舩橋晴俊君の急逝を悼む                     

 2014922 折原浩

 

去る816日、法政大学の一友人から、舩橋晴俊君急逝のメールが届き、愕然として、一瞬なんのことか分からなかった。というのも、舩橋君は、去る727日、利根川縁の拙宅を訪ねてくれて、親しく歓談したばかりだったからである。

 

舩橋君は、教養課程の学生時代、理科生でありながら、筆者担当の文科系「ヴェーバー・ゼミ」に出てくる「変わり種」のひとりだった。ということはしかし、「文科生と理科生との相互交流をとおして総合的な視野と批判的スタンスの会得を促す」という教養課程の理念を、学生の側から受け止めて体現しようとしていたといえる。ゼミの担当者は、「珍重」というよりも共鳴して、同君を遇した。ただ、文科系の論客が侃々諤々とやり合うなかで、舩橋君はどちらかといえば、寡黙で物静かな若者と映った。しかし、自分の意見がないのではなく、いざとなると落ち着いて発言し、きちんと論を組み立てる、頼もしい人柄であった。

そういう学生として、同君は「196869年東大紛争」にも真摯にかかわり、それを契機に、当初の航空学科志望から文転して、経済学部を卒業した後、社会学の院生となった。やがて、宇井純『公害原論』の「紅一点」で「最近の社会学は『もの離れ』して久しい」と厳しかった飯島伸子さんとともに、あるいは飯島さんにつづいて、環境社会学の分野を開拓し、新幹線公害、核燃料サイクル施設その他の実態調査で研究成果を挙げ、環境社会学会を立ち上げて、第二代の会長となった。

その間、法政大学の教員としては、同大学に腰を据えて、学生指導と学内改革に専念していたと聞く。ある他大学の先輩から招聘の話があったときにも、「かつて一度、当の大学の『解体』を唱えた身として、おめおめと奉職はできない」、「そこでは、過剰な業績期待にさらされるため、『自然体』で生きられなくなる」との二理由を挙げて、はっきり断ったという。筆者も、いかにも舩橋君らしい去就と感じ入った記憶がある。

法政大学でも、「総長に立候補してほしい」という同僚の要望に、「反公害と脱原発の市民運動と連携して、社会学の研究を進め、学生指導にも全力投球したい、それが自分の優先的使命」と答えて、はっきり断わったと聞く。他方、自由参加の市民も受け入れて持続可能な社会の実現を目指す、法政大学の公開事業「サステイナビリティ研究教育機構」には、機構長ともなり、さらに「原子力市民委員会」の座長も引き受け、脱原発と再生可能エネルギーの普及をめざす市民運動のまとめ役として粉骨砕身していた。日本社会学会選出の学術会議会員、同委員会委員としても、その方向で、数々の提言をまとめ、公表している。

まことに、舩橋晴俊君は、“academic careerism[学者の保身-出世第一主義]”の「流れに抗して」、学問研究と市民運動との狭間に身を置き、双方の連携と統合を目指して、首尾一貫、しかも肩肘を張らずに生き抜いた、類稀な人であった。ちなみに、この“academic careerism”とは、全社会的な「官僚制化」につれて、「早期専門化」をともないながら、もはや抗いがたいまでに優勢となってしまった時代潮流の、大学内への分流・分肢といえよう。

舩橋君のそうした姿は、稀少で頼もしく、筆者もときどき「サステイナビリティ研究教育機構」の催しに出席して、勉強させてもらった。しかし、船橋君は、主催者として忙しく、そのつど挨拶を交わす程度で、ゆっくり話し込む機会はなかった。かれが中心となり、広く市民の協力も結集して進めた『原子力総合年表』の企画にも、筆者は、モラル・サポートを表明するのみで、実のある協力はまったくできなかった。

 

ところが、この6月末、舩橋君から突然、『原子力総合年表』ができあがって、「世界社会学会議」も終わり、夏休みに入って、一息つくので、一度拙宅を訪ねたい、というメールが届いた。筆者は、「貴君はあまりにも多忙で、疲れも溜まっていようから、どうかゆっくり休養してほしい。『原子力総合年表』はこちらで版元に注文し、HPでも紹介するから」と、いったんは辞退したが、「でも、一度ゆっくり話し合いたい」という再度のメールに、「それでは」と歓迎することにした。

 

じつは昨年末、長年ヴェーバー研究をともにしてきた1936年生まれの雀部幸隆氏が、急逝され、そのほかにも80歳前後で鬼籍に入る人がふえ、新聞紙上に訃報を見かけることも多くなった。となると、古風といえるくらい律義な舩橋君のことで、ひょっとすると、「一度、会っておかなければ」と気遣ってくれているのかもしれない、と思わないでもなかった。

それが、逆になってしまった。いったいどういうことか。

 

727日当日、舩橋君は、『年表』の概要を説明し、作成にあたっての苦心を披瀝し、反原発市民運動全般の見通しも語ってくれた。かれは、居住地神奈川県大磯町近辺の住民運動にも携わっていて、そこでも各地でも、太陽光発電の普及が、予想以上に早く進んでいる、とのこと。とすると、反原発運動は、再稼働を止め、すべての原発を廃炉に追い込む、否定的運動という側面も、もちろん重要ではあるけれども、自然への負荷の少ない代替エネルギーの選択-普及-改良を先行させて、原発依存の基盤を掘り崩していき、結果としておのずと全廃に追い込み、その間、廃炉の工程を、雇用喪失その他、地域社会におよぼす随伴諸結果も考慮に入れ、そのつど対策を講じながら「責任倫理」的に進めていく、そういう肯定的運動という側面のほうが、抵抗も少なく、合意もえやすく、いっそう順調に進むのではないか、という。かれが、締めくくりとして、「ぼくはじつは、長期的にはかなり楽観的です」と語ったのが、印象的であった。

 

舩橋君は他方、老生にも「現在の研究プラン如何?」と尋ねてくれた。筆者は、虚を衝かれて、正直まごついたが、同君の好意ある関心に応え、要旨つぎのように答えた。

[要旨とはいえ、かなり長文となってバランスを失したので、本ホーム・ページ中に別項目「昨今の仕事プラン――戦後精神史の構想とヴェーバー研究の前提反省」を立て、内容はそちらに移す。927日]。

 

舩橋晴俊君は、学問内容上は、(筆者にとって「196263年大管法闘争」以来の盟友ではあるが、「196869年東大闘争」以降、マルクスの「物象化」論をサルトルの『方法の問題』『弁証法的理性批判』を媒介として止揚した)見田宗介氏の門下生で、同氏の『現代社会の存立構造』論を「組織論」に適用して展開した、出色の継承者というべき位置にある、といってよいであろう。舩橋君はなるほど、ヴェーバーの「支配社会学」も、大幅に採り入れてはいるが、狭義の「ヴェーバー研究者」ではない。ところが、そのかれが、筆者の「昨今の仕事プラン」に関心を示し、膝を乗り出して聴き入ってくれたのである。筆者としても、舩橋君の好意ある関心に甘えたのか、信頼に応えたかったのか、胸底の思いが止めどなく躍り出てきて、つい長話となってしまった。

 

舩橋晴俊君、貴兄の事績を「戦後精神史のひとこま」として復元し、一水脈として後続世代の諸君につなげ伝える仕事を、筆者は、残されたわずかな期間ではあれ、心して実現したい、と祈念している。

舩橋晴俊君、どうか安らかに、若い諸君と筆者の今後も、見守っていてほしい。

なお、『原子力総合年表』をめぐる舩橋君との交信を、このHP「恵贈著作2014」欄のNr. 38に付記、掲載する。

2014922日[927日、改訂]

折原 浩