ヴェーバー法理論・比較法文化研究会の第一回公開シンポジウム (919日、於一橋大学・佐野書院) に向けて (4) (2010821日、829日、92日、94日)

 

来る919()、一橋大学佐野書院ホールで、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」の第一回公開シンポジウムが開かれます。折原は、コーディネーターの水林彪氏から、「『経済と社会』(旧稿)全体の構成と「法社会学」章の位置」と題する報告を依頼され、過大なテーマとは承知しながら、お引き受けしました。これを機会に、歴史学者と社会学者との相互交流を進め、個人的には、懸案の『「経済と社会」(旧稿)の再構成――全体像』の執筆準備にも取り掛かりたいと思います。

つきまして、第一回報告に向けての準備稿を、このホームページに連載しております。

ヴェーバー研究者として、他領域の研究者と対等な相互交流関係に入るには、ヴェーバー研究の特殊事情(社会学上の主著『経済と社会』の誤編纂)から生じているテクストの不備を補い、全体としての読解の欠落も埋め、まずは対等な出発点に立たなければなりません。今回のテーマにつきましても、ヴェーバー研究の現状では、「『経済と社会』(旧稿)全体の構成」をなにほどか既知の前提として「法社会学」章の位置を論ずるわけにはまいりません。そこで、できるかぎり不備を補い、欠落も埋め、対等な出発点に立つための準備研究を、あらかじめこのホームページに発表したうえ、当日の相互交流に臨み、多少なりとも実りある議論をしたい、と念願する次第です。

研究会員はじめ、参加をご予定の各位には、お暇の折りご一読いただき、討論への素材ともしていただければ幸いです。

なお、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」の概要と、第一回公開シンポジウムのプログラムにつきましては、公式サイトhttp://www.law.hit-u.ac.jp/asia/j/weber.html が開設されていますので、ご参照ください (2010811日記)

 

 

『経済と社会』(旧稿)全体の構成と「法社会学」章の位置

目次

はじめに                                                  前稿 

1.「旧稿」の誤編纂とその後遺症――基礎カテゴリーの看過-逸失                  前稿

2. ゲゼルシャフト形成としての「社会」の合理化と、ゲマインシャフトの「重層性」 前稿

3.「旧稿」編纂論争史の到達点と現状                                                   前稿  

4.「旧稿」全体の再構成 (テクスト再編纂と内容再構成)                       本稿 (4) 一部

5.「法社会学」章の内部構成                              同時掲載稿(5) 

6. 結論――「旧稿」全体の構成と「法社会学」章の位置              続稿 

 

(準備の都合上、本稿 4. は、仕上がったところまでの途中稿を、この「シンポジウムに向けて(4)の一部として掲載し、他方、すでに仕上がっている5. を繰り上げ、「シンポジウムに向けて(5)として、同時に掲載します。本稿 4. のつづきは追って脱稿のつど、追記していきます。821日記)

 

(承前)

4.「旧稿」全体の再構成 (テクスト再編纂と内容再構成)

ここでは、テクスト再編纂・内容再構成の準拠標となる①「1910年構成表」、②「19131230日付ジーベック宛書簡」、③「1914年構成表」、および、④「旧稿」初版(マリアンネ・ヴェーバー編)の部・章、⑤「旧稿」第四-五版(ヨハンネス・ヴィンケルマン編)の部・章・節、⑥折原編の篇・章・節(これについては、再編纂の結論を先取りする形になります)を、対照表の形で示し、そのあと、折原編の篇・章・節につき、それぞれの再編根拠などを記しながら、内容の要旨を摘記し、全体の構成を見通していきます。

ただし、この再編纂・再構成の作業を、全篇(「カテゴリー論文」48ページ+「旧稿」初版の635ページ)にわたり、各段39826の再編-再配置根拠・要旨・前後関係などをそれぞれ詳述しながら、実施していくとなりますと、膨大な紙幅を要し、919日報告の制限時間内に圧縮することはもとより、本稿に収録するのも至難です。そこで、詳細は、研究会と並行して執筆を進めていく予定の『「経済と社会」(旧稿)の再構成――全体像』(後日刊行予定)に譲ります。

 

1910年構成表」

 

19131230日付書簡

1914年構成表」

『経済と社会』

初版 部・章

『経済と社会』

4-5 部・章・節

折原編「旧稿」

篇・章・節

 

a) 経済と法

(1原理的関係

2今日に至る発展の諸時期

b) 経済と社会集団

 

(家族団体とゲマインデ団体、

 

[身分と階級、

国家])

 

c) 経済と文化

(史的唯物論の批判)

 

 

 

 

 

ゲマインシャフト形態と経済との関係

家族と家ゲマインシャフト、経営

氏族

 

種族ゲマインシャフト

 

宗教 (救済教説と宗教倫理の社会学)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会学的支配理論

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会学的国家理論

 

1.社会的秩序のカテゴリー

経済と法の原理的関係

 

団体の経済的関係一般

2.家ゲマインシャフト、オイコスと経営

3.近隣団体、氏族、ゲマインデ

4.種族的ゲマインシャフト関係

5.宗教ゲマインシャフト、宗教の階級的被制約性; 文化宗教と経済志操

6.市場ゲマインシャフト関係

 

 

 

 

7.政治団体

法の発展諸条件

身分、階級、党派

国民

 

8.支配

a)正当的支配の三類型

 

 

 

 

 

 

 

b)政治的支配と教権制的支配

c)非正当的支配. 都市の類型学

d)近代国家の発展

e)近代政党

.ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの諸類型

 

 

 

1.経済と社会一般

 

2.ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの諸類型

 

3.種族ゲマインシャフト

4.宗教社会学

 

 

 

5.市場

6.経済と秩序

7.法社会学

8.都市

.支配の諸類型

1.支配

2.政治ゲマインシャフト

3.勢力形象。「国民」

4.階級、身分、党派

 

 

5.正当性

 

6.官僚制

7.家産制

8.家産制と封建制の作用

9.カリスマ制

10.カリスマの変形

11.国家と教権制 

 

 

 

未稿

未稿

.経済と社会的秩序ならびに社会的勢力

1.経済と社会的秩序

 

 

2.ゲマインシャフトの経済的関係一般

3.ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの諸類型

 

4.種族ゲマインシャフト関係

5.宗教社会学

 

 

 

6.市場ゲゼルシャフト関係

7.法社会学

 

 

 

8.政治ゲマインシャフト

 

 

 

9.支配社会学

1)支配の構造形式と機能様式

2)官僚制

3)家父長制と家産制

4)封建制、身分制国家および家産制

5)カリスマ的支配とその変形

6)政治的支配と教権制的支配

7)非正当的支配(都市の類型学)

.概念

1.社会――行為と秩序

2. 法と経済

 

 

3. 社会と経済

.社会

1. 家、近隣、氏族

 経営とオイコス

 

 

2. 種族

 

3. 宗教

 

 

 

4. 市場

 

 

 

 

 

5. 政治

6.

7. 階級、身分、党派

8. 国民

. 支配

1. 支配一般

2. 正当的支配の三類型

 

 1)合理的支配

2)伝統的支配

 

 

3)カリスマ的支配

 

3. 俗権と教権

 

4. 都市

 

 

. 概念

 「旧稿」全篇は、大きく. 概念. 社会. 支配、の三篇に分けられます。

  従来は、.「概念的導入部」、 . 「もろもろのゲマインシャフト」、. 「支配」と呼びならわされてきた三篇に、もっとも簡潔な見出しをつけます(この方針は、章、節の見出し語の選定にも、貫徹されます)

 「旧稿」の「じっさいの事象にかかわる諸章Sachkapitel」を、. 社会. 支配 とに、二分する根拠は、. 概念 篇の末尾に再配置されるべき(従来は、.「家ゲマインシャフト」章の冒頭[1][2]に置かれていた) つぎの「構成指示句」にあります。

「もろもろのゲマインシャフトの需要充足は、それぞれに特有の、しばしばきわめて複雑な作用をそなえているので、その究明は、この(個別事例は、もっぱら一般概念の例示のために参照される)一般的考察には属さない。

ここではむしろ、われわれの考察にとってもっとも重要な種類のゲマインシャフトにつき、その本質を手短に確定することeine kurze Feststellung des Wesens der für unsere Betrachtung wichtigsten Gemeinschaftsarten から始める (もろもろのゲマインシャフトを、ゲマインシャフト行為の構造・内容・および手段を規準として体系的に分類する課題は、一般社会学に属し、[その種の「一般社会学」は] ここではいっさい断念する)。そのさい、ここで論及されるのは、個々の文化内容(文学・芸術・学問など)にたいする経済の関係ではなく、もっぱら『社会Gesellschaft』にたいする経済の関係である。そのばあい、『社会』とは、人間ゲマインシャフトの一般的構造形式 allgemeine Strukturformen menschlicher Gemeinschaftenにほかならない。したがって、ゲマインシャフト行為の内容上の方向が考慮されるのは、それらが特定の性質をそなえ、同時に経済を制約するような、ゲマインシャフトの構造形式を生み出すばあいにかぎられる。これによって与えられる限界 [どのような内容上の方向性をそなえたゲマインシャフト行為を、どのくらいの紙幅を当てて論ずるか] は、徹頭徹尾流動的であるが、いずれにせよここで取り扱われるのは、きわめて普遍的な種類のいくつかのゲマインシャフトのみnur einige sehr universelle Arten von Gemeinschaftenである。以下では、まずそうしたゲマインシャフトの一般的性格づけallgemeine Charakteristikがなされ、それらの発展諸形態Entwicklungsformenは、やがて見るとおり後段で、『支配』のカテゴリーと関連づけて初めて、いくらか厳密に論及されよう」(WuG: 212)

 

. 概念

1-1. 社会――行為と秩序

 ここには、「カテゴリー論文」が編入、配置されます。その根拠は、

原著者ヴェーバー自身が、「カテゴリー論文」冒頭の注で、「この論文の第二部は、すでにかなり以前に書き下ろされていた叙述から抜いてきた一断片であり、その叙述は、じっさいの事象にかかわる諸研究sachliche Untersuchungen [一般]――わけても、間もなく刊行される叢書への一寄稿 (『経済と社会』)――の方法的基礎づけmethodische Begründungに、役立てられるはずであった」(WL: 427 Anm.) と述べていること、

その意図を裏付けるように、「旧稿」テクストに書き込まれた八つの前出参照指示 (Nr. 1, 2, 3, 10, 24, 25, 55, 474、拙著『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』、1996、東大出版会、付表1 参照指示一覧、参照) が、「カテゴリー論文」内に――しかも、そこにのみ――、内容上一致する被指示叙述を見出し、「カテゴリー論文」と「旧稿」とが、「参照指示ネットワーク」によって結合されていること、

(本準備稿の1. でも、おおよそ確認したとおり)「旧稿」全篇に適用されている、この時期のヴェーバーに特有の基礎カテゴリー――とりわけ、①同種の大量行為、②無定型のゲマインシャフト行為、③諒解行為(というゲマインシャフト行為)、④ゲゼルシャフト行為(というゲマインシャフト行為)からなる「四階梯尺度」――が、「カテゴリー論文」中で――当の「第二部」で――定義されていること、

1914年構成表」の⒈(1)「社会的秩序のカテゴリー」が、内容上、「カテゴリー論文」「第二部」にほぼ対応すること、

1914年構成表」の1.(2)「経済と法の原理的関係」に照応する「経済と秩序」(初-3)・「経済と社会的秩序」(45)、および同1.(3)「団体の経済的関係一般」に照応する「経済と社会一般」(初-3版)・「ゲマインシャフトの経済的関係一般」45版)のテクストには、「諒解行為」、「ゲゼルシャフト行為」、(それらの上位概念としての)ゲマインシャフト行為」といった「カテゴリー論文」の(それ自体としては特異な)基礎カテゴリーが、定義ぬきにいきなり初出しており、「教科書的didaktisch叢書」におけるこうした措置は、読者が、直前に置かれた「カテゴリー論文」「第二部」の定義をあらかじめ読んで知悉している、という前提のうえに初めて可能であること、

ⓕ「カテゴリー論文」「第一部」が、末尾の文言(「架橋句」)――「社会学においては、日常的によく知られ『慣れ親しまれた』意味上の連関 [A] が、他の連関 [B] の定義に利用され、その後に、前者の連関 [A] のほうがまた、後者 [B] の定義によって定義される、といった取り扱いが、絶えずなされなければならない。……われわれは[ここで]、そのようないくつかの定義 [B] に入っていこう」WL: 440, 海老原・中野訳: 41)――によって「第二部」と結合され、「第二部」における諸連関 [B] の定義と、これを前提とする、「旧稿」における諸連関 [A] の再定義が、予示されている、と解釈できること (前出1. 16、参照)

などです。

 

「カテゴリー論文」全篇の段別要旨については、拙著『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』、3章「欠けていた頭――範疇」をご参照ください。

 

章題を「社会――行為と秩序」とする理由は、こうです。ヴェーバーの「理解社会学」は、「社会」の実体化を避けるため、「社会概念を用いず、「行為秩序の概念によって「社会」(上記の引用にも登場する概括的意味の「社会」)を問題とし、捉えていこうとします。「意味Sinn」理解の微分単位として、個々人の「行為Handeln」を出発点に据え、複数行為の輻輳から「秩序Ordnung」が形成される経緯を問い、もろもろの「社会形象(構成体soziale Gebilde」を「秩序づけられた協働行為連関geordnete Zusammenwirkungen」として捉え返します。そういう独自の「理解社会学」を、ヴェーバー自身が初めて正面から表題に掲げて提唱し、その方法を基礎づけている序論 (概念的導入部) が、「カテゴリー論文」「第一部(§) です。そのうえでその方法を「じっさいの事象にかかわる研究」に適用すべく、まずは、「人間ゲマインシャフトの一般的構造形式」という特異な「社会なき社会」概念を構成するため、その基礎カテゴリーを設定し、「ゲマインシャフト行為ないし秩序の『合理化』にかんする四階梯尺度」に編成して、「旧稿」中の「じっさいの事象にかかわる諸章」(. 社会、Ⅲ. 支配) に架橋し、そこにおける適用-展開にそなえているのが、「第二部」(§Ⅳ~Ⅶ)です。この趣旨を、もっとも簡潔に、「社会――行為と秩序」と表記し、標題とします。

 

 折原は、「カテゴリー論文」の「第一部Ⅰ-1. に含め、再録しようと思います。しかし、この措置には、「第一部」「第二部」それぞれの作品成立史に準拠する異論が提起されましょう。

ヴェーバーは、191395日付けハインリヒ・リッカート宛て書簡で、「カテゴリー論文」の「当初 (稿)部分 ursprüngliches Teil」は、「34年前に仕上がっており」、それを「いま (取り出して) 推敲し」、「純論理学的叙述は『最小限に切り詰め』た『方法上の』序論を書き足して前置し」、915日の原稿締め切り日までに、『ロゴス』誌の編集者リヒャルト・クローナー宛てに送る、と伝えています (MWG, 8: 318)。ですから、その「『方法上の』序論」に相当する (と見て間違いない)「カテゴリー論文」「第一部」は、確かに、「第二部」とは異なり、『社会経済学綱要』への寄稿を予定して書き下ろされた「旧稿」「当初 (稿) 部分」の一部ではなく、直接にはもっぱら『ロゴス』誌への寄稿として、原稿締め切りの直前に書かれた一文と見なければなりません。そこで、「第二部」はともかく、「第一部」を「旧稿」に前置するのは、原著者の直接の意図に反する、という異論が出てきますし、「旧稿」以外の諸著作との兼ね合いを重視する『全集』版の「歴史的・批判的版本」としては、出てきて当然とも思われます。さらに、そのような理由で「第一部」の別途編纂を認めますと、それならば「第二部」も、原著者ヴェーバーが別途『ロゴス』誌に発表したにはちがいないのだから、その意図を尊重し、こちらも「旧稿」からは切り離して別途編纂に委ねるべきだ、という議論が出てくるにちがいありません。

さて、それでは、ヴェーバーはなぜ「カテゴリー論文」を(「第一部」のみでなく、「第二部」も含めて、確かに別途)『ロゴス』誌に発表したのでしょうか。別途発表という「直接の意図」は、いっそう包括的な動機連関のなかで、いかなる位置を占め、なにを意味していたのでしょうか。

このように、問題を、「直接の意図」から「いっそう包括的な動機連関」に置き替えますと、ここでもやはり、まずはシュルフターの議論が注目されます。かれは、『ロゴス』誌への別途発表を、「旧稿」にとっては「無効」「無用」になった「(トルソの) 頭」を「旧稿」から「斬り落とし」たのだ、と見て、(少なくとも「旧稿」との関係では)否定的-消極的な動機を想定していました。

しかし、折原は、「カテゴリー論文」の『ロゴス』誌発表には、(「旧稿」との関係も含む)きわめて積極的な動機があった、と想定します。すなわち、それまでの (「ロッシャーとクニース」から、「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』(「客観性論文」)」「文化科学の論理学の領域における批判的研究 (「マイヤー論文」)」を経て、「シュタムラーにおける唯物史観の『克服』(「シュタムラー批判」)」にいたる) 方法論上の否定的批判を、こんどは一転して積極的に集約し、「理解社会学」として方法的に定礎し、歴史-社会科学のこの(みずから編み出した)「真に有効にして新しい」と確信する方法を、一方では、『社会経済学綱要』とはやや異なる(哲学、歴史、宗教、芸術などの人文諸科学にわたる)範囲の (『ロゴス』誌の) 読者層に広く伝えると同時に、他方では、『社会経済学綱要』の協働執筆者にも、当の方法を自由に採用してもらえるように、その文献的条件をととのえておく、という積極的動機にほかなりません。「カテゴリー論文」冒頭の注には、その「第二部」を含む「すでにかなり以前に書き下ろされていた叙述」が、(『社会経済学綱要』寄稿のみでなく1915年から発表され始める「世界宗教の経済倫理」シリーズも含むであろう)「じっさいの事象にかかわる諸研究」一般の「方法的基礎づけ」として役立てられるはずであった、と謳われています。それは、『社会経済学綱要』寄稿への概念的導入部として「無効」「無用」になったから「斬り落とされた」のではなく、『社会経済学綱要寄稿を含むいっそう広い範囲の「じっさいの事象にかかわる諸研究」一般に「方法的基礎づけ」として役立てられるように、いっそう広い範囲の読者に向けて公表されたのであり、その妥当範囲は当然、『社会経済学綱要寄稿自体をも覆う (そこでは「斬り落とされ」て「無効」になっている、というのではなく、いぜんとして「活きている」) と考えられます。

また、ヴェーバーは当初、(当時まだ『政治経済学必携』と呼ばれていた)『社会経済学綱要』そのものに、「問題設定の目的と論理的性質Objekt und logische Natur der Fragestellungen」と題する方法的基礎づけ (1910年構成表」1.) を寄稿しようと考えていました。しかし、その意図の文字通りの実現は、かなり早い段階で断念されたようです (MWG, 6 447)というのも、ヴェーバーがその標題のもとに、社会科学の包括的認識論-方法論を開陳し、その結論で「理解社会学」を社会科学の「真に有効にして新しい」方法として提唱し、そういう一篇を『社会経済学綱要』Ⅳ-1.正式に編入するとなりますと、『政治経済学必携』ないし『社会経済学綱要』と題する叢書が、なにか「編集者」の一存により、当時まだ確立してはいない「理解社会学」によって方法上統一されるかのような印象を与えかねないでしょう。としますと、そうした事態を『社会経済学綱要』の協働執筆者たちが快く思わないであろうことは、その種の「内的強制」に敏感で、執筆者各人の「方法選択の自由」に神経を遣うヴェーバーには、容易に察知され、回避されたにちがいありません。それにもかかわらず、「理解社会学」にたいする確信が真正で強固であったとすれば、かれはそれを、個人責任において別途公表し、ただしそれだけ自由に、また十全に展開し、協働執筆者の自由な採択に期待を掛けるほかはなかったでしょう。

ちなみに、かれは、当時から約10年前、ヴェルナー・ゾンバルト、エドガー・ヤッフェとともに『社会科学・社会政策論叢』の協働編集を引き受けたときにも、その綱領的文書「社会科学および社会政策にかかわる認識の『客観性』」を、協働編集者が明示的に合意した「緒論Vorwort」とは明確に区別し、別途個人名・個人責任で執筆し、それだけ自由に、十全に展開しようとしました。それから約10年後、「ドイツ社会学会」設立の企図が挫折して、学者間の協働作業の難しさを痛感したであろうヴェーバーが、これまた協働企画にはちがいない『社会経済学綱要』の編集に携わるさいにも、あえて「編者Herausgeber」ではなく「編集主幹Schriftleiter」を名乗り、(方法論上の模索を重ねて編み出し、かれとしては秘かに、メンガー-シュモラー間の「社会科学方法論争」の止揚-解決とも、シュタムラーに代わる「唯物史観の真の克服」とも、確信していたにちがいない)「理解社会学」の方法の開陳-普及にかけても、それだけ慎重に、『社会経済学綱要』への直接投入は避け、あえて別途発表という戦略を採ったとしても、けっして不思議ではないでしょう。

そのように、ヴェーバーの「カテゴリー論文」1913を、(1898年から1902におよぶ神経疾患以後、1903年から1909にかけて集中的に展開される) 否定的・批判的な方法論上の著作から、「理解社会学」さらには(「理解科学」の「法則科学」的分肢としての理解社会学と、同じく「現実科学」的分肢としての理解歴史学とを、峻別しつつも、独自に総合していこうとする)「比較歴史社会学」への積極的な旋回点として、「新局面」「中期」以降の大きな思想発展のなかに位置づけて捉えますと、「第一部」を含む「カテゴリー論文」の『ロゴス』誌発表も、(シュルフターのいうような消極的動機に発するものではなく) むしろヴェーバーらしく熟慮された選択であり、上記のような積極的動機の (状況内要因によって屈折を余儀なくされた) 発露であったと見られましょう。

 

とはいえ、このような捉え方が、内容上大筋では正しいとしても、「作品成立史上は、いまのところ上記のような状況証拠止まりで、決め手となる(書簡資料のような)直接証拠による裏付けには欠ける、と折原も認めざるをえません。ですから、折原は、「第一部」も含む「カテゴリー論文」全篇の、「旧稿」への編入自体にはこだわりません。問題は、「二 (三) 部構成の一書」としての『経済と社会』が、長らく通用して「無疑問的」に受け入れられてきたばかりか、『全集』版の「旧稿」該当巻編纂までが、「旧稿」と「カテゴリー論文」とを内容上も分断して、「旧稿」全体の基礎カテゴリーと体系構成の看過-逸失を踏襲し、全体の読解を困難ならしめている、という実情にあります。『全集』版「旧稿」該当巻の編纂者による解説の類でも、「カテゴリー論文」への参照指示は、現在では稀覯本に属する『ロゴス』誌版のページを挙示する形でなされており、読者による検証を困難にしています。

それにひきかえ、『経済と社会』の誤編纂とその後遺症にたいする批判的総括がきちんとなされ、「カテゴリー論文」と「旧稿」との不可分の関連が、編纂資料として、あるいは編纂者の解説として、双方から明快に解き明かされさえすれば――要するに、「旧稿」がその基礎カテゴリーと体系構成に即して「全体として読める古典」に復元されるならば――、形式上の別巻刊行自体は、出版技術上の問題として容認されましょう。折原は、そうなるまでは、『全集』版編纂陣に代表されるヴェーバー研究の現状には逆対応的に、「第一部」も含む「カテゴリー論文」全篇を「旧稿」に編入して読み、この方針を堅持して、「カテゴリー論文」の方法と基礎カテゴリーにもとづく「旧稿」全篇の体系的構成を、再現-再構成していきたいと思います。

 

 

Ⅰ-2. 法と経済

ここには、「1914年構成表」の1.(2)「経済と法の原理的関係」に照応する「経済と秩序」(初-36)・「経済と社会的秩序」(451) のテクスト (初-3: 21; 45: 26) が、そのまま配置されます。この章の段別要旨については、拙著『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』、1章「トルソ本体に残された首 (1) ――再配列単位としての「旧稿」「26章・経済と秩序」」もご参照ください。

 

Ⅰ-3. 社会と経済

 ここには、「1914年構成表」の1. (3)「団体の経済的関係一般」に照応する「経済と社会一般」(初-31・「ゲマインシャフトの経済的関係一般」452のテクスト (17) が、(第一次編纂者の例外的挿入と目される第2段を削除して) 編入されます。 この章の段別要旨については、拙著『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』、2章「トルソ本体に残された首 (2)――再配列単位としての「旧稿」「21章・経済と社会一般」」もご参照ください。

 

(以下、Ⅰ-2Ⅰ-3、にかんする詳述と、.「社会」篇、.「支配」篇、にかんする同種の叙述につづきます。821日現在、仕上がっている途中稿のみ、ここに掲載し、続稿は、脱稿のつど、このあとに追記していきます。他方、論文構成上はこの4. の後に配される、5.「「法社会学」章の位置」の基礎資料 (Ⅱ-6「法」章の「段別要旨」) を、「シンポジウムに向けて (5)」として、本日、繰り上げて、本ホーム・ページに掲載します。821日記)

 

(承前)

Ⅰ-2. 法と経済(段別要旨)

この章は、「法社会学」章ともっとも密接な関係にあり、その読解にとって不可欠なので、以下に、節の要旨、(各節について) 段別要旨を摘記していきます (段落番号 [n] は、現在もっとも入手しやすいWuG, 5. Aufl.: 5版の段別にしたがいます)

 

本章は、§1. 法概念の社会学的意味転換、§2. 習俗-慣習律-法――人間行動の社会的秩序、および§3. 法と経済との原理的関係、の三節から構成される。

§1.では、法と法秩序の概念が、法規範学Rechtsdogmatikの平面から法社会学Rechtssoziologieの平面へと意味転換され (「観念的当為」の次元から、「現実の生起」における「経験的妥当」の次元に移され)、人間行動を規定する諸根拠のひとつとして、理論的に相対化される。それと同時に、法規範学では前提とされる「国家法」が、その「経験的妥当」を国家アンシュタルトの「強制装置」によって保障された、法秩序の特例 (特殊近代的」階梯) として、歴史的にも相対化される。

さらに§2.では、「国家法」も含む法秩序そのものが、「習俗」、「慣習律」と並ぶ人間行動の「社会」的諸秩序のなかで、比較的後代の産物として、歴史的に相対化される。

そのうえで、§3では、そのようにして開かれた歴史的パースペクティーフのもとで、「現実の生起」の平面における法と経済との原理的関係が問われ、一般命題 (「固有法則性」をそなえた領域どうしの相互制約関係: 法の「経済的被制約性」と「経済的意義」) に定式化され、特殊「近代」法と特殊「近代」経済との「適合的」関連が予告される。

 

§1. 法概念の社会学的転換

  (規範) 学的考察方法: 「法として観念的に妥当するものは何か」、つまり「法規範として現れる言語形象に、論理上整合的richtigには、いかなる規範的意義が与えられるべきか」を問う。それにたいして社会学的考察方法:「ゲマインシャフト行為に関与する人間が、特定の秩序を、妥当するgeltend と主観的に見なし、じっさいにそのように取り扱う――つまり、自分の行為をそうした秩序に準拠させる――シャンス(客観的可能性)が存在することによって、当のゲマインシャフトの内部に、じじつ何が起こるか」を問う。[1]

 

 法秩序の法 (規範) 学的概念: 「個々の法命題が相寄って矛盾のない体系をなすように、それぞれを論理上『整合的』 に規定した体系」。それにたいして、「社会経済学」のいう「経済秩序Wirtschaftsordnung」とは、社会学的考察方法をそのまま(行為一般のうち、特定の領域としての)「経済行為」(すなわち、「経済的事態」への準拠の必然性によって制約された事実的行為)に適用して、「(「経済的事態」をめぐる利害の闘争が、なんらかの妥結に達する) そのときどきの妥結のあり方に応じ、諒解によってeinverständmässig 成立する、財や経済的給付にたいする事実上の処分力の配分、および、財と給付が、この諒解にもとづく処分力により、(主観的に) 思われた意味にしたがって利用される、その事実上の様式」と定義される。

ただし、この定義の鍵をなす「経済的事態wirtschaftlicher Sachverhalt」の概念は、じつはひとつ後のⅠ-3 (「社会と経済」章) で初めて、「ある欲求ないし欲求複合にたいして、その充足に必要な手段および可能的行為の準備が、行為者の主観的評価において相対的に『稀少knapp』な事態」と定義される。また、「経済行為」の概念についても、このⅠ-2では、wirtschaftliches Handeln (2)Wirtschaftshandelnwirtschaftliches Verhalten, ökonomisches Handelnなどの類語が、そのつど区々に (おそらくは意図して「非専門風」に) 用いられているにすぎないのに、Ⅰ-3にいたって初めて、「経済行為Wirtschaften」という統一的術語が当てられる。ということは、このⅠ-2の主題が、あくまで法と法秩序の概念、その社会学的意味転換のほうにあり、その途上における「経済秩序」概念の導入は、Ⅰ-3での主題的取り扱いに先立つ暫定的提示にすぎない、という関係を示唆していよう (ただし、この暫定的定義でさえ、この章を「カテゴリー論文」と分断してしまえば、それが上記のとおり「諒解」概念を既知の前提として編入しているかぎり、読解不能と化し、「宙に浮く」ほかはない)

さて、上記のとおり、一方では法秩序が「観念的当為」の平面に、他方では経済秩序が「現実の生起」の平面にあるとすれば、そのかぎり双方は永遠に交わらない。双方の関係をⅠ-2 の§3で原理的に (また、Ⅱ-6「法」章では歴史的に) 問うには、まず法概念の社会学的意味転換を企て、その「経験的妥当」とは何か、を明らかにしておかなければならない。[2]

 

この問題設定に答えて、ヴェーバーは、法秩序を、「人間の思慮によって合理的に制定された秩序 (ゲゼルシャフト関係の秩序)の特例と見て、後者の「存在」ないし「妥当」にかんする一般的規定から、前者の「経験的妥当」にかんする特別の規定を演繹しようとする。ところが、当の一般的規定は、ふたつの明示的前出参照指示 [Nr. 1, 2] と、ひとつのいわば黙示的前出参照指示 [「われわれの一般的定義」] によって、先行叙述に委ねられている。そして、この先行叙述は、じつはやはり「カテゴリー論文」中に見出される。

「指令(授与)Oktroyierung」または「協定Paktierung」によって秩序が制定されると、それ以降は、その制定秩序にもとづいて、他人の行為にたいする「予想Erwartung」が立てられ、他人の事実行為もその予想と一致するであろうから、制定秩序の「経験的妥当」とは、まさにそうした一致を意味する、とも考えられよう。そうした一致の確保が、通常は秩序制定の合理的目的であるから、もとよりそういうばあいがあるにはある。しかし、主観的意味の次元をともなう人間行為の多様かつ流動的な経験的現実においては、ことはさほど一義的に明快ではない。まず、「指令」のばあい、秩序制定の事実も意味も、大多数の関与者にはまったく知られないまま、かれらの「習俗」や「慣習律」を見越し、それらに著しくは抵触しないように、ただ万一のばあいのそなえとして、制定され、指令されたかもしれない。あるいは、指令当初には知られていたとしても、時の経過とともに忘却されたかもしれない。そういうばあい、合理的に目論まれた一致が、平均的には確保されるとしても、大多数の関与者は、主観的にはただ「習俗」ないし「慣習律」にしたがって行動しているにすぎず、その事態が客観的には制定秩序の平均的意味に一致するまでであろう。また、定義上は関与者全員の意識的「合意Vereinbarung」をともなう「協定」のばあいにも、制定秩序の意味は、当初から関与者各人により互いに異なって把握されていたかもしれないし、時が経つにつれて別様に解釈され、「意義変化」をきたしているかもしれない。このばあいには、主観的には「秩序適合的ordnungsmässig」でありながら、客観的には当の秩序の平均的意味解釈から逸脱した「客観的には『異常abnorm』な行為」が発生する。そのかぎり、目的とされた一致は、もはや達成されないであろう。他方、関与者のなかには、(たとえば「窃盗犯」のように) 制定秩序の意味に、意識的に背反して (つまり主観的には「反秩序的ordnungswidrig」に) 行為しながら、その行為を「人目には隠す」ことによって関与はつづける、という個人も出てくるであろう。このばあい、かれは、制定秩序を「遵守einhalten, befolgen」してはいないが、なお、それに「準拠orientieren」してはいる。要するに、客観的には制定秩序にしたがっている人間が、必ずしも主観的には制定秩序を知ってはいないし、他方、制定秩序を主観的に知っている人間が、必ずしもそれにしたがうわけではない。それゆえ、ある制定秩序の「経験的妥当」にとって決定的なことは、個々の関与者が、自分自身の行為において「秩序適合的」な「準拠」(すなわち「遵守」) をつづけることではなく、①個々の関与者が、「他の関与者は、あたかも制定秩序を原則として遵守するかのように、平均的には行動するであろう」という予想を主観的に抱いており、また、②人間行動のシャンスにかんする平均的判断から推して、そうした予想を抱くことが「客観的に可能」だったし、かつ当事者自身も、そうした「客観的可能性」をなにほどか当てにしていたにちがいない、という事態である。ある制定秩序の「経験的妥当」は、人間行為の経験的現実においては流動的であり、この二条件が失われるにつれて、不安定かつ稀薄となり、ついには消滅する。

  他方、関与者は、そのようにもっぱら「予想」に準拠して行為するばかりでなく、制定された秩序自体を、自分の行動にとって「拘束的・義務的 verbindlich」と見なし、主観的に把握された、そうした「合法性Legalität」―― (制定秩序のみでなく、非制定・諒解秩序を含めた) 秩序一般にたいしては「正当性Legitimität」――を「義務Pflicht」ないし「固有価値Eigenwert」と感得して、そのかぎり秩序をひたすら自己目的的にも遵守しようとするであろう(「予想準拠的」行為にたいする「価値準拠的」行為)。制定秩序にたいするこうした「合法性」信仰――秩序一般にたいする「正当性」信仰――が、関与者の間に普及し、一定程度根づけば、かれらの「秩序適合的」行動への予想も、それだけ実現される度合いがたかまり、制定秩序の経験的存立-妥当も、それだけ補強され、安定しよう。

 さらに、関与者の「秩序適合性」は、(そうした「正当性」信仰によって内面から根拠づけられるだけではなく) 外面からも、「反秩序的」行為にたいして「制裁Sanktionierung」が加えられ、物理的ないし心理的「強制」が行使されることによって「保障garantieren」されよう。とすれば、経験的妥当のシャンスを、そのように外面から、しかも、「強制装置Zwangsapparat(「特別の強制手段[法強制]による秩序の貫徹を、固有の目的とし、そのために常時準備をととのえている、ひとりもしくは複数のスタッフ」)によって保障された秩序が、「法」にほかならない。

 以上のとおり、この [3] 段の叙述は、前出参照指示にしたがい、「合理的秩序」一般の存立-妥当にかんする「カテゴリー論文」の議論を参照することによって初めて、判読され、論理的飛躍なく、法-法秩序の社会学的定義に接続される。それと同時に、「法秩序」が、法規範学的な「観念的妥当」を即「経験的妥当」と混同する「観念論的実体化」から解放され、主観的意味をともなう人間行為の多様かつ流動的な経験的現実のなかで、生成し変化し消滅する一秩序として、その内面的また外面的な存立条件とともに規定される準備がととのえられている。

このあと、ヴェーバーは、当の保障のあり方について、強制手段の作用は、ⓐ心理的でも物理的でも、ⓑ直接でも間接でも、ⓒ対内的でも対外的でもありうる、といった規定を加えていく。ⓒの「対内的」とは、当の法秩序が妥当すべき「諒解ゲマインシャフト」、「ゲゼルシャフト関係」、「団体」あるいは「アンシュタルト」の構成員にたいして、対外的とは、それらの外部に向けて、という意味である。つづいて、ⓓ「あるゲマインシャフト関係にたいして諒解によって妥当する秩序は、法秩序だけではない」との趣旨が述べられ、ここに明示的後出参照指示 [Nr. 4] が付されている。制定秩序としての法秩序のばあいにも、大多数の関与者は、法制定の事実とその意味と効果を主観的に知ったうえで、それを遵守している、というわけではなく、事実上制定秩序に抵触しない「予想」を、「妥当なものgültig」と見なして裏切らないだけであるから、その「法秩序」もじつは諒解によって「妥当gelten」しているといえる。それにたいして、同じく諒解によって妥当する秩序でありながら、この意味における法秩序でないものとは、ある行為者の「周囲」にいる一群の他者が、ある秩序の遵守を「是認」し、違反を「非難」し、これにたいして当の行為者が、そうした是認と非難に示される秩序遵守要求を「妥当なもの」と見なしてそれにしたがう、というばあいの、そうした制定秩序を意味していると解されよう。とすると、そうした非制定秩序とは、後の[8]で「習俗Sitte」とともに導入され、定義される「慣習律Konvention」秩序にほかならない。したがって、この後出参照指示Nr. 4は、この[3][8]を繋ぐテクスト内在的根拠 (「関連指示」) であるといえよう。「旧稿」には、こういう「参照指示のネットワーク」が張り巡らされているから、ひとつひとつ指示-被指示関係の所在を確かめ、テクスト再編纂の指標として活かすことができる。[3]

 

つぎに、ⓔ客観的な法がすべて、「(直接に)保障された法」であるとはかぎらない。「保障されていない法」、いっそう正確には「間接にしか保障されていない法」もある。すなわち、それ自体としては法強制によって保障されていないけれども、その遵守ないし侵害が、他の保障された法規範によってサンクションされ、間接に法的効果をともなうような規範である。この「間接に保障された法」も、[後段 [6] で採り上げられる]「間接に保障された権利」も、法命題の「観念的妥当」の範囲を超える事実作用ないし効果の領域にあるが、ゲマインシャフト行為の規定根拠という資格にかけては、「直接に保障された法ないし権利」と同等ないしそれ以上の事実的効果をともない、そのかぎり、社会学的考察にとっては同等ないしそれ以上に重視されなければならないわけである。

そのうえ、ⓕ「(直接に) 保障された法」のばあいにも、その保障がすべて「実力 Gewalt(物理的強制力の発動)によるとはかぎらない。たとえば、今日の「公法」、すなわち「国家アンシュタルト」における「機関行為Organhandeln」および「アンシュタルトに関与するanstaltbezogen行為」のための規範には、物理的強制手段による裏打ちがない。ところで、ⓖ今日では、実力による法強制は、国家アンシュタルトによって独占されている。この点にかけて、国家以外のゲマインシャフト形成態はすべて「他律的heteronom」、またたいていは「他主的heterokephal」である。これはしかし、「一定の発展階梯に特有の事態」である。法強制が「政治ゲマインシャフト」に特有の、通例は直接物理的な強制手段によって行使されるばあい、そのような法強制によって保障された法を、「国家法staatliches Recht」ないし「国家によって保障されたstaatlich garantiertes Recht」と呼ぶことにする。ⓗ国家による法強制の発動契機は、契約違反や犯罪のような人為的事件ばかりではなく、河川が一定の水位を越えたというような自然現象のばあいもある。[4]

 

ⓘ法の経験的妥当にとっては、強制装置の発動を予想して服従するという動機は、不可欠ではない。服従の動機は、功利的、倫理的、あるいは周囲の非難へのおそれなど、多種多様であろう。なるほど、法の経験的妥当のあり方やシャンスは、いずれの動機が優勢であるかによって左右される。しかし、法の形式的・社会学的概念にとっては、そうした心理的要因はどうでもよい。ただ規範が侵害されたというだけで、強制装置が介入する十分なシャンスがあれば、その規範は「保障された法」である。[5]

 

[以上 [3][5] の行論が進むにつれて、ゲマインシャフト関係の秩序がすべて「法」ではなく (シュタムラーのように「法」を「社会生活の普遍的形式」と見ることばできず)、その法もすべてが「保障された法」ではなく、その保障もすべてが「実力」によるわけではなく、その実力によって保障された法も、すべてが「国家法」ではない、として、(法規範学では法一般として前提とされる)「国家法」が、ゲマインシャフト関係の秩序一般のなかで、まずは理論的に特殊化・相対化され、それと同時に「一定の発展階梯に特有の事態」として歴史的に相対化された。と同時に、「国家法」が、「非国家法」や、法以外のさまざまな秩序のなかから歴史的に発展してくる経緯を、法強制の国家アンシュタルトによる独占の過程として、その社会学的基盤から捉え返す、歴史社会学的パースペクティーフが切り開かれている。]

 

客観的法の経験的妥当から、個々人には、[たとえば、財にたいする処分力の確保ないし取得にかんする] 計算可能なシャンスberechenbare Chancenが生ずる。こうしたシャンスの創出ないし確保が、通例、法制定の目的である。このばあい、個々人は、自分の特定の (観念的ないし物質的) 利害のために、合目的性の見地からする評価や他人の恣意や恩恵には依存せず、もっぱら法命題の意味に依拠した、そのかぎり計算可能な、強制装置の援助を請求し、期待することができる。そうしたシャンスが、法によって保障された「主観的権利subjektives Recht」である。

そうしたシャンスが、間接に、ある法規範が経験的に妥当している反射効果として、生ずるばあいもある。「客観的法」のばあいと同様、そうしたシャンスを「保障されていない権利」いっそう正確には「間接にしか保障されていない権利」と呼ぶことにする。そのうえ、そうしたシャンスが政治権力の強制手段によって保障されているばあいを、「国家法によって保障された主観的権利」、それ以外の [たとえば教権制的権力の] 強制手段によって保障されているばあいを、「国家法以外の法によって保障された主観的権利」と呼ぶ。

物理的強制手段の作用が、心理的なそれ [たとえば、ある団体からの除名やボイコット、呪術的な祟りや来世における懲罰の予告] に比べて、つねに強力であるとはかぎらない。政治ゲマインシャフトの強制装置による、実力をともなう法強制が、他の (たとえば宗教的) 勢力の強制手段に劣るばあいも稀ならずある。「教会法」や「ツァドルーガ法」は、しばしば国家法と対立・抗争するが、それ自体が法であることに変わりはない。ヨーロッパ以外の法圏では、国家法がしばしば、他の団体の規範に、補完的機能を認めている。ドイツでも、裁判所が、国家法では禁じられている決闘の事案につき、その適否を、身分団体の礼法に照らして審査することもあった。そういうわけで、ここで堅持している用語法からして、法を国家法に限定する理由はない。物理的ないし心理的強制手段の適用が見込まれ、ひとつの強制装置によって行使されるかぎり、いずれのばあいにも法秩序が存在する。物理的強制の装置が、つねに政治ゲマインシャフトによって独占されていたわけではないし、心理的強制となると、今日でさえ、そうではない。

さらに、客観的法や主観的権利が、ひとつの強制装置によって直接保障されている事態は、法や権利が存立するひとつのばあいにすぎない。そのばあいにかぎっても、強制装置のあり方はきわめて多様。ひとつの極限事例として、あるゲマインシャフトの秩序が脅かされたばあい、当のゲマインシャフト関与者の全員が、予め確定された規則にしたがって強制援助に立ち上がり、全員で「強制装置」を構成する、というばあいもある。他方、政治アンシュタルトの一機関によって保障されている法のばあいでも、その強制装置は、利益団体、身分団体、その他の団体の強制装置によって補完されたり、逆にそれらと抗争したりする。強制手段における諸団体間の抗争は、法そのものと同じく古く、今日でさえ、必ずしも政治団体の勝利に帰しているわけではない。[6]

 

ある主観的権利の請求者とその保障者との関係という視点から見ると、ある主観的権利の保障者が、[近代の国家アンシュタルトにおけるごとく] 原則として請求者となんの即人的関係もない、「公平な」第三者機関であるばあいもあれば、[氏族の「血の復讐」義務におけるごとく] 請求者と密接な即人的結合関係にある「仲間Genossen」であるばあいもある。

請求者にとり、一定のメルクマールによって具体的に挙示できる人びとの、現実の、あるいは可能な行為が、主観的権利の内容をなし、その実現につき、保障者の強制援助が期待できるばあい、当の請求者は、当該の人々にたいして「権利関係Rechtsverhältnis」にある、といえる。「権利関係」に内容として含まれる主観的権利は、事実いかなる行為がなされるか、に応じて異なる。この意味では、ある具体的な国家にたいしても、「権利関係」が生じうる。たとえば、支配者だけが主観的な命令権をもつと見なされ、他の個々人のシャンスはすべて、当の支配者の「行政規則」の反射として存立しているにすぎない、というような理論上の極限事例も含めて、そうである。[7]

 

§2. 習俗-慣習律-法――人間行動の社会的秩序

 法秩序と(相互に)流動的に移行し合う関係にある領域として、「習俗」と「慣習律」。習俗Sitte: 類型的に一様な行動が、もっぱら「慣れGewohnheit」や無反省な「模倣Nachahmung」により、仕来りどおりに維持されるばあい。当の一様な行動は、他人から要求も強制もされず、それ自体として (惰性的に) 継続するから、(いまだにゲマインシャフト行為の態をなさない)「同種の大量行為gleichartiges Massenhandeln」の階梯にある。それにたいして、慣習律: 同じく一様な行為が、(「強制装置」に組織化された「法強制」によってではなく) 行為者の周囲にいる一定範囲の人びとの「是認Billigung」と「非難Missbilligung」によって維持されるばあい。当の一様な行為は、主観的な意味のうえで、是認ないし非難という他人の行為に関連づけられているから、それ自体「ゲマインシャフト行為」、したがって、慣習律とは、「ゲマインシャフト行為」の規則性の一種。ちなみに、「慣習Gewohnheitsrecht」は、慣習と同じく、「制定satzen」されてはいないが、法と同じく、強制装置によって保障されている。

  あらゆる経済の基礎をなす欲求の状態は、習俗によって規定されているので、たんなる習俗も、そのかぎり「経済にとって意義をもつökonomisch relevant」。個々人が習俗から離脱することは、事実上難しく、習俗の変化は通例、他の人間圏の習俗を模倣することによって、徐々に進行する。他方、習俗の共有は、交際ゲマインシャフト、通婚関係、「種族的ethnisch」共属感情、などの構成契機となる。

  事実上習慣となったものを、それ自体として固守することは、あらゆる行為の強力な要因である。したがって、法強制が習俗を法的義務として保障しても、習俗の効力にはなにものも付け加えず、逆に、習俗に歯向かえば、挫折することが多い。慣習律にいたっては、ますますもってしかり。個々人は、周囲の人びとの自発的好意に依存しているので、その是認ないし非難は、法強制装置以上に個々人の行為を強く規定している。[8]

 

  習俗から慣習律への移行は流動的。歴史を遡るほど、行為とくにゲマインシャフト行為は、もっぱら習慣となったものそれ自体に志向。平均的人間は、習慣の軌道から逸れると、生理的機能障害のばあいと同様、不安に囚われ、元の軌道に引き戻される。特定の習慣的行動に「拘束性Verbindlichkeit」がそなわっているという主観的観念が、どの段階で、どの領域に生ずるか、については、いまだにはっきりしたことは分からない。いずれにせよ、有機体的に制約された事実的規則性が、精神物理的所与として先にあり、後から「拘束的規範」ないし「規範的義務」の観念が付け加わる。人びとがそうした拘束的規範の観念に則って違反を非難しあうようになると、習俗は慣習律に移行する。そうなると、人びとの行為は、習俗と慣習律との両水準で、ともに規則的なものに志向し、およそ「革新Neuerung」の余地を残さないようにも見える。ところが、じっさいには革新が起き、これが新しい慣習律を成立させるとすれば、それはいかにしてか。[9]

 

  革新が、①外的生活条件の変化にたいする適応 (「外からの革命」としての「合理化」) として発生することは疑いない。しかし、一方では、革新によって生活を立て直す代わりに、適応に失敗して衰滅してしまうこともあろうし、他方では、②数多の革新が、外的変化を与件とせず、むしろ、「特定の『異常なabnorm』体験をなし、これによって他人に影響をおよぼすことのできる [カリスマ的] 個人」によって引き起こされている。

③そうした影響の心理学的性質は、ヘルパハにより、「鼓吹Eingebung [当為教唆]」と「感情移入 Einfühlung」とに分類された。前者においては、ある行為を「当然なすべしgesollt」とする観念が、激烈に作用する手段によって、突如、被影響者の側に目覚めさせられるが、後者では、影響者自身の内面的な振る舞いが、被影響者によって「共に体験miterleben」される。こうした源泉から、しばしば、影響者とその体験に関係づけられた「群衆的なゲマインシャフト行為 massenhaftes Gemeinschaftshandeln」が発生し、そこからさらに、相応の内容をそなえた「諒解Einverständnis」が発展することもある。④この諒解が、外的生活条件に「適合」していれば、それは、当の外的生活条件そのものを超えても (「生き残って」) 存続する。そのようにして革新された行為が、習熟されて新たな事実上の規則性を生じ、これが (まさに規則的であるがゆえに)「拘束的」と感得されて「慣習律」に移行することもあれば、そうした拘束性の感得が、革新のさいに直接、始原的・第一次的なものとして一挙に出現、成立するばあいもある。鼓吹や感情移入からは、このようにして新しい慣習律が成立し、ばあいによってはその域を超えて、「反抗者にたいする諒解による強制行為」も派生する。

 

[この革新論には、①「外からの革新」と②「内からの革新」とを区別し、③後者をさらに「鼓吹」(⇨「倫理予言」「使命予言」) と「感情移入」(⇨「垂範予言」)とに分け、④新たな諒解が存続普及するかいなかにかぎっては、外的生活条件にたいするその「適合性」を重視し、この局面には「淘汰Auslese」の作用を認める――逆にいえば、「淘汰」に耐えて存続・普及すべき新たな「当為」ないし「模範」そのものは、「淘汰」によって生成するわけではなく、それらの成立は、「淘汰」の理論では説明できない――というような(じつはヴェーバーが、新制度創始にかんするカール・メンガーの「原子論的」「精密理論的」説明方針を、「ドイツ歴史学派」の「総体志向」との相互媒介によって止揚した)特徴ある論点が含まれている。]

 

  慣習律から法への移行には、いくつかの類型的経過が見られる。①宗教的信仰が有力なばあいには、(「霊魂Seelen」「神々Götter」「悪霊Dämonen」といった)「超感覚的諸力übersinnliche Mächte」もまた、慣習律を保護し、違反を罰するであろうという希望が発生する。この予想がさらに、超感覚的諸力の復讐は、違反者個人のみでなく、ゲマインシャフト全体にもおよびかねないとの危惧 (⇨「連帯責任」の観念) と結びつくばあい、その関与者は、そうした復讐を回避するため、違反行動を非難するだけでなく、全員が結束して、あるいはなんらかの「強制装置」を組織化して、違反者に対処する (「内部的刑罰interne Strafe」を加える) ようになる。②ある一定の行為が繰り返される結果、秩序保障者の間に、当の行為はいまや、たんなる習俗や慣習律ではなく、強制されるべき「法的義務」であるという観念が芽生えて、「慣習法」が成立する。③利害関係者が、合理的な考量にもとづき、慣習律ないし慣習法上の義務をも動揺から護るため、それらを「強制装置」の保護下におくことを要求する。④慣習律違反が度重なるばあい、周囲の人びとが、自分たちの (それ自体としては強制によって保障された)「主観的権利」を、当の違反者が厭うような仕方で行使する (たとえば、家長が、一家団欒を乱す者の懲罰に、家長権を発動する)。そのさい、なんらかの法命題が、当の慣習律を「醇風美俗」として援用すれば、その慣習律は「間接に保障された法」となる。⑤ [氏族間、民族間の「仲裁裁判」のような] 中間形態において、無定型の是認ないし非難が、権威的に宣告される命令・禁止・授権に転化し、そうした「判決」が、組織化された「自力救済」装置の心理強制 (とえば、なんらかのスタッフによって指揮されるボイコット) によって保障されるようになる。

 これら移行形態の分析からも明らかなとおり、慣習律違反を非難する「周囲」とは、なんらかのメルクマールによって特定できる範囲の人びとでなければならないが、その人びとが団体をなしているとはかぎらない。それにたいして、法は、強制装置としての団体形成を前提とするから、その妥当はつねに、現実的あるいは可能的な「団体行為」の一部である。とはいえ、法的に規制されるのは、団体行為のみではない。他方、ゲマインシャフト行為、諒解行為、ゲゼルシャフト行為、団体行為、アンシュタルト行為が、主観的にもっぱら法規則に準拠しているわけではない。法規則への準拠の結果は、団体秩序のごく僅かな部分にすぎず、他の大部分は、各人が一方では習俗と慣習律に、他方では (自分の利益のための) 目的合理的行為の準則に、それぞれ準拠する結果である。法強制のシャンスは、行為者の「合法的」振る舞いをわずかに規定するにすぎず、客観的にも、諒解行為の事実的経過のごく一部分の背後に、万一のばあいの保障として控えているにすぎない。[10]

 

  社会学にとって、習俗-慣習律-法の移行は、流動的である。[11] [この命題は、じつは、シュタムラーの「社会生活」概念にたいする否定的批判から、シュタムラーが「本来いうべきであったこと」として積極的に定立されている。ここで、「異説との対質には小活字を用いる」との『社会経済学綱要』の執筆要領にしたがい、シュタムラー批判の要旨が、[12][17]で、つぎの六項目に定式化され、[18][19] では、当の批判の積極的帰結が引き出される。]

 

シュタムラー批判の要旨:

    法と道徳との区別 [12]

    慣習律と法との区別 [13]

    観念的妥当と経験的妥当との区別 [14]

    事実的規則性と拘束的規範との区別;「伝統Tradition」の概念 [15]

    人間行動の因果的契機としての法; 経済理論における法的契機の捨象 [16]

    法的規制の限界としての「法の欠缺」 [17]

 

シュタムラー批判の帰結:

    事実的規則性と拘束的規範との相互規定関係; 法的規制の経験的被制約性 [18]

    法的規制の経験的被制約性 ();「合理化」としての制定秩序 (ゲゼルシャフト関係) の拡充・深化=「旧稿」全篇の探究課題 [19]

 

§3. 法と経済との原理的関係――それぞれの固有法則性と相互制約関係

法と経済とのもっとも一般的な (原理的) 関係 [20]:

 

法によって保障される利害は、経済的利害にかぎられない [経済外的多様性]: は、「身の安全」から、自分自身および神々の「名誉Ehre」といった純然たる観念的財にいたる、多種多様な利害を保障する。法はとりわけ、政治ゲマインシャフト、教会、家族、その他における権威ある地位や、あらゆる種類の社会的に優越した地位を保障するが、それらの地位は、「経済によって制約されökonomisch bedingt」、また、経済にたいして意義をもつökonomisch relevant [経済を制約する]」としても、それ自体は「経済的なるもの」ではないし、必ずしも「経済的な理由から希求される」のでもない。[21]

 

経済にたいする法の固有法則性: 経済的諸関係が根本的に変化を遂げながら、法秩序は変わらない、ということもありうる。たとえば、政治権力が自由契約にもとづいて生産手段を取得していくことにより、法秩序は変えることなく、社会主義的生産秩序に移行することも、極限事例として理論的には可能である。 [22]

 

法にたいする経済の固有法則性: 他方、法秩序は根本的に異なりながら、経済的諸関係はその影響を受けない、ということもありうる。たとえば、ローマにおいて、鉱業権が、法的に用益賃借権として構成されるか、それとも売買として構成されるか、に応じて、利用される訴権範型はまったく異なるであろうが、経済秩序にとっては、じっさい上の効果はごくわずかであったろう。 [23]

 

法の経済的被制約性: (以上①~③の留保のうえでは) 法はもとより、経済的利害関心を広汎にわたって保障する。法が直接には経済的利害関心に奉仕していない、あるいはそのようには見えないばあいにも、経済的利害関心は、法形成のもっとも有力な要因として作用している。というのも、ある法秩序を保障する権力の存立は、その権力の属する社会群 [] soziale Gruppenの諒解行為によって担われており、この社会群の形成はこれはこれで、物質的利害関心の布置連関によって、強く規定されるからである。[24]

 

法の経済的意義 [経済制約性] およびその限界: 経済的行為の領域にたいする法強制の効果は、当の領域の特性によっても規定される。「平和化Befriedung」の進展につれ、法強制にたいする人びとの従順性一般は確かにたかまってはいるが、それにつれて経済的行為にたいする法強制の効果も強まるかといえば、必ずしもそうではない。

その理由のひとつとして、当事者が、外から課せられた法秩序にしたがおうとしても、その経済的能力に限界があるという事情が挙げられる。たとえば、財貨準備自体およびその利用方法、経済単位相互間の取引慣行、などによる制約から、他律的秩序への適応と再編成には、困難と損失がともない、これは、市場関係への編入が進み、他人の行為への依存が深まれば深まるほど、それだけ大きくなる。いまひとつの理由として、当事者においては、他律的秩序に適応しようとする遵法動機よりも、私経済的利害関心のほうが優勢で、慣習律も通例、この利害関心にもとづく法回避を強くは非難せず、しかも、経済の領域では法回避の秘匿が比較的容易である、という事情が加わる。

とりわけ、法の影響がおよびがたいのは、財の価値評価、しがって価格形成の領域である。価格形成の制御に欠くことのできない、市場と利害状況にかんする合理的知識の所持は、自分の存亡を賭けて常時市場取引に携わっている当事者のほうが、たんに理念的関心しか持ち合わせていない、法の制定者や執行機関に比べて、はるかに豊富かつ的確であるから、後者は前者に太刀打ちできない。

経済が全面的に市場に編入され、市場を介して相互に依存し合っているばあい、法制定から生ずる随伴的諸結果は、一般に法制定者の予測の範囲を超える。というのも、私的な利害関係者が、当の随伴結果を左右し、ばあいによっては、制定者の意図とは逆の結果も生じさせる力を掌握しているからである。

そういうわけで、経済にたいする法強制は、経済領域独自の事情による困難に直面する。これに抗して、法の事実上の力がどこまでおよぶかは、個々の事情によって決まる、社会経済学の個別問題である。一般にいえることとして、理論的には、市場が独占され、見通せるようになればなるほど、経済の諸断片を法強制によって制御することも、技術的には容易になるはずである。ところが、それにもかかわらず、現実がこの理論的想定に一致しないとすれば、その原因は、政治団体の競合的併存による法の分裂 (分立) と、独占当事者たちの私的利害関心による抵抗、に求められよう。ⓐについては、詳述の必要があろう。[25]

 

近代国家法と近代経済との親和関係: もっぱら理論的に考えれば、国家による法の保障は、基本的な経済事象にとって必要不可欠ではない。たとえば、「所有」の保護は氏族が、「債権」の保障は宗教ゲマインシャフトが、それぞれ政治ゲマインシャフトよりも効果的に達成してきた。また、貨幣、それも素材の実質的価値によらない「カルタ的貨幣」でさえ、国家の保障なしに存立することができた。

とはいえ、近代的経済秩序は、ある特殊な性質をそなえた法秩序なしには実現されえず、その法秩序は、じっさいには「国家法」秩序としてのみ存立可能である。今日の経済は、契約によって取得されるシャンスを基礎としている。ところで、契約の遵守や所有の相互尊重は、過去には、一方では習俗と慣習律によって、他方では関与者自身の利害関心によって、保障されていたが、今日では、前者は伝統の動揺により、後者は階級的利害の鋭い分裂と対立によって、効力を失った。そこで、近代的な取引が迅速かつ確実におこなわれるには、それらに代わって契約の遵守と所有の相互尊重を保障する「迅速かつ確実に機能する法」、したがって「最強の強制権力によって保障された法」が必要とされる。他方、近代経済は、その特性によって、かつては分立 [特別] 法とその保障の担い手であった団体を、国家を除いては解体していくから、いまや必要とされるその「最強の強制権力」は、国家によって担われるほかはない。

この事態は、市場の発展によってもたらされた結果である。市場のゲゼルシャフト関係が普及し、支配的となると、一方では、合理的な規則にしたがって計算できるような法の機能が求められる。他方では、市場の拡大は、それに内在する[固有法則性の展開の]帰結として、たいていは経済的独占を足場としていた身分的その他の分立的強制団体を解体し、「正当な」強制権力の、唯一の普遍主義的強制アンシュタルト、すなわち国家による独占と規制を促進するのである。 [26]

 

 

Ⅰ-3. 社会と経済 (段別要旨)

 前章Ⅰ-2.「法と経済」は、§1. 法概念の社会学的意味転換、§2. 習俗-慣習律-法、および§3. 法と経済との原理的関係、の三節から構成され、§3. で「法と経済との原理的関係」を問うまえに、法概念の (法規範学的概念から社会学的概念への) 意味転換が必要とされ、双方の関係が問われる経験科学的行為論の平面そのものが確保されなければならなかった。それにたいして、本章Ⅰ-3.「社会と経済」では、「経済」が経済行為として、つまり人間行為の一分節化領域として、ただちに社会学的に把握されることにより、§1. で「社会と経済との原理的関係」が定式化され[1][4]、そのあと、§2. で、社会 [ゲマインシャフト]の「経済的被制約性」が、ゲマインシャフトの閉鎖-拡張と経済的利害関心との一般的関係によって例解され[5][13]、§3. では逆に、社会[ゲマインシャフト]の「経済的意義[経済制約性]」が、ゲマインシャフトにおける給付調達-需要充足様式の作用――すなわち、一定のゲゼルシャフト形成を遂げたゲマインシャフトで、そのゲゼルシャフト関係の維持に必要な財と給付を調達する様式が、当のゲマインシャフトの経済におよぼす影響――によって例示される [14][17]

 

§1. 社会と経済との原理的関係

 ゲマインシャフト形成態Vergemeinschaftungenの圧倒的多数は、経済となんらかの関係にある。そのばあい「経済」とは、目的合理的行為のすべてではない。宗教上の教理にしたがって合目的的に内面的「[救済] 財」を追求する祈祷、「最適性」の規準にしたがう技術の適用などは、目的合理的行為ではあるが、それだけではまだ、経済行為ではない。「経済行為 Wirtschaften」とは、「経済的事態、すなわち、ある欲求ないし欲求複合にたいして、その充足に必要な手段および可能的な行為の準備が、行為者の評価において相対的に稀少knappであるという事態を原因として、この事態をとくに計算に入れている行為」である。このばあい決定的に重要なのは、この稀少性が主観的に前提とされ、行為がそれに準拠してなされることである。

  経済行為は、ふたつの異なった観点から営まれうる。ひとつは、「需要充足Bedarfsdeckung」で、現にある自分自身の需要を充足するための経済行為、いまひとつは、「営利Erwerb」で、希求される財の稀少性という経済に固有の事態を利用して、その財の処分から、自分自身の「利得Gewinn」を引き出そうとする経済行為である。[1]

 

 「社会的行為das soziale Handeln」は、経済にたいして多種多様な関係にある。[2]

この[孤立的で同義反復の]一文に、突然、 «社会的行為» という「社会学的基礎概念」の術語が登場するが、これは、第一次編纂者による書き入れと見られる(拙著『「経済と社会」の再構成――トルソの頭』: 178-81、参照)。

 

  ゲマインシャフトは、経済にたいして多種多様な関係にあるが、つぎのような区分を立てることができる。①経済ゲマインシャフトWirtschaftsgemeinschaft: 関与者たちが主観的に抱いている意味において、もっぱら経済的な成果 (需要充足ないし営利) をめざすゲゼルシャフト行為によって基礎づけられたゲマインシャフト; ②経済にも携わるゲマインシャフト wirtschaftende Gemeinschaft: めざされた別の成果にたいする手段として、みずからの経済行為を利用する、そうしたゲゼルシャフト行為によって基礎づけられたゲマインシャフト; ③「多目的・混合ゲマインシャフト」: あるゲマインシャフト行為が、経済外的な成果とともに、経済的成果もめざしているばあい; ④「没経済ないし経済外ゲマインシャフト」: 以上三類型のいずれでもないばあい (たとえば、一緒に散歩する人びと)

  さて、厳密な意味で経済ゲマインシャフトとして存立するのは、「営利経済ゲマインシャフトErwerbswirtschaftsgemeinschaft」のみ。営利ではなく需要充足をめざすゲマインシャフトはすべて、需要と財との相対的関係状況から不可避のばあいにのみ、経済行為に携わり、常時もっぱら経済的成果を追求しているわけではない。家族、慈善団体、軍隊、「森林開墾あるいは狩猟行のためのゲゼルシャフト形成態」などはすべて、この点にかけては変わりない。

①と② については、あるゲマインシャフト行為が、そもそも需要充足における財の稀少という経済的事態に対処すべく発生したものか [経済ゲマインシャフト]、それとも、第一次的には別の目的 (たとえば軍事訓練) がめざされ、その途上で経済的事態に直面し、そのかぎりで経済行為にも携わらざるをえなくなったのか [経済にも携わるゲマインシャフト]、現実には流動的で、区別し難い。ただ、かりに経済的事態がなかったとしたらbeim Fortdenken des ökonomischen Sachverhalts、当該のゲマインシャフト行為が同一の特徴をもって存立しうるか、と問い、これに [思考実験的に] 答えられるかぎりで、区別が可能であろう [然りであれば「経済にも携わるゲマインシャフト」、否であれば「経済ゲマインシャフト」][3]

 

経済ゲマインシャフト」も「経済に携わるゲマインシャフト」も、いずれもなさないゲマインシャフト行為といえども、その発生・存続・構造形式・経過においては、(「経済的事態」に還元できる) 経済的原因によって規定され、そのかぎり「経済によって制約されökonomisch bedingt」ている。他方、それはそれで、逆に、「経済にたいして意義 (原因としてのかかわり) をもちökonomisch relevant」うる。この「経済的被制約性」と「経済的意義[経済制約性]」とはたいていのばあい重なり合っている。

  経済にたいして意義をもつゲマインシャフトのうち、重要な特例をなすのが、「経済統制ゲマインシャフトwirtschaftsregulierende Gemeinschaft」、すなわち、それ自体としては「経済ゲマインシャフト」ではないが、その秩序が関与者の経済行為を規制するようなゲマインシャフトである。例として、あらゆる種類の政治ゲマインシャフト、多数の宗教ゲマインシャフト、あるいは、とくに経済統制を目的として規約を制定し、この制定秩序に準拠する「ゲゼルシャフトとして結成されvergesellschaftet」た数多のゲマインシャフト (漁業協同組合やマルク仲間組織) を挙げることができる。

  およそいかなる経済的被制約性ももたないようなゲマインシャフトは、きわめて稀である。とはいえ、その経済的被制約性の度合いは区々で、いわゆる「唯物史観die sog. materialistische Geschichtsauffassung」の想定とは異なり、一義的被規定関係を認めることはできない。経済の分析からは「等しい」と判定される現象が、あらゆる種類のゲマインシャフトの、社会学的には異なる構造に包摂され、あるいはそれと共存していることも、しばしばある。したがってまた、経済と社会諸形象の「機能的funktionell」連関という定式も、一義的な相互的制約関係を想定するのであれば、やはり歴史によって普遍的には確認されない予断にすぎない。というのも、ゲマインシャフト行為の構造形式は、以下で繰り返し見るとおり、それ自体の「固有法則性Eigengesetzlichkeit」をそなえているばかりでなく、個々のばあいにはつねに、経済以外の原因によって形態を規定されているからである。

  とはいえ、ほとんどすべてのゲマインシャフト、いずれにせよ「文化的に意義のある」ゲマインシャフトの構造にたいして、経済状態は通例、原因としての意義をそなえ、しばしば決定的に重要である。また逆に、経済のほうも通例、ゲマインシャフト行為 (とりわけ経済がそのなかで営まれるゲマインシャフトのゲマインシャフト行為) の、それ自体として「固有法則性」をそなえた構造から、なんらかの影響を被っている。

経済とゲマインシャフト行為の構造との、そうした相互制約関係が、いつ、また、いかにして生ずるのか、について、一般的な定式化をおこなうことは不可能である。ただし、双方の「親和性Wahlverwandtschaft」の度合い、すなわち、双方が、それぞれの存立において、どの程度強く、互いに促進し合っているか、それとも逆に、阻止ないし排除しあっているか (つまり、互いに「適合的adäquat」か、それとも「不適合的」か、その度合い) については、ある程度一般的な陳述も可能である。以下では、そうした適合的諸関係に繰り返し論及するであろう。

さらに、(欲求される財の相対的稀少性という「経済的事態」から直接生じてくる)「経済的利害関心ökonomische Interessen」一般が、通例どのようにして特定の性格をそなえたゲマインシャフト行為を引き起こすか、については、少なくとも二三の一般命題を立てることができる。[4]

 

§2. 経済的利害関心によるゲマインシャフトの閉鎖と拡張――「社会の経済的被制約性」の例解

  経済的シャンス (占取ないし労働による利得の機会、官職、顧客、など) をめぐる競争において、競争者の数が増え、そうしたシャンスを取得できる余地が狭められてくると、競争関与者の間に、なんらかの仕方で競争を制限ないし緩和しようとする利害関心が発生する。ここからは通例、(現にある、あるいは可能的な) 競争者の一部分を、外面的に確定できるなんらかのメルクマール (人種、言語、宗派、地域的ないし社会的出自、血統、居住地、など) によって括り、その該当者を競争から排除しようとする傾向が生ずる。そのメルクマールとしては、それぞれのばあいに、もっとも手近にあるものが採用される。そのようにして一方 (排除者) 側にゲマインシャフト行為が発生すると、他方 (被排除者) の側にも、それに対抗するゲマインシャフト行為が発生しうる。

  そうなると、協働して排除行為をおこなう者は、それぞれの間では互いに競争をつづけながらも、対外的には、「利害関係者のゲマインシャフトInteressentengemeinschaft」をなすことになり、このゲマインシャフトは通例、そうした利害関心の擁護、貫徹のため、合理的秩序をそなえた「ゲゼルシャフト関係Vergesellschaftung」に移行する傾向を示す。そして、経済的シャンスの独占への利害関心が存続するばあいには、競争者自身のゲマインシャフト、あるいは利害関係者に影響をおよぼしうる他のゲマインシャフト (たとえば政治ゲマインシャフト) が、独占によって競争を制限する秩序を制定し、それ以後、当の秩序の (ばあいによっては実力による) 貫徹のため、特定の人員が「機関Organ」として組織され、常時 (ばあいによっては実力行使の) 準備をととのえる。このとき、「利害関係者のゲマインシャフト」は「法 (権利) ゲマインシャフトRechtsgemeinschaft」となり、関与者は「法 (権利) 仲間 Rechtsgenossen」となる。

  ゲマインシャフトのこうした「閉鎖化Schliessung」の過程は、土地所有、ツンフト、その他、あらゆる集団的独占の源泉をなしている。①特定水域の漁労利害関係者の、出身地別に識別され、対外的に閉鎖される独占的 (ゲゼルシャフト) 結成、②特定の地位を、法的ないし事実上、独占しようとする工学士団体、③耕地・牧草地・共有地用益への持ち分を、余所者にたいして閉鎖的に確保しようとする村落、など。

  こうした閉鎖化は、ひとたび達成されると、相当長期にわたって存続する。その度合いを規定する要因として重要なのは、対外的に独占されたシャンスが、対内的に、利害関係者個々人に割り当てられるさいの、下記のような差異である。まず、独占されたシャンスが、いまやそれに特権的に関与する、閉鎖されたゲマインシャフト構成員の間では、「開かれたoffen」まであるか (官職任用試験に合格した候補者間の、じっさいの任用をめぐる競争、親方試験に合格した手工業者の、顧客獲得ないし徒弟保有をめぐる競争)、あるいは、対内的にも「閉鎖されgeschlossen」る。後者のばあい、対外的に独占されたシャンスが、対内的に個々人に配分され、個々人によって「専有appropriieren」される度合いには、つぎのような段階的差異が見られる。

ⓐ 輪番配分: たとえば、官職プフリュンデ (俸祿) の保有者の短期任用;

ⓑ 返還条件つき配分: たとえば、ロシアのミール (耕地処分権が、ゲマインシャフトの返還要求には服するという条件つきで、個々の構成員に配分された);

ⓒ 終身配分: たとえば、あらゆる種類の俸祿、官職、手工業親方の独占権、共有地耕作権が、一個人の一生涯にかぎって与えられるばあい。村落団体における耕地割り当ての本源的形態;

ⓓ 一定条件つき配分: たとえば、古代の戦士俸祿 (クレーロス)、家士 (ミニステリアーレン) 保有地 (勤務レーエン)、世襲的に独占された官職や手工業などで、処分権を他人に譲渡することは許されない、あるいは「権利仲間」にかぎって許される、という一定条件のもとに、個々人とその子孫に与えられる;

ⓔ 自由な専有: シャンスの数だけが制限され、それぞれが、いかなる個人にも、他のゲマインシャフト構成員の承認を経ずにも、また、いかなる第三者にも、取得可能とされる。

この最終段階で、専有された独占的シャンスが完全に解放され、対外的にも交換に出されること、すなわち「自由な」所有財への転化は、古い独占ゲマインシャフト関係の破砕を意味する。自然財の所有は、歴史的にはすべて、独占ゲマインシャフト仲間の持ち分が徐々に専有される、この過程を経て成立。専有の対象も、今日とは異なり、具体的な物財のみでなく、およそ考えられるすべての社会的また経済的シャンスにおよんでいた。もとより、専有が円滑に進む度合いは、専有される対象ないしシャンスの技術的性質に応じて異なる。たとえば、一筆の地所から、その耕作によって生計用あるいは営利用の財を獲得するシャンスは、明白かつ一義的に限定できる物的客体、すなわち拡大しようのない地所、に結びついているが、「顧客関係」となると、さほど容易には「登記」できない。しかし、ここで重要なのは、「専有」が、対外的に独占された社会的-経済的シャンスの対内的「閉鎖」過程であり、専有対象の技術的性質は、その貫徹の度合いを左右するにすぎないこと。もろもろのゲマインシャフトは、この「専有」がどの程度進展するかに応じて、対外的および対外的な「開放」ないし「閉鎖」の度合いを異にしている。[5]

 

「権利仲間」のメルクマールが、人種・地理的ないし社会的出自のような [属性的] 資質ではなく、教育、教説ないし訓練によって習得されるべき [業績] 資格 (なんらかの種類の経済的資格、同一ないし類似の官職上の地位、生活様式における騎士的・禁欲的その他、なにほどか特定の志向) に求められ、そうした資格の取得-共有によって他から抜きん出た人びとが、独占ゲマインシャフトを形成し、そのゲマインシャフト行為のなかから、ゲゼルシャフトが形成されるばあい、これが「ツンフトZunft」である。そこでは、観念的・社会的ないし経済的な諸財の処分権、もろもろの義務、および生活上の地位が、完全有資格者のサークルにより「職業Beruf」として独占される。このサークルへの加入条件としては、①特定期間の修業、②試験合格による資格取得証明、ばあいによっては③無給の試補・見習い期間ないし奉仕期間の完遂、が要求される。したがって、この一般的な意味における「ツンフト」的ゲゼルシャフト形成は、典型例としての「手工業ツンフト」以外にも、「学生団体」、騎士の盟約結社、近代の官吏や職員、などにも認められる。

  そのさいの動機としては、もとより、良質の給付と良い評判を保つことへの [本来的な] 利害関心が関与するが、当該の職業的地位に就き、その俸祿や名誉に与ろうとする候補者の供給を制限しようとする [非本来的な] 動機が優勢となることもある。後者のばあい、無収入の修業期間、無給の試補期間、親方資格取得のための卒業制作、あるいはそれ以外の (たとえばツンフト仲間への饗応義務といった) 要件は、候補者にたいする本来の資格要求であるよりもむしろ、候補者をそうした負担や出費に耐えられる富裕層に制限しようとする経済的要求である。したがって、この動機が優勢となるばあいには、本来の [個人カリスマ的な] 資格や地位も、金権主義的に壟断される。[6]

 

  経済的利害関心にもとづくゲマインシャフトの閉鎖と拡張の四類型:

(1) 独占への利害関心とこれにもとづく経済的考慮は、歴史上しばしば、ゲマインシャフトの拡張を阻止

た。たとえば、当初には宗教的に動機づけられたイスラームの宣教は、やがて内部から頓挫をきたしたが、その原因は、完全資格あるイスラーム信徒への貢納を負担すべき [人頭税ジズヤの支払いを条件に異教の信仰維持を許される] 非イスラーム人口を温存して、その貢納を自分たちで独占しようとする征服戦士層の物質的利害関心にあった。[7]

 

(2) 他方、あるゲマインシャフトに属する一群の人びとが、当のゲマインシャフトの観念的ないし経済的利害関心を「代表するvertreten」役割を引き受け、これを「糧として生きる」ようになり、さらにはそのための規約を制定し、この制定秩序に準拠するゲゼルシャフト関係つまり「機関Organ」を設立するばあいには、かれら自身のそうした「職業的berufsmässig」利害関心が、当のゲマインシャフトの存続と拡張への有力な支柱ないし梃子としてはたらく。そうなると、計画的で合理的な「経営Betrieb」が、従来の間歇的で非合理的な「臨機的行為Gelegenheitshandeln」に取って代わり、当のゲマインシャフトの創始期には関与者自身も抱いていた理想への情熱や信仰が冷めた後々までも、ゲマインシャフトの存続自体あるいは拡張自体を自己目的として生き延びていく。[8]

 

  「資本主義kapitalistisch」な利害関心も、同様に、ありとあらゆるゲマインシャフト行為の拡張に関心を寄せる。ドイツ文字を印刷する設備の所有者が、国民主義者でもないのに、「国民的」字体の継続的使用に利害関心を向けるかと思えば、社会民主党の集会に会場を提供するホテルの主人が、社会民主主義者でもないのに、党員数の拡大に関心を寄せる。[9]

 

    利害代表機関の職員であれ、資本主義勢力であれ、この種の経済的利害関心に共通なのは、あるゲマインシャフト行為の内容いかんにかかわりなく、当のゲマインシャフトの存続ないし拡張そのものへの利害関心が、いやおうなく前面に出てきて、構成員に共通の理想「内容Inhalt」への利害関心を覆ってしまうことである。そうした [「内容空洞化」「没意味化」の] 大規模な例としては、アメリカの政党が、党勢の拡張それ自体に関心を奪われて、確たる大義をなす理想を見失っている事態を挙げることができよう。しかし、そのもっとも大規模な例は、資本主義的利害関心と政治ゲマインシャフトの拡張との、昔からある類型的結合である。一方では、経済生活にたいする政治ゲマインシャフトの影響力が大きくなり、他方では、政治ゲマインシャフト自体が、強制によって莫大な収入を調達し、処分しうるようになると、直接には、政治ゲマインシャフトの需要をみたす給付を有償で引き受けたり、その収入を前貸ししたりすることから、間接には、政治ゲマインシャフトが政治的に占取した客体を搾取することから、莫大な利益を引き出すことができる。資本主義的営利の重心は、古典古代や近世初頭には、政治権力そのものとの関係から引き出される、そうした「帝国主義的imperialistisch」利得にあったが、それは今日、ふたたびこの方向に傾いている。政治ゲマインシャフトの勢力圏の拡張はいずれも、当該利害関係者の利得シャンスを拡大するからである。[10]

 

(3) ゲマインシャフトの拡張を促すこうした経済的利害関心にたいして、むしろ排他的閉鎖化に荷担し、それでいて既述 (1) の独占傾向とは異なる利害関心もある。「すでに一般的に確定したとおり」[「カテゴリー論文」29段末尾に被指示叙述を見出す前出参照指示Nr. 24 ] 自発的加入にもとづく目的団体は [対面的・社交的接触を欠く純実務的機能団体は例外として] ほとんどすべて、通例、その制定秩序に準拠した行為によってめざされる第一次的成果を超えて、ばあいによってはまったく異質な成果をめざすゲマインシャフト行為の基盤ともなりうる諸関係を、関与者の間に創り出すものである。つまり、ゲゼルシャフト形成は通例、その目的や資格の「範囲を超えるübergreifend」ゲマインシャフト形成をともなう。たとえば、宗教的ゼクテ、社交クラブ、はてはボーリング・クラブでさえ、正式のメンバーを受け入れるさいには、候補者につき、当該団体の公式の目的に必須の、特定の資格や能力だけではなく、本人の「行状」ないし「人柄」を全体として問う審査をおこない、関与者から非難されるおそれのある者は排除するのがつねである。まさにそれゆえ、正式に加入を認められた者は、対外的に、第三者にたいして、その団体目的に見合う特定資格の範囲を超えて、「人柄」にかんする審査にも耐え、認証をえた者として「正当化legitimieren」される。さらに、当の団体加入者の間には、やはり、限定された団体目的の範囲を超えて、かれらに有利にはたらく、もろもろの「人間関係 Konnexionen(「コネ」・人脈) が生まれる。そこからして、宗教団体、学生団体、政治団体、その他の団体に所属してはいながら、それぞれの特定の目的と、その目的追求から涵養される本来の利害関心には、徹頭徹尾無関心でいて、むしろもっぱら、団体所属自体にともなう「正当化」と「コネ」を追求し、これを経済的に利用しようとする人びとが、日常的に輩出してくる。ところで、こうした動機自体は、人びとをゲマインシャフト所属へと誘う刺戟を含んでおり、当のゲマインシャフトの拡張を促しもしようが、すでに加入した関与者の利害関心はむしろ、「正当化」と「コネ」の利益を既得権として独占し、関与者の範囲を排他的に制限することにより、その経済的利用価値と社会的威信をたかめようとする方向にはたらき、ゲマインシャフトの閉鎖をもたらすであろう。[11] 

 

(4) 経済とゲマインシャフト行為との間に頻繁に見られるいまひとつの関係として、第一次的には経済的なゲマインシャフトが、その存立維持と拡張への利害関心から、第三者にたいして、なんらかの具体的な経済的利益を意図して約束することがある。これはとくに、同種の類似したゲマインシャフト、たとえば宗派や政党が、成員の獲得をめぐって競争しているばあいに起きる。たとえば、アメリカの宗教的ゼクテは、芸術その他の催し物やスポーツを含む、あらゆる娯楽を企画し、はては離婚や再婚の条件を (ついにはカルテル締結を余儀なくされるまで) 緩和したりして、加入者を獲得しようと競っている。

宗教団体や政治団体はまた、青年部・婦人部その他を傘下に収めて、さまざまな行事を企画-主催し、他方では、他の(地方自治体などの)、それ自体としては宗教的でも政治的でもない催しに、競って参加する。というのも、そうした活動が、その地域の利害関係者に、経済的な意味でも好印象を与え、その関心を惹き付け、会員・会友・支援者を獲得する好機会をなしているからである。

他のゲマインシャフトへのそうした参入には、別のいっそう直接的な経済的利害関心も関与する。というのも、地方自治体、各種の組合、その他のゲマインシャフトは、政治団体の構成員に、職位や社会的威信を提供するばかりでなく、俸給その他を支給して、政治団体自体の運営経費の「肩代わり」をしてくれるからである。この観点から見れば、議会もまた、政治団体の指導者や構成員に、議員の地位、威信、給養手段を提供してくれる施設であり、政党とは、それらの獲得を正常な目的として競い合う政治団体といえる。

経済的なゲマインシャフトが、その存続と拡張のため、上例のように他のゲマインシャフトを経済的に利用するのではなく、みずから「経営」に乗り出して、運営費用を稼ぎ出そうとするばあいもある。宗教ゲマインシャフトの近代的「慈善」経営は、かなりの部分、この目的にも仕えている。「キリスト教的」「自由主義的」「社会主義的」あるいは「国民主義的」労働組合や救済基金の設立にいたっては、ますますもってしかりであろう。さらに大規模なものとしては、労働金庫や人民銀行のような金融機関、社会主義的「人民ホテル」といった営利経営、消費共同組合や各種仲間団体の設立が挙げられる。イタリアの仲間団体で就労するには、告解証明を提示しなければならなかったという。こうした拡張手段の技術的細目を検討することは、ここでの課題ではない。[12]

 

以上のとおり、およそ考えられるすべてのゲマインシャフトの内部では、一方では開放-拡張の方向に、他方では独占-閉鎖の方向に、それぞれはたらく経済的利害関心が、互いに協働し、また対抗し合っている。ここではただ、そうした協働-対抗作用を、一般的に確定し、二三の典型例によって例示することだけが課題であった。そうした協働-対抗作用のさらに立ち入った究明は、個々のゲゼルシャフト形成態にかんする特殊研究を前提とするので、ここでは断念するほかはない。[13]

 

§3. ゲマインシャフトの給付調達様式とその経済的意義――「社会の経済的意義」の例解

  この§3. では、反転して、ゲマインシャフトの経済的意義 [経済制約性] が、「経済にも携わるゲマインシャフト」における給付調達-需要充足様式と、経済にたいするその作用、という一般的かつ典型的な事例によって解き明かされる。この節は、一般的導入部としての [14]、当の給付調達-需要充足様式の五類型を設定する [15]、各類型の経済への作用につき、「適合的」連関を抽出する [16]、翻って、給付調達-需要充足様式自体の経済的被制約性に触れながら、西洋における近代資本主義発展の特異な条件に論及する [17]、から構成されている。

 

  ここではむしろ、ゲマインシャフト行為が経済と結合するもっとも自然な形式、すなわち、「経済にも携わるゲマインシャフト」における両者の結合様式について、やはり手短に述べておきたい。ゲマインシャフトの大多数は「経済にも携わる」が、そのためには通例、一定程度のゲゼルシャフト形成が必要とされる。ただし、不可欠というわけではない。「家ゲマインシャフトから発展する後述の諸形象」[家産制] は、ゲゼルシャフト形成を欠く。[14]

 

  合理的ゲゼルシャフト形成にいたったゲマインシャフトでは、そのゲゼルシャフト行為のために、経済的財と給付を必要とし、それらを調達する規則を制定する。この調達の方式には、原理上、つぎの五類型が考えられる。例示はできるかぎり、調達制度がもっとも発展を遂げた政治ゲマインシャフトの領域から採る。

①「オイコス的oikenmässig(純共同経済的、純実物経済的) 給付調達: 直接に即人的な実物給付を、確定的な

規則にしたがい、ゲマインシャフトの構成員に賦課する。そのさい、全成員に同種の給付を賦課するばあい (戦闘能力ある者の一般的防衛義務)、特定の成員に特定の給付を賦課するばあい、あるいは、(たとえば王侯の食卓の) 物的需要対象を、義務として確定された実物貢納の形で割り当てるばあい、などがある。この方式の典型例は、荘園領主ないし王侯の、需要充足を基調とする自給経済的な大家計、すなわちオイコス。

②「貢納と市場によるabgaben- und marktmässig」給付調達: 市場の発展にともない、貢納が、定期的分担金または臨機の手数料として、実物でなく貨幣の形態で賦課-徴収され、ゲゼルシャフト行為の需要が、市場における物的経営手段の購入と、用務員・官吏・傭兵の雇用によって充足される方式。ここでは、貢納が、公的費用にたいする分担金の性格を帯び、たとえば関税のように、当のゲマインシャフトに所属しない人びとにも課せられることがある。

③「営利経済的 erwerbswirtschaftlich」給付調達: 当のゲマインシャフト行為の一部をなす自己経営の生産物ないしサーヴィスを市場で販売し、その利得をゲゼルシャフト行為の費用に充当する方式。そうした経営は、独占経営のばあいもあれば、形式的独占保障を欠く「自由な」経営のばあいもある。

④「賛助-後援によるmäzenatisch」給付調達: 経済的に余裕があり、かつ当のゲゼルシャフトの目的に物質的ないし観念的利害関心をもつ人びとの、まったく自発的な寄付によって給付が調達される方式。その寄付行為と、ゲマインシャフト行為へのその他の関与とが、結びつけられることはないから、賛助-後援者が、関与者のサークルの圏外にいることも稀ではない。宗教ゲマインシャフト (修道院、ゼクテ) および政治ゲマインシャフト (政党) における需要充足の類型的形態が、これである。

⑤「積極的ないし消極的特権づけをともなう負担配分positiv oder negativ privilegierende Belastungによる」給付調達: ⓐ積極的特権づけをともなう給付割り当てとは、特定の貢納ないし給付が、特定の経済的・社会的独占の保障と引き換えに、それによって特権づけられる社会層に賦課される方式 (たとえば、騎士領所有者の装備自弁の従軍義務)。ここからは、ゲマインシャフト関与者が、個々の社会層ごとに、社会的また経済的シャンスを独占-閉鎖し、ひたすらそれぞれの独占を確保しようとする社会編成が助長される。「封建制的feudal」ないし「家産制的patrimonial」支配形象における需要充足は、多様な形態を採るとはいえ、基本的にはこの方式による。「身分制的ständisch」社会編成の内部では、君主はまさに君主として、政治的ゲマインシャフト行為の費用を、原則として自分の家産的所領から捻出しなければならないし、(政治的ないし家産制的な権力と社会的名誉の享受者である) 封臣や家士なども、戦争や官職の必要経費を、自分の資産のなかから捻出しなければならない。そのばあい、この方式で調達-充足されるのは、たいてい実物形態の貢納や給付であるが、資本主義を基盤とするところでも、これと似た並行現象が見られる。たとえば、政治権力が、ある一群の企業家たちに、明示的ないし間接的に、ある独占を保障し、それと引き換えに、直接ないし貢納の形態で費用の拠出を要求するばあい。これは、特権付与による負担割り当ての形式として「重商主義Merkantilismus」の時代に普及したが、現在ふたたび採用され始めている(たとえば、ドイツの火酒税); ⓑ消極的特権づけをともなう負担配分: 階級ないし身分「ライトゥルギーLeiturgie: 階級ライトゥルギーにおいては、経済的に費用のかかる特定の給付が、特権として独占を保障された財産所有にたいしてではなく、一定水準の財産所有そのものにたいして賦課され、ばあいによっては、該当者間で輪番に負担される(たとえば、アテーナイにおける本来の「ライトゥルギー」: 三段櫂船および合唱隊の装備費用負担義務)身分ライトゥルギーでは、そうした給付が、特定の独占ゲマインシャフトに結びつけられるが、給付義務の負担者は、連帯責任を負い、当のゲマインシャフトに緊縛される。例として、古代エジプトや古代末期の強制ツンフト、小作人や農民を土地に緊縛し、貢納および (ばあいによっては) 兵卒供出への連帯責任を負わせた、あらゆる時代の村落「ゲマインデ」が挙げられる。[15]

 

  給付調達・需要充足の様式は、つねに利害闘争の結果であるが、その意義はしばしば、その直接の目的を超えて、広範囲におよぶ。というのも、それが、給付調達のため、「経済を厳しく統制する」秩序を形成するばあいもあるし、直接にはそうした結果をともなわないとしても、経済行為の発展と方向に、深刻な影響をおよぼすからである。たとえば、⑤(積極的ないし消極的)身分ライトゥルギーは、社会的および経済的シャンスの「閉鎖」、身分形成の固定化、したがって私的な営利資本の形成を排除する方向に作用する。包括的な①共同経済的ないし③ゲマインシャフト自体の営利経済的需要充足はつねに、私的な営利経済を排除する方向に作用する。もろもろの独占を創出する需要充足は、事情に応じて多岐にわたるが、つねに私的な資本主義の利得シャンスをシフトさせ、ときには促進し、ときには阻害する。ローマ帝国が⑤身分ライトゥルギーと (部分的には) 共同経済的需要充足に移行したことは、古代の資本主義を圧殺。③現代の地方自治体や国家による営利経済的経営は、私的資本主義をシフトさせたり、駆逐したりしている。国家への拠出と結びつけて独占を助成する措置はすべて、資本主義の拡大を制限する。中世および近世初頭における商業および植民地の独占は、当初には逆に、資本主義の成立を促進した。所与の条件のもとで、資本主義的企業に十分な利得の機会が確保されるには、独占によるほかはなかったからである。しかし、その後の経過 (たとえば17世紀のイングランド) においては、この種の独占が、最適の投資シャンスを求める資本の利害関心に抵触して、手ひどい反撃を受け、これに屈伏した。そういうわけで、特別貢納ないし特別税の納入を条件とする独占特権付与の作用は、一義的ではない。それにたいして、②貨幣貢租と市場購入による需要充足は、資本主義の発展にとって一義的に有利である。近世初頭には、たとえば軍隊の兵員募集や訓練にいたるまで、傭兵隊長のような私的企業家に委託し、その資金に貨幣貢租を充当することもおこなわれた。この方式は、貨幣経済の発展を前提とするが、さらに純行政技術的には、合理的に機能するような「官僚制Bürokratie」が必要とされる。この点はとくに、「動産beweglicher Besitz」への課税についていえる。これは、いたるところで、とりわけ「民主制Demokratie」のもとで、独特の困難に直面する。そして、この困難は、西洋文明に所与の条件下で、近代に特有の資本主義発展と密接に関連していたので、ここで特別に論及しておかなければならない。

  どんな方式をとるにせよ、財産そのものにたいする課税は、その所有者が当のゲマインシャフトから離脱できるばあいには、一定の限界内に抑制されざるをえない。この制限は、いずこにもあり、無産者が課税にかんする影響力を握っているばあいにも、変わりはない。そうした離脱可能性は、当のゲマインシャフトに所属することがどの程度不可欠であるかにもよるが、それ以外に、財産そのものの特性にもよる。この点で、場所に拘束された土地財産と、移動自由な (貨幣か、換金容易な) 資産とは、対照的である。あるゲマインシャフトから有産階級が離脱・流出することは、残留者の貢租負担を増加させるだけでなく、市場とくに労働市場における無産者たちの営利シャンス、とりわけ就労の機会をそこなう。それゆえ、無産者も、そうした直接的な不利益を回避するために、ゲマインシャフトの負担を仮借なく有産者に負わせようとする企図は断念し、むしろ意図して有産者に特典を与えさえする。どの程度そうなるかは、当該ゲマインシャフトの経済構造いかんによる。たとえば、アテーナイのデーモスは、なお臣民の貢納に依存し、労働市場が大衆の階級状況を規定するにいたらなかったため、そうした動機や顧慮が、有産者に直接負担を負わせようとする誘因の作用に圧倒されてしまった。ところが、近代的な事情のもとでは、関係がたいてい逆になる。無産者が決定的な影響力を担っている、まさにそうしたゲマインシャフトが、今日稀なら財産に寛大な優遇措置をとっている (たとえば、社会主義政党が権力を握っているカタニア市の工場保護育成策)。社会主義の信奉者にとっても、労働機会の拡大への希求、したがって階級状況の直接的改善のほうが、「公正な」財産配分や課税よりも重要だからである。住居の賃貸業者・建築用地の所有者・小売業者・手工業者なども、個々の点では利害が対立するにせよ、通例、階級状況に規定された、もっとも卑近な利害を真っ先に考慮する点にかけては、まったく変わりない。

  そのうえ、政治的利害関係者 (すなわち、自分の属する政治ゲマインシャフトが、他のもろもろの政治ゲマインシャフトにたいして権勢ある地位を占めること自体に利害関心を向ける者) たちも、みずからのゲマインシャフトの内部に「担税力」を確保することへの、また、信用を保証するに足る大資産を同じく内部に確保することへの利害関心から、これまた動産については、その流出を防ぐべく、類似の取り扱いをせざるをえない。上記の経済的利害関心に、この政治的利害関心が加わり、事実上の動産優遇措置としての「重商主義」は、いきおい普遍的現象となる。それゆえ、複数のゲマインシャフトが互いに競争していて、動産がそれらの間でもっとも有利な投下-定着先を選択でき、「漁夫の利」を占められる条件のもとではどこでも、たとえ無産者がそのゲマインシャフトで権力を握っているばあいでさえ、(必ずしも直接の「重商主義」的特権付与ではないが) 広汎な優遇措置を享受するのがつねである。[17]

 

  ちなみに、負担配分の様式それ自体は、一方ではゲマインシャフト内部におけるさまざまな集団相互間の力関係によって、他方では経済秩序のあり方によって、規定される。実物経済的な需要充足が成長を遂げ、支配的となると、いずれのばあいにもライトゥルギー制度に帰着する。エジプトのライトゥルギー制度は、ファラオの時代から、そのようにして発生した。エジプトに範をとった後期ローマのライトゥルギー国家は、編入された内陸地方の顕著に実物経済的な性格と資本主義的社会層の相対的な意義低下とによって、制約されている。この低下自体は、これはこれで、徴税請負による臣民の搾取を排除する方向への、支配構造および行政の転換によって、もたらされた。動産の影響力が支配的となると、どこでも逆に、有産者の負担によるライトゥルギー的需要充足は廃止され、大衆に労役と貢納を課する制度に移行する。

(1)ローマでは、有産市民の階級ライトゥルギーとしての (財産等級に応じた自己武装に依拠する) 防衛義務に代わり、(国勢調査の財産査定において) 騎士として登録された人びとの事実上の軍役免除と、国家によって装備を支給され、その費用は大衆課税によってまかなわれるプロレタリア的 (物的戦闘手段から「疎外」された) 軍隊と、(別途には) 傭兵隊とが、出現した。

(2)中世には、非常時の需要を資産課税か無利子の強制借り上げによって充足する方式 (ゲマインシャフト経済の緊急需要にたいする有産者のライトゥルギー的連帯責任) に代わり、利子つきの借り入れ、土地を担保とする借り入れ、関税その他の貢租による需要充足が、いたるところに登場した。このばあいには、ゲマインシャフト経済の緊急需要が、有産者によって、利得源ないしレンテ (利子・地代・その他の不労所得) 源として利用されることになり、ときには (ジェノアにしばしば見られたとおり) 都市の行財政が、そうした国家債権者団の利害に仕える制度になりはてることさえあった。最後に、

(3)近世の初頭には、互いに勢力を求めて競争し合い、貨幣経済的需要充足の度合いを強める複数の政治諸形象が、政治的に制約された貨幣需要の増大とともに、こぞって資本を求めるという事態が出現し、これが、国家を形成しつつある政治権力と、競って求められ、特権を賦与される資本主義勢力との同盟をもたらした。この同盟こそ、近代資本主義の誕生を助けた、もっとも重要な因子のひとつであった。

すでにみたとおり、重商主義を、動産にたいする事実上の優遇・特権付与と解するかぎり、それはもともと、およそ複数の独立した強制形象が併存し、それぞれの成員の担税力と信用を保証するに足る資本力とを確保-拡大すべく、互いに競争しているところでは、古代にも近世にも、いつどこにでも存在したし、今日もまた、存立している。その重商主義が、近世初頭には独特の性格を帯び、独特の作用を発揮したのは、一方では、競合する政治諸形象の支配構造とそのゲマインシャフト経済との、後述の特性の結果であり、他方では、当時発生しつつあった近代資本主義の、古代資本主義に比して独特の構造、とりわけ古代には知られていなかった近代的産業資本主義の発展、の結果であった。重商主義の特権付与は、この近代的産業資本主義にこそ、持続的に、また特別に役立ったのである。

(4)いずれにせよ、それ以来、ヨーロッパにおいては、ほぼ同等の政治的列強間の競争-闘争が、当時発生し今日まで継続している資本主義にたいする特権賦与の、もっとも重要な駆動力をなしてきた。近代国家の商業政策・銀行政策・総じて経済政策の方向は、その発生と経過から見て、過去500年間のヨーロッパ諸国の、あの独特の政治的競争-均衡状況を抜きにしては、理解できない。この状況は、すでにランケの処女作により、ヨーロッパの世界史的特異性として認識されていたものである。[17]

 

 [以上、. 概念 () 2 「法と経済」および3 社会と経済」の段別要旨を掲載しました。以下、. 社会 (). 支配 () の段別要旨ないし章節要旨を、脱稿次第、順次掲載していく予定です。829日記]

 

. 社会

1.    家、近隣、氏族、経営とオイコス

 この章は、冒頭の二段をⅠ. 概念 の末尾 (3.「社会と経済」章の末尾) に繰り上げ、残る30段で構成されます (以下、段落番号 [n] は、現在もっとも入手しやすいWuG, 5. Aufl.: 第五版の段別にしたがいます)

 

§1. 家ゲマインシャフト

 ヴェーバーは、「原生的urwüchsig(自然必然的、したがって時間的には「原初的primitiv」、空間的には「普遍的universell) なゲマインシャフトに遡行し、それを起点に据え、それが、人為的に、さまざまな方向をめざす「合理化」によって再編されるさまを、類型的に見通し、その分岐点と階梯を見定め、歴史研究の概念的準拠標をしつらえようとする。

  今日のわれわれは、持続的な性関係を基礎とする父母と子供との関係を、「原生的」と考えがちであるが、この関係には、すでに「家計」の共有による経済的「扶養ゲマインシャフト」が含まれている。それを捨象したばあい、父母間のもっぱら性的な関係も、父子間のもっぱら生理的な関係も、きわめて不安定。後者は、父母関係が扶養ゲマインシャフトとして安定しているのでなければ、一般に存立せず、その条件がみたされて存立するばあいにも、その意義は大きくはない。したがって、原生的なのは、母子関係のみで、しかもそれは扶養関係であるから、自然の所与としての存続は、子供が自力で食料を探索するまで。つぎに原生的なのは、兄弟姉妹の関係であるが、これも、それが「養育ゲマインシャフト」であるからこそ。決定的なのは、母胎の共有という自然の事態ではなく、経済的な扶養-養育関係。特定の社会形象として「家族」が問題となる階梯では、性的また生理的な関係は、いよいよ他のあらゆる種類のゲマインシャフトと交錯。「母子関係の並存Muttergruppe」は、人類の「原始的」生存形態ではなく、むしろ軍事的発展の一階梯で、壮丁が家を空けて「メンナーハウスMannerhaus」に起居し、軍事訓練に明け暮れるところに派生した二次形象。

したがって、その並存が相対的にもっとも原生的な常態をなす単位は、やはり、男女間の持続的な性関係とそこから派生する親子関係を基礎とし、それが同時に「家計Haushalt」の共有による扶養と養育の経済的機能を担う (「経済ゲマインシャフト」としての)「家ゲマインシャフトHausgemeinschaft」であろう。[1]

 

そのさい、「家ゲマインシャフト」の基礎が、早まって「婚姻Ehe」に求められてはならない。婚姻とは、「氏族」や、その氏族の属するいっそう包括的な経済的、政治的、宗教的その他のゲマインシャフトが、特定の持続的性関係のみを「正当 (婚姻内)」と認め、その「嫡出」子にのみ、財産相続権や「団体仲間」としての処遇を与えるときに、したがって、家以外のゲマインシャフトの干渉・介入によって初めて、成立する一社会制度である。[2]

 

性関係および、両親または片親を共有することで、子供たちの間に創成される関係は、特定の経済的な団体、すなわち家ゲマインシャフトの、唯一ではないとしても常態的な基礎となるばあいに初めて、ゲマインシャフト行為の産出にたいして常態的な意義を取得する。[3]

 

家ゲマインシャフトは、①より強い者、②より経験に富む者 (通例妻子にたいする夫、戦闘・労働不能力者にたいする能力者、子供にたいする成人、若者にたいする年長者) の「権威Autorität」と、これにたいする「恭順Pietät」との原生的基盤をなす。ここで培われた恭順は、祖先にたいする恭順として宗教的諸関係に、ⓑ首長にたいする恭順として、家産制・従士制・封建制に、それぞれ取り込まれ、それぞれの基礎と[して温存]される。

また、家ゲマインシャフト自体の純粋な特性として、権威-恭順関係を基礎に、対外的には連帯し、対内的には (「個人が能力に応じて寄与し、必要に応じて取る」という、「計算」抜きの)「家共産主義Hauskommunismus」がおこなわれる。[4]

 

家ゲマインシャフトの純粋型は、住居を共有するが、構成員数の増加につれ、別々の支分に分解する傾向を免れがたい。それにたいして、外面的には分解しながら、相互間で家共産主義が維持されるばあいもある。[他方、外面的には統一が維持されながら、内部的には家共産主義が弛緩 (内部的に解体)する傾向も生ずる。これにかんする叙述は、以下 [6][9]の、「近隣ゲマインシャフト」にかんする叙述を挟んで、[10] に引き継がれる][5]

 

§2. 近隣ゲマインシャフト

日常の需要は、家ゲマインシャフトのかぎりで充足されるとしても、危急時の非日常需要は、個々の家ゲマインシャフトを超える近隣の援助をまって初めて充足される。そのばあい、「近隣縁Nachbarschaft」とは、農村の村落定住のような原生的形態ばかりでなく、空間的接近 (居住ないし滞在) から生ずる (慢性的ないし一時的な) 利害状況の共有一般を意味する[「近隣縁」は広く定義されており、これにもとづく「諒解」のシャンスを当てにする「諒解行為」「諒解ゲマインシャフト」が「近隣ゲマインシャフト」にほかならない][6]

 

(1) 近隣縁にある人びとは (物理的接近にもかかわらず、概してできるかぎり距離をとろうとするが)、共通の危険に直面するばあいには、「兄弟的救難援助brüderliche Nothilfe」のゲマインシャフト行為 [多くは諒解行為] に乗り出す。これは、「今日の汝の不幸は、明日の我が身」、「汝が我にするように、我も汝にしよう」という醒めた認識と非感傷的な原生的「互恵主義 Reziprozitätsethik」に則り、「懇請に答える (消費財の) 無償貸与」と「懇請に答える無償労働」との相互提供という形をとる。代償は「饗応Regalieren」にかぎられ、交換がおこなわれても、「兄弟の間で駆け引きは無用」という標語のもとに、市場原理による価格形成は排除される。

(2) 近隣内で経済的分化が進むばあい、対等者間の救難援助は、一方では経済的有力者への無償労働 (とくに、大土地所有者にたいする収穫援助)、他方では、外部からの脅威にたいする近隣共同利害の「代表 Vertretung」・余剰地の無償貸与・飢饉時の緊急援助・その他の慈善的給付、に再編される。経済的有力者がこの要請に応え、(当初は「同輩中の第一人者primus inter pares」として) 近隣圏で声望を博するとき、かれは「名望家Honoratiore」となる。さらには、

(3) 対外関係の緊張がたかまり、対外的防衛の軍事的指揮にもあたる名望家が、当初にはそのために編成した軍事力を、やがて (その維持に必要な給付調達を確保するために)「強制装置」として隣人にも差し向けるようになると、当初には自発的ないし「慣習律」として提供されていた「無償労働」が、(強制装置によって保障された)「法的義務」に転化する。こうして「賦役経済Fronwirtschaft」が成立し、「名望家」がいまや「戦争武侯Kriegsfürst」「首長Herr」として、賦役義務を負った隣人にも「家支配」をおよぼすようになり、隣人間の「仲間関係」は「家産制的patrimonial」「支配関係」に移行する。

(4) 隣人間には、つねに「兄弟的」関係がいきわたるとはかぎらず、個人的不和や利害の軋轢から、いったん

 対立が生じ、互恵主義が破られると、双方が違反を承知しながら、なおかつ自己を正当化しようとするため、また、人間関係が比較的濃密で頻繁なため、対立はきまって尖鋭化し、深刻かつ頑強につづく。[7]

 

  近隣縁を契機とするゲマインシャフト行為が、危急時の救難援助にかぎられるとすれば、それは、「無定型」で「開かれた」かつ「間歇的」行為の域を超えないであろう。しかし、近隣ゲマインシャフトも、(耕地・牧草地・森林・狩猟地・荒蕪地など) なんらかの土地カテゴリーが「稀少性」を帯びてくると、既述の (Nr. 35) 一般経験則にしたがい、対外的にはそれを独占し、対内的にはその用益を「仲間団体的」に規制して「専有」に導く「秩序を制定」し、「閉鎖」された「経済ゲマインシャフト」ないし「経済を統制するゲマインシャフト」へと「ゲゼルシャフト形成」を遂げる。当の制定秩序は、近隣仲間みずからが「協定」するばあいもあろうし、外部から、たとえばなんらかの政治団体によって「指令」(「授与」) されるばあいもあろう。いずれにせよ、閉鎖を遂げた近隣団体は、土地所有の諸カテゴリーをめぐって、家ゲマインシャフト、経済的領域団体 (マルク団体)、政治団体などと、専有を争い、交錯し合うことになる。[8]

 

  近隣ゲマインシャフトは、①「ゲマインデ」の原生的な基礎である。ただし、ゲマインデは、後述のとおり(Nr. 36) 数多の近隣団体を包摂する政治的ゲマインシャフト行為と関係づけられて初めて設立される [したがって、ゲマインデとは、数多の近隣ゲマインシャフトが、上位の政治団体によって「閉鎖」され、ゲゼルシャフト形成を遂げながら、当の政治団体の下位単位に編入-編成された社会形象、と定義されよう] 。また、近隣ゲマインシャフトが、「村落Dorf」のように、ある「領域Gebiet」を支配し、それ自体として政治的ゲマインシャフト行為の基礎をなし、教育・祭祀・手工業集落の設営など、あらゆる機能を取り込んでいくか、それとも、政治団体から指令された義務として引き受けていくか、するばあいもある。ただし、③近隣固有のゲマインシャフト行為は、経済的兄弟救難とその帰結にかぎられると見るべきであろう。[9]

 

§3. 家ゲマインシャフトの対内的閉鎖・(性的、経済的)専有

  [10][13]

 

§4. 氏族

  [氏族とは、一般に、父系ないし母系の出自によって同一共通の祖先に結びつけられている (主観的に信じられている) 一系列の外婚をおこなう血縁 (または擬制血縁) ゲマインシャフトと定義されよう。]

    氏族は家ゲマインシャフトや近隣団体ほど原生的ではない。②氏族のゲマインシャフト行為は、通例、持

続的ではなく、ゲゼルシャフト形成を欠く。③関与者が、面識なく、能動的に行為せず、ただある行為 (性交)を「思いとどまる」だけで、[主観的な「意味」をそなえた] ゲマインシャフト行為が成立する好例である。④氏族は、ある包括的なゲマインシャフトのなかに、他の氏族が併存していることを前提として外婚をおこなう。⑤氏族団体は、「忠誠Treue」の原生的な担い手である。⑥ゲマインシャフト行為の内容に即してみると、氏族は、性関係の規制と対外的連帯において、家ゲマインシャフトと競合する「保安ゲマインシャフトSchutzgemeinschaft」である。通例同時に、⑦家ゲマインシャフトの分解や結婚によって家外に出た者とその子孫との「財産相続期待権者のゲマインシャフトBesitzanwartsgemeinschaft」でもある。⑧「血讐義務 Blutrachenpflicht」を媒介として、第三者にたいする即人的連帯関係を創成し、事情によっては家権威への恭順にも優る、強固な「恭順義務Pietätspflicht」を発展させる。⑨氏族を一般に、拡張され、分散した家ゲマインシャフト、複数の家ゲマインシャフトを統合する上位のゲマインシャフト、と考えることはできない。氏族の境界が家ゲマインシャフトに縦に割り込むか、それとも家仲間全員を包み込むかは、氏族の構造原理(父系、母系) によって決まり、この原理次第では、父と子が別々の氏族に属することもある。⑩氏族ゲマインシャフトの作用は、標識としてトーテムをそなえた仲間どうしの結婚禁止にかぎられるばあいもある。加えては、⑪仲間どうしの闘争禁止と「血讐」への連帯責任がある。仲間が殺害されたばあい、協働して「私闘Fehde」をおこない、人命金による贖罪のさいには、分配に与り、あるいは支払いを分担する権利・義務を負う。①訴訟には、宣誓の保証人を立て、偽証のさいには、神々の復讐にも連帯責任を負う。⑬近隣団体 (村落、マルク団体) が、氏族ゲマインシャフトの圏域と重なり、家が事実上、その内部の狭い圏域として現れることもある。ただし、そうでなくとも、⑭家権力にたいする氏族仲間の権利 (家資産譲渡への異議申立権、家娘の結婚に関与し、花嫁代金の分配に与る権利、後見人を立てる権利) は、確たるものとして持続的に存立しうる。[14]

 

⑮氏族の連帯による「自力救済Selbsthilfe」は、損なわれた利益の補償要求を貫徹する原生的形式である。⑯「訴訟Prozess」に類する最古の手続きは、一方では、片や、家の内部における家権威の保有者による「調停Schlichtung」、片や、氏族の内部における慣例に通じた長老による「調停」であり、他方、家と家の、氏族と氏族のでは、「合意にもとづく仲裁裁定vereinbarter Schiedsspruch」であった。⑰氏族は、家のみでなく、政治的単位や言語ゲマインシャフトさえ異にする人間どうしの間に、「血統Abstammung」にもとづく義務と恭順の関係を生み出し、政治団体と交錯し、競合しつつ、これを掣肘するに足る独立性を取得することもある。そのさい「血統」とは、現実の血縁関係でも、既成のなんらかの関係が擬制的に「血縁」と見なされるのでも、あるいは、義兄弟関係として「人為的künstlich」に創り出されるのでもよい。⑱氏族はもともと、その常態的機能を果たすためには、首長や組織を必要とせず、むしろ「無定型の人間圏 amorpher Personenkreis」をなし、外面的メルクマールといえば、せいぜい共通の神聖物にたいする祭祀ゲマインシャフトと、その冒涜ないし享受の禁忌 (「タブーTabu) があるだけである。頂点に統治機構をそなえ、持続的に組織化された氏族を、古い形態と想定する根拠はない。氏族もまた通例、経済的また社会的な独占への利害関心から閉鎖されて初めて、「ゲゼルシャフト形成をとげる」。ひとりの首長を戴き、政治団体として機能する氏族は、もとはといえば、氏族とは無縁な政治的・軍事的・その他の目的に、氏族が利用され、それらの組織に編入された結果である。⑲ 家・氏族・近隣団体・政治ゲマインシャフトが、互いに交錯し、諸個人がそれらに重複所属しているばあい、同一のゲマインシャフトの構成員が、互いに血讐をおこなわなければならない羽目にも陥る。この激烈な義務葛藤は、政治ゲマインシャフトが物理的実力を独占して初めて除去される。政治ゲマインシャフト行為が、臨機的・間歇的な防禦や掠奪行にとどまっているばあいには、氏族の意義がたかまり、その構造と義務も高度に合理化される。[15]

 

  子供の家所属と相続系統を規制する氏族秩序の構造原理: 父系制と母系制。

氏族秩序の類型的分岐を規定する要因、また、氏族秩序がいったん形成された後、家ゲマインシャフトにいかに介入し、その発展方向にいかに作用するか、という問いに答えるには、家、近隣、氏族、に政治ゲマインシャフトを加えた、諸ゲマインシャフトの相互制約関係に、視野を広げなければならない。[16]

 

  ところが、氏族、村落、マルク仲間団体、政治団体など、諸ゲマインシャフトの相互関係は、いまのところ未研究。[17]

 

  しかし、つぎの一般命題は立てられる。①土地が労働の場とみなされ、女性によって耕作されるばあい、土地所有と土地からの収穫はすべて、妻の氏族に帰属。父方からの相続は、武器および男手による手工業の労働要具のみ。②土地が槍によって獲得されるばあい、武力をもたない者、とくに女性は、土地所有から排除され、父の政治団体が、息子たちを武装ゲマインシャフトに編入し、土地を父から相続させる。③土地が、村落ないマルク仲間の共同開墾したがって男性労働によって獲得されるばあい、そうした近隣団体が土地を掌握しつづける。とはいえ、④あるゲマインシャフトの軍事的性格から、必ず父の家の権力と男系的な親族-財産帰属が帰結するわけではなく、軍事力が「メンナーハウスMannerhaus」に編成されるばあい、子供と収穫は、母の家に帰属するか、そうでなくとも母の地位が相対的に自律的となる。⑤軍事カーストの構成員が、荘園領主として農村に散居するばあい、家と氏族は、「家父長制的patriarchal」また男系的に構成される。世界史上で大帝国を樹立した民族はいずれも、男系的な氏族-財産帰属をともなう父系制を発展させた。というのも、大帝国の樹立と維持には、「メンナーハウス」のような小規模な局地的戦士団の軍事力では足りず、広大な農村地域にたいする家産制的また荘園領主的支配を要したからである。[18]

 

§5. 家ゲマインシャフトの外的分解と内的解体

  大帝国を樹立した民族においては、家ゲマインシャフト内部に、婚姻と夫婦の財産関係にたいする法的規制 (婚姻法、夫婦財産法) が介入し、始原的には無制約的な家父長権力が、たえず制限され、弱められている。その駆動力は、有産層ないし特権身分の内部で、家娘をたんに労働力と見る評価が後退した後、嫁ぐ娘とその子供たちの法的地位を、嫁ぎ先の家長の恣意に対抗して、あらかじめ契約によって保障しておこうとする、妻の側の利害関心にあった。さらに、生活水準がたかまり、身分に相応しい家計維持の費用が嵩むと、いまや奢侈財でもある娘を嫁がせる家と氏族は、「持参金Mitgift」を添えてやるようになる。これは、実家の財産・持ち分からの「手切れ金」であると同時に、離別のさいには返却を要する特別財産として扱われ、それだけ夫の恣意にたいする「物質的対抗重力materielle Schwergewicht」をなすことになる。

この転換が生じたのは、土地を、槍によって獲得された財、あるいは武装をととのえるための経済基盤として評価する軍事的な見方が後退し、土地所有が、とくに都市で、主として経済的に評価され、娘たちにも土地の相続権が与えられるようになったときである。そのさい、夫婦の財産関係をめぐる夫の利害関心と、妻および妻の氏族の利害関心との妥協は、生活の重点が、①家族によって協働で追求される営利と、②相続された財産からのレンテ (不労所得) との、どちらに置かれるか、に応じて、多様な形態をとる。[19]

 

西洋の中世には、①のばあいには「合同財産制Gütergemeinschaft」、②のばあいには、「合同管理制Verwaltungsgemeinschaft(じっさいには、夫による妻の財産の管理と用益) が、それぞれ優勢となった。ただし、封建制的な社会層では、一族の土地を手放さないように、いわゆる「寡婦扶養分つき結婚Wittumsehe」がおこなわれ、とくにイギリスで発展を見た。それ以外の点では、きわめて多種多様な規定要因が、夫婦の財産関係に介入している。ローマ貴族とイギリス貴族との社会的状況は、よく似ていたが、妻の地位は対照的: 古代ローマでは、妻はいつでも解約できる自由結婚により、経済的にも人格的にも解放されたが、寡婦となったときには扶養を受けられず、母としても、子供にたいする父の無制約的権力をまえに、まったく無権利であった。これにたいして、イギリスでは、妻は「夫の保護下」にとどまったが、寡婦扶養分つき結婚による扶養保障を終生失わなかった。この相違をもたらした要因は、一方では古代ローマ貴族の都市定住傾向、他方では、イギリス貴族にたいするキリスト教の「家父長制的婚姻観Ehepatriarchalismus」の影響。イギリスでは封建制的な婚姻法が長らく存続し、フランスではナポレオン法典において、小市民的また軍事的に動機づけられた婚姻法が形成されたのにたいして、オーストリアやロシアのような官僚制国家では、夫婦財産法における性差が著しく平準化: この傾向は、ある社会の文化全体に刻印を押す社会層において、軍国主義が最高度に押し退けられたばあいに生ずる。その他、財貨の取引が発展しているばあい、夫婦の財産構成は、財産の一体的保持により、信用保証をたかめようとする欲求によっても、大幅に規定される。[20]

 

「正当」な婚姻が成立しても、即「一夫一婦制Monogamie」がおこなわれるわけではない。自分の子供の相続権にかけては特権を与えられた妻が、「正妻」として他の妻たちに抜きん出るだけの「半一夫多妻制Halbpolygamie」は、オリエント・エジプト・またアジアのたいていの文化圏にみられる有産階層の特権。制度としての「一夫一婦制」は、古代ギリシャとローマにおいて、都市貴族時代への移行期に、この市民層の家計形態との適合性ゆえに実施され、やがてキリスト教の「禁欲」的動機から、絶対的規範にまでたかめられた。それにたいして、一夫多妻制は、主に、政治権力の家父長制的構造から、家長の恣意が長らく維持されたところで貫徹された。[21]

 

家ゲマインシャフトそのものの発展にとって、婚資つき婚姻の発展は、二重の意味で重要: ①父の資産の相続期待者として、「嫡出子」が「庶出子」にたいして特別の法的地位を占め、財産所有の分化を生ずる; 嫁いでくる妻の婚資が実家の富裕度に応じて区々なので、夫たちの経済状態にも分化が生ずる。そのさい、持ち込まれた婚資は通例、形式的には家長に帰属するが、実質的には「特別勘定」を設けて夫の資産に編入される。そのため、(始源的には家共産主義によって「計算」を排除していた) 家ゲマインシャフトの内部に、いまや「計算」の要素が進入。[22]

 

この段階になると、太古から作用していたにちがいない経済的契機も、すでに確実に作動し、家ゲマインシャフトの対内的閉鎖-経済的専有を促進。すなわち、①人工の使用財(道具・武器・装飾品・衣類など)は、製作者個人が、自己労働の所産として、もっぱら、あるいは優先的に、使用する権能を与えられ、当人の死後も、家ゲマインシャフト全体にではなく、その用益に特別の資格をもつ特定個人に帰属する。また、②数多の人工物、とくに武器については、軍事権力が、軍役の最適任者に装備を施そうとする利害関心から、相続関係に干渉し、家共産主義的全体帰属からの離脱を促す。[23]

 

さらに、文化一般の発展につれ、家ゲマインシャフトの分解を促す作用が内外から強まってくる。内からは、諸個人の欲求と能力が、経済的手段の量的増大・生活シャンスの拡大-多様化に刺戟されて、分化-発達を遂げ、諸個人はそれだけ、家ゲマインシャフトの未分化な生活への緊縛には耐えられなくなる。他方、外からは、家と競合する社会諸形象が干渉し、分解傾向に拍車を掛ける。政治ゲマインシャフトの財政的利害関心は、諸個人の担税力を集約的に搾取しようとして、(装備自弁の経済的基礎として大資産の一体的維持に縛られざるをえない封建制的・軍事的利害関心とは正反対に)課税単位としての家を、多数の小家族に分解。[24]

 

その結果、家ゲマインシャフトは、さしあたり相続や子供の結婚の機会に、外的に分解される。労働集約的農耕の一時期を除いて、規模縮小の一途をたどり、ついには今日のような核家族が常態となるにいたる。家ゲマインシャフトの機能上の地位に生じた変化も、この傾向を促進: 個々人は、安全保障を (家や氏族にではなく) 政治権力のアンシュタルトに求め、「職業」を家の外にもち、必要な教育訓練は、学校のような「経営」から受けるようになる。そうなると、個々人は、家ゲマインシャフトを、自分が奉仕すべき客観的文化財の担い手とは認めない。これは「社会心理の一発展段階」としての「主観主義の増大」ではなく、むしろそうした主観主義をもたらす客観的諸事情の問題。

なるほど、そうした発展を阻止する要因もある。混在耕地制のもとで労働集約的に耕作されている小所有は、技術的に分割容易で細分化に傾くが、散居制と資本集約的大所有は、分割困難で、単独相続に有利。大所有はもともと、社会的地位主張の基礎をなすから、それ自体、一体的維持への内在因をなす。しかも、大所有を基礎とする領主的生活は、城館のような広い空間で営まれ、至近の居住者間にも距離が生まれるが、市民の家屋は狭く、貴族的距離感に欠けるばかりか、生活関心のほうは分化-発展を遂げるので、それだけ息苦しい思いをして、離脱を招きやすい。その結果、今日では、家ゲマインシャフトにあったような共産主義は、領主的生活形態を除き、なんらかの理念を集約的に追求する宗教家や芸術家の「ゼクテ」にかぎられ、過去の修道院やこれに類するゲマインシャフトの機能的等価物として残存しているにすぎない。[25]

 

そうした分解とは異なり、家ゲマインシャフトが外面的には統一を維持していても、内部では「計算だかさRechenhaftigkeit」がつのり、家共産主義はいよいよ弛緩し、解体する。[26]

 

§6. 家ゲマインシャフトの資本主義的経営への転形

たとえば、中世北イタリア都市の商家では、個々人は、①自分の「勘定」、②自由に使えるポケット・マネー、③資本持ち分と資産、をもち、④特別の支出には許容限度額が決められ、⑤それ以外の費目についても、個人との決済がおこなわれる。ここでは、家ゲマインシャフトの内部に、計算による合理的ゲゼルシャフト関係が登場し、個々人は家ゲマインシャフトに「生み込まれる」が、同時に、合理的制定秩序をそなえた営利事業の潜在的「手代」または「社員」となる。動因は、貨幣経済: 一方では、個人の営利給付と消費につき、客観的計算を可能とし、他方では、貨幣を媒介とする間接交換により、個人的欲求に自由な充足の可能性を開く。[27]

 

とはいえ、家ゲマインシャフトは、経済的条件にたいして固有法則性をそなえ、その構造形式は、歴史的にいったん成立すると、経済的諸関係に反作用: たとえば、①ローマの家父長権は、経済的・社会的・政治的・また宗教的諸条件に制約されて成立したが、その後、多様な経済的発展諸階梯を貫いて存続。帝政期に、その政治的条件のもとで、子供たちにたいしてもようやく弛緩; ②中国では、家ゲマインシャフトを基礎とする恭順の原理が、国家権力と儒教の官僚制的身分倫理により、「臣民の馴致Massendomestikation der Untertanen」のために奨励され、義務の典範にまで仕上げられたが、そのうち服喪規定の遵守は、死者生前の財産襲用や官職踏襲の忌避 (一定期間の空席) といった経済的、政治的に非合理な帰結をもたらす。[28]

 

それにもかかわらず、家ゲマインシャフトを内的に解体する経済的要因の作用は深甚。そのさい、営利が①協働の労働の成果とみなされるか、それとも②共有の財産に帰せられるか、に応じて、重大な差異: ①のばあい、家構成員が、自家計の創設をめざして家から分離しさえすれば、それだけで家権力から解放され、家権力の存立は不安定。それにたいして②のばあいには、家権力は打破しがたい。土地所有が稀少となるばあいにはとくにしかり。これと同じ相違が、資本主義段階にも再現される: ①シチリアや南イタリアの商取引地では、共有財産は、協働の労働の所産として取り扱われ、成人した家仲間は誰でも、被相続人がまだ生きている間にも、自分の持ち分を取って、分離-独立することができた。それにたいして、②フィレンツェその他、北イタリア都市の大規模な家ゲマインシャフトでは、連帯責任および財産の一体的維持の原則がおこなわれた。家族経営において経済的勢力の基礎をなしたのは、関与者個々人の営利労働よりもむしろ、相続された資本。資本の意義がたかまるにつれ、この北イタリア方式が普及: ゲマインシャフト行為が打ち砕かれていない状態を起点として、一連の発展階梯を理論的に構成してみると、その図式で測って理論的には「旧いfrüher(家構成員が家に拘束される度合いも、家権力が統一を保っている度合いも相対的に高い) 構造が、「新しいspäter」資本主義的経済形態によって制約されている。

フィレンツェ他の中世都市で、家ゲマインシャフトと家権力の西洋に独自の転形die dem Okzident eigentümliche Umformung der Hausgewalt und Hausgemeinschaftが達成される。家ゲマインシャフトの経済生活全般にわたる秩序が、定期的に、契約によって規制されるようになる。継続的となった資本主義的営利は、「経営Betrieb」内部でおこなわれる特別の「職業Beruf」となり、この経営は、特別のゲゼルシャフト形成Sondervergesellschaftungという行程をたどって、家ゲマインシャフトからますます分離。ついには、家計・仕事場・および勘定の一体性が解体する。いまや、社員は、必ずしも家仲間である必要はない。それにともない、営業上の資産が、個々の関与者の私有財産から、事業の従業員が、家の使用人から、分離。とりわけ、商会自体の債務が、個々人の家計の債務から区別され、関与者の連帯責任が、前者に限定される。両者は、前者が商号(「商会Firma」名)で締結されることにより、明確に識別される。

この発展は、支配の官僚制化にともなう「官職と私生活との分離」と精確な並行関係にある。資本主義的経営は、上記のとおり家ゲマインシャフトがその胎内に孕みみずからは手を引くことによって産み落としたものであるが、すでにそうした萌芽の階梯でも、「官庁Büro」との親和性の端緒を示していたわけである。とはいえ、家計と仕事場 (ないし店舗) との空間的分離だけならば、イスラーム諸都市における城砦・市場・および住居の分離 (「バザール制度」) にも見られる。決定的に重要なのは、家計と経営との帳簿上の分離、およびこの分離に照準を合わせたの発展である。すなわち、商会にたいする家仲間による拘束を排除する「商事登記法」、家仲間以外に公開される合名-合資会社の資産を、家資産から分離して保障する「特別資産法」、およびそれらに照応する「破産法」などで、これらはいずれも西洋中世起原である。古代には、資本主義が量的には中世以上の発達を遂げていたにもかかわらず、そうした法形式は発展しなかった。近代資本主義への発展は、その独特の諸条件が、歴史上ただ一回、西洋中-近世に出揃い、独特の結合を遂げて初めて緒につくといった、質的に独自な、西洋固有の現象であるが、中世起原のこの法形式も、そうした独特の諸条件のひとつであった。

というのも、諸家族が経済的に支え合うため、それぞれの資産を結集し、一体として維持することも、そうした営業上の経営に「商号」を用いることも、中国に見られた。ところが、中国には、西洋流の特別資産法とこれに照応する破産法は、発展しなかった。それも、①営利ゲマインシャフトや商会の結成と信用を保証したのが、事実上、氏族ゲマインシャフトの連帯だったからであり、②資産結集と内部的信用保証の目的も、資本主義的な利得ではなく、一族の有能な子弟を科挙受験にそなえさせ、合格の暁には官職購入の費用を工面し、役得によって出費を回収したうえ、さまざまな官職寄生的利得や社会的栄誉を手に入れるシャンスに向けられていたためである。

ところで、家・氏族以外から広く経営資金を募集し、そうした即人的な基礎からは (少なくとも形式上は) 完全に解放された営利ゲゼルシャフトが、今日の「株式会社Aktiengesellschaft」であるが、これに相当する資本主義的「組織結成Assoziation」の先行例は、①古代には、主に政治寄生的資本主義の領域で、徴税請負の組織に、②中世にも、当初には同じく、片や植民企業に、片や対国家信用業務に、見出される。私的営利の領域では、もっぱら実務的かつ資本主義的な組織結成は、当初、商業の臨機的性格に照応して、遠隔地取引のための「臨機的ゲゼルシャフトGelegenheitsgesellschaft(「コンメンダ」) の形式で発展。これは、すでにバビロニア法にも知られており、それ以降、いたるところに普及。その後、政治権力から独占特権を与えられた企業、とくに株式会社形式をとった植民企業が、移行階梯をなし、これを経由して、その形式が、純然たる私企業にも持ち込まれた。[29]

 

§7. 家ゲマインシャフトのオイコスへの再編成

 家ゲマインシャフトの発展には、資本主義的経営への転形とは正反対に、「オイコスOikos」へと内部的に再編成される方向がある。オイコスとは、たんに多種目の自家生産物を擁する大規模家計とのみ、考えられてはならない。君侯・荘園領主・都市貴族の、権威によって指揮された大家計で、その究極の動機が、資本主義的貨幣営利にではなく、首長の需要の、組織化された、実物による充足に置かれているものをいう。この目的のもとに、部分的には、営利経済的な個別経営が編入されているばあいもある。

「資産運用」と「資本利用」との間には、スペクトル状の漸移階梯があり、両者間の移行や転換も頻発。純然たる共同経済的形態では、財やサーヴィスにたいする首長の需要がすべて、家に隷属する労働力の、しばしば高度の分業をともなう装置によって充足され、すべての原材料が、自家の土地から供給され、すべての物財が、隷属労働力を充用する自家の仕事場で生産され、それ以外の給付も、自家に隷属する僕婢・官吏・家祭司・戦士によって果たされ、交換はもっぱら、ときとして生ずる余剰の放出と、自家で産出されないものの補充とにかぎられる。オリエントとくにエジプトのファラオの経済、ペルシャやフランク王国の宮廷の家計、ローマ帝政期の荘園領主などは、完全な共同経済的形態に近く、西洋中世の荘園領主制は、都市と貨幣経済の意義がたかまるにつれて、正反対の方向に発展。

  首長に隷属する不自由な労働力のうち、自家経済に全面的に緊縛されるのは、一方では、首長の個人的な家僕と、首長需要の実物充足に全面的に仕え、首長によって完全に給養されている(「自家経済的に利用」されている) 労働者、他方では、首長が、市場向けの自分の経営 (プランテーションやエルガステーリオン) で使役する (「営利経済的に利用」する) 購買奴隷。これにたいして、家族をもち、家計内で再生産される、世襲的に不自由な労働者は、それだけ首長の家への緊縛から解放されるので、通例、集権化された経営では利用されず、給付能力の一部を首長の処分に委ねるか、あるいは、実物であれ、貨幣であれ、首長の恣意と伝統の拘束との妥協によって額のきまる貢納を、首長に提供するか、どちらかの形式で利用される。首長が不自由人を「労働力として利用」するか、「レンテ源として利用」するかは、どちらから最大の利益を引き出せるかの条件次第: 家族をもたない営舎住まいの奴隷によって労働力需要を補填するには、たえず奴隷狩り戦争がおこなわれて、奴隷供給が廉価で安定しており、しかもその扶養が安くてすむこと (南方の気候) が必要。他方、世襲の隷農が貨幣で貢納を支払うには、農産物を換金する市場、したがって都市が、近辺に発達していなければならない。近世初頭のドイツ東部と東欧、19世紀のロシア黒土地帯で、隷農を「労働力として利用」する大経営が発展したのは、都市発達が微弱だったためである。

  自家の不自由労働力を利用するか、自家の、あるいは賃貸したエルガステーリオンに不自由な賃労働を雇い入れるかして、工業的大経営が創設されるばあい、そうした経営を編入したオイコスの首長は、資本主義的な企業家に接近し、あるいはさらに、(たとえばシュレージエンの「シュタロステン工業」創立者のように) 完全に転進を遂げるばあいもある。その出自を窺わせる事実は、山林経営・煉瓦製造所・醸造所・製糖工場・石炭採掘場などの、相異なる企業が組み合わされる形式にあり、これは、近代的コンビナートにおける、同一の原材料のさまざまな加工段階、あるいは市場の条件に即する組み合わせとは異なる。ところが、荘園領主が石炭採掘場に精練所を、山林に製材所やセルロース工場を併設するとなると、近代的経営結合と同じ結果になり、残る区別は、出発点の、資産をレンテ取得のために用益するという究極の意味だけとなる。

原料の所有にもとづく組み合わせの萌芽は、すでに古代のエルガステーリオンにも見られ、デモステネースの父は、象牙を輸入して転売すると同時に、熟練奴隷を用いて刀剣と家具に加工させている。その後、エルガステーリオンは、ヘレニズム都市とくにアレクサンドリアを拠点として発展、さらにイスラーム圏でも発展を遂げた。工業部門におけるレンテ源としての不自由労働は、古代のオリエントでも西洋でも、中世初期にも、またロシアでは体僕制の廃止にいたるまで、普及。首長は、自己の奴隷を労働力として賃貸もし、ときには不熟練奴隷に訓練を施し、熟練手工業者に仕立てもした。さらに、身請け金の支払いを条件に、経営手段や営利資本も添えて、独立採算の手工業経営を許すばあいもあった。奴隷が事実上自由に活動できる、この一方の極と、首長の自家経営に完全に緊縛されている他方の極との間には、多様な中間形態が認められる。オイコスの「家産制Patrimonialismus」支配への発展は、後段で [Nr. 49]、支配形態の分析との関連で考察する。[30]

 

 

Ⅱ-2. 種族 (抄録)

①外面的容姿と②習俗とのいずれか (あるいは両方) における類似、または③植民や移住の記憶、にもとづき、血統の共有にかんする主観的信仰を、ゲマインシャフト関係の拡張にかかわる程度に抱き、なおかつ「氏族」はなさない人間群Menschengruppe を、客観的な血統共有の有無にかかわりなく、「種族ethnisch」群と名づけよう。この種族的共通性Gemeinsamkeit は、それ自体、たんに主観的に「信じられたgeglaubte」共通性にすぎず、ゲマインシャフト形成を容易にする一契機ではあっても、それ自体としてはまだ、ゲマインシャフトではない。この点で、本質上現実にゲマインシャフトをなす「氏族」と区別される。

種族的共通性は、さまざまなゲマインシャフト形成の契機となるが、とりわけ政治ゲマインシャフトの形成において、その作用は顕著である。他方、政治ゲマインシャフトのほうも、たとえどんなに人為的な構成をそなえていても、通例、種族的共通性の信仰を喚起する。そして、この信仰は、当の政治ゲマインシャフトが崩壊した後々までも存続する。ただし、容姿と習俗、とりわけ言語における差異が深甚に過ぎるばあいには、そのかぎりではない。[5]

 

種族的共通性信仰が、このように「人為的künstlich」に創成されることは、合理的ゲゼルシャフト関係が即人的なゲマインシャフト関係に置き替えて解釈されるという「すでにわれわれの知っている」[Nr. 55] あの図式に、完全に照応している。合理的に物象化されたゲゼルシャフト行為がまだ普及していない [歴史的] 条件のもとでは、ほとんどすべてのゲゼルシャフト形成が、種族的共通性信仰を基礎とする即人的兄弟盟約という形で、(ゲゼルシャフト形成の限定された目的の範囲を超える) ゲマインシャフト意識を創成する。[6]

 

[以上、. 社会 ()1. 「家、近隣、氏族、経営およびオイコス」章の段別要旨、2.「種族」(抄録) を掲載しました。以下、. 社会 () 3.5. 7. 8. の各章 および . 支配 () 章節要旨 (適宜抄録) を、脱稿次第、順次掲載していく予定です。なお、Ⅱ-6.「法」章の段別要旨は、別稿「シンポジウムに向けて (5) として本ホームページに別掲されています。92日記]

 

Ⅱ-3. 宗教 (抄録)

[この章は、理由あって膨大にすぎるので、本シンポジウムの準備稿としては、Ⅱ-6「法」 との関連で欠くことのできない論点のみ、追って抄録します。なお、全章の段別要旨については、下記の文献をご参照ください。

1.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (1)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (3)(名古屋大学文学部研究論集 132・哲学441998. 3)

2.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (2)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (4)(名古屋大学社会学論集 191998)

3.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (3)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (5)(名古屋大学文学部研究論集 135・哲学451999. 3)

4.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (4)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (6)(椙山女学園大学研究論集 31・社会科学篇、2000. 3)

5.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (5)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (7)(名古屋大学社会学論集 212000)

6.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (6)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (8)(椙山女学園大学研究論集 32・社会科学篇、2001. 3)

7.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (7)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (9)(椙山女学園大学人間関係学部ワーキング・ペーパー 2 2001. 4)

8.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (8)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (10)(椙山女学園大学人間関係学部ワーキング・ペーパー 3 2001. 6)

9.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (9)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (11)(椙山女学園大学人間関係学部ワーキング・ペーパー 6 2002. 1)

10.「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (10)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (12)(椙山女学園大学人間関係学部ワーキング・ペーパー 7 2002. 2)

11. 「宗教的行為と宗教的ゲマインシャフト形成にかんする理解社会学的概念構成 (11)――ヴェーバー『経済と社会』の全体像構築に向けて (13)(椙山女学園大学人間関係学部ワーキング・ペーパー 9 2002. 3) ]

 

抄録論点1.

[追って補充]

 

 

Ⅱ-4. 市場

§1. 市場の本質と特性

 これまでに論及された[前出参照指示Nr. 補遺3ゲマインシャフト形象は、通例、ゲマインシャフト行為の一部の合理化を内包するにすぎず、それ以外の点では、構造上きわめて多種多様: 無定型か、ゲゼルシャフトとして定型化されているか、持続的か断続的か、開放的か閉鎖的か、それぞれ度合いを異にしている。そうしたゲマインシャフト形象のすべてに対立して、いまや、市場における交換をとおしてのゲゼルシャフト形成Vergesellschaftung durch Tausch auf dem Marktが、あらゆる合理的ゲゼルシャフト行為の原型としてder Archetyp alles rationalen Gesellschaftshandelns登場。

  交換のシャンスをめぐって多数の交換志望者が競争し、そうした競争が、売り手と買い手との双方でなされるばあいはもとより、どちらか一方でなされるばあいにも、そこにはすでに市場が成立している、と考えることにしよう。交換志望者たちが、局地市場・遠隔地市場 (歳市・大市)商人市場 (取引所) で、空間的に一箇所に集い、会することは、市場形成のもっとも首尾一貫した形態にすぎない。ただ、そこで初めて、市場に特有の、価格をめぐる駆け引きFeilschen が、十全に展開される。

  市場における出来事の詳細な分析は、社会経済学の本質的内容をなすので、ここでは採り上げない。社会学的に考察すれば、市場は、合理的ゲゼルシャフト関係の共存と継起ein Mit- und Nacheinander rationaler Vergesellschaftungenをなし、その関係の各々は、交換財の引き渡しとともに消滅するかぎりで――つまり、交換相手にたいする、交換財の適法的取得の保障(取戻禁止保障)を、交換者に義務づける秩序が、すでに指令(授与)されているのでないかぎりは――、特別に一過的ephemer

交換が実現されたばあいには、当事者と (直接の) 交換相手との間にのみ、ひとつのゲゼルシャフト関係が形成される。しかし、交換の実現にいたるまでの駆け引きは、つねにひとつのゲマインシャフト行為である。というのも、交換志望者の双方が、それぞれ、交換相手の可能な行為のみでなく、他に不特定多数の (現実ないし想像上の) 交換利害関係者の可能な行為にも準拠しながら、手持ちの財をもっとも有利に提供しようとするからであり、そのかぎり、またそうであればあるほど、それだけ事前の駆け引きは、[制定秩序なしに、もっぱら他人の行為の予想にのみ準拠する] ゲマインシャフト行為であらざるをえないからである。

さらに貨幣を用いる交換となると、貨幣を用いること [そのこと自体] によって、ゲマインシャフト行為である。貨幣とはもっぱら、他人の可能な行為と関係づけられることによって、その機能をはたす。というのも、貨幣が受け取られるということは、もっぱらそれが支払手段として特別に求められ、使用されつづけるであろうという予想にもとづいているからである。

ところで、貨幣使用によるゲマインシャフト形成は、合理的に協定または指令された秩序によるゲゼルシャフト形成のいずれにたいしても、特徴的な対極をなす。貨幣は、現にいる、または可能な、市場利害関係者および支払利害関係者たちの現実の利害関係によって、ゲマインシャフトを形成していく方向に作用し、十全に発展すれば、特殊な性質をそなえた、いわゆる貨幣経済の出現にいたるが、この結果は、あたかもその招来をめざす秩序が創り出されていたかのようにして生ずる。これはまさしく、市場ゲマインシャフトの内部では、交換行為とくに貨幣を用いる交換行為が、もっぱら交換相手の行為にのみ準拠して孤立的になされるのではなく、可能な市場利害関係者すべての行為に準拠してなされ、しかも、交換行為が合理的に考量されればされるほど、それだけますますそうなる、ということの帰結。

 

市場ゲマインシャフトそれ自体は、およそ人間が互いに入りうる実践的生活関係のうちで、もっとも人柄のいかんに左右されないunpersönlichstものである。というのは、市場が、利害関係者間の闘争を含んでいるからではない。むしろ市場が、特別に物象本位 sachlichで、交換でなく交換への、しかももっぱら後者への利害関心に準拠しているからである。市場が、その固有法則性に委ねられるときには、ひたすら物象のいかんのみを考慮し、人柄のいかんも、人間同胞としての義務も、恭順の義務も、およそ、人柄がものをいうもろもろのゲマインシャフトによって担われた原生的な人間関係は、いっさい顧慮しない。そうしたものは、市場ゲマインシャフト形成の自由な展開にたいする障害Hemmungenをなし、他方、市場ゲマインシャフト関係に特有の利害関心は、これはこれで、そうした人間関係のすべてにとって、特別の誘惑Versuchungをなす。

市場における出来事の経過を顕著に規定するのは、合理的な目的達成への利害関心であり、交換当事者の双方に期待され、市場倫理Marktethikの内容をなしている資質は、合理的な合法性rationale Legalität、とくに、ひとたび締結された約束は [その実質的内容のいかんにかかわりなく] けっして破らないという形式的不可侵性formale Unverbrüchlichkeit des einmal Versprochenenである。市場倫理は、この点にかけてはきわめて厳格。

こうした絶対的な物象化absolute Versachlichungは、人間関係のあらゆる原生的構造形式に逆行: 倫理規範に縛られないという意味で「自由な」市場では、利害状況や独占状況が容赦なく駆け引きに利用されるが、そうした市場は、およそいかなる倫理においても、同胞の間では非難されるべきもの、と見られている。他のゲマインシャフト関係はすべて、つねに人柄がものをいう同胞関係Verbrüderung、たいていは血縁的親和関係Blutsverwandtschaftを前提としているが、市場は、そうしたゲマインシャフト関係とは対照的に、およそいかなる同胞関係とも、根本的に疎遠である。

自由な交換は、当初、近隣ゲマインシャフトおよび人柄がものをいうすべての団体の内部ではなく、もっぱら外部に向けておこなわれる。市場は、地縁ゲマインシャフト、血縁ゲマインシャフト、および部族ゲマインシャフト、それぞれの境界で取り結ばれる関係であり、しかも、始原的には、それら相互間に成立する、形式上平和的な唯一の関係である。交換利得の獲得という意図をもっておこなわれる商業は、始原的には、ゲマインシャフト仲間の間には存立しえない。未発展の商業に特徴的な形態のひとつである沈黙交換 stummer Tauschは、対面的接触を避けた交換で、人柄がものをいう同胞関係とは対照的な、物象本位の性格をこのうえなく鮮明に示している。

 

市場ゲマインシャフトにおける交換相手の合法性の保障は、けっきょくのところ、相手方が、この相手とであれ、別の相手とであれ、当の交換関係を維持していくことに、将来にわたっても利益を見出し、まさにそれゆえ、交わされた約束を守り、少なくとも誠実と信頼をはなはだしく侵害するようなことは思いとどまるであろうという予想を前提として成り立ち、通例は双方ともこの前提をみたしている、という事情にもとづいている。つまり、そうした利害関心が存在するかぎり、「正直が最良の商略」という命題が妥当する。しかし、この命題はもとより、普遍的な合理的整合性rationale Richtigkeit をそなえているわけではなく、したがってその経験的妥当empirische Geltungも動揺を免れがたい。

顧客の範囲が持続的に確定している合理的経営にとっては、当然のことながら、この命題が最高度の整合性と経験的妥当性を取得する。というのも、交換関係が、関与者の利害関心によって担われながら、無制限な駆け引きの性格をふたたび払拭し、自分自身の利害関心から、価格の動揺と、目前の状況の投機的な利用とを相対的に抑制する方向に、もっとも容易に発展しうるのは、当の交換関係が、双方互いに、市場取引に見られる倫理的資質と関連づけて人柄への評価をくだせるような、確定した顧客関係を基盤としているばあいだからである。この点は、価格形成にとって重要な帰結をともなう。

確定価格、すなわちすべての買い手にたいする同一価格と、取引における厳格な手堅さとは、①西洋中世の統制された局地的近隣市場に特有の現象で、ここではそれらが、オリエントや極東とは対照的に、顕著な程度に達成された。それらはまた、初期資本主義経済の前提でもあれば、そのうえに初期資本主義が成立した後には、その所産でもある。②この段階が乗り越えられて、もはや存立していないところには、それらもない。さらに、③交換への関与が、規則的かつ能動的ではなく、臨機的かつ受動的でしかないような、すべての身分あるいはその他の人間群においても、それらは見られない。封建制的社会層相手の取引、たとえば騎兵隊仲間のもとでの騎馬の買い付けのさいには、将校なら誰でも知っているとおり、「買い手が気をつけよう」との警句が切実に思い出される経験に、頻繁に出くわすものである。封建制的社会層は、固有の意味における市場倫理には疎遠であり、かれらや農民的近隣団体の観念においては、商売とはあくまで、「誰が騙されるか」だけが問われる所業にひとしい。[1]

 

§2. 市場にたいする制限障壁 

市場にたいする類型的な制限障壁は、宗教儀礼上のタブーか、対外的な交換を不可能にする身分的独占をめざすゲゼルシャフト形成か、どちらかである。そうした障壁の外で成立した市場ゲマインシャフトは、いまや、その障壁とたえず衝突する。というのも、市場のたんなる存在そのものだけからしてもすでに、市場をとおして利得を手に入れるシャンスへの関与を促し、身分的独占を掘り崩す誘惑を内包しているからである。

ある独占ゲマインシャフトにおいて、ひとたび専有Appropriationの過程が進展し、当のゲマインシャフトが対外的に閉鎖されるまでになると――ある村落ゲマインシャフトにおいて、土地所有ないし共有地用益権が、確定的また世襲的に専有されるにいたると――、他方では、貨幣経済の進展につれて、いまや間接的な交換によって充足できる欲求の分化も進み、土地所有から離脱した生存の可能性も開けてきているので、個々の専有関与者たちには、専有された財産を、対外的にも交換によって最大限有効に利用したいという利害関心が生じ、これは通例、貨幣経済の発展につれてやはり強まってくる。他方、外からは、生成途上の資本主義的営利経済が、物的生産手段と労働給付とを、宗教儀礼的ないし身分的な束縛に妨げられることなく、市場で購入し、その生産物の販売シャンスを、身分的な販売独占による制約から解放して拡大する可能性を追求し、この要求は、資本主義的営利経済が力をえてくればくるほど、それだけ強まってくる。

この資本主義的利害関係者は、政治権力の手中からもろもろの特権を買い取るか、それとも、もっぱら自分たちの資本力によるかして、自分たちの財貨の販売、あるいはまた、物的生産手段の獲得のため、首尾よく独占を達成し、こんどは自分たちの側から市場を閉鎖するにいたるまでの期間は、自由な市場の拡大に利害関心を寄せる者たちである。それゆえ、資本主義的利害関係者が、財所有とその利用方法とを統制しているゲマインシャフトにたいして、自分たちに有利となるような方向で影響を与えることができるばあい、あるいはまた、身分的な独占ゲマインシャフトの内部で、専有された財所有を市場で利用することへの利害関心が優勢となるばあいには、すべての身分的独占が破砕される。

さらには、財所有を統制するゲマインシャフトの強制装置によって保障される、獲得された権利、あるいは獲得可能な権利が、もっぱら物的な諸財と、協定された労働給付を含む債務関係から生ずる諸要求とにだけ、制限される。それにひきかえ、他の専有、とりわけ顧客の専有と、身分的な販売独占とは、ことごとく廃絶される。これが、自由競争freie Konkurrenzと名づけられる状態である。これは、それまでの独占とは異なる資本主義的独占が、市場において、所有の力によって達成され、自由競争にとって代わるようになるまで、存続する。

この資本主義的独占は、もっぱら経済的に、合理的に制約されているという点で、身分的独占とは区別される。身分的独占は、販売の可能性一般または許容される販売条件の制限によって、駆け引きと、とりわけ合理的計算とをともなう市場メカニズムを、その勢力範囲内から排除してしまう。それにひきかえ、もっぱら所有の力によって制約される独占は、まったく逆に、合理的な独占政策――つまり、形式的には自由なままでありうる市場の事象を、合理的計算によって支配すること――にもとづいている。宗教的儀礼、身分的および伝統的拘束が、合理的な市場価格の形成によって次第に排除されていく制限障壁であるのにたいして、もっぱら経済的に制約された独占は、逆に、その帰結である。身分的独占は、市場に対立して勢力を揮い、市場を制限するが、合理的な経済的独占は、市場によって支配する。その経済状況からして、形式的な市場の自由によって勢力を獲得しようとする利害関係者を、市場利害関係者Marktinteressentenと名づけよう。[2]

 

§3. 市場の秩序保障

具体的な市場は、市場関与者によって自律的に協定された秩序に服することもあれば、きわめて多種多様なゲマインシャフト、とくに政治団体ないし宗教団体によって指令された秩序に服することもある。宗教団体によって指令される秩序は、市場の自由 (駆け引きや競争) を制限したり、市場における合法性の遵守や、支配方法や支払手段にたいする保障を設けたりするばあいもあるが、そうでないかぎりは、地域間の治安が確保されていない時代にあって、とりわけ市場平和の保障をめざすものである。市場が、始原的には仲間どうしではなく、敵どうしのゲゼルシャフト形成であるからには、市場の平和は、国際法上の戦争慣行と同じく、通例はまず、神的諸力に委ねられるほかはなかった。そこで、市場の平和は、きわめてしばしば神殿の保護のもとに置かれ、やがて、この平和保護が、通例、部族首長や諸侯により、手数料の徴収源とされたのである。

交換は、経済的勢力を獲得する特別に平和的な形式であるが、もとより暴力行使と結びつくことも稀ではない。古代や中世の航海業者 [ 海賊] は、暴力によって手に入れられるものを、代価を支払って取得しようとはしない。かれが平和的な駆け引きに頼ろうとするのは、相手が対等な力をもつため、そうせざるをえないか、あるいは、将来にわたる交換のシャンスを危うくしないためには、そうしたほうが得策と判断するばあいにかぎられる。

さてしかし、交換関係の集約的拡張は、いずこにおいても、相対的な平和化と並行関係にある。中世における治安の確立は、ことごとく交換の利害に役立っている。そして、もっぱら経済的に合理的な、自由な交換による財貨の獲得は (オッペンハイマーが繰り返し強調したとおり)、形式として、なんらかの (たいていは物理的な) 強制による財貨の獲得にたいして、概念上の対極をなしている。ところで、この物理的強制が、恣意的に発動されるのではなく、規律をもって行使されることは、政治ゲマインシャフトの構成契機のうち、特別に重要なものである [これは、次章Ⅱ-5.「政治」 への架橋句][3]

 

 

Ⅱ-5. 政治

§1. 政治ゲマインシャフトの本質と特性

政治ゲマインシャフトとは、政治的ゲマインシャフト行為によって構成されるゲマインシャフトである。政治的ゲマインシャフト行為とは、①ある領域Gebiet (領土と領海) とその在住者を、②物理的な実力行使、しかも通例、武力の行使も含む実力行使の態勢をとることで、③その関与者によって秩序づけられる支配のもとに置く (ばあいによっては、その関与者のために領域の拡張をくわだてる) ようなゲマインシャフト行為である。

この意味の政治ゲマインシャフトは、原初から普遍的に存在したものではない。家ゲマインシャフトや近隣団体などが自力で外敵にたいする防衛に当たる、ⓑ実力行使が複数のゲマインシャフトに分割して配分されているばあい、政治ゲマインシャフトは、特別のゲマインシャフトとしては存立していない。また、ⓒペンシルヴェニアにおけるクェーカー派の共同組織のように、対外的な実力行使を原理的に拒否し、いかなる備えもしていない、というばあいもある。

政治ゲマインシャフトが、実力による領域支配の確保以外に、いかなる目的を追求するか、その内容は千差万別である。他方、その目的が、もっぱら領域支配の確保にかぎられるばあいもある。しかも、実力行使が間歇的で、平時には一種の無政府状態を呈するということもあった。

政治ゲマインシャフトの実力行使は、当該領域の外敵のほか、内部の敵にも向けられる。後者は、アンシュタルトをなした政治ゲマインシャフトの内部で、給付要求にしたがわない敵対者である。

政治ゲマインシャフトの強制は、生存と移動の自由を脅かし、奪うことにもおよぶ。したがって、その構成員には、ときとして生命の犠牲も、要求される。ここからは、独特のパトスが醸成され、これが政治ゲマインシャフトの永続的な感情的基礎ともなる。生死を賭けた政治闘争の記憶を共有するゲマインシャフトは、しばしば文化・言語・血統の絆以上に強力であり、「後に見るとおり」Nr. 335「国民性意識Nationalitätsbewusstsein」に決定的な色調を刻印する。[1]

 

とはいえ、そういう生殺与奪権をそなえたゲマインシャフトは、今日でさえ、政治ゲマインシャフトにかぎられない。血讐義務を担う氏族、殉教義務を課す教団、「名誉の典範」をそなえた身分、数多のスポーツ団体、カモラ団などの秘密結社、他人の経済財の強奪をめざして結成されたゲマインシャフトなどでも、同じ帰結にいたることがある。

社会学の観点から見て、これらのゲマインシャフトから政治ゲマインシャフトを区別する標識は、当初には、後者がかなり広範囲な陸海域にたいする確定的処分力として、格別持続的に、しかも公然と存立する、という量的な差異のみである。過去に遡ると、そういう特別の地位を占める政治ゲマインシャフトは、それだけ稀となる。ところが、政治的ゲマインシャフト行為が、直接の脅威に対処する臨機的行為から、アンシュタルトとしての構造をそなえたゲゼルシャフト関係へと発展し、強制手段の適用が、合理的・決疑論的に秩序づけられるようになると、関与者たちは、政治ゲマインシャフトの秩序を、そのようにもっぱら量的に優位を占めるものとしてではなく、質的にも「適法性Rechtmässigkeit」という特別の「神聖性Weihe」をそなえたもの、と考えるようになり、生殺与奪を含む物理的強制力の行使も、そうした適法性をそなえているかぎりで、正当と諒解される [Legitimitätseinverständnis]

政治的団体行為に特有の適法性にたいするこの信仰が昂進すると、ある政治ゲマインシャフトが、「国家Staat」の名のもとに、適法的な物理的強制権を独占し、他のいかなるゲマインシャフトも、その委託の範囲内でしか、物理的強制力の行使を許されなくなる。近代の諸事情のもとで、発展はじっさい、そうした経過をたどった。したがって、十全に発展した近代の政治ゲマインシャフトには、通例、あの特殊な「正当性」を付与される決疑論体系が存立し、物理的な強制力による威嚇とその行使を規制している。この決疑論的秩序体系が、法秩序であり、今日では、政治ゲマインシャフトのみが、その正規の創造者と見なされる。というのも、今日では通例、政治ゲマインシャフトが、物理的強制によって法秩序の遵守を迫る力を、事実上独占しているからである。

ところで、政治権力によって保障される法秩序の、こうした優越は、長期にわたる漸進的な発展の帰結である。すなわち、この状態は、①かつてはそれぞれに固有の強制権力を担っていた、他のもろもろのゲマインシャフトが、経済上、社会組織上の変動の圧力を被って、個々人にたいする勢力を失い、解体するか、政治ゲマインシャフトに服属するかし、他方、②それと同時に、保護を必要とする新たな利害関心、とくに経済的利害関心が、旧来のゲマインシャフトの範囲を越えて拡大を遂げ、これが、政治ゲマインシャフトの創造する、合理的に秩序づけられた保障によって初めて、十分に保護されるようになる、という経過をたどって、成立したのである。ところで、「あらゆる法規範の国家法化Verstaatlichung aller Rechtsnormen」とも呼ぶべきこの過程が、いかに進展したか、現に進展しつつあるかは、「別のところで論じられる」[他出参照指示Nr. 336][2]

 

§2. 政治的ゲゼルシャフト関係の発展諸階梯

実力行使をともなうゲマインシャフト行為それ自体は、もとより原生的: 家ゲマインシャフトから党派にいたる、あらゆるゲマインシャフト行為が、関与者の利益のために必要とあれば、いつでも実力に訴えた。政治的領域団体が、正当な実力を独占し、合理的なゲゼルシャフト形成により、アンシュタルトとしての秩序をそなえている今日の状態は、以下のような発展の産物。

未分化な経済のもとでは、あるゲマインシャフトが政治ゲマインシャフトとして特別の地位を占めることは稀。法制定 (立法)・身の安全と公的秩序の保護 (警察)・既得権の保護 (司法)・衛生・教育・社会政策・文化助成 (のような部門別行政活動)・なかんずく組織化された実力による対外的安全保障 (軍事行政) といった、今日の国家の公的諸機能が、①欠落しているか、②無定型の臨機的ゲマインシャフトamorphe Gelegenheitsgemeinschaftによって果たされるか、あるいは ③家ゲマインシャフト、近隣団体、マルク・ゲマインシャフト・ないしは自由な目的結社Zweckvereinなど、さまざまなゲマインシャフトによって分掌されるか、いずれかであった。しかも、警察機能でさえ、ときとして私的なゲゼルシャフト形成態 (たとえば西アフリカでは秘密結社) によって掌握されている。というわけで、政治ゲマインシャフト行為の一般概念には、内部的な平和の確保さえ、属性として含めることはできない。[3]

[小活字で組まれた[6]段は、「特別の政治団体やその機関さえ、まったく欠けている階梯」にかんする補説として、ここに [4] 段として、編入されよう。]

 

実力行使にたいする正当性諒解が成立するのは、①氏族が血讐義務を果たすばあいである。

それにたいして、②団体行為が純軍事的に外部に向けられるばあい、あるいは警察機能として内部に向けられるばあい、それにともなう実力行使に正当性が付与される度合いは、しばしばきわめて僅かである。その度合いが逆に最大となるのは、③ある領域団体が、伝統的な支配区域に外部から攻撃を仕掛けられ、団体関与者全員が、民兵として武器を執り、防衛に結集するばあいである。そうした防衛にあらかじめ備えておく必要から、一定の慣例が確立し、常時臨戦態勢をとる団体機関が結成され、ここから格別に正当spezifisch legitimとみなされる政治団体が成立することもある。しかしこれは、発展がかなり進んだ階梯である。

実力行使に規範にかなうという意味の正当性 Legitimität im Sinne von Normgemässtheitが付与されるかどうかは、当初には僅かな意義しかもたなかった。この事実が際立っているのは、④好戦的な強者が選りすぐられ、個々人間の兄弟盟約へのゲゼルシャフト形成がなされ、自己責任で掠奪行に赴く、というばあいである。これは、合理的国家が成立する以前の、経済発展の全階梯で、定住民のなかから外部に向けて攻撃的戦争が企てられるさいの定型的形式であった。そのさい、自由に選出される戦争指揮者は、通例、個人的な資質 (カリスマ) によって正当化された。ここに発生する支配の構造については、「別の箇所で論じた」[Nr. 337]。こうした掠奪行において、実力行使に正当性が与えられるのは、さしあたりそれが、裏切り・不服従・臆病によって兄弟盟約を破る仲間に [「内部的刑罰」として] 差し向けられるばあいのみである。

この階梯が乗り越えられるのは、そうした臨機的ゲゼルシャフト形成が「持続的形象Dauergebilde」になるときである。そうした形象は、職業として戦闘能力を練成し、戦争を遂行し、そうすることによって包括的な要求を貫徹できる「強制装置Zwangsapparat」にまで発展を遂げる。この要求は、征服した領域の居住者にも、戦士が出自した領域の仲間で武装能力をもたない者たちにも、等しく向けられる。そこでは、戦闘能力のある者のみが「政治的人民仲間 politische Volksgenossen」と認められ、非武装者や戦闘能力のない者はすべて「女Weib」と見なされる。そういう武装ゲマインシャフトの内部では、自由とは武装する権利と同義である。

多様な形態をとって全世界に分布している「メンナーハウスMännerhaus」は、そうした戦士たちのゲゼルシャフト形成である。これはちょうど、宗教の領域における職業的修行者のゲゼルシャフト形成 (僧院、修道院) に照応する。戦士たちは、修行期間と戦闘能力を証する試練を経て、「メンナーブント[盟約戦士団]」に加入する。試練に耐えられない者は、「女」として女子供のなかにとどまるが、戦闘能力を失った者も、そこに帰る。加入者は、妻や家ゲマインシャフトから隔離され、全生活をメンナーハウスで送り、一定の年期を終えると、領域ゲマインシャフトの日常生活に戻って、自分の家族と家計をもつ。メンナーハウスでは、戦利品と部外者 (とくに農耕に携わる女たち) からの徴発物資とにより、共産主義的な生活が営まれる。戦士自身は、戦争以外には、武器の製造と補修にのみ携わる。戦士たちの性生活がいかに規制されるかは、事情に応じてさまざまである。物資の徴発は、しばしば宗教色を帯びた威嚇行進 (「ドゥクドゥク」) の形をとる。この戦士ゲゼルシャフトは、徴発と掠奪に明け暮れ、徹頭徹尾此岸に志向していて、迷信に囚われやすいが、反面、民衆の敬虔にたいしては懐疑をいだき、ホメーロスの戦士ゲゼルシャフトがオリュンポスの神々を遇したのと同様、無遠慮に神々や精霊と交わる。[4]

 

そのように、領域ゲマインシャフトの日常秩序を越え出て、日常秩序に君臨していた戦士の自由なゲゼルシャフト形成態が、領域ゲマインシャフトにいわば再編入wieder eingemeindenされ、そのなかで秩序づけられた永続的団体となり、政治団体が創り出されるときに初めて、この政治団体が (それとともに、戦士の特権的地位もまた)、実力行使にかんする特別の正当性を取得する。この発展はどこでも、漸進的な経過をたどった。

発展の動因は、臨機的掠奪行や慢性的戦士団に加わる男たちの属している領域ゲマインシャフトが、自由な戦士ゲゼルシャフトをその統制下に置き、掠奪の被害者からの (掠奪行に関与しなかった者まで巻き添えにする) 報復を防止しようとするところにあった。領域ゲマインシャフトの勢力が、戦士ゲゼルシャフトに優越する条件は、①平和の永続による戦士ゲゼルシャフトの衰退か、それとも、②領域ゲマインシャフトのほうが、その秩序を自律的に制定するか、他律的に指令 (授与) されて、包括的な政治ゲゼルシャフトに発展を遂げること、にある。たとえば、スイスの政治的共同組織は、アルプス越えの隊商を襲う山賊団にたいして、また、すでに古ゲルマン時代の政治的領域ゲマインデは、私的な掠奪行にたいして、それぞれそうした統制をおよぼしている。

そのようにして成立した政治団体の強制装置が、十分に強力なばあい、それが持続的な形象になればなるほど、また、対外的連帯への利害関心が強まれば強まるほど、私的な実力行使は一般に禁圧される。13世紀のフランス王は、みずから対外戦争を指揮している期間、従臣間の私闘を禁止している。やがて、永続的な国内公安令dauernde Landfriedeが発せられ、あらゆる紛争が、強制執行をともなう裁判官の仲裁判決に、強制的に服させられる。裁判官は、血讐を、合理的に秩序づけられた刑罰に、私闘と贖罪行為を、合理的に秩序づけられた訴訟に、それぞれ変形する。往時には、はっきり重大犯罪と分かっている行動にたいしても、団体行為が発動されるのは、宗教的また軍事的利害関心に駆られる (放置しておくと、神の祟りや敵の報復が全員にふりかかる) ばあいだけであったが、いまや、人身や所有にたいする侵害が、ますます広い範囲にわたって訴追されるようになり、これが、政治団体の強制装置のもとに置かれる。こうして、政治ゲマインシャフトが、正当な実力行使を、その強制装置に独占し、徐々に「法による権利保護のアンシュタルト Rechtsschutzanstalt」に変形を遂げる。

この発展の有力かつ決定的な支持勢力は、①和平の拡大によって固有の (教権制的) 勢力手段を有効に作動させ、大衆支配を拡大-深化させようとする宗教的権力と、②市場ゲマインシャフトの拡大に、直接間接、経済的利害関心を寄せる市場利害関係者: ⓐ都市の市民層と、それ以外にも、ⓑ河川・道路・橋梁の通行税や、隷属民と臣民の担税力に利害関心を寄せるすべての者たち、であった。したがって、西洋中世において、政治権力が、勢力への利害関心から国内公安令を発布する以前にも、いちはやく教会と組んで私闘を制限し、域内治安同盟を締結して和平を実現しようとしたのは、貨幣経済の発展につれて拡大を遂げつつあった、そうした市場利害関係者であった。

市場は、その拡大につれ、「図式としてはわれわれに知られている様式にしたがい」Nr. 338]、独占団体を経済的に破砕し、団体構成員を転じて市場利害関係者とする。そうすることにより、市場は、団体構成員から利害ゲマインシャフトという基盤、すなわち、独占団体の正当的実力行使もそのうえに初めて展開されえたところの基盤を、奪い取ってしまう。こうして、平和の増大と市場の拡大とに並行して、①正当な実力行使の政治団体による独占と、②その適用にたいする規制-規則の合理化が進展する。①の帰結は、国家が物理的実力行使いっさいの正当性を支える源泉Quelleであるとする近代的な国家概念であり、②の帰結が、正当な法秩序の概念である [この結びの一文が、一方では、当の「法秩序」、しかも (正当な実力行使の国家独占に支えられた)「国家法秩序」の歴史的形成とその諸条件 (経済にとって直接重要な「私法」と「民事訴訟」の領域に力点を置いて) 究明するⅡ-6.「法」章への「架橋句」をなす。他方、それは、旧「政治ゲマインシャフト」章 [20] 冒頭の「(「国家法」秩序にかぎらず) いかなる法秩序も、その形成をとおして、当該ゲマインシャフト内部の、経済的その他あらゆる勢力配分に反作用をおよぼす」に継受され、[21] 段冒頭の「ゲマインシャフト内部における勢力配分の現象として、『階級』『身分』および『党派』を挙げることができる」に始まるⅡ-7.「階級、身分、党派」章に連なる][5]

 

[ここで、ようやくⅡ-6.「法」章にたどり着きました。同章の段別要旨は、本ホーム・ページの別稿「シンポジウムに向けて(5)」に掲載されています。なお、Ⅱ-7.「階級、身分、党派」章中の「階級」概念には、別稿「シンポジウム(1)1.(3) で論及しています。94日記]