川島武宜-丸山眞男間に、法学部内で学問論争はあったか――高橋裕論文「川島武宜の戦後――19451950年」(和田仁孝他編『法の観察――法と社会の批判的再構築に向けて』所収) に寄せて

[別項 恵贈著作2014  Nr. 36への付記を、ここに移す]

 

高橋裕様

拝復

 

このたびは、ご懇篤なお便りに、ご論考の抜き刷りを、お送りいただき、まことにありがとうございました。

早速、ご論考を、共感とともに拝読しました。小生、川島先生の学問内容とその変遷については、詳らかでありませんが、敗戦後に社会科学に志した1935年生まれ世代のひとりとして、川島『家族的構成』と丸山『思想と行動』は、社会学徒にとっても導きの星でした。社会学は、日本社会の「前近代的側面・要素」を、実証的調査研究によって次々に究明しましたが、その理論的・思想的根拠といえば、大塚・川島・丸山氏らに仰ぐほかはなかったのです。

そういう「戦後日本の民主化・あるいは民主的近代化」の旗手たちにおける「戦後転向」の内在的・外在的究明という問題関心を、貴兄と共有し、しかも、世代も専門的焦点も違うので、意見交換とコミュニケーションもそれだけ実りゆたかになろうか、と感じました。そこで少し、共有の問題にたいする小生の側の接近と姿勢や、東大法学部の教員一般、とくに丸山先生への違和感について、貴兄が限定しておられる時期の少しあとのことにはなりますが、若干お伝えして、ご参考に供したいと存じます。

  小生は、社会学の上記劣勢ゆえに、1964年の「マックス・ヴェーバー生誕百年シンポジウム」の準備会および本番で、最若手の報告者に起用され、思いがけず巨匠たちから直接教えを受ける機会に恵まれました。川島先生も、準備会に出席しておられましたが、当日の報告は、広中俊雄先生が担当なさいました。ところで、そのさいの一エピソードですが、準備会の席上、「支配の正当性」が話題になったとき、丸山先生が「以前から一度聴いてみたいと思っていたのですが」と前置きして、「被治者による授権から正当性を引き出すような支配類型は考えられないか」と川島先生に質問されました。小生、「法学部の同僚なのに、そういう大事な議論が、いままで内部では交わされなかったのか」と不思議でした。ところが、川島先生が、「そんな支配が、いままでいったいどこにありましたか」と、あっさりというか、けんもほろろに、斥けてしまわれたのには、いっそうびっくりしました。今度、ご論考を拝読して、部外者からは「丸山-川島」と見えていた関係が、法学部内では「川島-丸山」で、そういう序列が、意外なほど、ご本人たちの学問的交流を阻んでいたのではないか、と思い当たりました。同じく我妻門下の、戒能通孝先生と川島先生との関係は、どうだったのでしょうか。

  さて、1960年安保から1964年のヴェーバー生誕百年シンポにかけて、1962-63年には「大管法闘争」がありました。これへのかかわりの違いから、後の1968-69年「東大闘争」にたいする対応が分かれ、小生が、戦後近代主義の旗手たちに違和感を覚え、異論を唱える背景となったように思えますので、少々立ち入ってみましょう。「60年安保闘争」における丸山氏らの呼びかけと市民運動の盛り上がりに危機感を抱いた政府・自民党は、岸から池田勇人にバトンタッチして、市民・大衆は「所得倍増計画」によって慰撫し、同時に、「大学が革命戦士の養成に利用されている。なんとかし.なければならない」とぶち上げて、大管法制定に乗り出し、大学を押さえ込もうとしました。小生、「60年安保闘争」では、「民主主義を守る学者・研究者の会」(通称「民学研」) の事務局を手伝いながら、「安保闘争」という「政治の季節」における「生」の盛り上がり (戦中派の戦争体験とその記憶を基礎としていて、そのかぎり早晩減衰することが避けられない盛り上がり) を、つぎの「学問 (形式) の季節」に引き継ぎ、補強し、展開していくにはどうすればよいか、「政治の季節」と「学問の季節」との (「はれ」と「け」の) 単純 () 循環を乗り越えて、螺旋状の発展軌道を創り出すには、どうすればよいか、とあれこれ考えていました。そこに、大管法が出てきたものですから、「待ってました」とばかり、「降りかかってきた火の粉を払いのけるだけでなく」、この機会に、将来、大学に務めて研究と教育に携わる者として、大管法に反対する政治運動の当面の論拠としてのみではなく、自分たちの長い将来を導くような大学理念を獲得しておきたいと、いろいろな文献を読んで、見田宗介君など、院生仲間と議論しました。もとより、大管法案そのものについても、大学側の人事案にたいする文相拒否権の実質化、学長の権限強化 (評議会の諮問機関化)、教授会の構成の縮小 (教授のみの教授会)、学生の (学外行動にも及ぶ) 秩序違反にたいする処分、(躊躇うべきでないという) 機動隊導入、などの問題項目ごとに、それまで文部省が出してみては引っ込めていた諸試案、中教審や国大協の意見書、などを比較対照し、資料として提供して、いわば「学内啓蒙」につとめました。その過程で、「学問の自由」「大学の自治」とは、学内ですでに確立している「自由」や「自治」を、外部権力の介入にたいして「守る」というのではなく、あるいは少なくとも、それだけではなく、大学自体の講座制や教員自身の日常意識を含む、大学そのもののありようの問題である、と察知し、そのように問題を立てなおしました。たとえば、当時の東大法学部長・石井照久氏(?)は、大管法反対は反対なのですが、「大学の人事とは、家族の一員を増やすようなもので、そこに、外部の圧力で、折り合いの悪い人が押し込まれたのでは、収まりがつかない」というような論拠を公然と持ち出すのです。これについては、法学部内で、川島先生との間に、激論が交わされるはずなのに、と思いましたが、どうやらそういう話は聞きませんでした。日本社会一般の家族的構成と雰囲気に照らして「分かりやすい、通りのよい反対論拠だ」というので、方便として黙認され、推奨されたのではないでしょうか。

やがて、東畑・中山・有沢の学界三長老が、池田首相を宥め、「無理押しで大管法を制定しようとしても、『一般教員』の反発を招いて逆効果になる、大学が自主的に秩序維持を補強するように仕向けるから、ここのところはまかせてほしい」といって「矛を収め」させました。これが、「国大協・自主規制路線」の発端で、やがて、この路線が東大医学部・文学部の学生処分に貫徹され、学生・院生・助手 (の一部) の反対で、東大闘争が盛り上がります。ところが、教員は、「一般教員」ばかりか、政治学者らも、学内処分のこの社会的・政治的背景を見抜けませんでした。東大内ではむしろ、三長老のとりなしによる大管法制定見合せを、なんと「法制化阻止」「闘争勝利」と総括し、「安堵してオールを休め」、国家権力にたいする緊張と警戒を解除してしまったのです。「喉元すぎれば熱さを忘れ」でした。

ところが、このとき、今井澄、山本義隆、最首悟君らの大学院生は、「大管法反対」のスローガンをかかげて、東大の銀杏並木で集会を開き、「大学自治」の名のもとに、処分されました。東大当局としては、学内秩序を乱す者には、このとおり処分を厭いません、と、国家権力にたいして「身の証」を立てたわけで、いわば「国大協・自主規制路線」の適用第一号でした。

  さて、このとき、丸山先生は、ハーヴァード大学、オックスフォード大学に招聘され、「とびきりの国際的知識人」となって帰国されました。それはそれで、学問上は「よいこと」「めでたいこと」にちがいありません。しかし他面、「偉くなりすぎ」て、それだけ現場の紛争などには本腰を入れて取り組みにくい感性を身につけて、帰られたのではないでしょうか。ご自身も気づかれないうちに、「おかしいことにはまっすぐにノーといおう」という敗戦直後の「初心」からは遠いところまで、きてしまわれたようです。アメリカ政府は、敗戦直後、湯川秀樹氏らの物理学者を、意図的・政策的に、民間の研究機関から招聘させ、優遇しました。なにも「買収されて帰ってくる」ときめつけるのではないのですが、いちど「学者の経歴、思想遍歴における留学・招聘の意義」というテーマを設定して、正面から問題としてみる必要がありそうです。

  ここで、1964年の「ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」に戻りますと、そこでは、①ヴェーバーの「実存と学問」のうち、後者にかぎって、もっぱら学知の広がりがとりあげられる――したがって、かれの生涯にわたる「大学問題」への取り組みが捨象される――ことに不満でしたし、他方、②ヴェーバーひとりについても、膨大な作品群について、内在的な読解がまだまだなのに、「ヴェーバーとマルクス」「ヴェーバーとパーソンズ」「ヴェーバーとドープシュ」等々、「大風呂敷」を広げて博識を誇示する「アゴーン」には、疑問を感じました。これらの問題点につきましては、HP (http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara) の別稿で、「百五十周年からみた、この半世紀の個人総括」として論じようと思います。

  その後、1968年に「東大紛争」に直面し、4月の「入学式防衛」では、丸山先生に会い、先生の防護に隊列を組んで、学生と対峙しました。しかし、それから、617日の第一次機動隊導入を経て、学生の問いかけに向き会い、大管法闘争の経験もよみがえり、争点の医・文処分の事実関係について「社会学する」なかで、文処分の事実誤認を温存したまま再度機動隊を導入する当局と決定的に対立し、授業再開を拒否し、裁判闘争にかかわり、最終弁論を『東京大学――近代知性の病像』 (三一書房) と題して出版しました。これを「たたき台」として議論したい、と丸山先生に申し入れましたところ、「精神的幼児」は相手にしない、と断られた次第です。童心を保っていてはじめて、「王様は裸」と見抜けるのですが。こうした経過につき、詳しくは『東大闘争と原発事故』 (緑風出版) や、NHK 番組の論評 (HP記事) などに書いておりますので、適宜ご参照ください。

どうも、ご論考の内容に直接関係のないことを、縷々勝手に書きつらねまして、恐縮です。大学の合理化 (専門化・官僚制化) にともなうacademic careeristsの輩出という昨今の傾向のなかで、貴兄のように問題意識旺盛な若手が現れたことに、よろこび、共感したためで、どうかご海容ください。貴兄のお仕事に注目しております。どうか、続篇ほか、成果をそのつどお送りください。

  では、酷暑の砌、ご自愛のほど、お祈り申し上げます。

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折原浩