ヴェーバー法理論・比較法文化研究会の第一回公開シンポジウム (919日、於一橋大学・佐野書院) に向けて (6) 2010912日)

 

来る919()、一橋大学佐野書院ホールで、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」の第一回公開シンポジウムが開かれます。折原は、コーディネーターの水林彪氏から、「『経済と社会』(旧稿)全体の構成と「法社会学」章の位置」と題する報告を依頼され、過大なテーマとは承知しながら、お引き受けしました。これを機会に、歴史学者と社会学者との相互交流を進め、個人的には懸案の『「経済と社会」(旧稿)の再構成――全体像』の執筆準備にも取り掛かりたいと思います。

つきまして、第一回報告に向けての準備稿を、このホームページに連載しております。ヴェーバー研究者として、他領域の研究者と対等な相互交流関係に入るには、ヴェーバー研究の特殊事情(社会学上の主著『経済と社会』の誤編纂)から生じているテクストの不備を補い、全体としての読解の欠落も埋め、まずは対等な出発点に立たなければなりません。今回のテーマにつきましても、ヴェーバー研究の現状では、「『経済と社会』(旧稿)全体の構成」をなにほどか既知の前提として「法社会学」章の位置を論ずるわけにはまいりません。そこで、できるかぎり不備を補い、欠落も埋め、対等な出発点に立つための準備研究を、あらかじめこのホームページに発表したうえ、当日の相互交流に臨み、多少なりとも実りあるものにしていきたい、と念願する次第です。

なお、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」の概要と、第一回公開シンポジウムのプログラムにつきましては、公式サイトhttp://www.law.hit-u.ac.jp/asia/j/weber.html が開設されましたので、ご参照ください (2010811日記)

 

『経済と社会』(旧稿)全体の構成と「法社会学」章の位置

目次                                                                本ホームページ

はじめに                                                前稿(1) 

1.「旧稿」の誤編纂とその後遺症――基礎カテゴリーの看過-逸失                    前稿(1)

2. ゲゼルシャフト形成としての「社会」の合理化と、ゲマインシャフトの「重層性」      前稿(2)

3.「旧稿」編纂論争史の到達点と現状                                                       前稿(3)  

4.「旧稿」全体の再構成 (テクスト再編纂と内容再構成)                      前稿(4)一部

5.「法社会学」章の内部構成                                前稿(5) 

6. 結論――「旧稿」全体の構成と「法社会学」章の位置(当日報告レジュメ)       本稿

 

 

 

『経済と社会』(旧稿)全体の構成と「法社会学」章の位置

 

折原浩

はじめに――『経済と社会』の誤編纂

  このテーマに取り組み、「法社会学」章を位置づけるべき「『経済と社会』(旧稿)全体の構成」を捉えるには、いくつかの前提問題を解決しておかなければならない。この前提問題をめぐるヴェーバー研究の実情については、本シンポジウムへの準備稿 (折原のホーム・ページhttp://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara に連載) で、詳細に論じたが、ここで最小限に要約すると、つぎのとおりである。

1. 『経済と社会』は、「旧稿」(191014) と「改訂稿」(191820) との二未定稿を、別人が「二 () 部構成の一書ein Buch in zwei (od. drei) Teilen」に編纂したものである。

2. その編纂 (初~五版) は、(印刷の準備がととのっていた)「改訂稿」を、そのまま「第一部」として出版を急ぎ、「旧稿」を「第二 () 部」として後に繋げ、テクストを原著者の執筆順とは逆に配置している。

3. 原著者は、「旧稿」には、(1913年に別途『ロゴス』誌に発表した)「カテゴリー論文」の基礎カテゴリーを適用し、全篇を構成しようとしていた。しかし、1914年夏の第一次世界大戦勃発にともなう中断の後、191820年の抜本的改訂のさいには、その基礎カテゴリーも、「改訂稿」(「第一部」) 第一章「社会学的基礎概念」(1920) のそれへと (冒頭の注でそう断って) 変更している。ところが、編纂者は、この変更を考慮せず、変更の基礎カテゴリーも、変更のそれと同一で、「旧稿」にもそのまま適用されていると信じ、「二 () 部構成の一書」に仕立てた。

4. この誤編纂 (基礎カテゴリーの変更を看過しての逆転配置) のため、『経済と社会』の (邦訳者を含め、およそ全篇を読もうとする) 読者は、編纂者と同じように、変更の基礎カテゴリーで変更の「旧稿」を読むように誘導される。

5. ドイツにおける『マックス・ヴェーバー全集』の編纂陣も、この誤編纂を直視する否定的総括は怠り、「旧稿」の基礎カテゴリーと全体の構成という前提問題は避けて、「旧稿」の題材別分割分巻(第一「諸ゲマインシャフト」、第二「宗教」、第三「法」、第四「支配」、第五「都市」)刊行に踏み切った。『経済と社会』第五版までの先行編纂が、「合わない頭をつけたトルソ[首と四肢の欠けた塑像]Torso mit einem verkehrten Kopf」を「著者畢生の主著」と称して世に送り出していたとすれば、『全集』版は、「羹に懲りて鯰を吹く」かのように、「頭のない五死屍片fünf Stücke der Leiche ohne Kopf」への解体に走った。

6. われわれは、「旧稿」編纂史の否定的総括を踏まえ、「『経済と社会』との訣別Abschied von “Wirtschaft und Gesellschaft”FH・テンブルック)とも訣別し、「カテゴリー論文」で導入された基礎カテゴリーのうえに、「旧稿」テクスト全篇の再編纂と、全内容の再構成を、くわだてなければならない。そのようにして、「旧稿」を、「全体として読める古典」に復元し、普遍史 (世界史) 的な射程をそなえた比較歴史社会学の「法則科学Gesetzeswissenschaft」的分肢(他方の「現実科学Wirklichkeitswissenschaft」的分肢が歴史学)として、その全意義を解き明かしたいと思う。

 

.「旧稿」の再構成に向けて――「合理化」視点と基礎カテゴリー

7. ヴェーバーは、(みずから「編集主幹」となり、「旧稿」の寄稿先に予定していた)『社会経済学綱要Grundriss der Sozialökonomik』の「序言Vorwort」に、この叢書を導くべき包括的視点を提示している。歴史を貫いて存続してきた人間協働生活の (経済、社会、宗教、政治、法といった) 諸領域について、一方ではそれぞれの相対的「自律性Autonomie」「固有法則性Eigengesetzlichkeit」、他方では「相互制約関係」(たとえば「宗教の経済的被制約性ökonomische Bedingtheitと経済的意義ökonomische Relevanz[経済制約性) を認め、そのうえで、各領域の「合理化Rationalisierung」を、「生活全般の『合理化』のそれぞれ部分現象Teilerscheinung」として捉えようとする視点である。

8.「社会Gesellschaft」については、「実体化」を避けるため、(他と並ぶ一領域として概括的に呼ぶばあいを除き) あえて「社会」概念は立てず、人間の「行為Handeln」と「秩序Ordnung(行為が準拠するルールないし格率のシステム) から、さまざまな「社会形象(構成体)soziale Gebilde」を組み立てていこうとする。ヴェーバーにとって「社会」とは、「複数の人間個人の行為が、互いに関連づけられ、秩序づけられてできる協働連関Zusammenwirkungen」、「ゲマインシャフト形象 (構成体) Gemeinschaftsgebilde」、ないし「人間ゲマインシャフトの構造形式Strukturformen menschlicher Gemeinschaften」である。

9. それにたいして、経済、政治、法、宗教といった諸領域は、人間行為分節化領域 (人間行為者が主観的に抱き、準拠する「意味内容Sinngehalt」に応じて、行為が分節化して開ける分野) であり、多くのばあい、それ自体として「協働連関」「ゲマインシャフト形象」をなしている。

10. ヴェーバーは、叢書『社会経済学綱要』への寄稿 (当初には「経済と社会」、やがて「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」) において、(上記7. に要約した)「序言」の視点に立ち、(相対的に「自律的」ではあるが「自足完結的」ではない) 経済の展開を、「社会との関連において――ということは、「社会を媒介とする宗教政治法などとの相互制約関係において――、それも、人間生活一般の「合理化」の部分現象として――ということはつまり、(同じく「合理化」の「部分現象」としての)社会「合理化」との関連において――、捉えようとする。しかもそのさい、(上記8. に要約したように)社会」概念を避け、「行為」と「秩序」の概念に置き替えるとすれば、まずは、そうした概念構成において「社会」の「合理化」とはどういう事態か、「行為」と「秩序」のいかなる佇まいを指すのか、諸個人の「バラバラな」(互いに「意味」関係のない) 並存という「社会以前」の状態を起点に据えるとすれば、そこからどういう経過をたどり、どういう状態になったら、「合理化」が達成されたと見るのか、――そうした経過の全体を見通して、おおよその見取り図を描き、研究の道標を立てておかなければならない。さもないと、「羅針盤もなしに大海に乗り出す」羽目に陥る。

11. そういう概念構成の基礎工事が、「カテゴリー論文」(1913)「第二部」(§§Ⅳ~Ⅶ) でおこなわれている。すなわち、ゲマインシャフト形成 (社会関係一般) の「合理化」の度合いを示す形式的(内容的分節化にかかわりのない)カテゴリーが、つぎの四概念を根幹とする「ゲマインシャフト行為 (社会的行為一般) と秩序の『合理化』にかんする四階梯尺度」に編成される。すなわち、

    ①「同種の大量行為gleichartiges Massenhandeln」、

    ②「無定型のゲマインシャフト行為 amorphes Gemeinschaftshandeln」、

    ③「諒解行為Einverständnishandeln (という、非制定秩序に準拠するゲマインシャフト行為)」、および

    ④「ゲゼルシャフト行為 Gesellschaftshandeln (という、制定秩序に準拠するゲマインシャフト行為)」、の四概念である。

12.「改訂稿」の「社会学的基礎概念」では、この「ゲマインシャフト行為」「諒解行為」「ゲゼルシャフト行為」という三基幹概念が (少なくとも術語としては) 姿を消す。そのうえ、「ゲマインシャフト関係Vergemeinschaftung」と「ゲゼルシャフト関係Vergesellschaftung」とは、同一の語が用いられていても、概念は(上位-下位概念から対概念へと)変更されている。「旧稿」のVergesellschaftungとは、「ゲマインシャフト関係のうち、目的合理的に制定された秩序に準拠する特例 (ないしそうした特例の形成)」を意味する。これを、「社会学的基礎概念」の «Vergesellschaftung» (すなわち、「社会的行為の定位が、……利害の調整または結合にもとづくかぎりにおける社会関係」) と混同し、これをさらに、F・テンニエスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(1887) に由来する (対概念の) 学界通念とも混同して、「利益社会」(等々) 訳出したのでは、なんのことか分からない。少なくとも、それでは、Vergesellschaftungを「社会」の「合理化」の鍵概念として基礎カテゴリーを編成し、「かの合理化とゲゼルシャフト形成の過程jener Rationalisierungs- und Vergesellschaftungsprozessが、すべてのゲマインシャフト行為を捉えて拡大-深化するありさまを、あらゆる領域について、発展のもっとも本質的な駆動力として追跡」WuG: 196する「旧稿」の論理展開を、精確に読み解くことは、不可能であろう。

13. われわれは、「旧稿」を、一方では「改訂稿」との合体から解放し、他方では (『全集』版の解体方針による) 概念的導入部の欠落を補填し、「カテゴリー論文」を冒頭に置き、「ゲマインシャフト行為と秩序の『合理化』にかんする四階梯尺度」を携えて、全篇を読解しなければならない。

 

.「旧稿」テクスト再編纂の方法と「法社会学」章位置づけの困難

14. それでは、『経済と社会』に収録され、継承されてきた「旧稿」(「第二(三)部」)のテクストを、「改訂稿」(「第一部」)から切り離したうえ、冒頭に「カテゴリー論文」を置けば、ただちに「旧稿」全篇の信憑性あるテクストがえられ、それを信頼して整合的解釈に到達すればよいのであろうか。遺憾ながら、そうはいかない。原著者の死後、遺稿として発見された未定稿の束が、編纂者によって幾重にも配列替えされているからである(遺稿束の手稿そのものは、「経済と秩序」「法社会学」の二章を除き、第二次世界大戦中に疎開先で行方不明となり、失われている)。そこで、なんらかの道標に依拠して、原著者が意図していた (信憑性のある) テクスト配列を復元しなければならない。

15.その道標は、①「テクスト内在的指標」と②「テクスト外在的指標」とに分けられよう。後者としてもっとも重要なのは、原著者が第一次世界大戦の勃発によって「旧稿」の仕上げを断念する直前、『社会経済学綱要』の (191462日付け)「序言」につづく「全篇の構成一覧Einteilung des Gesamtwerkes」に、かれ自身の分担寄稿分の内容項目見出しとして発表した「1914年構成表」である(資料として配布の「対照表」参照)。前者としては、テクスト中に散りばめられた「承前句」「架橋句」「構成指示句」などと並び、前後参照指示のネットワークが、注目されよう。ただし、その利用には、注意が必要である。というのも、第二次編纂者は、自分の編纂に合わせてテクスト中の前後参照指示を書き替えたが、そうであれば、第一次編纂者も、同じことをなしえたのではないか、との疑念を拭えず、テクストに保存された参照指示自体の信憑性を問わざるをえないからである。

16.この問題について、折原は、(念のため「黙示的他出指示」も含めた) 全参照指示567例について、被指示叙述との整合性を問い、ヴェーバー著作としては異例に多い (「黙示的他出指示」を除く全447例中) 41例の「不整合」を突き止めた。ということは、第一次編纂者が、その編纂に合わせて参照指示を体系的に書き替えてはいないことを意味する。他方、原著者の手稿を尊重した第一次編纂者が、テクスト中の参照指示をなにか恣意的に書き替えたと考える理由はない。そこで、現にある「不整合」事例を、およそ被指示叙述のないⓐ類型、前後逆転誤指示のⓑ類型、「カテゴリー論文」に (のみ) 被指示叙述を見出すⓒ類型に分けたうえ、試みに初版のテクストを「1914年構成表」に即して配列しなおし、「カテゴリー論文」を前置してみると、(変更事情の説明が可能な一例を除いて) すべての「不整合」が解消する。ということは、原著者自身は、みずから公表した1914年構成表」に即して配列したテクストに (恒常的習癖どおり) 整合的に挿入していた (したがってそれ自体としては信憑性のある) 参照指示が、死後の編纂によって配列を乱されたテクストに、そのまま残され、(不整合編纂を前提として読むために) あたかも「不整合」であるかのように現れていた、という事情を示唆してはいないか。とすると、そのように説明可能な系統的「不整合」の事実は、1914年構成表」の (「旧稿」かぎりの) 妥当性と、参照指示の信憑性とを、ふたつながら互いに証明し合っていると解することができよう。

17. そこで、①「テクスト内在的指標」と ②「テクスト外在的指標」とに準拠して、「旧稿」のテクストを再編纂すると、「対照表」最右列に見出しを掲げたとおりになる。折原は、この結論に到達するまでに、①と②の諸事実による検証を重ねた。そこにいたるプロセスを公開して、学界の批判を仰ぐ必要がある。しかし、ここでは省略し、別稿 (『「経済と社会」(旧稿) の再構成――全体像』) を期する。以下、結論を先取りする形で、「『経済と社会』(旧稿) 全体の構成」を見通し、「「法社会学」章の位置」にかんする討論にそなえたい。

18. ただ、まえもって問題点を提示すると、「「法社会学」章の位置」は、②「テクスト外在的指標」の「1910年構成表」と「1914年構成表」に準拠するかぎりでは、簡単に見定められる (「対照表」参照)。ヴェーバーは当初、寄稿冒頭の a)「経済と法」で、「1. 原理的関係」と「2. 今日にいたる発展の諸時期」とを両方とも論じ、そのうえで、b)「経済と社会集団」、c)「経済と文化」に論及していく計画だったようである。しかし、稿を進めるにしたがい、計画を練り直し、「1914年構成表」では、「1. 原理的関係」は(「概念的導入」項目の)1. 社会的秩序のカテゴリー」に残し、「2. 今日にいたる発展の諸時期」は、「じっさいの事象にかかわる諸章Sachkapitel」項目のひとつ「7. 政治団体」中に繰り下げ、標題も「法の発展諸条件」に改めて「発展段階論」的なニュアンスを払拭した、と考えられる。折原編も、別案を提唱するものではない。ただ、テクスト再編纂の基本方針としては、①「テクスト内在的指標」と②「テクスト外在的指標」、双方からの位置づけ、根拠づけの一致を目指し、どちらかといえば、①を優先している(この点で、『全集』版編纂陣、とくにヴォルフガンク・モムゼンと対立する)。ところで、「法の発展諸条件」に相当する「法社会学」章が、「社会」篇-3「宗教」章よりも、「支配」篇の諸章よりも、に位置を占めることは、前後参照指示ネットワークに準拠して、確証される。しかし、それでははたして、(4「市場」、5「政治」、6「法」、7「階級、身分、党派」、8「国民」中の) 他ならぬこのⅡ-6. に位置づけられるのか、といえば、「法」章から4578章への前後参照指示も、逆に4578章側から「法」章への前後参照指示も見当たらず、そのかぎり確証はできない。したがって、そこは、「法」章をどこに配置すれば、体系構成上もっとも適切であるか(多分に読み手の解釈も混入するであろう)「体系的systematisch」方法 (ヴォルフガンク・シュルフター) を適用して判定するほかはない。このあと、「旧稿」全篇の体系構成を概観しながら、「法」章を焦点に、「体系的」方法による位置づけを試み、討論に一素材を提供したい。

 

.「旧稿」の体系的解釈に向けて――「法」章の位置を焦点に

19.「旧稿」は、. 概念、Ⅱ. 社会、Ⅲ. 支配、の三篇から構成される。この構成は、「1914年構成表」によって予告されている。ヴェーバーの認識論上・方法論上の基本的立場からしても、「じっさいの事象にかかわる諸章」(ⅡとⅢ) には、当の事象をどういう視点から採り上げるか、にかかわる「概念的導入部」() 前置が不可欠である。

  「じっさいの事象にかかわる諸章」が、. 社会 . 支配 とに二分され、支配現象を特別に重視する構成についても、. 概念 篇末尾の「構成指示句」(配布資料中の引用集、参照) によって予告されている。この構成は、「社会」の「合理化」にたいして、支配がその「梃子」をなす (という特別の意義をそなえている) 事情にもとづく措置と解される。

20.. 概念 篇は、1. 社会――行為と秩序2. 法と経済3. 社会と経済、の三章から構成される。1. 章には、「カテゴリー論文」「第二部」が配されるが、「第一部」(§§13) も前置されてよいであろう。そこでは、「社会学的考察方法」が定礎され (「第一部」)、行為と秩序のカテゴリーにもとづく「社会なき社会」概念、「ゲマインシャフト行為と秩序の『合理化』にかんする四階梯尺度」が構成される (「第二部」)

21. Ⅰ-2. 法と経済 は、§1. 法概念の社会学的意味転換、§2. 習俗-慣習律-法――人間行動の社会的諸秩序、および§3. 法と経済との原理的関係、の三節から構成される。§1. では、冒頭(いきなり)「社会学的考察方法」が導入されて、「法」概念が、「規範学Dogmatik」的な「観念的当為」の平面から、社会学的な「ゲマインシャフトにおける現実の生起」の平面に移される。それによって「法Recht」は、現実の人間行為 (の所産にして、翻ってはそれ) を規定する根拠のひとつ、として捉え返され、「『強制装置Zwangsapparat』によって経験的妥当empirische Geltungを保障garantierenされた制定秩序gesatzte Ordnung」と定義される。そのばあい強制装置とは、「特別の (物理的ないし心理的) 強制手段 (法強制) による秩序の貫徹を、固有の目的とし、そのために常時準備をととのえているひとりもしくは複数のスタッフ」と規定されている。

22.「社会」の側から位置づけると、(「目的合理的に制定された秩序に、目的合理的に準拠するゲマインシャフト行為」が「ゲゼルシャフト行為」、「そうした制定秩序を媒介として、それだけ『合理化』されたゲマインシャフト関係」が「ゲゼルシャフト関係」であるから)「法」とはまず、ゲゼルシャフト関係を、「強制装置」により、行為者の外側から保障して安定させ、持続させる支柱であり、したがって「法」の「合理化」は、ゲゼルシャフト形成としての「社会」の「合理化」の指標になる、といえよう。

23. 客観的法の経験的妥当から、関与者個々人には、[たとえば財にたいする処分力の確保や取得について] 強制装置の援助を期待する計算可能なシャンスが生まれる。これが、「法によって(直接)保障された主観的権利」である。社会学上は、あるシャンスが、別の法規範や行政規則の経験的妥当から、その反射効果として派生しているばあいも、「間接に保障された権利」として同等に重視される。

24. 今日の法秩序は、「国家アンシュタルトStaatsanstalt」の強制装置によって保障されており、法規範学はこの状態を前提としている。しかし、法を上記のように定義すれば、それがすべて「(国家によって保障された) 国家法」とはかぎらない。法的権利もすべて「国家法によって保障された主観的権利」とはかぎらない。教会「教権制Hierokratie」の強制装置によって保障された「教会法」も、「血讐義務Blutrachenpflicht」のルールにしたがい、氏族員全員が結集して「強制装置」をなす「氏族法」も、「非国家法」として存立してきた。

25. そういうわけで、法概念の社会学的意味転換は、「国家法」を理論的に相対化すると同時に、法秩序一般の (強制装置が国家アンシュタルトによって独占された) 特例、したがって特殊近代的階梯として、歴史的にも相対化し、その歴史的発展と諸条件を問うパースペクティーフを開いている。

26. さらに、§2では、「非国家法」も含む法秩序そのものが、「習俗Sitte」、「慣習律Konvention」と並ぶ、人間行動の社会的秩序の一種として、これまた比較的後代の所産として、理論的また歴史的に相対化される。それと同時に、いずれにせよ「規則性」に志向している諸秩序のなかに、いかにして「革新Neuerung」が生ずるのか、が問われ、「革新ないし革命の社会学」の[まだカリスマ概念を用いない]骨格がしつらえられる (この論点は、Ⅱ-6.「法」章 §3における「新しい法規範の成立」論に引き継がれ、敷衍される)。それと同時に、「慣習律」から「法」への漸進的移行のパターンが類型化される。

27. そのうえで、§3では、社会学の平面上で、「経済秩序」と「法秩序」との原理的関係が問われる。前者は、§1の冒頭で、「『経済的事態』をめぐる利害の闘争がなんらかの妥結に達する、そのときどきのあり方に応じて、諒解によって成立する、財や給付にたいする事実上の処分力の配分、および、財と給付が、この諒解にもとづく処分力により、(主観的に) 思われた意味にしたがって利用される、その事実上の様式」と暫定的に定義されていた (ちなみに、「経済的事態」は、つぎのⅠ-3章冒頭で、「ある欲求ないし欲求複合にたいして、その充足に必要な手段および可能的給付[サーヴィス]の準備が、行為者の主観的評価において相対的に『稀少knapp』であるため、なんらかの計画的配慮が必須となる事態」と規定される)。「経済秩序」は、もともと人間行為の一分節化領域なので、「法秩序」のばあいのような概念変換は必要とされず、社会学的考察方法をそのまま適用して、ただちに上記のとおり定義できる。§3では、その「経済秩序」と (§1§2における概念転換を経てきた)「法秩序」との原理的関係が問われ、上記7. の視点から、双方の「自律性」「固有法則性」が確認されたうえ、「相互制約関係 (親和関係、適合-不適合関係)(換言すれば、法の「経済的被制約性」と「経済的意義[経済制約性]」) が、典型的事例を例示に用いて、一般的に定式化され、最後に、特殊「近代」法と特殊「近代」経済との「適合的」関連が予告される。

28. 3. 社会と経済 は、やはり三節から構成される。ただし、§1. で早くも「社会と経済との原理的関係」が定式化され、§2. では、「社会 (ゲマインシャフト) の経済的被制約性」が、「経済的利害関心にもとづくゲマインシャフトの閉鎖と拡張」 (四類型) によって例示され、§3. では逆に、「社会 (ゲマインシャフト) の経済的意義」が、「ゲマインシャフトにおける (ゲゼルシャフト形成を維持するための) 給付調達-需要充足様式」(五類型) の、経済への () 作用、によって例解される。

29. §2. の四類型とは、①ある経済的シャンスが「稀少」になると、特定のメルクマール (属性、業績) を決め、その該当者で当のシャンスを対外的には独占し、対内的には「輪番、返還条件付き、終身、一定条件付き、自由な専有へ」と段階的に配分する「(ゲマインシャフトの対外的-対内的) 閉鎖Schliessung」が生ずる、②一群の人びとが、あるゲマインシャフトの観念的-物質的利害関心を「代表vertretenする」役割を引き受け、これを「糧として生き」、規約を制定して「機関Organ」を設立すると、かれら自身の「職業的berufsmässig」利害関心が、当のゲマインシャフトの存続と拡張への有力な支柱となり、従来の (間歇的で非合理な)「臨機的行為Gelegenheitshandeln」を(計画的で合理的な)「経営Betrieb」に組織化するが、他面、(創始期には関与者自身も抱いていた)意味や理想への情熱や信仰が冷めた後々までも、当の存続と拡張が自己目的として追求される、③自発的加入にもとづく「目的団体Zweckverband」は通例、加入志願者に、当の目的達成に必要な資格や能力「の範囲を越えてübergreifend」、行状や人柄まで審査するが、加入を認められた構成員は、審査に耐えて認証された「人物」として「正当化」され、内部的にも「コネ」を培うことができ、それらを既得権として独占しようとする利害関心から、ゲマインシャフトを「閉鎖」する、④第一次的には経済的なゲマインシャフトが、その存続と拡張への利害関心から、外部に向けて経済的 (その他の) 利益を約束したり、他のゲマインシャフトに参入したり、みずから「経営」に乗り出したりする、といった一般経験則である。

30. §3. の五類型とはそれぞれ、ⓐオイコス的(純共同経済的、純実物経済的)、ⓑ貢納と市場購入による、ⓒみずからの営利経営による、ⓓ賛助と後援による、また、ⓔ積極的ないし消極的特権付与をともなう負担配分(ライトゥルギー)、による給付調達・需要充足様式である。

31. §3. の末尾では、Ⅰ.概念 篇が総括され、Ⅱ.社会Ⅲ.支配 篇への「架橋」がなされる。すなわち、近世初頭以降のヨーロッパでは、 [「封建制」から「身分制等族国家」を経て「官僚制」にいたる] 独特の支配構造をそなえ、ほぼ同等の勢力をもって互いに競争闘争し合う政治形象が、「動産にたいする優遇措置」としての「重商主義Merkantilismus」を採用し、それぞれのゲマインシャフト内経済の、これまた独特の(固定設備への資本投下をともない、生産物の市場販売によって営利を追求する)産業資本主義industrieller Kapitalismus」と提携し、その発展を促した。ヴェーバーはここで、(そういう「近代産業資本主義の政治社会的被制約性」を一環として含む)「普遍的諸要素の(ヨーロッパ近世に特有の)個性的な互酬-循環構造」の一端を取り出し、[そうした構造が成立する前夜における]「普遍的諸要因の(ヨーロッパ中世に特有の)個性的な布置連関」への「因果帰属」を示唆する。そのようにして、以下のⅡ.社会Ⅲ.支配 篇で、何に照準を合わせて一般概念を構成するのか、「じっさいの事象にかかわる諸章」における「関心の焦点focus of interest」の所在を、予示するのである。

32. この関連で、Ⅱ-6. 章を位置づけると、どうか。固定設備への資本投下をともない、生産物の「市場」販売によって(原則的には平和裡に)営利を追求する「産業資本主義」は、持続的「経営Betrieb」の核心をなす「資本計算の合理性」を確保するため、「計算可能」な (実質的考量に左右されない)「形式的に合理化された法」を必要とする。それはとくに、政治権力者(「伝統的支配」とりわけ「家産制」的首長や「カリスマ的支配者」)の予測-計算不可能な「即人的persönlich恣意による攪乱を嫌い、その発動を抑制する秩序を樹立し、法的保障の強化を願う。しかし、法的保障のための強制装置は、もともとは政治権力側が握っていたのであり、草創期の幼弱な産業資本主義には、もっぱら自力でその願望を貫徹することはできなかった。むしろ、政治権力側が、その内部事情や、相互の競争-闘争や、「教権制」による掣肘などのため、(「権力分割」や「権力制限」の)「窮境」に陥り、「市場利害関係者」としての都市市民層の経済力を当てにし、これと提携して、乗り切りをはからざるをえなかった。そこで、都市市民層は、一方ではそうした「窮境」で「漁夫の利」を占め、他方では「法発展の固有法則性」を最大限活用して、政治権力側に(「不本意」でも延命のためには不可避な)「自己抑制」を強い、法的権利保障を漸進的に勝ち取った。そうすることで、(それまでは部分的・萌芽的にとどまった) ゲゼルシャフト形成の全面展開に向けて、突破口を開いた。とすると、そうした普遍史的転換期に、経済、政治、宗教といった諸要因の「相互制約」関係 (「普遍的諸要素の個性的な互酬-循環構造」) のなかで、「法」要因 が、いかにはたらき、法秩序「形式合理化」の軌道が敷かれたのか、その意義と限界を見きわめる課題が提起され、「じっさいの事象にかかわる諸章」に投げかけられよう。

33. Ⅱ-2. では、Ⅰ.概念 篇末尾の予告 (資料、引用集1、参照) どおり「普遍的な種類のゲマインシャフト」が、相対的に「原生的 (自然必然的) urwüchsig」な「家Haus-、近隣Nachbarschafts-、氏族Sippenゲマインシャフト」の順序で、採り上げられ、それぞれの「一般的な性格づけ」がなされる。しかし著者は、一方では「それらのなかで培われる諸特性が、後発の諸ゲマインシャフトや支配関係に、どのように持ち越され(それぞれの素地として) 温存再編成されていくか」(松井克浩によって剔出された「ゲマインシャフトの重層性」視点)、他方では「(それら原生的ゲマインシャフトにもなおゲゼルシャフト関係の契機が孕まれるとすれば、どこまでか (ある条件のもとで部分的ゲゼルシャフト形成がなされながら、全面展開にはいたらず萌芽に止まるのはなぜか)」と問いかけ、それぞれの発展方向を見通し類型化をくわだてている。

34.「家ゲマインシャフト」は、「(原則として) 父母の持続的性関係と子供たちとの親子関係および子供たちの相互関係が、『家計Haushalt』を共有し、扶養・養育の機能を担うことによって (『経済ゲマインシャフト』として) 安定する (相対的にはもっとも) 原生的なゲマインシャフトである。そこでは、家長の「権威Autorität」にたいする「恭順Pietät」が培われ、これが、一方では「祖霊への恭順」として、「氏族」や (宗教的)「祭祀ゲマインシャフトKultgemeinschaft」に、他方では、「長上 (とくに支配者) にたいする即人的恭順」として、「家産制Patrimonialismus」・「従士制Gefolgschaft」・「封建制Feudalismus」といった「伝統的支配traditionale Herrschaft」の諸関係に、持ち越され、それぞれを支える素地として温存され再編成されて、命脈を保つ。

35. 家ゲマインシャフトの内部では、家長の (原生的には理論上無制約の) 権威のもとに、「能力に応じて寄与し、必要に応じて取る」という (合理的計算ぬきの) 「家共産主義」がおこなわれる。しかしそれは、一方では人口増加にともなう家ゲマインシャフトの外的分解、他方では (まずは性、ついで経済の領域における) 対内的「閉鎖」-「専有」につれて、全般的に解体ないし弛緩していく。

36. 家ゲマインシャフトに内包される諸関係のうち、もっとも原生的なのは母子関係である。しかし、「母子集団Muttergruppe」の並存は、軍事的必要にもとづく壮丁の「メンナーハウスMännerhaus」起居にともなう派生的-変則的形態で、人類史に一時期を画する家族形態ではない。ちなみに、メンナーハウスを、ヴェーバーは一貫して「持続的な特別ゲゼルシャフト形成」として捉える。それどころか、軍事史上その階梯をなす、カリスマ的指揮者を戴いて掠奪行・戦争行・あるいは防衛戦争に決起する民兵の結集態も、やはり一貫して「臨機的ゲゼルシャフト形成」として捉えている。もっとも原生的な軍事組織が、なんとゲゼルシャフト形成なのである。しかし、後者はもとより、戦闘が終わり、戦利品を分配すると、そのつど解散する。前者も、軍事技術が高度化し、馬曳戦車や騎馬が登場すると、太刀打ちできずに淘汰される。ともに、ゲゼルシャフト形成の萌芽止まりで、発展して全社会的に拡大するにはいたらない。

37. 中世末のイタリア諸都市では、商業を営む家ゲマインシャフトに、(家共産主義の解体、計算性の増大の結果、各構成員のポケットマネーの規制や、資本持ち分 個別資産との区別に始まる) 合理的ゲゼルシャフト関係が孕まれ、これが発展して家計から分離し、「経営」として独立する (ヨーロッパに独自の「転形Umformung)。当時、イタリアの取引中心地では、商業上の営利が、協働の労働の成果と見なされ、各家構成員は、家長の存命中にも、自分の持ち分を携えて分離-独立することができた。それにたいして、イタリアでは、営利が共有の財産に帰せられ、財産の一体的維持と各人の連帯責任の原則が維持されていた。解体の「進んだ」家ゲマインシャフトではなく、「遅れた」家ゲマインシャフトから、まさに「遅れ」ゆえに、「経営」が「分娩」された。また、「家計」と「経営」との分離にとって重要なのは、イスラームにも見られる「空間上の分離」や、中国にも普及していた「呼称上(商号)の分離」ではなく、帳簿また法のうえでの分離である。ところで、誕生したばかりの経営ゲゼルシャフトの自律と持続は、(分析的-個人主義的なローマ法ではなく) 西洋中世起原の(商事登録法、特別資産法、破産法など)、経営を「神秘な聖体」として「実体化」する、これまた(ローマ法に比して)遅れた」法によって保障された。また、中世ゲルマン起原の、羊皮紙を「呪物」と見なす「遅れた」証書法は、契約や債務の履行を、まさにそれだけ有効に保障した (ヴェーバーの「合理化論」は、単純な単線的「進化論」や「発展段階論」ではない。「ゲゼルシャフト形成」は「近代化」には重ならない)「経営」の「発展形態」は、「後段で、支配のカテゴリーとの関連において」、2.「正当的支配の三類型」1)「合理的支配」中の「単一支配的monokratisch」形態、すなわち「官僚制Bürokratie」として採り上げられる。

38.「経営」の分娩とは正反対の発展方向に、「オイコスOikos」への内部的拡大再編成がある。オイコスとは、たんに多種目の自家生産物を擁する大規模家計とのみ考えられてはならず、「君侯・荘園領主・都市貴族の、権威によって指揮される大家計で、その究極の動機が、資本主義的貨幣営利にはなく、首長需要の、組織化された、実物による充足に置かれているもの」をいう。その目的のために、営利経済的な個別経営が編入されているばあいもある。オイコスの「家産制」支配への発展については、後段 . 支配 篇の22)「伝統的支配」で採り上げられる。

39.「近隣ゲマインシャフト」は、空間的近接居住ないし滞在 (「近隣縁」) を契機とするゲマインシャフト形成で、家ゲマインシャフトによる日常需要充足の範囲を越える、危急時の「兄弟 (同胞) 的救難援助brüderliche Nothilfe」を特有の機能とする。隣人どうしが、共通の危険に直面して、「懇請に応える (消費財の) 無償貸与Bittleihe」と「懇請に応える無償労働Bittarbeit」を、醒めた「互恵倫理Reziprozitätsethik(「汝が我に、我も汝に」) に則って、互に提供し合う。

40. 近隣ゲマインシャフト内部に経済的分化が生ずると、原生的には対等な隣人仲間間の「兄弟的救難」も、一方では、大土地所有者への無償労働 (とりわけ収穫援助) と、他方では、外部からの脅威にたいする利害「代表」、余剰地の無償貸与、飢饉時の緊急援助など、に再編成される。そして、経済的有力者が、そうした要請に応え、近辺で「声望」を博すると、「仲間のなかの第一人者primus inter pares」から「名望家Honoratiore」にのし上がり、やがては、(対外的防衛のため当初には臨機的ゲゼルシャフト形成によって編成した) 軍事力を、その費用を徴収して恒常的に維持するため、「強制装置」として対内的にも差し向け、(当初の) 無償労働を「法」的義務に転化するとき、「賦役経済Fronwirtschaft」が成立する。そのように、名望家が「武侯Kriegsfurst」を兼ねて「首長Herr(命令権力を他から授与ないし委託されるのではなく、みずから独立に要求し、行使する支配者) となり、「賦役義務」を負う () 隣人に「家支配」をおよぼすとき、() 隣人間の「仲間」関係は、「家産制」的「支配」関係に転態を遂げる。

41. 近隣のゲマインシャフト行為は、危急時を別とすれば、通例、「無定型」「開放的」「間歇的」に止まる。しかし、なんらかの土地範疇が「稀少」になると、それを対外的に独占し、対内的にはその用益を「仲間団体的」に規制すべく、「専有」(の諸階梯) に通じる「秩序を制定」して、(「閉鎖された」「経済ゲマインシャフト」あるいは「経済を統制するゲマインシャフト」に) ゲゼルシャフト形成を遂げる。数多の近隣ゲマインシャフトが「原生的基盤」をなし、上位の政治団体によって制定秩序を「指令 (授与) oktroyierenされ、当の政治団体の下位単位に編入されると、「ゲマインデ」が創成される。他方、近隣ゲマインシャフト自体が、「村落Dorf のように、ある「領域Gebiet」を支配し、教育・祭祀・手工業集落の設営など、あらゆる機能を取り込んでいくか、あるいは、政治団体から「指令」された義務として引き受けていくばあいもある。

42.「氏族」は、(父系ないし母系の出自によって) 同一共通の祖先に結びついていると主観的に信じ、外婚をおこなう血縁 (擬制血縁) ゲマインシャフトで、通例ゲゼルシャフト形成を欠く。関与者が面識もなく、能動的行為もせず、ただある行為 (性交) を「思い止まる」だけで (「意味」関係はともなうから) ゲマインシャフト行為は成立する、という好例である。しかし、通則どおり、経済的また社会的なシャンスが「稀少性」を帯びるとき、その独占への利害関心によって「閉鎖」され、ゲゼルシャフト形成を遂げることもある。しばしば構成員に「血の復讐義務」を課して「私闘」をおこなうが、そこで培われる「忠誠 (誠実) Treue」は、やはり後発の支配関係 (たとえば封建制的主従関係) 取り込まれ、それを支える素地に再編成される。

43. Ⅱ.社会 篇-2. 章で採り上げられる「種族」は、「①外面的容姿と②習俗とのいずれか (あるいは両方) における類似、または③植民や移住の記憶、にもとづいて、血統の共有にたいする (主観的) 信仰を、ゲマインシャフト関係の拡張にかかわる程度に抱いている人間群Gruppe [統計的集団]」と定義される。「種族的共通性Gemeinsamkeit」とは、たんに主観的に「信じられたgeglaupt」共通性にすぎず、ゲマインシャフト形成を容易にする基礎ではあるが、それ自体は「ゲマインシャフト」ではない。その点で、[上記43. のとおり] 本質上現実にゲマインシャフトをなす「氏族」とは区別される。他方、現実の遺伝形質による「人種的共属性Rassenzusammengehörigkeit」も、①外面的容姿の類似を規定する一契機として、「種族的共通性」信仰を喚起するが、これまた「ゲマインシャフト」ではない。「種族」「人種」が「ゲマインシャフト」でないのは、「階級状況Klassenlage(「市場における地位」) を共有する人間群としての「階級Klasse」が、(「同種の大量行為」-「無定型のゲマインシャフト行為」-「諒解行為」-「(臨機的-永続的)ゲゼルシャフト形成」の階梯をへて「合理化」される「階級的ゲマインシャフト行為」の基礎ではあっても、なお)それ自体としては「ゲマインシャフト」でないのと同様である。

44. 種族的共通性は、さまざまなゲマインシャフト、とりわけ政治ゲマインシャフト形成の契機となる。他方、さまざまなゲマインシャフト、とりわけ政治ゲマインシャフトは、合理的なゲゼルシャフト形成による人為的構成をそなえていても、種族的共通性信仰を喚起する。たとえば、古代イスラエルでは、毎月輪番で王の食卓に食事を供する行政支分の合理的編成が、「12部族」の「兄弟盟約」に擬せられた。ヴェーバーによれば、これは、「合理的に物象化されたゲゼルシャフト行為がまだ普及していない条件のもとでは、ほとんどすべてのゲゼルシャフト形成が、当の合理的目的の範囲を越える『ゲマインシャフト意識』を喚起-醸成し、種族的共通性信仰を基礎とする即人的兄弟盟約の形式をまとう」という一般経験則の一例である。

45. Ⅱ.社会 篇-3. 章で採り上げられる「宗教」は、社会学的には、「行為者の抱く主観的『意味内容において、(『霊魂』、『神々』、『悪霊』といった)『超感覚的諸力übersinnliche Mächte』と人間との関係の秩序づけに準拠する」人間行為の一分節化領域である。ヴェーバーによれば、東西文化の分岐を規定した主な要因は、「純然たる政治的な諸条件(支配の内的な構造形式)」とこの「宗教性」の領域とにあるので、この章の叙述は膨大で詳細をきわめ、要約は困難である。ただ、本報告のコンテクストで、いくつかの論点を採り上げると、近隣ゲマインシャフトで原生的に培われる「兄弟的救難」「互恵倫理」は、宗教上のゲゼルシャフト形成としての「教団 Gemeinde」に取り込まれ(誓約兄弟関係Verbrüderung」、「信仰上の兄弟」としての) 教団構成員間に普及拡張再編成され、「兄弟(同胞)Brüderlichkeit」に普遍化・抽象化され、ときには「無宇宙 (無差別) akosmistische Liebe」にまで深化される。そうした普遍的兄弟愛は、「教団」の範囲を越えても普及し、(中世)「都市ゲマインデStadtgemeinde」の凝集性・結束力を支え、「自治権」「簒奪Usurpation」の一契機ともなった。

46.Ⅱ-4. 章で主題とされる)「市場Markt」の拡大とともに、「市場利害関係者Marktinteressenten」による「物象本位sachlichのゲゼルシャフト形成が進み、これが同時に、(旧い身分的独占を足場とする)「特別法ゲマインシャフト」を解体して、法強制の国家独占と、司法と行政の「形式合理化」「官僚制化」をもたらす。そして、そこに形成される国家法秩序が、こんどは、ゲゼルシャフト形成の全社会的全面展開への強力な支柱となり、簇生するゲゼルシャフト関係も、それまでのようには既存のゲマインシャフト関係に呑み込まれず、かえってゲマインシャフト関係をますます侵蝕していく。そのとき、「宗教ゲマインデ」も、(古くから「同胞倫理」を培ってきた)近隣ゲマインシャフトの原生的基盤から遊離して「宙に踏み迷い」、あるものは、いよいよ優勢となるゲゼルシャフト関係に適応して「物象本位」の「同胞倫理」に転化し(「脱即人化・物象化」される経済秩序と、宗教的「同胞倫理」との「緊張」を、その方向で「解決(解消)」して)、ゲゼルシャフト形成の内面的推進力ともなる。ヴェーバーの「倫理論文」は、「近代資本主義の精神」という経済志操・経済エートスを「禁欲的プロテスタンティズム」という宗教倫理に「(意味)因果帰属」しているが、当の禁欲的プロテスタンティズムそのものは、歴史上の与件として取り扱われる。この関連を、「旧稿」の拡大されたパースペクティーフのもとで相対化して捉え返すことが、今後の課題とされよう (ヴェーバーも、「倫理論文」の末尾で「今後の研究計画」のひとつに挙げていた)

47. さて、34.45. で採り上げた)家、近隣、氏族、オイコス、種族、教団などは、いずれも部分的ないし萌芽的な「合理化」(ゲゼルシャフト形成)を内包するにすぎなかった。それにたいして「市場Markt」における「交換Tausch」は、そうしたゲマインシャフト形象のすべてに対立して、「あらゆる合理的ゲゼルシャフト行為の原型Archetypos」をなしている。市場で交換が実現されたばあいには、当事者と交換相手との間にのみひとつのゲゼルシャフト関係が形成されるが、それは、交換財の引き渡しと同時に消滅する。市場は、そうした「一過的ephemer」ゲゼルシャフト関係の共存と継起からなっている。ところが、交換の実現にいたる事前の駆け引きFeilschen」では、交換志望者の双方が、相手方の可能な行為のみでなく、他に不特定多数の (現実ないし想像上の) 交換利害関係者の可能な行為にも準拠しながら、手持ちの財をもっとも有利に提供しようとする。そのかぎり (制定秩序なしに、他人の行為の予想にのみ準拠する) ゲマインシャフト行為である。貨幣を用いる交換となると、貨幣が将来にわたって不特定多数の他人に求められ、使用されつづけるであろうという予想に準拠してなされ、ますますもってゲマインシャフト行為である。

48.「市場ゲマインシャフト」は、人間の実践的生活諸関係のうちで、「もっとも人柄のいかんに左右されないunpersönlichst」。市場が、その固有法則性に委ねられ、「自由に」展開するときには、関与者は、ひたすら物象 (交換でなく交換) のいかんを考慮し、人間同胞としての義務も、恭順の義務も、およそ人柄がものをいうもろもろのゲマインシャフトに担われた原生的人間関係は、いっさい顧慮しない。この「絶対的な物象化absolute Versachlichung」は、人間関係のあらゆる原生的構造形式に対立、抗争widerstrebenする。利害状況や独占状況が容赦なく駆け引きに利用される「自由な」(倫理規範に縛られない)市場は、およそいかなる倫理においても、同胞の間では非難されるべきもの、と見られている。交換関係は当初、あらゆる原生的血縁-、地縁ゲマインシャフトの内部ではなく、「境界」でとり結ばれる。原初的な商行為としての「沈黙交換」は、対面的接触を避け、一定の場所に置く交換財の増減で駆け引きする相互行為で、物象本位の性格を鮮明に示している。

49.市場において、交換当事者の双方に期待され、「市場倫理Marktethik」の内容をなす資質は、合理的な合法性rationale Legalität、とくにひとたび締結された約束は破らないという形式的不可侵性formale Unverbrüchlichkeit des einmal Versprochenen である。そうした合法性は、当の交換関係を将来にわたって維持していくことへの利害関心に根ざしている。しかし、その利害関心からおのずと「正直は最良の商略」といった準則が生まれ、確定価格や実直な取引の慣行 (慣習律) が維持されるわけではないし、交換当事者 (たとえば、交換への関与が、規則的かつ能動的ではなく、臨機的かつ受動的な「封建制的」社会層出身者) には、そうした利害関心がそもそも欠けている (さなくとも稀薄で、目前の状況の投機的利用に傾く)。そうした条件の相違に応じて、「市場倫理」は、①西洋中世の局地的近隣市場で、交換当事者双方が、市場取引に見られる倫理的資質と関連づけて人柄への評価をくだせる確定した顧客関係を基盤に、(オリエントや極東に比して) 高度に発達を見た。それはまた、②初期産業資本主義の前提でもあれば、その成立後しばらくは、その所産でもあった。

50. さて、市場の存在は、諸個人を「誘惑」し、「私的に専有」された財を、市場で販売して、自由な欲求充足に赴くように仕向ける。そのようにして、(市場にたいする制限障壁であった)身分的独占団体の基盤を掘り崩して、拡張を遂げる。その局面では、多種多様な社会層出身者が、市場に引き込まれるであろうが、かれらには、かの合法性が、「市場倫理」によって内面から保障されてはいない。そこには、紛争が頻発し、その平和的解決と、合法性への外からの法的保障が、それだけ必要とされよう。

51.市場は、始原的には「余所者」「敵」どうしの関係であるから、その平和は、(国際法上の戦争慣行と同じく) 神々の力に委ねられ、神殿の保護下に置かれるほかはなかった。やがて、その平和保障が、部族首長や諸侯によって手数料の徴収源ともされるが、これはこれで、「私闘」の源泉ともなる。そうした私闘が抑制-禁止され、あらゆる紛争が、強制執行をともなう裁判官の仲裁裁決に委ねられるには、政治ゲマインシャフトの発展を待たなければならない。

52Ⅱ-5「政治」章で論じられる)「政治ゲマインシャフト」は、政治的ゲマインシャフト行為によって構成されるゲマインシャフトであり、政治的ゲマインシャフト行為とは、①ある領域 (領土と領海) とその在住者を、②物理的な実力の行使ないし威嚇によって、③秩序ある支配のもとにおく(ばあいによっては、領域の拡張をくわだてる) ゲマインシャフト行為である。その実力行使は、外敵のみでなく、内部の敵 (給付要求にしたがわない敵対者) にも向けられ、その強制は、生命と移動の自由の剥奪にもおよぶ。

53. 生殺与奪権をそなえたゲマインシャフトは、血讐義務を課す氏族、殉教義務を課す教団など、政治ゲマインシャフトにかぎられない。それらから政治ゲマインシャフトを区別する標識は、当初には、後者がかなり広範囲の陸海域を制圧する確定的処分力として、格別持続的に、しかも公然と存立する、という量的差異のみである。ところが、政治的ゲマインシャフト行為が、直接の脅威に対処する臨機的行為から、アンシュタルト構造をそなえたゲゼルシャフト関係へと発展し、強制手段の適用が、合理的・決疑論的に秩序づけられるようになると、関与者は、政治ゲマインシャフトのそうした秩序を、質的にも「適法性Rechtmässigkeit」という特別の「神聖性Weihe」をそなえたものと考えるようになり、生殺与奪を含む物理的強制力の行使も、そうした適法性をそなえているかぎりで、「正当と諒解されるLegitimitätseinverständnis」。

54. やがて、この信仰がたかまり、ある政治的ゲマインシャフトが、「国家Staat」の名のもとに、適法的な物理的強制権力を独占し、他のいかなるゲマインシャフトも、その委託の範囲内でしか、物理的強制力の行使を許されなくなる。近代の諸事情のもとで、①かつてはそれぞれに固有の強制権力を担っていた、他のもろもろのゲマインシャフトが、経済上また社会組織上の変動の圧力を被って、勢力を失い、解体するか、政治ゲマインシャフトに服属するかし、他方、②同時に、保護を必要とする新たな利害関心、とくに経済的利害関心が、旧来のゲマインシャフトの範囲を越えて拡大を遂げ、これが、政治ゲマインシャフトの創造する、合理的に秩序づけられた保障によって初めて、十分に保護される、という経過をたどり、「あらゆる法規範の国家法化Verstaatlichung aller Rechtsnormen」が達成された。

55. 実力行使に「規範にかなうという意味における正当性Legitimität im Sinne von Normgemässtheit」が付与される経過には、いくつかの階梯がある。①掠奪行・戦争行・あるいは防衛戦争のさいの「兄弟盟約」による「臨機的ゲゼルシャフト形成」において、裏切り・不服従・臆病によって盟約を破る仲間に、実力行使が [内部刑罰として] 差し向けられる階梯、②それが、「メンナーブント」のような「職業的戦士」の「持続的ゲゼルシャフト形象」に組織化される階梯、③そのようにして領域ゲマインシャフトの日常秩序を越え、日常秩序に君臨していた戦士の自由なゲゼルシャフトが、領域ゲマインシャフトにいわば「再編入wieder eingemeinden」され、そのなかで「強制装置」に編成され、領域ゲマインシャフトが「政治団体」としての態勢をととのえる階梯、である。

56. こうした発展の動因は、①や②の属する領域ゲマインシャフトが、掠奪や徴発の被害者からの (それらに関与しなかった者まで巻き添えにする) 報復を防止するため、自由な戦士ゲゼルシャフトを統制下に置こうとするところにあった。領域ゲマインシャフトの勢力が、戦士ゲゼルシャフトに優越する条件は、ⓐ平和の永続による戦士ゲゼルシャフトの衰退か、それとも、ⓑ領域ゲマインシャフトのほうが、その秩序を自律的に制定するか、他律的に指令(授与)されるかして、包括的な政治ゲゼルシャフトに発展を遂げることにある。そのようにして成立した政治団体の強制装置が十分に強力であれば、それが持続的形象となればなるほど、また、対外的連帯への利害関心が強ければ強いほど、私的な実力行使一般を禁圧する。13世紀のフランス王は、みずから対外戦争を指揮している期間中は、従臣間の私闘を禁止した。やがて、永続的な国内公安令が発布され、あらゆる紛争が、強制執行をともなう裁判官の仲裁判決に、強制的に服させられる。裁判官は、血讐を、合理的に秩序づけられた刑罰に、私闘と贖罪行為を、合理的に秩序づけられた訴訟に、それぞれ変形する。往時には、はっきり重大犯罪と分かっている行動にたいしても、団体行為が発動されるのは、宗教的また軍事的利害関心に駆られる (放っておくと、神の祟りや敵の報復が全員にふりかかる) ばあいだけであったが、いまや、人身や所有にたいする侵害が、ますます広い範囲にわたって訴追されるようになり、これが、政治団体の強制装置の管轄下におかれる。こうして、政治ゲマインシャフトが、正当な実力行使をその強制装置に独占し、徐々に「法による権利保護のアンシュタルトRechtsschutzanstalt」に変形をとげる。

57. そうした発展の支持勢力は、①和平の拡大によって固有の勢力手段を有効に作動させ、大衆支配を拡大-深化させようとする宗教的(教権制的)勢力と、②市場ゲマインシャフトの拡大に、直接間接、経済的利害関心をもつ市場利害関心関係者、すなわち都市の市民層と、それ以外にも、河川・道路・橋梁の通行税や、隷属民と臣民の担税力とに利害関心を寄せるすべての者たちであった。したがって、西洋中世に、政治権力が勢力への利害関心から国内公安令を発布する以前に、いちはやく教会と組んで私闘を制限し、域内治安同盟を締結して和平を実現しようとしたのは、そうした市場利害関係者であった。

58.市場は、その拡大につれ、独占団体を経済的に破砕し、団体構成員を転じて市場利害関係者とする。そうすることにより、団体構成員から、利害ゲマインシャフトという基盤、すなわち、独占団体の正当的実力行使もそのうえに初めて展開されえた基盤、を奪い取る。こうして、平和の増大と市場の拡大とに並行して、①正当な実力行使の政治団体による独占と、②その適用にたいする規制-規則の合理化が進展する。①の帰結が、国家を物理的実力行使いっさいの正当性の源泉とする近代国家概念であり、②の帰結が、正当な法秩序の概念である。[こうして、. 概念 篇と. 社会 篇の側から、Ⅱ-6.「法」章に到達。]

59. . 支配 篇の体系的構成とⅡ-6.「法」章との関連:――

 915日現在、つづく]