1960年代の問題状況―舩橋晴俊君の思想形成に寄せて2015712「舩橋晴俊先生を偲ぶ会」会場・法政大学1958年館835番教室で配布、714わずかに改訂) 

 

はじめに

舩橋君の仕事内容と、最前線の課題については、講演とパネラー発言に尽くされている。私は、1967学生の舩橋君と出会って以来、かれの活躍を見守ってきたひとりとして、多少、舩橋君の「原点とその歴史的背景に遡ってみたい。『経歴』「●模索の10年」欄に「1967.4. 入学、… 折原ゼミ、…大学闘争」とある。理科生が文科系のゼミにも参加するのは、当時としても異例。直後の196869年東大闘争では、追及者対被追及者緊張関係。これを軸に相互交流を持続。舩橋君の思想-学問形成(反大学-反公害-反原発、社会運動と学問との相互媒介)に編入された(と思われる)思想の諸要素を、以下のとおり、1960年安保闘争以降、60年代の主要な闘争に遡って取り出してみたい。2015「安保法制国会」に予想される諸問題への対応を考えるためにも、1960年「安保国会」の展開を顧みる必要があるのではないか。

 

1. 1960年安保闘争私は「民学研」事務局を手伝いながら、「社会変革と学問」を今後どう関連づけていくか、運動仲間の院生と議論。一般的結論として――

 社会変革政治-社会運動を、非日常の街頭闘争から、闘争者個々人の日常現場に還流させ、現場の民主化 (当事者としての議論と、それにもとづく合意と自発的結社の形成) を進め、そこから絶えず再出発することが肝要。

 学問:「政治の季節」に昂揚した社会運動のなかで、旧来の「殻」を割って出ようとする「生」と「情念」を、渦中で確認し、「理念」に結晶させ、つぎの「学問の季節」に送り込み、再度の昂揚にそなえるのが、学問の責務(「はれ」と「け」の悪循環を断って、「生」と「形式」の螺旋状・弁証法的発展を創出する使命)

 その後の経過: 1960年「安保国会」、岸退陣のあとに登場した池田内閣が、「所得倍増」を掲げると同時に、「大学管理法」制定に乗り出す (アメとムチ)。これに、池田と親しい学界長老 (中山伊知郎・東畑精一・有沢広巳が、「そういうやり方では『一般教員』の反撥を招いて逆効果になる。大学が『自主的』に対処するように仕向けるから、まかせてほしい」(趣旨)と「とりなし」に入り、政府は「法制化」手控える。大学教員は大方、「闘争勝利」と総括して安堵。背後では「国大協・自主規制路線」発進。その発動として196768年東大(文・医)学生処分。これを争点に196869東大闘争。

 意義このように、1960年代は、ベトナム戦争の激化と並行する戦後の激動期。現在の「安保法制国会」後、安倍退陣-X登場、大学-学界とジャーナリズムへの締めつけも想定可能。これにどう対処するか、を考えると、60年代の問題状況とくに「大学闘争」の思想的総括 (到達点と問題点の確認) が急務。当事者が語って、後続世代に思考素材を提供し、選択幅を広げることへの責任

 

2. 196263年大管法闘争。「60年安保闘争」ほどの規模ではないが、大学関係者には、当事者として対応し、大学の日常現場問題として捉え返す課題をつきつけた点で、独自の意義 (下記①~⑦)。私も、院生仲間とともに法案関連の年表資料を作成すると同時に、学内諸部局・諸階層の対応を見渡して情勢分析。すると、

①「大学の講座とは、家族のようなもので、家風に合わない余所者が外部から無理やり押し込まれたのでは、やっていけない」(趣旨) との東大法学部長発言(これでは、「対外排斥と対内緊密の同時性」法則がはたらき、反対運動も「家族講座制」を補強する逆機能)。この問題発言に、同じ法学部に在籍する『日本社会の家族的構成』の著者は沈黙。この事実を問題として重く受けとめ、遡って見渡すと、

 戦後日本の「近代主義社会学」は、日本社会の「封建遺制」「前近代性」「無責任体質」を、農村・家族から企業・労組をへて伝統芸能団体や「病理集団」まで、ほとんどすべての領域にわたって実証的に究明。しかし、大学だけは問い残した。「灯台下暗し」。「近代(家父長制的権威主義ないし家族主義的宥和精神)の残滓と「近代(合理化・官僚制化にともなうcareerism)」との癒着 ( ⇨「原子力ムラ」「ムラ一般」)。ジャーナリズム発言と現場実践との乖離。そこから当然の問いとして、

 現存の大学内部に、守るべき「学問の自由」「大学の自治」はあるのか。むしろ、内部の制度と人間関係によって不断に培われる「精神」を、日常の問題として切開し、変革-自己変革を遂げることが、「現場からの民主化」の課題。

 社会学も、(政治スローガンとして表明されている)「国家権力(文部当局)対大学」という (「社会形象・構成体」を「集合的主体」として「実体化」する) 旧来の図式から脱却して、いったん大学構成員個々人 (とりわけ自分自身「行為」と「動機」に立ち返り、「自己変革」を起点に、「社会形象」も「秩序づけられた協働行為連関」として捉え返す必要 (⇨ヴェーバー理解社会学の再評価)。実践との関連でも、

⑤「安全地帯に身を置いて(たとえば敗戦後になって)初めて発動する、気楽な他者批判の事後評論」に止まってはならず、現場問題と取り組み、現在進行形で社会学するsoziologieren」スタンスが肝要。それが今後の課題。と同時に、

 じつは「古典の精神」でもある (マルクスはもとより、デュルケームとヴェーバーも、それぞれ晋仏戦争敗北後、第一次世界大戦敗北後の社会再建をめざして「学生とともに社会学する」課題を追求した先達)。とすると、今後の社会学教育についても、

 古典を教材として「社会学する」スタンスを育成する課題。とりわけ教養課程の「社会学」は、専門的学知 (の一分野への「入門」ないし「概説」であってはならず、「社会学する」スタンスを「教養の核心に据えて、若者の自己形成を介助し、敗戦後日本の社会変革全体を展望するコンテクストのなかで独自の意義を帯びる実践として、捉え返されなければならない。

 

3. 1964年マックス・ヴェーバー生誕100年記念シンポジウム私は、いったん「学問の季節」に戻り、事務方と一報告を担当。大管法闘争の経験を踏まえて、ヴェーバー解釈も下記①~④の方向で刷新――

 ヴェーバー自身は、当時のドイツの大学問題 (「ベルンハルト事件」に関与し、問題を「プロイセン文部当局対ベルリン大学国家学部」の対立には解消せず、ベルンハルト個人の責任も追及。ブレンタノによる「大学教員会議」の結成に賛同し、自分の経験にもとづいて「アルトホフ体制」批判を展開。

 第一次世界大戦時には、無併合・無賠償の早期講和を提唱して、当時の政権と軍部の戦争政策を時々刻々批判するとともに、君主制擁護論者ながら (あるいは、さればこそ)、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の失政をそのつど公然と批判。それに比して、

 日本の「戦後近代主義者」は大方、軍国主義の「被害者」と自認し、「戦争協力」あるいは「沈黙による追認-荷担」の「加害者責任は回避隠蔽。戦後にも、「巨人ヴェーバー」を「隠れ蓑」に、現場実践の回避を正当化。学者・研究者の課題を「学知の『エントツァウベルンク (脱呪術化)』と世論啓蒙」に限定 (⇨ジャーナリズム発言と大学現場実践との乖離)1960年代の闘争現場経験に照らして、ヴェーバー本人との落差スタンスの相違は歴然。

④「ヴェーバーマルクス」問題の問題性。「マルクス主義と近代主義との協力」(日高六郎)要請を、近代主義の側から受け止めると、「近代主義的実践も、『民主化』のかなたに『社会主義化』を展望でき、マルクス主義的実践に劣らず急進化が可能radikalisierbar」。(詳細は『ヴェーバー生誕150周年記念論集』への寄稿に譲る)

 

4. 196568 教養課程の社会学講義とゼミ上記2.-⑥⑦ のような位置づけで、教養課程の社会学教育に専念。受験勉強 (卑近な結果の追求に没頭して、前提を顧みない「生き方Lebensführung」の訓練から解放され、人生と社会について思いめぐらす「ゆとり」を取得した新入生に、教育目標と教材選択の根拠をフェアに明示して、「社会学する」スタンスの育成をめざす。マルクス、デュルケーム、ヴェーバーの学問形成を、時代状況と人間観に遡って概説。その一環としてのヴェーバー・ゼミに、理科生の舩橋君が参加。当時は理科生にも、文科系のゼミを覗いてみようという「ゆとり」があった。

迎える教員側も、建て前として(「戦後民主教育」の一環として新設された) 教養課程の重視を唱える。学生が教養課程で、専門学習以前に「広い視野」「総合的思考」「批判のスタンス」を修得できるように、理科生の文科学習と (逆に) 文科生の理科学習を、制度上は保障。「戦前・戦中の自然科学者や技術者は、視野が狭く、批判力に乏しく、軍国主義の戦争政策に協力した」との批判も語られはする。ただ、そうした建て前が、どの程度、戦争責任にかんする教員個々人の思想的反省に媒介されていたのか、と問い返すと、疑問なしとしない (人文・社会系授業の時間割における理科生冷遇。教員・研究者の専門学部への移籍の多発。「格差解消」要求にも、旧制帝国大学の専門学部並みの処遇を求める「身分」的利害関心が覗く)。「建て前」的言辞は、「時代的雰囲気」としての「戦後民主主義」にたいする「時宜的zeitgemäß適応同調の域を出ず、本音はむしろ学知-研究至上主義と「目的合理的」なcareerismにあったのではないか。そこに東大闘争が勃発。

 

5. 196869年東大闘争。聴講学生から、「いま、現場のこの状況で、講師は一社会学者として、というよりもむしろ一個の人間として、どう『現在進行形で』『社会学する』のか」との問いと追及。講師の教育理念を逆手にとった、見事な切り返し。

ところが、教授会でいきなり「ベトナム戦争」反対・「医療や教育の帝国主義的再編」反対・「国大協・自主規制路線」粉砕などと論陣を張っても、説得力はない。むしろ学内の争点から出発し、「科学者である」という教員の建て前を与件に、甲説 (教授会側見解) と乙説 (学生側見解) との対立に直面して「科学者ならどうするか」と問う。

処分は、教員と学生との「摩擦」(=「行為連関」) への教授会側の対応措置 (「学部自治」という建て前のもとで、じつは「特別権力」の恣意的発動の危険。医処分における事実誤認による冤罪処分。「高橋・原田報告書」の意義)。措置の当否は、じつは問われるべき問題。この問題を「価値自由」に、「理非曲直」に則って究明し (その過程でむしろ、「教授会メンバーである」「教員である」という「存在被拘束性」を相対化・対象化し)、「事実と理による公正な解決」をめざす。そうすることが「現場問題の社会学・社会科学・科学」。と同時に、実践的には、「暴力批判」の本道 (理非曲直の具体的究明という課題を素通りした抽象的「暴力批判」一般はむしろ、問題回避のイデオロギー的正当化)

そこで、情報源に遡り、学部長会議・評議会の密室性 (情報公開拒否を問題とし、医文当該教授会からの一方的情報を鵜呑みにせず、学生側文書も判読し、ヒアリングも重ね、双方の主張内容を論点ごとに逐一比較対照して、問題の「行為連関」を再現-再構成。その結果、文処分にも、医処分につづく事実誤認冤罪推認される。その論証を文にしたため、発表は当初、学内に限定して、教員に議論を呼びかける (ハーバーマス「熟議民主主義」論の輸入以前に、現場から「論証的熟議」を提唱)。しかし、圧倒的多数の教員は、事柄としての理非(学問)よりも、「医につづいて、文でも『負ける』のか」と、勝敗を優先 (政治的範疇に固執)196811月になっても、林健太郎の「頑張り」と丸山真男初の公的(マス・コミ向け)発言を契機とする「巻き返し」と反動化。機動隊導入。強権的秩序回復。思想的問題提起も圧殺-(当事者も忘却。「やりっぱなし」「いいっぱなし」で責任をとらず、歴史を創れない日本知識人の伝統を継承。

この局面で、帰国した宇井純が、瀕死の大学闘争を、反公害運動に媒介。「自己否定」の呪縛 (「アイデンティティ危機」を脱した若者が、反公害運動に活路を求め、アカデミズムにも媒介して、再編成。飯島伸子-舩橋晴俊。[本ホームページ2014年欄「『宇井純セレクション』全三巻の刊行に寄せて――逝去八年後の追悼」参照]

 

むすびに代えて

問題提起  舩橋君の思想-学問形成を、1960年代の問題状況にも遡り、「発生状態においてstatu nascendi(「アイデンティティ危機」の克服とその意義に焦点を合わせて掘り起こし、かれの精神を引き継ぐ課題。

 60年代には「政治の季節」と「学問の季節」との循環(よくても螺旋)。研究者にとって、後者は「自然の休養期(充電期・蓄電期)」。ところが、反原発運動には、今後永い将来、闘争の持続が求められ、「切れ目」が生じては困る。社会運動のそうした質的転換を考慮に入れると、運動と学問研究との狭間に身を置くリーダーが、それぞれ適度に休養をとって、運動の持続性を保つ工夫が、必要ではないか。善意と善意とが「合成」されると、通例は、目指された善い結果が生まれる。ただ、善意の合成ゆえに、かえって無理が生じ、誰も予期しない「随伴結果」が生ずることもある。舩橋君の遺志を継ぐ運動が、この点も考慮に入れ、社会運動として成熟し、発展を遂げていかれるように、祈念してやまない。

712日の集会には、時間逼迫を予期して文書を用意し、ポイントのみ紹介。714日、当該文書をわずかに増補・改訂]