普及していない50年前の話だが、学者の中にもこういう人物はいるということだ。耳を疑うような話である」(177)と、簡単なコメントに止めている。

 しかし、一社会学者としては、どうもそれだけでは済まされないように思う。というのは、こうである。篠田氏といえども、自分の行為を直視し、それをそのまま正当化することはできない。後になると、「あの公開実験は、グライダーなどの曳航用ロープ、船舶の引き綱の実験だった」(166)と、虚言を重ねながら正当化している。ところが、U氏は、篠田氏に代わって、篠田氏の行為を正当化するイデオロギーを、公然と表明しているのだ。それは、被害者個人の人権も、ことの真偽もなんのその、個人よりもメーカー、それも大メーカーと、「大きなもの」「強いもの」の利益を擁護し、究極の基準を「国家」におき、自分の(科学でなく)「権威」を「お上のために役立て」ようとし、それを「正しい」と信ずる「全体主義」「国家主義」(歴史的には「天皇制ファシズム」)のイデオロギーである。それが、戦後にも再編成されながら、頑強に生き延びていて、思いがけず正直に吐露された、というところではないか。

なるほど、石岡氏らの闘いも含む、広義の反公害運動の進展にともない、「製造物責任という考え方は普及」して、欠陥商品のメーカーと御用学者も、こういうイデオロギーを公然と振りかざして責任を隠蔽しようとは、しなくなったし、しようとしてもできないであろう。それは確かに、公害の被害者をはじめとする粘り強い闘いの成果である。とはいえ、だからといって、たまたまU氏の口からは漏れた「全体主義」「国家主義」のイデオロギーそのものが、すでに死に絶えた、とまではいえまい。それは、U氏のように正直には言表されず、公然とは主張されないとしても、それだけ屈折して「ポピュリズム(大衆迎合の人気取り)」と癒着し、大衆感情に浸透してきているのではないか。それは、別の領域では、たとえば歴史科学上の真理の直視を避け、「愛国心」を強要するような運動の形をとって、かえって強められ、公然と姿を現してもいる。

人文・社会科学の領域にも、ちょうど篠田氏に対応するような人物はいる。分野は違ってものの役にも立たないから、企業の走狗にはならないとしても、鳴り物入りの似非科学で読者と世人の耳目を聳動し、論壇の「寵児」にのし上がろうとする人である。それを、ちょうどU氏に見合う学識経験者や評論家が、待ってましたとばかり、寄ってたかって面白がり、科学的検証ぬきに持ち上げて、イデオロギー的に利用しようとする。それにたいして、おおかたの研究者は、「観客」として「高みの見物」を決め込み、あるいは無関心を装い、知らないふりをしている。この(三種三様の無責任)構造が、放っておかれるうちに増殖するとなると、とても怖い。自然科学・科学技術畑における石岡氏らの闘いを含む反公害運動と、人文・社会科学の領域における「全体主義」「国家主義」イデオロギーにたいする思想闘争とが、人権と科学の尊重という結節点を媒介に、連携して進められる必要があるのではないか。

 

 そのほか、いまひとつ、原糸メーカー東洋レーヨンの社員が、篠田氏の予備実験を手伝い、面取りをつけないのでナイロンザイルが切れたデータ(篠田氏が蒲郡公開実験まえに、岩角では切れると知っていた証拠)をもっていて、蒲郡実験から帰る車中、三重県山岳連盟の理事に見せてくれた、という話も、興味をそそられる。その話を理事から聞いた石岡氏は、「思わず彼の手を握って感謝し、……神仏はわれわれを見捨てていなかった、と心の中で手を合わせ」(110)たという。また、「この世の中には公平さを装って見学者の目を偽る公開実験をする人たちがいる半面、やはり良心を持つ人がいるんだ、ということを身にしみて感じました」(117)とも語っている。石岡氏のように、やむなく『別れ道』に立たされ、『険しいコース』を選択して公然と闘いきった人は、もちろん立派であるけれども、この東洋レーヨン社員のように、不正に目をつぶらず、できる範囲で真実に荷担する人が、突出した闘いの蔭には必ずいて、闘いを支えているのではあるまいか。

 

 そういうわけで、本書は、自然科学や技術をめぐる人間と社会のありようについて考える手がかりを、ふんだんに含んでいる。そのようなものとして、自然科学者や技術者を志す人々はもとより、人文・社会科学を志す人々にも、ぜひ読んでいただきたいと思う。

 

 筆者は、1996年から2002年にかけて名古屋に住み、後半三年間在籍した椙山女学園大学人間関係学部で、戸谷修教授の知遇を得、教授の紹介で「株式会社あるむ」の川角信夫氏を知り、『ワーキング・ぺーパー』の作成を依頼していた。川角氏は、編集印刷業を営むかたわら、ジョルジュ・デュメジルの比較神話学『ローマの誕生』を訳出され、丸山静・前田耕作編『デュメジル・コレクション3』として、ちくま学芸文庫から出版しておられる。氏は、石岡繁雄氏の豊田高専時代の教え子だったそうで、師の生涯の闘いを一書にまとめて出版しようと心血を注がれたのであろう。その労作を、このたびも戸谷教授の紹介で、筆者にも送ってくださった。一読して深い感銘を受け、没頭し、進んでこの一文を草した次第である。下記に、川角氏の連絡先を記しておく。

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株式会社あるむ

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