翻訳の社会学 報告要旨ならびに資料                                               折原 浩

 

[去る524日、青山学院大学で、日本フランス語・フランス文学会春季大会の一環として「翻訳の社会学」と題するワークショップが開催されました。わたくしも、畏友・加藤晴久氏に招かれ、「誤訳をどう改めていくか」と題する報告をおこないました。以下は、そのさいに用意し、配布していただいた「報告要旨ならびに資料」です。なお、報告のレジュメは、日本フランス語・フランス文学会のCahier 9月号に掲載されるそうで、その後転載許可をえて、このHP にも掲載する予定です。]

 

. 誤訳の踏襲(単純なミスから内容上の難問まで。ここでは後者の一具体例): デュルケーム『社会学的方法の諸規準』、第三章「社会現象の正常と病態を判別する規準」の一節

 

原文Tout phénomène sociologique, comme, du reste, tout phénomène biologique, est susceptible, tout en restant essentiellement lui-même, de revêtir des formes différentes suivant les cas. Or, parmi ces formes, il en est de deux sortes. Les unes sont générales dans toute l’étendue de l’espèce; elles se retrouvent, sinon chez tous les individus, du moins chez la plupart d’entre eux et, si elles ne se répètent pas identiquement dans tous les cas où elles s’observent, mais varient d’un sujet a l’autre, ces variations sont comprises entre des limites très rapprochées. Il en est d’autres, au contraire, qui sont exceptionnelles; non seulement elles ne se rencontrent que chez la minorité, mais, là même où elles se produisent, il arrive le plus souvent qu’elles ne durent pas toute la vie de l’individu. Elles sont une exception dans le temps comme dans le l’espace. Nous sommes donc en présence de deux variétés distinctes de phénomènes et qui doivent être désignées par des termes différents. Nous appellerons normaux les faits qui présentent les formes les plus générales et nous donnerons aux autres le nom de morbides ou pathologiques. (Durkheim, Emile, Les règles de la méthode sociologique, 1e éd., 1895, 22e éd., 1986, PUF, pp. 55-56.)

 

JT訳「すべての社会学的現象は、すべての生理学的現象がそうであるように、本質的にはそれ自体に止まりつつ、しかも場合に応じて種々の異なった形態を採りうる。ところが、これらの形態に二つの種類がある。その一つは、種の全広袤に亙って普遍的なものである。すなわちそれは、すべての個人に於いてではなくとも、少なくとも多数の個人に於いて見出されるのであり、またそれが認められるあらゆる場合にたとえ一様に反覆しないで、各個人に於いて変異するとしても、この変異は極めて近い制限内に包含されるものである。他の形態は、これに反して例外的のものである。すなわち、それは単に少数者のうちに於いてしか見出されないばかりでなく、それが生ずる場所に於いてすらも、しばしばそれが個人の全生活を通じて持続しないこともあるものである。すなわち、それは、空間的にと等しく時間的にも一種の例外をなすものである。それ故に我々は互いに異なった、したがってまた異なった用語で指示されなければならないところの、二変種の現象に対しているのである。かくて我々は、最も普遍的な諸形態を示す諸事実を平常的と呼び、またこれ以外の他の諸現象に、病態的或いは病理的の名を与える。」(『社会学的方法の規準』、1952、創元社、pp. 140-41

 

TM訳「およそ社会学的現象は、ついでにいうと生物学的現象と同様に、本質的にそれ自体にとどまりつつ、場合に応じてさまざまな形態をとることができる。そして、これら種々の形態のうちには二種類のものがある。そのひとつは、種の全般にわたって一般的にみとめられるもので、あらゆる個人にといわぬまでも、大部分の個人にみいだされるものであり、観察されるすべての場合にいちように反復再現されないにせよ、また主体に応じて変化はあるにせよ、その諸変化がきわめて接近した限界内に限られるようなものである。それに反して、もうひとつの形態は、例外的なものである。すなわち、それは、少数の者にしかみとめられないばかりでなく、それの生じるところですら、個人の一生を通して持続することはめったにない。時間および空間において、それは例外をなしているのである。とすると、われわれは、別々の用語によって指示されなければならないようなきわだった二変種の現象を前にしていることになる。そこで、もっとも一般的な諸形態を示している事実を正常的とよび、他方を病態的もしくは病理的と名づけることにしよう。」(『社会学的方法の規準』、第一刷1978、岩波文庫、pp.133-34

 

解説: このTM訳、第二刷1986では、「個人」が (同じ字数の象嵌によって)「個体」に改められているが、当の「個体」が何を意味するのか、訳者の解説はない。これで、読者が、原著者デュルケームの当該判別規準を読み取ることができるか。では、その規準とは?

ここで原著者は、生物有機体との類比を用いているので、l’individuとは、社会有機体の個体、すなわち個別社会を意味する。ある社会種 (類型) に属する個別社会 (空間的また時間的に) 普遍的に認められる現象は、たとえ個別社会内部では稀少であっても、「正常」。それにたいして、社会種にとって (空間的また時間的に) 例外をなす現象は、「病態」。デュルケームは、別著『自殺論』(1897) で、19世紀のヨーロッパ諸社会における自殺率の急激な (つまり時間的に例外的な) 上昇を、この規準に照らして「病態」と認定。各個別社会に一様に見られる一定度の定常的自殺 () は「正常」。

 

. 誤訳踏襲の事例から引き出される問題:

第二次訳、第三次訳、……は、初訳を参照しながら訳せるから、初訳に比してそれだけ容易。とすると、第二次以降の翻訳書が、先訳を参照した旨「訳者あとがき」に記すだけで、初訳の労苦を「もらい受け」し、初訳に「とって代わって」しまって、よいものか。とくに、上例のように、文体を変えているだけで、誤訳は踏襲され、改善が見られないばあい。安藤英治の問題提起。翻って考えるに、

 

⒈ 翻訳とは、原著者の思念内容を忠実に読者に伝える営為。一見「正しい」翻訳でも、原著者の思念内容を読者に伝えられない誤訳ないし不適訳もある。原著者の思念内容を確認するのに、原著者の他の著作も参照する必要が生ずるばあいもある。そういうわけで、一挙に完全な翻訳を仕上げることは至難とすれば、訳文を漸進的にどう是正していくか、が重要となろう。ところが、

⒉ いったん誤訳を含む翻訳が出版されてしまうと、その訂正はなされ難いのが実情。その理由として、訳者には、① (社会科学書のばあい) 翻訳という営為そのものを、自説の発表に比して「第二義的」とみなす評価規準、②翻訳者としての責任・社会的責任感の稀薄さ、翻訳にかかわる「知的廉直」の欠落。それに加えて、出版社は、③訳文是正 (とくに字数の異なる象嵌による大幅な紙面刷新) を嫌って抵抗。さらに読者は読者で、④翻訳については、「欠陥商品」の「製造物責任」を問わないことが多い。

 

. 問題解決への具体的試行: マックス・ヴェーバー著、恒藤恭校閲、富永祐治・立野保男訳『社会科学方法論』(1936、岩波文庫) を改訂増補し、富永・立野訳、折原補訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』として上梓する (第一刷、1998、第10刷、2007、岩波文庫) さい、下記の措置をとる。

 

      名訳というべき初訳を記念して、初訳者名を保存し、初訳者の「解説」を巻頭に掲げる。

ただし、わずかに残されていた誤訳は、原文と照合して訂正し(下記Ⅳ、参照)、併せて、本文の理解に必要な付録三篇を加える。

本文の訳文には、段落ごとに番号を付し、それぞれに表明された原著者の思念内容につき、

平易かつ詳細な解説を加える (解説は原稿買い取り制)。そのさい、既訳 (富永・立野旧訳以外も含む) 中に誤訳が認められるばあいには、注に「原文-既訳対照表」を収録して、改訳の根拠を示し、先訳者の応答を呼びかける。下記Ⅳに代表例。

      増刷のさい、巻末に「第○刷へのあとがき」を収録し、その間に寄せられた訳文批判と、

補訳者の釈明ないし反批判を付記して、誤訳ないし不適訳の「漸進的是正」を試みる。

 

. 原文-既訳対照表の一例: 当該「客観性」論文の結論部の一節。

 

原文: Die »Objektivität« sozialwissenschaftlicher Erkenntnis hängt vielmehr davon ab, daß das empirisch Gegebene zwar stets auf jene Wertideen, die ihr allein Erkenntniswert verleihen, ausgerichtet, in ihrer Bedeutung aus ihnen verstanden, dennoch aber niemals zum Piedestal für den empirisch unmöglichen Nachweis ihrer Geltung gemacht wird. (Max Weber, Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 7. Aufl., Tübingen, J. C. B. Mohr, S. 213)

 

富永・立野旧訳: 「むしろ社会科学的認識の『客観性』は、経験的所与はつねに価値理念――これのみが社会科学的認識に認識価値を与へる――に基づいて規整され、この価値理念からその意義が理解されるのではあるが、しかも認識の妥当性の証明という経験的に不可能なことのための足場とされることは断じてない、という事柄に依存するのである。」(p. 106

 

この訳文では、「認識の妥当性を、経験的所与にもとづいて証明することは、経験的に不可能」、つまり「社会科学は経験科学として成立しない」ということになり、なんのために「社会科学的認識の『客観性』」を縷々論じてきたのか、分からなくなる。全文の論旨を結論で覆す自殺論法。では、他の既訳はどうか?

 

TT:「社会科学的及び社会政策的認識の『客観性』」、『社会科学と価値判断の諸問題』、1937、有斐閣、pp. 64-65;  YD:「社会科学および社会政策の認識の『客観性』」、『世界大思想全集21・ヴェーバー』、1956、河出書房、p. 97;「同」、『世界の大思想23・ヴェーバー政治・社会論集』、1965、河出書房、p. 112 ; MT:「社会科学および社会政策的認識の『客観性』」、『現代社会学大系・ヴェーバー社会学論集――方法・宗教・政治』、1971、青木書店、p. 67、も同趣旨で、ihrer Geltungihrer を「認識」と解している。

 

NGNG:「社会科学的な認識の『客観性』は、むしろ次の点に依存している。つまり、経験的に与えられている現実は、確かにいつも、これのみがその現実に認識価値を付与するところの価値理念に基づいて整序され、その現実の意義はこの価値理念から理解されるのではあるが、にもかかわらずその現実は、価値理念の妥当性を経験的に証明し得ないということの土台となることは、決してないということである。」(『社会科学の方法』、1994、講談社、p. 158)  ihrer を価値理念と解したのはよいが、後続文意が不明。

 

仏訳: L’«objectivité» de la connaissance dans la science sociale dépend au contraire du fait que le donné empirique est constamment aligné sur des idées de valeur qui seules lui confèrent une valeur pour la connaissance et, bien que la signification de cette objectivité ne se comprenne qu’à partir de ces idées de valeur, il ne saurait être question d’en faire le piédestal d’ une preuve empiriquement impossible de sa validité. (Essais sur la théorie de la science, tr. par Julien Freund, 1965, Plon, p. 199)

 

英訳: The “objectivity” of the social sciences depends on the fact that the empirical data are always related to those evaluative ideas which alone make them worth knowing and the significance of the empirical data is derived from these evaluative ideas. But these data can never become the foundation for the empirically impossible proof of the validity of the evaluative ideas. (The Methodology of the Social Sciences, tr. & ed. by Edward A. Shils and Henry A. Finch, 1949, Free Press, p. 111)

 

折原補訳: 「むしろ、社会科学的認識の『客観性』は、経験的所与が、なるほどつねに、(それのみが経験的所与に認識価値を付与するところの)価値理念に準拠し、経験的所与の意義も、この価値理念から理解されるのではあるが、それにもかかわらず、経験的所与が、当の価値理念の妥当の証明という経験的には不可能なことの足場とされることはけっしてない、という事情に依存している。」(p. 159、改訳)

 

解説: 富永・立野旧訳、TT訳、YD訳、MT訳が解するように、「認識の [経験的] 妥当性を、経験的所与にもとづいて検証することができない」となると、およそ「社会科学は経験科学として成立せず」、その「客観性」を論ずることは無意味となろう。原著者がいわんとするのは、本文(32段落以下)で繰り返し論じられているとおり、研究者が抱く「価値理念」との関係づけによって初めて、「知るに値する」事実が、無限に多様な経験的所与のなかから取り出され、その「文化意義」が確定され、それが「なぜかくなって、他とはならなかったのか」という因果関係も、[経験科学として妥当な手順に則って] 認識されるのであるが、それにもかかわらず、そういう認識の経験的妥当性は、価値理念の [まさに価値理念としての] 規範的妥当性とは、次元を異にし、峻別されなければならない、ということである。別言すれば、「あるべきもの」[当為] と「あるもの」[存在] とを峻別 [しつつ、ともに堅持] せよ、という「価値自由Wertfreiheit」が、要請されている。ある価値理念との関係づけによって取り出された経験的所与の因果関係が、経験科学的に妥当な仕方で認識されても、そうだからといって、当の価値理念の規範的妥当性までが、それによって証明されたり、補強されたりするわけではない。たとえば、特定宗派のプロテスタンティズムが、「近代資本主義の精神」の歴史的形成に与って力あったと、経験科学的に妥当な仕方で [経験科学一般の因果帰属の手続きにしたがって] 立証されたとしても、そうだからといって、当のプロテスタンティズムの本質的宗教的意義がそれだけ高められ、カトリシズムのそれが貶価される、ということにはならない。そこのところで [事実認識と価値判断との] 混同が起こると、護教論どうしの争いとなって、社会科学的認識の客観性、すなわち、プロテスタントにもカトリックにも等しく真理として受け入れられる普遍妥当性、は成り立たなくなる。したがって、そうした混同に陥らないこと、ふたつの妥当性を別種のものとして峻別 [しつつ堅持] する「価値自由」が、社会科学的認識の「客観性」を支える主体的要件である、ということになる。英訳以外の既訳では、原著者のこの思念内容を読者に伝えられないと思うが、どうか?

 

補訳解説後日譚: ①改訳の当否を問うた専門家からは、先訳者を含め、応答がない。②出版社は、費用のかかる象嵌、紙面刷新を嫌って抵抗。③「伝統的翻訳慣行」からは (とくに「初訳の労苦を闇に葬る後訳」批判にたいしては) 敵意ある反応。④インターネット評論・書評の一部からは好意的な反響。

 

改善に向けての提言: ①「一挙に完璧な翻訳」神話からの解放。②読者の立場に立つ「製造物責任」感覚の涵養 (訳者、編集者、出版社、学会)。③「漸進的是正試行」の定着化 (訳者、出版社、学会のHP活用)