ヴェーバー法理論・比較法文化研究会の第一回公開シンポジウム (919日、於一橋大学・佐野書院) に向けて (2) (2010731日)

 

来る919日、一橋大学の佐野書院ホールで、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」の第一回公開シンポジウムが開かれます。折原は、コーディネーターの水林彪氏から、下記のような表題の報告を依頼され、過大なテーマとは承知しながら、この機会に『「経済と社会」旧稿の再構成――全体像』の執筆準備も兼ね、あえて挑戦してみようと思い立ちました。つきましては、2006年の京都シンポジウムのばあいと同様、準備稿をこのホーム・ぺージに連載し、みずから報告内容をまとめ、当日の制限時間内への圧縮をはかるとともに、研究会員はじめ、参加をご予定の各位に、お暇の折りご一読いただき、討論への素材ともしていただければ幸いと考える次第です201074日記)

 

 

『経済と社会』(旧稿)全体の構成と「法社会学」章の位置

目次

はじめに                                                 前稿 

1.「旧稿」の誤編纂とその後遺症――基礎カテゴリーの看過-逸失                          前稿

2. ゲゼルシャフト形成としての「社会」の合理化と、ゲマインシャフトの「重層性」 本稿

3.「旧稿」編纂論争史の到達点と現状                                                       次稿                         

4.「旧稿」全体の再構成 (テクスト再編纂と内容再構成との同時並行)

5.「法社会学」章の内部構成

6. 結論――「旧稿」全体の構成と「法社会学」章の位置

 

 

(承前)

2. ゲゼルシャフト形成としての「社会」の合理化と、ゲマインシャフトの「重層性」

ヴェーバーは、19146、叢書『社会経済学綱要』の刊行開始にあたり、初 (第一回配本) の冒頭に、「編集主幹」名で「序言」を寄せました。そこには、叢書の編集とかれ自身の分担寄稿を貫く基本的な視点が提示されています。すなわち、「技術」や「社会的秩序」といった諸領域の、「経済」にたいする「自律性Autonomie」を認めたうえで、「経済の展開を、生活の全般的合理化の、特別の部分現象eine besondere Teilerscheinung der allgemeinen Rationalisierung des Lebens として把握する」(GdS,: ) という視点です。これをいま、他の著作からの補完も交えて多少敷衍しますと、経済、社会、法、政治、宗教、芸術、性愛その他、人間協働生活の諸領域(人間行為の分節化領域)は、それぞれ相対的な「固有法則性Eigengesetzlichkeit」をそなえ、それぞれに固有の「合理化」に向かう動性を帯びています。言い換えれば、各生活領域の「合理化」は、それぞれの「固有価値Eigenwert(単数とはかぎらない「諸価値」のいずれか) に即して、当の固有価値を「理ratio」に適うように認識し (「脱呪術化」「主知化」「理論的合理主義」)、実践的にも同じく「理」に適うように首尾一貫して実現しようとする運動 (「実践的合理主義」)――「生活全般の『合理化Rationalisierung』の (諸領域それぞれに固有の) 部分現象」――として発現します。

ヴェーバーは、こうした包括的視点に立って、当の叢書へのかれ自身の分担寄稿「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」の課題を、「かの合理化ゲゼルシャフト形成過程 Rationalisierungs- und Vergesellschaftungsprozessが、すべてのゲマインシャフト行為を捉えて拡大-深化するありさまを、あらゆる領域について、全発展のもっとも本質的な駆動力として追跡する」というふうに、明快に定式化しました。ちなみに、この引用句は、文言だけからしても、「旧稿」全体包括的問題設定を端的に表明しているにちがいなく、冒頭の「概念的導入」篇中にあって当然と思われます。じっさい、この文言は、ヴェーバー自身の「1914年構成表」によれば、「概念的導入」篇中、「カテゴリー論文」(第二部=Ⅳ~Ⅶ章) につづくべき「経済と秩序」章に出ています[1]

そして、「経済と秩序」章に前置されるべき「カテゴリー論文」(第二部) には、末尾に近く (38)、前者の包括的問題設定を導いている包括的認識が、つぎのように表明されていました。「(歴史) 発展の道は、なるほど個別的には、これまで見てきたように、具体的で合理的な目的団体的秩序から、その『(具体的目的の) 範囲を超える』諒解行為の創成へと繰り返し導かれている。しかし、全体としては、われわれが見通しうる歴史発展の経過において、たしかに諒解行為のゲゼルシャフト関係による『置き換え』を一義的に認めることはできないとしても、諒解行為が秩序制定によってますます包括的かつ目的合理的に秩序づけられることや、またとくに、団体が合理的に秩序づけられたアンシュタルトへとますます変化することが、確認できる」[2] (WL: 470-71, 海老原・中野訳: 120)と。

 

さて、「序言」に明示され、分担寄稿に継受された、この包括的問題設定の枠組みのなかに置いてみますと、基礎カテゴリー①~④は、諸領域それぞれに固有の「合理化」のうち、(総称的に『経済と社会』というばあいの)社会(ゲマインシャフト行為の構造形式) 合理化」について、その運動を追跡するため、その階梯を画する「理念型」尺度として構成されている、と解せます。というのも、経験的現実の流動的で複雑な合理化の運動が、単純な「段階論」的ないし「進化論」的図式には集約しきれないとすると、①~④のように明晰に定式化された「理念型」を尺度として、経験的現実のどの部位がどこまで①~④のいずれに接近ないし重複しているか、を測定し、位置づけるほかはないからです。そうした尺度をもたずに、いきなり研究に着手すれば、「舵なしに大海に漕ぎ出す」ような羽目に陥るでしょう。それにひきかえ、そうした道標を携えて研究に臨めば、「社会」の「合理化」が、他領域それぞれの「合理化」と、どのように相互に制約し合いながら、どこまで進展し、どのような随伴結果(「副作用」「副産物」) をもたらしているか、を探り出し、そうした合理化の相互制約 (緊張) 関係の現状を、まさに現下の問題としてトータルに問うことができましょう。

 

では、「社会」の「合理化」が、①から④への単純な「段階論」的ないし「進化論」的図式には集約しきれないとは、どういうことでしょうか。この点を、ここであらかじめ一般的に要約し、定式化しておくとしますと、こうもいえるでしょうか。

まず、ゲマインシャフト関係の「合理化」としてのゲゼルシャフト形成は、もとより、ある日突然、社会的真空のなかに出現し、純粋なゲゼルシャフト関係として、それだけで自存する、というものではありえません。ⓐ「原生的urwüchsig (自然必然的)」な素地の上に立つ旧来のゲマインシャフト関係とくに諒解関係を、(廃絶するのではなく、むしろ) そのなかに取り込み再編成して、ゲゼルシャフト関係の存立自体を支える基礎として温存していくでしょう。

たとえば、原生的な「家ゲマインシャフト」で原生的に育成される「(権威-) 恭順Pietät」関係は、一方では、祖先にたいする恭順として宗教的諸関係 (「祭祀ゲマインシャフト」) に、また他方では、「首長」にたいする官吏・従士・封臣の恭順として、家産制・従士制・封建制にそれぞれ持ち越され、それぞれを支える基礎として命脈を保つでしょう。構成員に「血の復讐義務Blutrachenpflicht」を課して「私闘Fehde」を闘う「氏族Sippe」で培われる「忠誠Treue」も、そうした支配関係に(氏族が歴史的に解体されない度合いに応じて)持ち越され、再編成され、それぞれを支える基礎とされましょう。

また、原生的な「近隣ゲマインシャフト」では、共通の危険 (「今日の汝の苦境は、明日の我が身」) に直面して、醒めた「互恵倫理Reziprozitätsethik(「汝が我にするように、我も汝にしよう」) に則る「懇請に応える (消費財の) 無償貸与Bittleihe」と「懇請に応える無償労働 Bittarbeit」との相互提供、すなわち「兄弟的救難 brüderliche Nothilfe」が、原生的に発生します。これが、一方では、近隣ゲマインシャフト内部における経済的分化にともない、大土地所有者への無償労働 (とりわけ収穫援助) と、外部からの脅威にたいする利害代表、余剰地の無償貸与、飢饉時の緊急援助その他の慈善的給付とに、再編成され、こうした要請に応えて近辺で「声望」を博する経済的実力者が、「仲間のなかの第一人者primus inter pares」として「名望家Honoratiore」にのし上がるでしょう。さらに、この「名望家」が、対外的防衛のため当初には臨機的に (ゲゼルシャフト形成によって) 編成する軍事力を、やがて「強制装置」として対内的にも差し向け、(当初には自発的ないしは慣習律にしたがって提供されていた)無償労働を「法」的義務に転化するとき、「賦役経済Fronwirtschaft」が成立します。名望家が、そのように「武侯Kriegsfürst」を兼ねて「首長Herr」に収まり、「賦役義務」を負う隣人に「家支配」をおよぼすとき、隣人間の「仲間」関係は、「家産制」的「支配」関係に再編されます。

しかし、他方では、原生的な「互恵倫理」が、宗教上のゲゼルシャフト形成としての「教団Gemeinde(後述)取り込まれ、「誓約兄弟関係Verbrüderung」として (信仰上の「兄弟」としての「教団」員間に) 拡張再編成され、「同胞愛Brüderlichkeit」に普遍化・抽象化され(稀には「無差別akosmistische Liebe」にまで深化され)、やがて (条件次第では、たとえば西洋中世)「都市ゲマインデStadtgemeinde」の結集力-凝集力を支えることもありえましょう。ところが、さらに、ゲゼルシャフト形成が、ますます既存のゲマインシャフト関係を侵蝕し、大勢として覆い尽くすとき、「宗教ゲマインデ」も、(古くからその「同胞倫理」を培ってきた) 近隣ゲマインシャフトの原生的基盤から遊離して、いわば「宙に踏み迷い」、ときには優勢なゲゼルシャフト関係に適応して「同胞倫理」に転化し、既存の「諒解関係」の崩壊に拍車をかける、といった「倒錯」も生じてくるにちがいありません。

ここに例示された視点、すなわち「ゲゼルシャフト形成が、既存のゲマインシャフトを取り込んで、再編成し、温存する結果、常態として『ゲマインシャフトの重層性ないし重層構造』が生ずる」という視点ⓐは、松井克浩によって取り出され、明晰に定式化されました[3]。この視点は、まず間違いなく「旧稿」全体の基礎視点のひとつをなしているばかりか、上記の数例にも見られるとおり、たいへん含蓄に富んでいます。

 

他方、ゲゼルシャフト形成は、(既存のゲマインシャフト関係を取り込み、再編成するばかりではなく)、ⓑそれ自体が、新たなゲマインシャフト関係とくに諒解関係を「創成stiftenし、派生させます。たとえば、宗教上の「ゼクテSekte」や社交上の「クラブKlub」、はてはボーリング・クラブにいたるまで、特定の目的を追求するため、「協定」を結んで秩序を制定する「目的結社Zweckverein(「自発的結社voluntary association) は、ゲゼルシャフト形成のもっとも合理的な類型ですが、構成員の補充にあたっては通例[4]、相応の資格審査をおこない、しかもその審査項目は、公式の結社目的の達成に必要な能力や資格の「範囲を超えてübergreifend」、候補者の日頃の「行状」や「人柄」にもおよぶでしょう。したがって、そうした審査をパスして加入を認められた構成員は、まさにそれゆえ、「行状」や「人柄」も認証された「ひとかどの人物」として「正当化legitimieren」されます。それによって、対外的に「信用」をえ、取引関係その他を創出-拡大することができ、対内的にも、構成員の仲間同士で、いろいろと非公式の「コネ」を培うことができましょう。

そうした対外的また対内的な「人間関係」は、結社目的に沿って協定された合理的制定秩序の「範囲を超えて」おり、そのかぎりゲゼルシャフト関係の埒外にありますが、おおかたの期待を相互に「妥当」と認めて裏切らない「諒解関係」の水準にあるでしょう。しかも、この「諒解関係」が、たとえば信用-取引関係の創出-拡大といった経済的利益をともなうために、やがては、公式の結社目的には徹頭徹尾無関心でいながら、そうした経済的利益を当て込み、もっぱらそのために当の目的結社に加入しようとする申請者も輩出してくるにちがいありません。その結果、目的結社のゲゼルシャフト関係と、そこから派生する「諒解関係」との流動的相互移行関係 (からなる、ゲマインシャフト関係) 総体のなかで、重点がむしろ後者に移動し、ばあいによっては、当初の目的のほうは蔑ろにされ、顧みられなる (という「本末転倒」にもいたりつく) でしょう。そうなると、オーソドクスな構成員はいきおい、目的結社として本来の質的水準を維持するためにも、それにともなう社会的威信と経済的利益を既得権として独占するためにも、資格審査を厳重にして、結社を「閉鎖」する方向に駆られるにちがいありません。

ヴェーバーは、北アメリカ旅行の途次、洗礼派 (「再洗礼派」) 系「ゼクテ」とその世俗化形態としての「クラブ」の実態を観察し、そうした社会的・経済的派生機能にかんする洞察を獲得しました。いまや、この洞察を一般化して、「旧稿」「概念的導入」篇中の「経済とゲマインシャフトとの原理的関係」章で、「ゲゼルシャフト形成は、その第一次目的の『範囲を超える』ゲマインシャフト関係を『創成する』」というこの一般経験則に定式化したわけです。

 

としますと、この一般経験則は、やはり「カテゴリー論文」(29) で、つぎのような文言をもって定立されています。「それ [諒解行為からゲゼルシャフト行為への移行] とは逆に、ほとんどあらゆるゲゼルシャフト関係から、その合理的な目的の範囲を超える (「ゲゼルシャフト関係に制約された」) 諒解行為が、ゲゼルシャフト関係にある人びとの間にしばしば発生する。いかなるボーリング・クラブも、メンバー相互の行動に「慣習律的な」帰結をもたらす、つまり、ゲゼルシャフト関係の枠外にあって「諒解」に準拠してなされるゲマインシャフト行為を創成する」(WL: 462, 海老原・中野訳: 97)そして、この洞察が、同じく「カテゴリー論文」の38 段で、上記引用の「合理化」史観に援用され、「旧稿」「経済とゲマインシャフトとの原理的関係」章中 (11) の上掲箇所には、「すでに前段で一般的に確定しておいたとおり」(WuG: 205) との前出参照指示 (被指示箇所は、明らかに上記「カテゴリー論文」29) のもとに導入されます。さらに「旧稿」の後段では、やはり前出参照指示をともなって、「種族的共通性信仰」の「人為的künstlich創成」という特例に、つぎのとおり適用されます。

 

ヴェーバーは「種族」を、①外面的容姿と②習俗のいずれか、または両方の類似、③植民や移住の記憶にもとづいて、「血統の共有」を主観的に信じ、なおかつ「氏族」はなさない「人間群Menschengruppe」と定義します。客観的な血統共有すなわち「人種共属性Rassenzusammengehörigkeit」は、外面的容姿の一規定因として、「種族的共通ethnische Gemeinsamkeit」にかんする主観的信仰を生み出す一契機に相対化されます。他方、「種族」的共通性は、それ自体としてはなお、主観的に信じられた共通性にすぎないという点で、「氏族ゲマインシャフト」から区別されます。というのも、氏族の構成員は、互いに性交を避ける (まさに意味上「思いとどまる」) ことによって、本質上、現実にゲマインシャフト行為を交わし合っているからです。それにたいして「(ここで考えられている意味のim hier gemeinten Sinn) 種族的共通性は、それ自体としてはゲマインシャフトではなく、ゲマインシャフト形成を容易にする一契機 ein die Vergemeinschaftung erleichtendes Moment(WuG: 237) にすぎません。その点、階級状況を共有する「人間群Gruppe」としての階級が、それ自体としては「ゲマインシャフト」をなさず、ただ「階級行為」という「ゲマインシャフト行為」を容易にする基礎をなしているにすぎない、というのと同様です。

しかし、種族的共通性の信仰はもとより、ありとあらゆるゲマインシャフト形成 (それも、経験上、とりわけ政治ゲマインシャフト形成) の構成契機をなします。他方、政治ゲマインシャフト[5]のほうも、「種族的共通性」信仰を喚起し、これはこれでしばしば、当の政治ゲマインシャフトの崩壊後も生き残ります。

ヴェーバーは、種族的共通性信仰のそうした「人為的künstlich」創成について、こう語ります。すなわち、「そうした創成は、合理的ゲゼルシャフト形成が、即人的なゲマインシャフト関係に置き替えて解釈されるというわれわれによく知られている図式das uns bekannte Schemaに、完全に照応している。合理的に物象化されたゲゼルシャフト行為がほとんど普及していない条件のもとでは、合理的に創り出されるゲゼルシャフト形成も含め、ほとんどすべてのゲゼルシャフト関係が、『種族的』共通性信仰にもとづく即人的な兄弟盟約Verbrüderungという形で、(ゲゼルシャフト形成の合理的目的の) 範囲を超えるübergreifendゲマインシャフト意識を招き寄せるattrahieren [誘い出す、醸成する] のである」(WuG: 237) と。たとえば、古イスラエルの「12部族」は、王制、すなわち、王にたいする「ライトゥルギー (実物貢納-給付義務)」を各行政単位に割り当てる「人為的」・合理的ゲゼルシャフト形成に由来しますが、そうした「合理的に物象化されたゲゼルシャフト行為」が普及せず、人びとの思考習慣にもそぐわない往時においては、「王の食卓に月ごとに食事を供する12部族」として、「種族的共通性信仰にもとづく兄弟盟約」の表象が創成され、そのもとに初めて馴染まれ、定着し、伝承された、というわけです。したがって、これによって例示される「よく知られている図式」とは、「ゲゼルシャフト形成は通例、その合理的目的の範囲を超える、包括的なゲマインシャフト関係を創成する」という一般経験則を指し、参照指示のネットワークをとおして「旧稿」の「概念的導入」篇から「カテゴリー論文」第29段末尾にまで遡る基礎カテゴリーの、ヴェーバーに固有の動態的適用範例をなしている、と見ることができましょう。

そのように、「社会」領域の「合理化」としてのゲゼルシャフト形成はつねに、一方ではⓐ「取り込まれ、再編成される」旧来の諒解関係と、他方ではⓑ新たに「創成される」諒解関係との双方から制約される「重層性」を帯び、そうした「重層構造」として分析されましょう。なるほど、ⓐとⓑの諒解関係は、しばしば融合を遂げて現れるかもしれません。しかし、そのばあいには、そうした融合という「重層構造」を発生的に捉えるためにも、概念上ⓐとⓑを鋭く区別し、①~④の基礎カテゴリーを携えて分析に着手しなければならないでしょう。

 

しかもそのうえ、ⓒ「合理化」自体が、ある方向にいつまでも定向進化を遂げていくといった、単線的な無限昂進性をそなえているわけではなく、あるところで「限界」に達し、そこで (既定の方向性からすれば)「非合理な」領域への「逃避」「逸脱」が誘発され、やがてこんどは、その「非合理な」領域の「固有価値」を起点とし目標ともする新たな「合理化」が始動し、新旧両「合理化」がせめぎ合い拮抗する過渡期を経て、ばあいによっては新たな「合理化」軌道に「取って代わられる」、あるいは、それまでの (部分現象としての) 「合理化」を「止揚」する新たな「総合」の地平が開かれる、といった、多元的有限昂進関係からなる多元的可能性――少なくとも、そのように捉え返せる端緒――が、ヴェーバーにおいても想定されていたように思われます。

[この論点については、731日現在、未稿、後日補完]

 

さて、ここまでわたくしたちは、一語Vergesellschaftungの訳語の動揺を確認するところから出発して、「旧稿」そのものの基礎カテゴリーが («基礎概念» のそれとの混同によって) 見失われ、したがって当然、その基礎カテゴリーにもとづく「旧稿」全体の読解も再構成もなされていない現状を、『経済と社会』誤編纂の後遺症として、捉え返してきました。しかし、それと同時に、そうすることをとおして、忘れられていた当の基礎カテゴリー①~④と、(これを用いて「社会」の合理化を即ゲゼルシャフト形成として捉えようとする)「旧稿」全体の包括的問題設定と、(「発展段階論」でも「進化論」でもない)「合理化論」という動態把握の視点とを、蘇生させ、復元し、「旧稿」の再構成にそなえることができました。用語法に拘る著者マックス・ヴェーバーが、「経済」と「社会」の「合理化」を、「生活全般の合理化の部分現象」として、双方の相互制約関係において捉えようとし、後者にかかわる最重要な指標として、ほかならぬVergesellschaftungのカテゴリーを設定していたのですから、その訳語が動揺していて、概念が曖昧のままでは、「旧稿」全体の構成を原著者の構想に即して的確に見通すことはできません。そのかぎり、以上の否定的-批判的総括も、無用で瑣末な詮索ではなく、「旧稿」全体の積極的再構成に踏み出すためには避けて通れない関門であった、といえましょう。

(2010年,731日記、下記につづく)

 

3.「旧稿」編纂論争史の到達点と現状                                次稿   

4.「旧稿」全体の再構成 (テクスト再編纂と内容再構成との同時並行)

5.「法社会学」章の内部構成

6. 結論――「旧稿」全体の構成と「法社会学」章の位置

 



[1] ところが、『全集』版では、この章が第三分巻『法』に繰り下げられ、「法社会学」章のみへの「概念的導入部」であるかのように取り扱われ、その位置価が看過されています。『全集』版編纂陣は、「旧稿」の基礎カテゴリーとこれにもとづく全体の構成という「先決問題」の議論を避け、とりわけ (1914年構成表」の信憑性も妥当性も否認して、ちょうどそれだけ恣意に走った) ヴォルフガンク・モムゼンは、この「経済と秩序」章を「概念的導入」篇 (「トルソの頭」) から「斬り落とし」、「頭のない五死屍片」の第三分巻「法」に繰り下げました。その結果、分巻編纂者ヴェルナー・ゲッファートは、この「経済と秩序」章を「法社会学」章のみへの「概念的導入」節として取り扱うことを余儀なくされたのでしょう。現在唯一未刊の第三分巻が、この問題にどう決着をつけて日の目を見るか、注視しましょう。

 

[2] ここには「団体Verband」と「アンシュタルトAnstalt」の概念が出てきますが、両者とも、「諒解行為」「ゲゼルシャフト行為」概念の系です。後者は、制定秩序と強制装置をそなえたゲゼルシャフト形象で、構成員の補充が、当人の意思表示なしに、特定の客観的標識 (たとえば出生地、両親の国籍ないし宗派所属) にしたがってなされ、構成員が「そのなかに生み込まれhineingeboren」「そのなかで育て上げられるhineinerzogen」ような社会形象で、(政治の領域では)「国家」、(宗教の領域では、術語的な意味における)「教会Kirche」によって代表されます。それにたいして、「団体」とは、制定秩序と強制装置を欠く「諒解ゲマインシャフト」にとどまる点で、両者をそなえたアンシュタルトからも、同じく両者をそなえながら、構成員の補充が本人の意思表示と (多くのばあい) 資格審査によってなされる「目的結社 Zweckverein」からも、区別されます。なお、「カテゴリー論文」のこの概念規定は、 «基礎概念» では、(「諒解行為」概念の脱落にともない)「団体」を「経営Betrieb」「結社Verein」「アンシュタルト」の上位概念とする新規定に改訂されます。

[3] 松井克浩『ヴェーバー社会理論のダイナミクス――「諒解」概念による『経済と社会』の再検討』(2007、未来社)、参照。

[4] 物象化されて即人的資格は問わない、純経済的ないし純政治的結社は例外として。

[5]「政治ゲマインシャフト」とは、とりあえず、①ある「領域Gebiet (陸-海域)」とその在住者を、②物理的強制力の用意・威嚇・発動により、③秩序ある支配のもとにおく「ゲマインシャフト行為」(=「政治ゲマインシャフト行為」) によって創成されるゲマインシャフト、と定義されましょう。