即興の文化比較シリーズ

2006年秋 北米東海岸の旅から――アメリカ建国の歴史と現状

 

はじめに

 しばらくご無沙汰しました。昨秋、『大衆化する大学院―― 一個別事例に見る研究指導と学位認定』を上梓し(未来社)、三月の京都シンポジウムへの報告を一英訳稿にまとめた後、息抜きを兼ね、北米東海岸の旅に出ました。十日あまりの短い期間でしたが、ビデオ・カメラを片手に、アメリカ建国ゆかりの地を訪ね、現状も見て回りました。

 帰国後、撮影してきた動画に、春にヨーロッパ(去年はスイス、フランス、オランダ)で撮った映像を比較のため織り込みながら、おおよそ年代順に並べ替え、「建国前史から」「ウィリアムズバーグ」「独立戦争」「独立宣言」「連邦国家の形成」「どこからどこへ――アメリカ発展の原動力」「アメリカ建国の精神」「フランクリンの生涯と思想」「ジェファスンの生涯と思想」「アメリカの現状に思う」「日本の現状に思う」の十一項目に配列し、ナレーションとBGMを加え、約一時間四十分のビデオ作品にまとめました。

 現地を見聞して歩きますと、いろいろ疑問が湧きます。「イギリスの植民政策は、じっさいにはどうだったのか」、「どういう経緯で、独立宣言が発せられたのか」、「福沢諭吉が『「」は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と訳した文言には、当時の状況における政治的機能とともに、キリスト教文化圏の範囲を超える普遍的意義がこめられていたのか」、「そういう意義は、ピルグリム・ファーザーズに担われたピューリタニズムの『意図せざる逆説的随伴結果』か、それともフランクリンやジェファスンら『建国の父』たちによる意識的・批判的態度決定の所産か」、「建国史のコンテクストのなかで見ると、『政教分離』『信教の自由』にはどういう意味があるのか」、「アメリカの現状は、建国の理想を実現する方向にあるのか、それとも、その特殊性に気づかず、『普遍性あり』と信じて、客観的には逸脱し、他国・他文化圏に無理を強いているのか」、「ジェファスンだったら、9・11事件にどう対処したろうか」、「ひるがえって日本国憲法は、アメリカ建国思想のどういう要素を、どのように継受しているのか」、…………など。こうした疑問点について、考えたり、調べたりしているうちに、(「ヴェーバー『経済と社会』(旧稿)の再構成」という仕事のかたわらという事情もありますが) 思わず三ヶ月が経ちました。

 そのうえ、ひとまず完成にこぎつけましたが、ビデオ作品というよりも、「動画付き半論文」ともいうべき、中途半端なものになってしまいました。ただ、論文となりますと、先行研究を引用しながら敷衍したりと、なにかと面倒なことが多く、旅からの着想も、つい放っておいて忘れてしまいがちです。その点、ビデオですと、即興の思いつきを、生のままナレーションで語り、映像や字幕で補うこともできます。今回も、たとえば「独立宣言」につき、その中身を検討して、「革命権の代行」へと逸脱し、「過剰報復」や侵略を正当化する、危険な萌芽を突き止め、「アメリカ建国の精神」の項では、ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にいう「資本主義の精神」を、(宗教改革者の側からではなく) フランクリン、ジェファスンら「アメリカ建国の父」のほうから、(「意図せざる逆説的随伴結果」ではなく) カルヴィニズム/ピュウリタニズムにたいする意図的な批判の所産として、捉え返してみました。

 顧みますと、現職のころ、講義や公開講座で「見てきたような嘘をつき」通すのではなく、ときどきこういうビデオを教材に使えば、多少とも興趣を添えられたかな、とも思います。「それではいっそ、そのビデオを、ホーム・ページに公開したらどうか」と勧めてくださる方もあり、そういわれるといい気になって、「やがては」と思わぬでもありません。しかしそれは、内容上も技術上も、今後の課題です。今回は、「動画抜き半論文」としてのナレーション原稿を、下記に転写してみます。ありがたいことに、ビデオに付き合ってくださったうえ、ナレーションの原稿も読みたいと問い合わせてくださる方が、何人かおられるのです。

 年代そのほか、正確を期したつもりではおりますが、思い設けぬ誤りも多々あろうかと存じます。お気づきの点、ご指摘、ご教示いただけましたら幸いです。]

 

北米東海岸の旅から――アメリカ建国の歴史と現状

Opening

 この秋、北米東海岸の各地に、アメリカ建国の歴史をたずね、現状も見てまわりました。

 旅のコースは、ワシントンDCを起点に、ヴァージニア州を南下し、ジェイムズタウン、ヨークタウンをへてウィリアムズバーグ。州南端のノーフォークからチエサピーク湾の海底トンネルをくぐって北上。デラウェア州の州都ドーヴァーを通り、ペンシルヴェニア州の州都フィラデルフィア。ここからアムトラックで一挙にボストンまで北上。近郊のレキシントン、コンコードなど、独立戦争ゆかりの地や、かつて「魔女裁判」が荒れ狂ったセイラムを訪ねたあと、ふたたび南下。ニューポートとニューヘヴンをへて、ニューヨークに入る、というものです。

 わたくしども、北米東海岸は今回が初めてで、車もやりません。そこで、今回はいわば「パイロット・スタディ」として、「旅のデザイン・ルーム」のツァーに参加し、その企画に沿って各地を見て歩くと同時に、来年から個別旅行ができるかどうか、交通機関、治安その他の実情について、感触をつかみました。

 

 さて、このビデオですが、各地で撮ってきた映像を、旅のコースに沿って並べるのではなく、おおよそ歴史の順序にしたがって並べ替えてみました。そのため、「ここについては、またいつか来て、映像を補完する」というような「空き」ができてしまっています。

  そもそも、今年で四百年にもなるアメリカの歴史を、二時間弱のビデオにまとめるというのは、無理な話です。建国の理想と現状とを、あいだを抜かして対比する、ということにならざるをえません。それも、十二日間の旅の印象にかぎってです。そうした素人作品でお時間を拝借するのはたいへん恐縮ですが、お付き合いいただければ幸いです。

 

建国前史から(ジェイムズタウンほか、初期の英領北米植民地)

 コロンブス[1]の北米大陸発見は1492年。その後、スペイン、フランス、オランダにつづき、イギリスの探検家も渡来していました。

 しかし、イギリス人が本格的に植民を始めるのは、1588年に、スペインの無敵艦隊・アルマダを破ってからです。1607年に、当時のイギリス国王ジェイムズI世[2]の特許状をえた船団が、現ヴァージニア州ジェイムズ川河口に着き、その地を、国王の名にちなんで「ジェイムズタウン」と名づけました。

 現在そこには、当時の先住者アメリカ・インディアンの村落と住居、イギリス軍の要塞、帆船、が復元され、今年から「ビジター・センター」もオープンしています。

 先住者のアメリカ・インディアンは、銃火器を携えた植民者に対抗できなかったでしょう。日本では、秀吉の「刀狩り」[3]によって、一般民衆は武装を剥奪され、平和化されていました。

  さて、ジェイムズI世は、カルヴァン派のジョン・ノックス[4]が宗教改革を進めていたエディンバラで育ち、イングランド国王に迎えられた当時には、「ピューリタン」[5]の期待を集めもしました。しかし、「イギリス国教会」[6]の最高首長に収まると、「王権神授説」を唱え、これに抵抗するピューリタンを弾圧し始めました。ピューリタンの一部が、迫害を逃れてオランダに渡ったのが、ちょうど1607年のことです。そのまた一部が、1620年の夏、「スピードウェル号」に乗ってロッテルダムのデルフス港から船出し、イギリスのサウサンプトンに着き、プリマスで同志を加え、「メイフラワー号」に乗り換えて、新大陸に渡り、現ボストン郊外に「プリマス植民地」を建設しました。「ピルグリム・ファーザーズ」です。

 また、同じ1607年には、オランダ人が現ニューヨーク・シティに渡来し、マンハッタン島を破格の安値で買い取り、一帯を「ニュー・アムステルダム」と名づけました。現ニューヨーク・シティにあるアフリカ系の街「ハーレム」も、アムステルダム市の北にあるハーレム市にちなんで名づけられ、かつてはオランダ系の富裕な市民が住んでいたようです。その「ニュー・アムステルダム」が、「第二次イギリス-オランダ戦争」[7]によってイギリス領となり、ヨーク公[8]に領地として与えられ、「ニュー・ヨーク」と改名されました。

 

  1630年には、ピューリタンの第二陣が、チャールズⅠ世[9]の迫害を逃れ、大挙してセイラムやボストンに渡来し、「マサチューセッツ植民地」を築きました。しかしここでは、教会の指導者が世俗的な政治権力も握る「神政政治体制」[10]を敷き、厳格な宗教的規律を強いて、異端糾問や魔女裁判にも走りました。それに抗したのがロージャー・ウィリアムズ[11]で、1636年、ロード・アイランドに「プロヴィデンス植民地」をつくります。

  他方、イギリス国教会の迫害を受けたカトリック教徒も、ボルティモア卿[12]がチャールズⅠ世から土地を与えられ、1634年に「メリーランド植民地」を創設しています。

 また、クェーカー教徒[13]も、ウィリアム・ぺン[14]がチャールズ世から土地をえて、1681年に、「ペンシルヴェニア植民地」[15]を設立しました。

 

  さて、英領北米植民地は、そのようにして全部で13つくられました。いずれも、イギリス本国における宗教上の「少数派(マイノリティ)」が、「多数派(マジョリティ)」からの迫害を逃れ、自分たちの信仰をまっとうできる新天地を求め、移住して、創り出したものです[16]。社会階層上は、本国で没落に瀕した独立自営農民(ヨーマン)や小市民(小商人や手工業者)が多かったでしょう。

 1607年から1770年にかけて、約75万人が移住し、、独立・建国間近の1760年の人口は、現地生まれの世代も含め、約150万人を数えていた、とのことです。

 

ウィリアムズバーグ

 やがて1695年、ジェイムズタウンから北西に8キロほど内陸に入った一村に、ウィリアム・アンド・メアリ大学が創立されました。この大学は、1636年にボストン郊外に創設されたハーヴァード大学につぐ、全米で二番目に古い大学で、トマス・ジェファスン[17]の母校です。

 さらにこの村が、四年後の1699年、ヴァージニア植民地の首府と定められ、時のイギリス王、ウィリアム三世[18]にちなんで、ウィリアムズバーグと名づけられました。その後約80年間、ここに総督邸や議事堂が置かれ、教会が建てられ、北のボストンとともに、独立と建国に重要な役割を果たすことになります。

 このウィリアムズバーグも、1780年にヴァージニア州の州都がさらに北西のリッチモンドに移されてからは、いかんせん寂れていました。しかし1926年、ジョン・D・ロックフェラーJr. が、私財を投じて、植民地時代の建物や町並を復元し、いまも当時の面影を伝える史跡観光地となっています。

 総督邸に入ってすぐのホールの壁面には、銃、刀剣が所狭しと飾られています。これは、一方ではイギリスの植民地支配、他方では当の植民地の独立が、いずれも銃によってなされたという歴史的事実を、象徴しているようです。

 この総督邸は、独立後はヴァージニア州知事の公邸となり、パトリック・ヘンリー[19]とトマス・ジェファスン、二人の知事が住みました。

 これは、全米でもっとも古い、イギリス国教会派の教区教会です。会衆席の仕切りが高いのは、なぜでしょう。

  アメリカ最古の、ヴァージニア州議会の議事堂です。ここでは、パトリック・ヘンリーが、「自由か、しからずんば死か」と熱弁をふるいました。1765年と69年には、イギリス本国の「印紙税法」に反対して「代表なければ課税なし」との原則を謳い、イギリス品不買同盟の結成を呼びかける「ヴァージニア決議」が可決されました。

 また、後にジェファスンが、「信仰の自由」を求めるロジャー・ウィリアムズらの運動を踏まえ、イギリス国教会の特権に反対して、「国家と教会との分離」を説き、万人に「信仰の自由」を保障する「信教自由法案」を上程したのも、この議事堂での出来事だったでしょう。

 

 ところで、イギリスは、1755年から63年の「七年戦争」[20]で、フランスに勝ち、ルイジアナほか北米大陸のフランス植民地をすべて手に入れます。それにともない、イギリスの植民地政策は、大きな変貌を遂げます。すなわち、厖大な戦費支出による国庫の赤字を埋め、拡大した植民地の経費負担を賄うため、砂糖、証券/証書ほかの印刷物、酒、石油、ガラス、塗料、茶などに課税して、国庫の歳入を増やし、他方、海軍、植民地駐屯軍、海事・関税裁判所などの権限を強化して、締めつけを強めようとしました。

 植民地人としては、フランスの脅威が去り、本国との連携の必要も失せて、それだけこんどは、本国のそうした締めつけを、植民地自治を脅かし、「植民地人がイギリス人としてもっている権利」を侵害する、不当な差別・抑圧と受けとめざるをえなかったでしょう[21]。そして、これに反抗し、当初は、政策の撤回を要求して国王に「嘆願」する、というスタンスでしたが、それでは「埒が開かない」というので、ついには独立戦争にまでエスカレートしていきます。それにともない、当初の、「イギリス人としての権利」要求も、「人間に生まれながらにそなわっている基本的人権」の主張へと、普遍化されていきます。

 

独立戦争

 1770年、「ボストン虐殺事件」が起きます。この事件は、州議事堂前で20人ほどのイギリス駐屯軍と対峙したボストン市民が、口論におよび、雪玉や石を投げて発砲をまねき、4~5人が死亡したというもので、それ自体としては、小規模な偶発事件でした。しかし、折からの反英感情に火をつけたことは確かでしょう。

 三年後の1773年には、「ボストン茶会事件」が起きます。この年、イギリス政府は、倒産の危機に瀕した東インド会社を救おうと、同社の茶のストックをアメリカ植民地で直売できるように、税率を引き下げました。当時、アメリカで消費される茶のほとんどは、産地から密輸入され、ボストンの貿易業者は莫大な利益をえていました。かれらの支持を背景に、富裕な商家出身のサミュエル・アダムズ[22]や貿易業者ジョン・ハンコック[23]の指揮のもとに、銀細工職人のポール・リヴィア[24]ら、急進派の市民が、インディアンに変装してボストン港沖のイギリス船に乗り込み、茶箱をつぎつぎに海中に投げ捨てました。これが、ボストン茶会事件です。

  この事件にたいして、イギリス政府は、損害を賠償するまでボストン港を閉鎖し、マサチューセッツ植民地を完全な王領植民地 (ほかに、領主植民地と自治植民地) に再編し、裁判を本国の監督下に置き、必要に応じて駐屯軍を民家に宿営させる、といった強硬措置を打ち出しました。また、同じ1774年には、カナダのケベック領に、フランス移民を考慮してカトリック教を認め、陪審制のない司法制度や、代議制議会のない統治機構を置く「ケベック法」を制定し、13植民地の西側にも押しおよぼそうとする気配でした。そのため、ボストン市民のみでなく、全植民地に、危機感と反撥が広がりました。サミュエル・アダムズらは、急進派の「通信委員会Committees of Correspondence」を、全植民地に広め、第一回の「大陸会議Continental Congress」に向けて、結束と代表選出を呼びかけます。1774年、その第一回「大陸会議」が、フィラデルフィアの、この「カーペンターズ・ホール」で開かれました。この建物は、1770年に「大工(Carpenters)」の組合集会所として建てられたもので、職人層が急進派の一翼を担い、支持基盤をなしていた、という事情を物語っています。

 

 翌1775年4月19日、独立戦争が勃発します。急進派は、イギリスとの戦争が避けられないと見て、コンコードに武器弾薬を蓄え、アダムズ、ハンコックらは中継基地のレキシントンに集結していました。イギリス軍はこれを察知して、秘かに小部隊を差し向けます。ポール・リヴィアは、ボストンの、この北教会の塔にランターンをふたつ灯させ、深夜みずからレキシントンに馬を走らせ、水路からのイギリス軍奇襲を知らせました。このエピソードが詩人ロングフェローの「ポール・リヴィアの疾駆」に謳われ、教科書にも載って、アメリカ人なら知らない人はいない「語りぐさ」となっています。

 ここが、そのレキシントンですが、広場の入り口に、銃をもつ「ミニットマン」の銅像が立っています。ミニットマンとは、いざというときには文字通り一分で銃を装備して闘える、普段は農夫の民兵です。[これが、現在ではときに、「メキシコとの国境を越えてやってくる不法入国者を、ミニットマンのように直接銃をとって追い払え」というスローガンとして使われるそうです。つまり、植民地支配に抗し、独立という大義のために銃をとった民兵の話が、大国にのし上がったアメリカの既得権を擁護するイデオロギーに使われ、非合法の銃使用をけしかけているわけです。スクール・バスを連ねてやってくる小、中学校の生徒に、教師は、歴史をどう教え、生徒はどう受け止めているのでしょうか。]

 この建物は、「バックマン・タバーン」といって、戦いの前夜ミニットマンが立てこもった居酒屋です。かれら77名は、700名のイギリス軍と戦い、しばらく進軍をくい止めました。

 レキシントンの戦いのあと、ここコンコードで、民兵約400名が、イギリス兵約100名と、この「オールド・ノース橋」を挟んでにらみ合いました。民兵は、作戦上また大義名文上、「敵兵をぎりぎりまで引き付け」ます。イギリス側の最初の発砲が、「全世界に轟渡る銃声shot heard' round the world」として、独立戦争の開幕を告げました。

  橋を渡ったところにはミニットマンの銅像がありますが、橋の手前には、イギリス兵戦死者の鎮魂碑が立っています。

  アメリカを含め、第二次世界大戦の戦勝国には、いたるところに戦死者の鎮魂碑が建てられていますが、対戦相手の戦死者も追悼する碑は見かけません。みな、自国の戦死者だけを、勇敢に闘った愛国者として讃えています。ところが、ここにはなんと、当時の対戦相手・イギリス兵戦死者の鎮魂碑があるのです。そのように和解できたのは、時が敵対感情を洗い流したからでしょうか、それとも、相手がなんといっても同じアングロ・サクソンの旧宗主国イギリスだったからでしょうか。

 このコンコードには、『若草物語』の作者ルイザ・メイ・オルコットの住居跡「オーチャードハウス」があります。また、その裏手には、かの女の父エイマス・ブロンソン・オルコットが、プラトーンの「アカデメイア」に倣い、成人向けの哲学サマー・スクールを開いていたという教室が、残されています。

 ボストン市の北にあるバンカーヒルの記念塔です。1775年6月17日、ここで植民地軍4000名が、イギリス軍2200名と対戦。人数と志気にまさる植民地軍は、農民や職人の民兵もまじえ、果敢に戦いましたが、銃砲の装備にかけて圧倒的に優勢なイギリス軍に勝てず、退却を余儀なくされます。

  ところが、六年後の1781年には、植民地軍のほうが、イギリス軍をこのヨークタウンに追い詰め、降伏させます。というのも、このときには、フランスの支援で銃砲を増強した植民地軍が、陸から、海からは、フランス海軍の援軍が、イギリス軍を挟み打ちにしたからです。

 独立戦争は、そのようにして植民地軍の勝利に帰しました。ただ、それには、「敵の敵」であるフランスの支援と借款を取り付けることが、不可欠でした。それを可能にしたのが、その間の1776年7月4日に発せられた「独立宣言」でしたし、フランス大使ベンジャミン・フランクリンの老練な外交でした。イギリス国王に忠誠を誓う勤皇派をなお多く抱え、いつ「敵」に舞い戻るかも分からないイギリス植民地を、フランスとしては、そうすんなりと支援するわけにはいかなかったはずです。この情勢を打開するためにも、いちはやく「独立宣言」を発する必要があったでしょう。

 

独立宣言

 さて、その独立宣言ですが、1776年7月4日、フィラデルフィアのこの「独立記念館」(インディペンデンス・ホール)で可決され、「自由の鐘」が打ち鳴らされるなか、内外に布告されました。それに先立つ6月7日の第二回大陸会議で、フランクリン、ジェファスンら、五名の起草委員が選ばれ、一番年の若いジェファスンが執筆し、一か月たらずで、可決、宣言にこぎ着けたのです。

 あまりにも有名な独立宣言ですが、中心の思想を、念のため確認し、問題となる点を、ここで取り出しておきましょう。

 

 まず、前文で、この宣言の宛て先を「人類」と広く取り、その「法廷」に、自分達たちが独立を迫られている理由を申し立て、その正当性を訴えようとします。独立という個別の利害を、いきなり主張するのではなく、「人類の発展過程」の「一齣」というふうに、客観的に捉え、「人類一般」に通用する根拠を示し、客観的に判断してほしい、と要請しています。それは同時に、自分たちの主張には「人類一般に通用する普遍的な妥当性がある」という自信の表われでもありましょう。

  そのうえで、「天賦人権論」がきます。

 「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の諸権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求のふくまれることを信ずる。」(『世界の名著』33、中央公論社、232)

  現実には、「人は平等に造られ」ていませんし、「平等に遇され」てもいません。イギリス本国と植民地とで、処遇が違いますし、本国でも王、貴族、僧侶、一般庶民では違います。植民地でも、植民者と原住者インディアン、あるいはプランテーションの主人と奴隷とでは、違います。としますと、この「独立宣言」は、現実にあるそうした差別・不平等を見据えたうえで、なおかつ人間は本来、平等『であるべきだ』という当為ないし理想を謳ったものと解せましょう。さらに、その前提には、「すべての人間は神のまえに平等である」というキリスト教の理念がある、といえましょう。

  しかし、数あるキリスト教の諸宗派が、ひとしなみに「神の前で人間は平等」と謳っているのでしょうか。

  1620年にメイフラワー号に乗ってやってきた「ピルグリム・ファーザーズ」は、ピューリタン、それも会衆派のカルヴィニストで、「二重予定説」というカルヴァンの教義を信じていました。この教義は、「神は、来世で永遠の生命に選ばれる信徒と、捨てられる信徒とを決め分けている」という趣旨です。なるほど、カルヴァン自身は、「誰が救われ、誰が捨てられるのかは、現世では分からない」と説き、その意味では「平等」といえないこともありません。しかし、来世で救われるかどうかの「予兆」が現世で見て取れる、となると、「予兆」の有る無しという区別が、決定的とならざるをえません。としますと、アメリカ独立宣言は、「ピルグリム・ファーザーズ」の信仰とは異なる思想を謳っていた、ということになるのでしょうか。

  ところで、独立宣言は、ご覧のとおり、端的に「神」とはいわず、「造物主Creator」という聞き慣れない言葉を使っています。よく知られているとおり、福沢諭吉[25]は、ここを「『』は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と訳し、「造物主」を、儒教の「天」に結びつけて解釈したようです。それでは、「独立宣言」の起草者も、儒教世界、仏教世界、イスラム世界そのほか、キリスト教世界にも通じる「普遍性」を読み込み、「造物主」という抽象度の高い言葉を選んだのでしょうか。

 しかし、この独立宣言は、前年の1775年に勃発した独立戦争のさなか、列国とくにフランスの援助を取り付けなければ敗北あるのみ、という緊迫した状況で、発せられました。ですから、二年まえの1774年に同じジェファスンが書いた、「イギリス領アメリカの諸権利についての意見の要約」と題する文書のように、「イギリス臣民の権利にもとづくイギリス国王への懇願」というスタイルをとるわけにはいきません。急遽、力点を、「人間としての普遍的権利」に置き換え、イギリス支配の不当性を、列国とくにフランスの世論に訴える、という状況内文書の性格を帯びました。したがって、当事者が、「人類」とはいってみても、非キリスト教世界まで念頭において考える余裕はなく、そういう問題は、独立宣言が、状況内の政治的使命を果たし終え、歴史的文書となってからあとの、解釈の問題とも申せましょう。

  では、この宣言にもとづいて独立し、発展したアメリカ合衆国は、ここに謳われた「平等」の理想を、その後一貫して追求し、全世界に範を垂れてきたのでしょうか。それとも、建国の歴史に制約された、特殊アメリカ的な「人権」ないし「自由と民主主義」を、一途に「普遍性あり」と信じ、独立以来その「チャンピオン」としてやってきたのだ、という自負のもとに、半ば善意で、他の文化圏に押しつけ、それが反撥を招き、全世界に混乱を引き起こしている、ということは、ないでしょうか。

 

 さて、あまり先を急がず、独立宣言にもどりますと、つぎにはいわゆる「社会契約説」の政府観・国家観が述べられます。

「これらの権利を確保するため、人類の間に政府が組織されること、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを、信ずる。」(同、参照)

 人間各人は、天賦の人権をそなえているとしても、「自然状態」では不安定で、いつ「万人が万人にたいして狼」という「無法状態」「無政府状態」に陥り、生命・自由・幸福を脅かされかねない、――そこで、各人は、他人もまた同じようにするという信頼のもとに、互いに契約を結び、各人の権利を政府に委託し、保障してもらおう、というわけです。

 しかし、わたくしたちは、そのような契約や委託をじっさいにした覚えはありません。とすると、この社会契約説も、各人が理性的個人として、自分の権利をよく自覚し、互いに契約して国家を造り、また、造り替えていく「べき」だ、という当為を投影したフィクションであり、理念である、と申せましょう。

 もっとも、このフィクションは、アメリカ建国の一時期には、ある程度当てはまるようです。すなわち、メイフラワー号の船上で、102名の「ピルグリム・ファーザーズ」は、「神との間、同時に各人相互の間に、共同の秩序と安全のため、厳粛に契約を交わして、ひとつの政治団体」をつくりました。そこを起点に、増え続ける個々人の間に、契約が積み上げられて、地域の自治組織から13邦(state)、さらにはひとつの連邦国家(united states)が成立した、といえないこともないでしょう。しかし、そういう社会契約のフィクションは、ヨーロッパ諸国家からはみ出た、アメリカ建国の一挿話で、他の圧倒的多数の事例には当てはめられません。そういう特殊性を忘れ、あるいは無視し、「普遍性あり」と信じて、強引に他に当てはめようとすると、どうしても無理が出てくると思います。

 

 では、独立宣言にもどって、政府がそうした権利保障の委託に応えない、というばあいには、どうすればよいのでしょうか。この点につき、独立宣言は、つぎのように述べています。

 「いかなる政治の形態でも、(そうした権利保障の)目的を毀損するものとなったばあいには、人民はそれを改廃し、安全と幸福をもたらす新たな政府を組織する権利をもっている、と信ずる。」(同)

 これはじつは、イギリス本国の「名誉革命」を思想的に追認した、ジョン・ロック[26]のいわゆる「革命権」の主張です。

 ところで、この権利を無条件/無制約に認めていきますと、始終革命が起き、混乱がつづいて、「無法状態」「無政府状態」に戻りかねません。イギリス本国では、1649年の「ピューリタン革命」で、オリヴァー・クロムウェル[27]が、チャールズ一世を処刑しました。その後、大きな混乱をへて、王政復古の後、ふたたび1688年には「名誉革命」が起きます。しかしこの間、イギリスの政治指導者と国民は、その経験から学んだのでしょう。こんどは穏やかな「立憲王政」に復帰し、やっと混乱が収まりました。

  ところが、フランスでは、イギリスの先例を知ってはいたのでしょうが、約100年後、アメリカ独立革命の影響も受け、1789年にフランス大革命が起きます。そのあと、約100年間、ナポレオンの独裁-七月革命-七月王政-二月革命-ナポレオン三世のボナパルティスム (という一種の独裁・第二帝政) -パリ・コミューン、という具合に、革命と反革命が繰り返され、1880年代になってやっと「第三共和政」のもとに政治的安定が回復されます。

  なるほど、フランスには、革命の機が熟していて、フランス国民自身が革命を起こしたのですから、長い政治的混乱は、みずから責任を負うべきものといえましょう。しかし、ある国で、アメリカの、あるいはキリスト教世界の規準でみて「暴政」が敷かれ、「人権」が蹂躪されている、と見えるけれども、当の国民自身は、政府の転覆をくわだててはいない、というばあい、外から攻め入って、その国民の「革命権を代行」し、「自由と民主主義」を実現して「やる」というようなことが許されるでしょうか。その国は、辛うじて成り立っていた「安全保障」を外から破壊され、「暴政のほうがまだまし」といえるような「無法状態」「無政府状態」に突き落とされるでしょう。

 

 さて、アメリカ独立宣言の起草者は、そういう「革命権」の拡張解釈と「無政府状態」への転落という危険を、事前に察知し、つぎのように書き加え、歯止めをかけていました。

「長く存続した政府は、軽微で一時的な原因によっては、変革されるべきでない。それは、じつに慎重な思慮の命ずるところである。過去のすべての経験によれば、人類は、害悪に堪えられるかぎり堪え、年来したがってきた政治形態を廃止しようとはしなかった」(同、参照)

 ここでは、イギリス流の「慣習法(コモンロー)」に意義を認め、一定の譲歩をしている、と解せましょう。

 しかし、そのうえで、こう述べます。

「政府の暴虐と簒奪がつづくばかりか、一貫した目的のもとに、人民を絶対的暴政で圧倒しようとするとき、そのような政府を廃棄し、新たな保障の組織を創設することは、当の人民の権利であり、義務である」(同、参照)

  そして、アメリカ植民地にたいする歴代のイギリス国王ならびに議会の施策は、まさにそうした状態に当たると、ボストン港閉鎖、総督による州議会解散、外国人傭兵軍の派遣ほか、全18項目の罪状を列挙します。

 そのうえで、議会もまた、植民地からの度重なる懇請に耳を貸さなかったばかりか、たびたび悪法を立案、可決した、と断罪します。なるほど、イギリス議会は、マグナ・カルタ以来、君主の専制を制限し、イギリス国民の権利を保障する役割を一定程度果たしてきたとしても、この事案については、事実に即してみて、国王と同罪、あるいはそれ以上、との判定をくださざるをえない、というわけです。

 そういうわけで、この事案については、アメリカ植民地人民は、十分な根拠をもって、イギリス国王への忠誠を解消し、イギリスとの政治的関係を断ち、他国との同盟や通商条約を結ぶ、完全な独立国として出立する、と結論し、宣言しています。

 

独立国家の出立――連邦政府樹立へ

 さて、独立戦争は、独立宣言の公布、フランスの軍事的/財政的支援により、戦況が好転し、1781年のヨークタウンで、勝敗は決しました。その結果が、1783年のパリ条約で国際的に追認され、アメリカ合衆国の独立が承認されます。

 しかし、そのあとが、たんへんでした。独立国家は、13邦がバラバラのままでは立ち行きません。(1)租税を徴収し、戦時の借款を返済して、財政を建て直すこと、(2)諸外国との間に、同盟や通商条約を結ぶこと、(3)領土をめぐる内部の利害対立を調整すること、(4)戦時の民兵を常備軍に再編成して、国防に備えること、など、内外に山積する政治課題を解決するには、中央に連邦政府が、組織されなければなりませんでした。

 それは同時に、戦争中は表に出なかった、13邦の間、社会階層の間、思想の間の、複雑な利害対立が、公然と主張され、妥協点を見つけながら、憲法の制定に収束する過程でもありました。ハミルトン[28]、ジェイ[29]、マディソン[30]執筆の論説「ザ・フェデラリスト」は、効率的な中央政府の必要を強調すると同時に、人民の権利を侵害しないように、「三権分立」つまり、立法・行政・司法の「相互抑制と均衡」を説きました。後に初代財務長官となるハミルトンは、工業発展を促進する手を打とうとしました。それにたいして、ジェファスンは、信教・思想の自由ほか「権利の章典」を、憲法に明記するように求め、強大な連邦常備軍の編制には危惧を表明し、奴隷制ほか身分差別に反対し、農民層や職人層の自立と自治をあくまで擁護しようとしました。 

 そうした争点をめぐる対立は、憲法制定時には、ひとまず妥協に達しますが、その後拡大し、やがて1861年から65年にかけての「南北戦争」に発展します。その経緯は、これまた興味深いのですが、別の機会に譲りましょう。ここでは、ちょっと先を急ぎ、独立建国以来のアメリカの発展と現状とを概観し、問題点を明らかにして、「結び」に代えたいと思います。

 

どこからどこへ――アメリカ発展の原動力

 エンパイアステートビルの展望台に立って四方を見渡しますと、所狭しと林立する摩天楼/高層ビルの壮観に、なんといっても圧倒されます。400年まえの、ほとんど無人の島に、人類の永い歴史からみればごく短い期間に、よくぞこれほど巨大な物質文明を築き上げたものと、エネルギーの凄まじさに、驚くほかはありません。それと同時に、このエネルギーが、このまま膨張をつづけ、あらぬ方向に漂流したら、人類はいったいどうなるのかと、いわば「文明論的な戦慄」を覚えます。

 わたくしどもは、今後の人類の課題が、闇雲に経済の外延的拡大を競うことにはなく、むしろ地球環境の許容限界内に生産力を抑え、北と南その他の不平等格差を解消して、人類が平和裡に共生していくことにある、と信ずる者ですが、それにもかかわらず、あるいはむしろそれだからこそ、このエネルギーの源泉をたずね、それが「どこからきてどこへいくのか」、それを「制御する手掛かりはあるのか」と問わずにはいられません。

 さて、これまでなんどか、建国の父で最長老のベンジャミン・フランクリンに触れました。かれは、老練な政治家、外交官でしたが、他方、凧を使って稲妻が電気であることをつきとめ、この発見を応用して避雷針をつくった科学者、発明家でもありました。さらに、実業家、ジャーナリスト、博愛主義的つまり非宗派的な道徳を説く著作家、としても、幅広く活躍しました。アメリカ建国の精神を一身に体現した人物をひとり選ぶとしますと、まずフランクリンを挙げてもよいでしょう。

 

 では、その精神の中身は、どういうものだったのでしょうか。

.「近代資本主義の精神」とその宗教的背景

 その問いに、説得力のある答えを出しているのはやはり、20世紀最大の社会科学者マックス・ヴェーバー[31]と思われます。

 かれは、フランクリンの道徳的訓戒に「近代資本主義の精神」が語り出されている、と見ました。「近代資本主義の精神」とは、営利の追求を、合法的な職業として、正直・勤勉・節約などの徳目をまもって実直になされるかぎり、道徳的に「やましいこと」ではなく「正しいこと」と肯定し、奨励する「倫理」、――というよりも、そういう倫理が身について、血となり肉となった「生き方」「ライフスタイル」「エートス」――と定義されましょう。 古今東西の道徳はおおむね、営利の追求を「賤しいこと」さらには「諸悪の根源」として非難してきましたが、「近代資本主義の精神」にかぎっては、それとは正反対だというのです。そのうえでヴェーバーは、そういうエートスの宗教的背景を尋ね、それがなんと、カルヴァン派、バプテスト派などの「禁欲的プロテスタンティズム」から派生したと見ます。

. キリスト教の諸宗派――概観

 ちなみに、キリスト教は、まず「カトリック」と「プロテスタント」に二分され、「プロテスタント」は、多数の宗派に分かれますが、イギリス国教会派やルター派は、「禁欲的プロテスタンティズム」には数えられません。

「カトリック」では、神と平信徒との間に、ローマ教皇を頂点とする聖職者の組織が介在し、新生児は幼児洗礼を受けてそのまま教会のメンバーとして育ち、なにかと教会に頼って生きることができます。それにたいして、「プロテスタント」は一般に、平信徒個々人が、神と直接対峙し、自分で聖書を読み、信仰を確かめ、個人として自立して生きることを求められます。そのなかでも、カルヴァン派、敬虔派、メソディスト派、バプテスト派の四宗派は、個々人が厳格におのれを律するという意味の「禁欲」を要求する度合いが著しいので、とくに「禁欲的プロテスタンティズム」と呼ぼう、というわけです。

. ニューイングランドの特性――「近代資本主義の精神」の「純粋培養器

 としますと、ニューイングランドは、よりによってカルヴァン派など「禁欲的プロテスタンティズム」の信徒――それも、信仰をまっとうするため、母国を捨て、大西洋を渡って新天地を切り開こうとするほど、能動的な人たち――が、そのように結集して創り出した植民地ですから、すでに17世紀、経済システムとしての近代資本主義が発展する以前に、いちはやくその「禁欲」が根を下ろし、「近代資本主義の精神」のいわば「純粋培養器」をなしていた、ということができましょう。

. 「二重予定説」と「禁欲」

 では、カルヴァン派の宗教信仰から、どのようにして「禁欲」が生まれるのでしょうか。この観点から重要なのは、やはり「二重予定説」です。これは、さきほども触れましたとおり、「神は、信徒のなかでも、一握りの少数者だけを、神自身の栄光を顕す道具として選び、来世で永遠の生命に予定し、人類の残余の者は、『滅びの群れ』として打ち捨て、あるいは罪を犯させて、『永遠死滅』に予定している」と説く、峻厳な教理です。この教理は、「『悪人の繁栄と義人の苦難』、『苦難の存在そのもの』といった人間世界の不条理と、その世界を創造した神の全能とを、どう考えればよいか」という「神義論の問題」を、考えぬいた末に到達した結論のひとつで、宗教思想としてはすぐれて首尾一貫しています。

 それはともかく、この教理を真摯に受け止めた平信徒個々人は、「この自分は選ばれているのか、それとも捨てられているのか」という疑惑と不安から逃れ、現世で「選びの予兆」として「確証」をえるため、厳格な自己審査と熟慮によって、「神与の使命」を達成していく「生き方」、すなわち「禁欲」を、みずからに強いるよりほかはありませんでした。

 西洋中世には、十五分ごとに時間を区切って労働する、といった規律ある生活は、修道士が修道院のなかで実践しただけでしたが、「禁欲的プロテスタンティズム」では、いまや平信徒が、「神与の使命」としての現世の職業において、そういう「禁欲」を生涯堅持しなければならなくなったのです。かれが、事業家になるとしますと、救いを求める「禁欲」が、規律ある計画的、組織的な事業経営に結びつけられ、そういう動機のない同業者との競争に打ち勝つにちがいありません。その「成功」は、翻って「神の祝福のしるし」と感得され、「神から託された経営」をいよいよ拡張していく動因として作用するでしょう。それを見た同業者は、同じ信仰を持ち合わせていなくても、事業家として「淘汰」されたくなければ、どう振る舞えばよいか、を学ぶでしょう。そのようにして、規律ある経営が、徐々に、信徒の範囲をこえても広がるにちがいありません。

. 宗教的「禁欲」から「近代資本主義の精神」へ

 では、そういう信仰から、さらに「近代資本主義の精神」が、どのように派生するのでしょうか。この点にかんするヴェーバーの説明は、やや抽象的・図式的との印象を免れません。かれによれば、禁欲が、俗世のなかで成果をあげ、富が増してくると、人間にはそれだけ「気の弛み」が生じ、当初の「疑惑と不安」は、それだけ薄れてこざるをえません。禁欲もそれだけ、利得を目当てに組み換えられましょう。ちょうどそこに、過渡的に生まれてくるのが、禁欲は保存しながら宗教色は薄れた「近代資本主義の精神」にほかならない、というわけです。

 ですから、「近代資本主義の精神」と (それを不可欠の一因とする) 近代資本主義システムの発展は、宗教改革者の側から見ますと、「禁欲」がなまじ経済上の効果を収めたため、それが「仇となって」宗教性の墓穴を掘る、「意図せざる逆説的(随伴)結果」にちがいありません。さきほどから、ヨーロッパ大陸では「神のまします天」をめざして尖塔の高さを誇っている教会が、ここアメリカでは、俗世のビル群に追い抜かれて、その谷間に埋もれている風景を、なんども見てきましたが、これは、宗教信仰に端を発した「近代資本主義の精神」が、やがて宗教信仰を凌駕して経済発展を押し進め、巨大な物質文明を築き上げた、という事情を象徴している、といえるのではないでしょうか。そうしますと、アメリカ400年の歴史とは、ヨーロッパ大陸の宗教改革から生まれた信仰が、母国における制約を脱して、いわば「純粋培養」的に成長し、「近代資本主義の精神」に「転態を遂げ」ながら、普及・拡大していくとどうなるか、という世界史上の壮大な実験であった、とも申せましょう。アメリカの現状は、マイナスの側面も含め、そういう実験の「総まとめ」「総決算」として、捉え返されましょう。

 ところで、その「実験」の経緯は、宗教改革者からではなく、「近代資本主義の精神」の担い手、フランクリンや、同じくアメリカ建国の父であったジェファスンの側から見ると、どうでしょうか。かれらは、「禁欲プロテスタンティズム」から「近代資本主義の精神」への「転態」を、なすすべなく受け入れ、「逆説的結果」に甘んじたのでしょうか。それとも、かれらは、アメリカ植民地の精神的ルーツのひとつをなしたカルヴィニズムの宗教的特性に、一定の批判を抱き、そこから「近代の精神」への転換を、意図して導いた、といえるのでしょうか。

. 「神の敵」にたいする憎悪と迫害

 なるほど、「神義論の問題」を神中心に考えぬくカルヴァンの教理は、すぐれて首尾一貫しています。しかし、平信徒大衆は、カルヴァンの神学に、正面きって論駁はできないとしても、なにかそれだけ無理を感じ、その感情を押し殺していたのではないでしょうか。そうした無理と抑圧からは、一種の激情が生まれ、これが、「(神に捨てられた) 神の敵」にたいする蔑視や憎悪へと凝結することはなかったでしょうか。そういう蔑視や憎悪は、いったん「神政政治体制」を確立してみずから政治権力を手中に収めるや、異端糾問や「神に捨てられた輩」にたいする弾圧や迫害として、発現しかねないでしょう。

 すでにカルヴァン自身が、ジュネーヴの「神政政治体制」下で、異端者セルヴェトス[32]を火あぶりの刑に処しました。オリヴァー・クロムウェルも、かれの「鉄騎隊」、「神の正義のために選ばれた聖者の軍隊」の内部では「寛容」だったようですが、ピューリタン革命ではチャールズ一世を処刑し、カトリックのアイルランドに攻め入っては、みずからは「正義」と信ずる殲滅戦を展開しました。そういう激情は、大西洋を渡っても、一時期、ニューイングランドのセイラムで、「魔女狩り」の嵐として吹き荒れました。中世の先例に遡ってみても、中世修道院「禁欲」の模範とされるドミニコ会士が、「魔女狩り」にも辣腕を振るったようです。いずれも、「人間にはなしがたい残虐行為」を、「神の名のもとに」あえて行っています。 

. キリスト教そのもののルネッサンスとしての「第二次」宗教改革

 さて、ナザレのイエスは、「暴力は暴力を呼ぶのみ」と看破し、当時のユダヤ教会とローマ帝国という教権と俗権に、非暴力で抵抗しました。とすれば、キリスト教史を彩る残虐な暴力行使は、まことに不可解で、イエスの精神を裏切る倒錯と申せましょう。

 しかし、キリスト教にとって、救いは、カルヴィニズムの倒錯を直視し、イエスその人の精神に立ち帰って反暴力に徹しようとするいわば「第二次」宗教改革者が、いうなれば「キリスト教そのもののルネッサンス」として、不祥事に踵を接して出現した事実に求められましょう。銃火器によるインディアン追い立てや「魔女狩り」に抗した、バプテスト派のロジャー・ウィリアムズ、また、「自分たちの理想を実現しようとする戦いに、なぜ武器をとって加われないのか」という当面の非難にめげず、反戦・非暴力、徴兵拒否を貫いた、ウィリアム・ペンらクェーカー派の信徒たち。

 ヴェーバーは、カルヴィニズムとバプティズムとの差異に目を止めながら、「禁欲的プロテスタンティズム」として一括しました。わたくしどもはいま、その差異のほうをこそ、いっそう重視し、理念型的に拡大してみなければなりますまい。

.「皇帝教皇体制」と「神政政治体制」との同位対立的弊害

 ここでアメリカ建国の前史を振り返りますと、カトリックによる聖と俗、両権力の壟断に抗したイギリス国教会が、国王が教権も握る「皇帝教皇体制」をなし、その迫害を逃れ、新天地で信仰を貫こうとした、ほかならぬピューリタンも、これまた「神政政治体制」という同位対立に走りました。こういう「歴史の弁証法」を直視しますと、教権と俗権とが同一人物ないし同一機関の手中に集中されるのはよくない、両者が別人ないし別機関に分けられ、相互に抑制されながら、双方がそれぞれの限界内で長所を発揮する体制が、現実に最善ではないか、――俗権について、立法・行政・司法の三権分立が求められるように、教権と俗権との間にも、相互の抑制と均衡が保たれてしかるべきではないか、――という歴史の教訓が、引き出されましょう。建国の前史が、カトリック、イギリス国教会、ピューリタニズム、三つ巴の過熱によって彩られているだけに、その熱狂から醒めて、独立・建国の課題をになった世代に、そういう知恵が生まれても、不思議はないでしょう。

 そうした知恵を、最年長のフランクリンも、最年少のジェファスンも、別様ながら、ともに体現していたように思われます。

. フランクリンの生涯

  フランリクンの父親は、蝋燭つくりの実直な職人で、カルヴァン派の長老会派に属する敬虔な平信徒でした。一家は「貧乏人の子沢山」でしたが、父は利発なベンジャミン少年を牧師にしようと、ボストン市には当時から開設されていた公立のラテン語学校に入れました。しかし、ベンジャミン自身は、聖職に就くという経歴を望まず、まずは兄の印刷工場で植字工として働き、やがてフィラデルフィアに移って、みずから印刷屋を開業し、独立独歩、精励刻苦して、自分の道を切り開いていきます。そうしながら、自分の体験から割り出した、じっさいに役立つ教えを、「一日一善」風に、日めくりカレンダーに印刷して売り出し、成功を収めます。頭から教義や道徳を振りかざすのではなく、他方、営利追求が人生のすべてと決めてかかるのでもなく、受け入れやすい「富に通じる道徳」を説いて、世に広めたのです。

10. フランクリンにおける宗教と道徳

 宗教との関係について、かれは『自伝』に、こう書いています。「わたしは、長老教会の会員として敬虔な教えを受けて育った。しかし、この派の教義のなかには、たとえば『神の永遠の意志』『神の選び』『定罪』[つまり「予定説」]など、わたしには不可解で、信じられないものがあったし、日曜日は勉強日ときめていたので、日曜礼拝には出なかった。」(松本/西川訳『自伝』、岩波文庫、131頁、参照)

 とはいえ、「宗教上の主義をまったく持たないのではな」く、「たとえば、神の存在、神が世界を創造し、摂理にしたがってこれを治め給うこと、神のもっとも嘉し給う奉仕は人に善をなすことであること、霊魂の不滅、すべての罪と徳行は、現世あるいは来世においてかならず罰せられ、または報いられること、などについては、わたしはけっして疑ったことはない。これらは、あらゆる宗教の本質であると考え、そしてわが国のあらゆる宗派の宗教に見出せることなので、わたしはすべての宗派を尊敬した」(同、13132頁、参照) とあります。各派から献金を求められると、「宗派を問わず、額こそ少ないが、寄付を拒むことはけっしてなかった」(同、132頁、参照) とのことです。

 それでは、無差別の博愛主義か、というと、そうでもありません。どの宗派にも「人間の道徳性を鼓舞助長ないしは強化する傾きを持たず、かえってもっぱらわたくしどもを分裂させ、互いに不和に陥れるような性質の信仰箇条が多少とも交ざっているので、その度合いに応じて尊敬の程度がちがいはした」(同、132頁、参照)とのことです。

 そのうえで、当時フィラデルフィアに一人いた長老派の牧師については、勧められて礼拝式に出席したけれども、失望して止めた、といって、その理由をつぎのように述べています。「かれの説教は主として神学上の論争か、あるいはこの宗派独特の教義の説明で、どの説教もわたしには無味乾燥で興味を惹かず、また教えられるところもなかった。というのは、かれは、道徳上の原理についてはひとつとして説くことがなかったし、……わたしたちを善良な市民とするよりは、むしろ長老教会派に仕込むことを目的としているらしく思えた。」(同133頁、参照)

  宗派問題については意図して控え目なフランクリンが、こうまでいうのですから、カルヴィニズム、とくに予定説にたいしては、意識的に批判的・否定的なスタンスをとったといたのでしょう。裏返せば、かれ自身はそれだけ、宗派的な争いを避け、「人間の道徳性を鼓舞……して」「善良な市民」に育てる作用は重視て、神も「信賞必罰神」「勧善懲悪神」に力点を置き、いうなれば「人間の側から活用しようとした」のでしょう。

 そのうえ、フランクリンは、節制、寡黙、規律、節約、勤勉といった「十三徳」を、みずから習慣として身につけようと、毎日、自分の「閻魔帳」をつけて、自己審査・自己制御に努めましたが、それにもかかわらず、あるいはまさにそうしたからこそ、自分を含む人間は、道徳的にそれほど強靱ではなく、自己目的・固有価値としては徳目をまもりきれないと悟りました。したがって、「信賞必罰神」の支援を求めると同時に、徳行にたいする物質的報酬もやはり必要と考えて、「富に通じる道徳」を説いたのでしょう。

  いずれにせよ、人情の機微を熟知した苦労人フランクリンの、そういう「大衆路線」が、「近代資本主義の精神」の普及・拡大、したがって物質文明としての成果達成に、少なからぬ役割を果たしたことは、確かでしょう。

 

ジェファスンの生涯と思想

 さきほどは、独立宣言の中身をくわしく見ましたが、その起草者ジェファスン[33]は、ヴァージニアの西の辺境に、測量技師の長男として生まれました。十七歳でウィリアム・メアリ大学に入学しますが、そのときにはすでに、ギリシャ語、ラテン語、および西洋の古典にかんする教養を修得していた、といわれます。フランクリンは、現場でたたき上げた独学の士でしたが、ジェファスンは、当時として最高の教育を受けたわけです。

  ウィリアム・メアリ大学では、数学のスモール先生から、17歳年長のジョージ・ウィズを紹介され、法律学と政治思想の手ほどきを受けます。二年後に卒業すると、ウィズの法律事務所で、弁護士としてはたらきます。ウィズ自身、ウィリアムズバーグから代議員に選出され、後にはヴァージニア代表として第一回大陸会議に出席し、独立宣言にも署名しました。当初にはジェファスンの後見役、後には盟友となって、かれの活動を支えたのです。ちなみに、ウィズの母親は、教養あるクェーカー教徒で、若いウィズがギリシャ語やラテン語で聖書を読むとき、かたわらにあって学習を助けた、と伝えられています。

 ジェファスンは、33歳の若さで独立宣言を起草したあと、いったんヴァージニアに帰り、代議員として、土地の長子相続制廃止や信教自由法の実現に努めました[34]。1785年に、フランクリンの後任として、フランス駐在の全権公使となり、89年に帰国して、ジョージ・ワシントン初代大統領のもとで国務長官、1800年から08年までの二期、新首都ワシントンで、第三代大統領の職責を果たします。1809年には引退して、またヴァージニアに帰り、19年にはヴァージニア大学を創立して学長に就任しました。1826年に死去しますが、墓碑銘には、本人の希望で、「独立宣言の起草者、ヴァージニア信教自由法の起草者、ヴァージニア大学の父」とのみ記されているそうです。

 

   さて、ジェファスンは、みずから「政教分離の原則」にしたがい、政治権力を握る地位にある者として、宗教的意味を帯びる行為はもとより、自分の宗教的信条を公表することさえ、注意深く控えていました。しかし、死後に収録された私信では、しばしば私見を吐露しています。そのひとつとして、ウィズの弟子となった甥に、勉学の心得をパリから書き送った手紙に、こうあります。「理性を堅くその主座に就かせ、いっさいの事実と意見とを理性の審判の前に立たせなさい。大胆に、神の存在そのものをすら、問題としなさい。神がおられるならば、理性にもとづく帰依をこそ、盲目の恐怖による服従にもまして、嘉したまうでしょう。」(『世界の名著』33281頁、参照)

  そのように、人間の理性に信頼を寄せる立場から、カルヴァンについては、こう述べています。「わたしは、カルヴァンのように、かれの神に呼びかけること…はできません。…もしも偽りの神を拝した人があったとすれば、かれカルヴァンこそその人です。かれが説いた…[神的]存在は、あなたやわたしの敬う造物主、世界の恵み深い支配者ではありません。むしろ悪の心のあるデーモンです。カルヴァンのように悪の属性を神に帰し、冒涜するよりは、むしろ神を信ぜずというほうが、恕されるべきことと思われます。」(『世界の名著』33303頁、参照) 

  そのうえで、ナザレのイエスについては、こういいます。「同胞と友人にかんするかれの道徳的教義は、…普遍的な博愛を、ひとり同胞友人または隣人、同国人にとどまらしめず、さらにそれをすべての人類に及ぼし、万人を一家として包容しつつ、愛、慈愛、平和、共通の欠乏、共通の救助を紐帯として、あまねく広め及ぼさせた点[にある]。」(『世界の名著』33297頁、参照)

 ジェファスンが、独立宣言に、「造物主は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と記したとき、その「造物主」には、このように、同国人、同じ信仰をもつキリスト教徒の範囲を越えて、全人類に愛と平和をもたらそうとする、ナザレのイエスの精神、その普遍主義が、読み込まれていたのです。

 したがって、ジェファスンは、戦争について、こういいます。「…わたしは平和を愛します。そして、アメリカが、不正や権利の侵害を罰する方途として、戦争以外の方策を示しうるならば、アメリカは世界に向かって、(アメリカの独立革命と建国のうえに) さらにもうひとつの有益な教訓を与えることになると、わたしは熱望しています。なんとなれば、戦争は、刑罰手段としては、受刑者たちにたいするのと同じ程度に、処刑者にとってもひどい刑罰とならざるをえないからです。」(『世界の名著』33287-88頁、参照)

 さて、わたくしどもは、ジェファスンをまるごと、「近代資本主義の精神」の体現者に見立てるわけにはいきません。しかし、かれも事実上、「皇帝教皇体制と神政政治体制との同位対立」を克服して、カルヴィニズムの宗教的非寛容を排し、醒めた人間理性に信頼を寄せ、キリスト教の範囲をこえる博愛を説いた、という点で、フランクリンと軌を一にしていた、とは申せましょう。かれは、市民の一人一人が批判的理性をそなえるのでなければ、民主制はたやすく衆愚制に堕する、と洞察して、民主制の文化的条件の整備に、それだけ力を注いだのでした。

 かれが、なぜそうなしえたのか、については、ウィズをとおしてのクェーカー派の影響が注目されましょう。この点は、もっとよく調べてみなければなりませんが、もしそうであるとしますと、ジェファスンは、「キリスト教そのもののルネッサンス」としての「第二次」宗教改革を踏まえて立った思想家であり、そのかぎり、かれの起草したアメリカ独立宣言には、フランスの支援をとりつけるため、という状況内の政治的機能を越え出る、普遍的意義がそなわっていたことになりましょう。

 

 ここでちょっと、クェーカー派について補足いたしますと、そこでは、平信徒のひとりひとりが、聖霊(神の霊)を受けて「内なる光」を灯され、良心にしたがって生きようとします。聖霊の受け入れについては、「神は、被造物が沈黙するときにのみ、語りたもう」という原則に立って、「魂の深い静けさ」をつくり出そうとし、そのためには被造物としての雑念を抑えなければならないと説いて、禁欲的な自己制御を実践します。したがって、その面では確かに「禁欲的プロテスタンティズム」です。しかし、聖霊はすべての人にきている――したがって、キリスト教の聖書という特定の形では啓示を受けとっていない人のところにもきている――、と説き、教理上、恩恵の普遍性を認めます。この点で、神の恩恵を「神に選ばれた信徒」、それももちろんキリスト教信徒、に限定するカルヴィニズムとは、対照的です。

 また、政治権力との関係につきましても、カルヴィニズムは、「神の正義」という大義名分があれば、政治権力の行使を容認し、「正義の戦争」には積極的に加担します。それにたいして、クェーカー派は、思想・信条の実現に政治権力を用いず、たとえ「正義」のためでも暴力行使は認めず、「良心的徴兵拒否」を貫きます。

 ちなみに、独立宣言が発せられたのは、ペンシルヴェニア州のフィラデルフィア市でしたが、この地名は、語源では、「ペン家の森にある兄弟愛の町」、アメリカにおけるクェーカーの布教者ウィリアム・ペン一族の森にある兄弟愛の町、という意味です。

 

アメリカの現状に思う

  さて、歴史はもとより、思想だけでは動きません。物質的・経済的要因など、多元的な諸要因が、交互作用を繰り返しながら進むものです。かつて禁欲的プロテスタンティズムから派生した「近代資本主義の精神」を一要因として、近代資本主義の経済システムが確立されますと、このシステムのなかで生み出される物質的利害、たとえば軍需産業や銃火器産業の利害が、こんどは逆に、宗教的・思想的要素を規定します。というよりも、与えられた宗教的・思想的要素を、イデオロギーとして利用しながら、貫徹されます。

 たとえば、アメリカ人とくに政治家は、しばしば「真珠湾を忘れるな」と口にします。なるほど、往時の日本が、朝鮮、中国を侵略したうえ、アメリカとも戦争を始めたことは、無謀というよりも、それ自体としてよくないことでしたが、とりわけ奇襲は、フェアではありませんでした。それは、アメリカに、「正義の戦争」という大義名分を与え、これによって正当化される「過剰報復」をもたらしました。独立戦争のときにも、コンコードで、イギリス軍に先に発砲させて、戦争の大義名分を取得し、そのエピソードがよく記憶されているアメリカのことです。真珠湾奇襲は、軍需産業ほか、アメリカの戦争勢力にとって「飛んで火に入る夏の虫」、「労せずして『正義の戦争』イデオロギーを動員できる奇貨」と受け取られたにちがいありません。

 しかし、その後の経過は、どうでしょうか。真珠湾攻撃は、なんといっても軍事施設に限定されていました。それにたいして、アメリカの報復は、日本の都市という都市に爆弾と焼夷弾を雨霰と降らせる「絨毯爆撃」、救護者への機銃掃射、広島/長崎への原爆投下という無差別の大量殺戮で、さながらクロムウェルによるアイルランド殲滅戦の二十世紀版でした。あの殲滅作戦は、国際正義・国際法に違反する「過剰報復」、「人道にたいする罪」ではなかったでしょうか。

 

  わたくしは、今回の旅行中、「自由の鐘」や「自由の女神」を一目見るのに、検問のため長時間待たされる不自由に耐える間、ジェファスンだったら、911事件にどう対処したろうか、と思いめぐらさざるをえませんでした。かれなら、テロを「新しい戦争」とはいわず、あくまで犯罪として、戦争と明確に区別したうえ、国際テロ・国際犯罪を防ぐ手だてとして、「国際司法裁判所」「国際刑事裁判所」の強化・確立を訴えたでしょう。それにアメリカも協力し、国際法上公正な処罰を期する、という方向を打ち出して、国際世論の支持/賛同をえると同時に、あの状況では「正義の戦争」に傾いてもいたしかたない被害者と世論の激昂を鎮め、「処刑者も、受刑者にましてひどい刑罰を受ける」と分かっている戦争は、なんとしても回避したにちがいありません。そのうえで、中長期的には、「テロは許さない」という態度は堅持しつつも、「なぜ、アメリカが、こうまで憎まれるのか」、「なぜ、イスラム諸国の広汎な人民が、断固たる非難によってテロを抑止しようとするよりも、秘かな支援から拍手喝采にまで傾くのか」と冷静に問い、中東とイスラエルにたいする二重規準政策の見直し、立て直しをはかったでしょう。

 ジェファソンならずとも、為政者が「勝義の政治家statesman」で、自文化を相対化して捉え返す度量と識見があれば、かつての「魔女狩り」、「赤狩り」(1960年代のマッカーシズム)につづく「テロリスト狩り」というこの過熱と逸脱の「袋小路」は、避けられたのではないでしょうか。

 

日本の現状に思う

 翻って日本の現状を見ますと、どうでしょうか。

「現憲法は、アメリカの占領軍によって押しつけられたから、自主憲法を制定しよう」と主張する人々がいます。かれらは、憲法の中身にかんする議論を避け、あるいは「集団的自衛権」にかかわる条項だけにかぎろうと、そうした手続き論にすり替えているのではないでしょうか。日本国憲法には、権利の章典といい、平和主義といい、アメリカ建国の思想、というよりも十六世紀以来、アメリカ建国前史の世界史的激動と苦難から学びとられた、普遍的な思想が、こよなく集約されています。

 なるほど、直接には、日本における軍国主義の復活を阻止する、という占領軍民政局の政治目的が、重きをなしたにちがいありません。しかし、それに加えて、アメリカ人のなかには、普遍的な平和主義を志向してきた人々もいて、絨毯爆撃や原爆による死屍累々の焼け野原をまえに、「過剰報復」を悔い、みずからの思想のもっともよきものを贈って、平和を願い、謝罪に代えた、とも思われます。わたくしは、そこに、日米人民友好の原点があり、両国における逸脱の現状にたいする批判の準拠標もある、と考えます。

 

  さて、はじめにも触れましたとおり、イギリスがスペインの無敵艦隊を破って植民地争奪戦に乗り出す1588年は、日本では秀吉の刀狩りの年に当たります。それ以後、わたくしたち日本人は、それから明治開国まで、欧米諸国が銃をとって戦争や革命や植民地争奪を繰り広げている約三百年間、おおむね平和を享受してきました。わたくしども「戦後世代」は、欧米とは対照的な、そういう経緯を、「歴史的後進性」「鎖国下の惰眠」、あるいは「武器をとって革命を起こせなかった臣民性」というふうに、いずれにせよ否定的に、教え込まれてきました。

  しかし、歴史を実践として取り戻すことは不可能で、なんど呟いても詮ないことです。むしろ、そういう「負い目」は捨て、欧米の歴史を、他者の歴史として、謙虚に、しかしできれば当事者以上に鋭く学んで、わたくしたち自身が生きる糧としたいものです。他方、永年の平和と、そのなかで蓄えられてきた、「繊細で稠密な生活技術」ともいうべき文化には、もっと目を止め、大切にしたいと思います。

 今回の旅の全般的印象では、北米東海岸は、平坦でも豊かな自然に恵まれた土地でした。ハイウェイ沿いに延々とつづく紅葉は、どこをとっても「名所」といえそうなほど見事でした。こういう自然の恵みを大切にする感覚があれば、アメリカは、大気汚染を防ぐ「京都議定書」を、いちはやく批准していてもよさそうなのに、と思えました。

  自然にくらべて、「日常生活を細やかに生きる技術」ともいうべき領域では、いろいろ疑問にぶつかりました。たとえば、わたくしどもは、グルメ嗜好は持ち合わせませんが、ホテルやレストランの食事は、量は多くても味付けが大まかで、感心しません。

 アメリカ人は、たとえば通りで道を尋ねても、評判どおりフランクで、親切です。ただ、街には肥満体の人が目立ち、「なんのための自由か」と考え込むほどでした。

 都市では、車が渋滞し、公共輸送機関にも、定刻運航は望めません。

 日本に帰ると、「これでやっとウォシュレットのない生活から自由になれる」とホッとします。

  とりとめもない話になってきましたので、このへんで切り上げます。

 最後に、わたくしは、子どものころ焼夷弾の下を逃げ延びた世代に属し、「新憲法」は歓迎しても「アメリカ的なもの」には反撥する、というアンビバレンツを生きてきました。その狭間で、「アメリカ的なもの」また「ヨーロッパ的なもの」を世界史のなかで相対化して捉え返す学問的方法として、マックス・ヴェーバーの歴史・社会科学、とくに比較宗教社会学を勉強いたしました。そういう者として、欧米を旅しながら感じたこと、考えることを、こうしてビデオに編集し、歴史や社会科学に関心をお持ちの方々に、多少ともお役に立てれば、と念願する次第です。

  ご多忙のなか、そういう素人作品に長時間お付き合いくださり、まことにありがとうございました。



[1](クリストファー、14511506

[2](在位160325

[3] (武士以外の農民、町人)

[4] (150572)

[5](神と平信徒との直接の関係を重視し、間に立ちはだかるローマ・カトリック教会やイギリス国教会の儀礼を「純化(ピュアリファイ)」しようとした「清教徒」。主としてカルヴァン派)

[6] (「アングリカン」、アメリカでは「エピスコパル」) 

[7] (166467

[8] (後のジェイムズ世、在位168588)

[9](在位162549

[10] ある社会で、「教権」「精神的権威」と「俗権」「政治的権力」とが、同一人物によって掌握される支配体制として、後者が「教権」をも牛耳る「皇帝教皇主義体制」(イギリス国教会、他に「オリエント的専制」、スターリニズムなど)と、前者が「俗権」行使にも乗り出す「神聖政治体制」(ジュネーヴにおけるカルヴァンらの教会支配、天皇制ファシズム、イスラムの政治支配など)がある。俗権における「(立法・行政・司法)三権の分立」と同様、教権と俗権との関係についても、分立・相互抑制・均衡関係のいかんを問いうる。

[11]1604?84

[12](カルヴァート・レオン、?1647

[13](広い意味では「ピューリタン」の一部をなすが、教理上はカルヴァン派とは異なり、洗礼派・バプティスト系の一宗派)

[14]16441718

[15] ペン・シルヴェニアとは、Pennsilva(ラテン語で「ペンの森」)に由来。

[16] ヴェーバー社会学の基礎概念を適用していえば、平信徒個々人の「誓約」「契約」にもとづいて、宗教上の「結社」(「ゲゼルシャフト」)が創成され、そこから「コミュニティ」(「諒解ゲマインシャフト」「ゲマインデ」)が派生し、事実上「自治」(「領主」や「総督」がいて「自首」とはいえなくとも、相当程度の「自律」)がおこなわれていた。

[17] 17431826

[18]オランダのオレンジ公でプロテスタント。ジェイムズ二世の王女メアリ二世の夫。名誉革命(1688)のあと、迎えられて、メアリ二世とともに即位(在位、16891702)。

[19] 173699

[20]フランスおよびフランスに唆されたインディアンにたいする戦争という意味で「フレンチ・アンド・インディアン戦争」ともいわれる。

[21] 「敵の敵は味方」という政治力学。

[22] 17221803

[23] 173693

[24] 17351818

[25] 18351901

[26] 16321704

[27] 15991658

[28] ハミルトン(アレクサンダー、17571804

[29] ジェイ(ジョン、17451829

[30] マディスン(ジェイムズ、17511836

[31] ヴェーバー(マックス、18641920) 関連論文として「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904-51920)

[32]セルヴェトス(ミカエル、151153

[33] ジェファスン(トマス、17431826

[34] 信教自由法は、1786年、マディスンの努力により、ヴァージニア邦議会で成立。