ヴェーバー法理論・比較法文化研究会の第一回公開シンポジウム (919日、於一橋大学・佐野書院) に向けて (1) (2010721日)

 

来る9月19日、一橋大学の佐野書院ホールで、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」の第一回公開シンポジウムが開かれます。折原は、コーディネーターの水林彪氏から、下記のような表題の報告を依頼され、過大なテーマとは承知しながら、この機会に『「経済と社会」旧稿の再構成――全体像』の執筆準備も兼ね、あえて挑戦してみようと思い立ちました。つきましては、2006年の京都シンポジウムのばあいと同様、準備稿をこのホーム・ぺージに連載し、みずから報告内容をまとめ、当日の制限時間内への圧縮をはかるとともに、研究会員はじめ、参加をご予定の各位に、お暇の折りご一読いただき、討論への素材ともしていただければ幸いと考える次第です(201074日記)。

 

 

『経済と社会』(旧稿)全体の構成と「法社会学」章の位置

目次

はじめに                                   本稿

.「旧稿」の誤編纂とその後遺症――基礎カテゴリーの看過・逸失        本稿

2.ゲゼルシャフト形成としての「社会」の合理化と、ゲマインシャフトの「重層性」  次稿 

. 「旧稿」編纂論争史の到達点と現状

4.「旧稿」全体の再構成 (テクスト再編纂と内容再構成との同時並行)

5.「法社会学」章の内部構成

6.結論――「旧稿」全体の構成と「法社会学」章の位置

 

 

『経済と社会』(旧稿)全体の構成と「法社会学」章の位置

折原浩

 

はじめに

本日わたくしに与えられたテーマは、ご案内のとおり「『経済と社会』(旧稿)全体の構成と『法社会学』章の位置」です。

ところが、このテーマに取り組もうとしますと、ただちに、ある特別の困難に直面します。というのも、マックス・ヴェーバーが「旧稿」すなわち「191014年草稿」の執筆に着手してから、今年でちょうど100年にもなるのですが、その「全体の構成」については、まだ定説がないばかりか、定本もなく、その見通しさえ立っていないのが実情です。したがって、わたくしの報告も、「『旧稿』全体の構成」を、なにか既知の前提として「『法社会学』章の位置」だけを論ずれば足りる、というわけにはいきません。まず、前半の「『旧稿』全体の構成」について、管見を試論として提出し、そのうえで「『法社会学』章の位置」を、(この研究会には「法社会学」章のエクスパートともいうべき方々が多数ご参加ですから)ご一緒に考えていきたいと思います。

 

「旧稿」の誤編纂とその後遺症――基礎カテゴリーの看過-逸失

まず、「『旧稿』全体の構成」に、確実に取り組むために――とりわけ、テクストの取り扱いで「足を掬われ」ないように――、ヴェーバー研究がなぜ、そうした実情に低迷しているのか、ここで最小限の批判的総括を試みなければなりません。

もとより、「旧稿」そのものが、桁外れに浩瀚で、経済、社会、法、政治、宗教、芸術、性愛、その他、人間協働生活の広汎な諸領域(人間行為の分節化領域)に跨がり、(類-類型概念や一般経験則の例示・認識手段として)収録されている歴史的事象も古今東西にわたっていて、通読が容易でない、という事情はあります。部分部分の読解と応用は、なんとかなっても、全体を通読し、体系的な解釈を施し、全体が孕んでいる「潜勢Potenz」も活かせるような応用-展開に乗り出すとなると、至難というほかはありません。

しかし、それ以上に、つぎの事情が「躓きの石」でした。すなわち、『経済と社会』は、ふつうの書籍とは異なり、原著者マックス・ヴェーバーが、みずから仕上げて公刊した著作ではありません。遺稿として残されたふたつの未定稿を、妻のマリアンネ・ヴェーバーと(後には)ヨハンネス・ヴィンケルマンが編纂して世に出した作品です。そのうちの一方が「旧稿」で、(原著者が1908年頃、編集と分担執筆を引き受けた)叢書『社会経済学綱要Grundriss der Sozialökonomik』への寄稿[1]として、第一次世界大戦前の191014年に書き下ろされました。ただし、最後尾の二章に予定された「近代国家の発展」「近代政党」の執筆と全体の仕上げは、大戦勃発のために放棄されました[2]。他方が「新稿」で、こちらは、第一次世界大戦後の191820年、原著者が「旧稿」を抜本的に改訂し、第四章の途中までは脱稿して印刷に付し、初校は済ませながら、予定していた続篇は急逝のために執筆されず、構想もプランも遺されていませんでした。

このふたつの未定稿にたいして、編纂者は、(第一分冊として印刷-刊行の準備が進んでいた)「新稿」をそのまま「第一部」とし、浩瀚な「旧稿」は「第二、三部」(マリアンネ・ヴェーバー編)ないし「第二部」(ヨハンネス・ヴィンケルマン編)として「第一部」の後に繋げ――つまり、原著者の執筆順とは逆に配置し――、「旧稿」については、 編纂者が、章や節を区分し、それらの標題も選定しました。ひとつの企画ではあっても、第一次世界大戦を挟んで執筆期が異なり、その間の抜本的改訂によって基礎カテゴリーも用語法も全体の構成も変更された新旧二稿を、編纂者が「二(ないし三)構成のein Buch in zwei od. drei Teilen」にしつらえ、「原著者の主著」と銘打って世に送り出していたわけです。

 

そうしますと、そういう「二(ないし三)部構成の一書」『経済と社会』の読者は、どうしても、「第一部」(改訂後の稿」) の冒頭にある第一章「社会学的基礎諸概念」(以下 «基礎概念» ) の基礎カテゴリーを、「第二 () 部」(改訂前の稿」)に持ち込んで[3]、「第二 () 部」の具体的叙述を読むように誘導されるでしょう。改訂前と改訂後とで基礎カテゴリーに違いがあると判明した後から振り返ると、なんとも不可解で、傍目には信じがたい過誤と映るにちがいありませんが、そういう「合わない頭をつけたトルソ (首と四肢のない塑像)」ともいうべき誤編纂本が、初版(1922)から第五版(1972)にいたるまで、「マックス・ヴェーバーの主著」として出回り、約半世紀間[4](邦訳者を含む)読者を誤導し、混乱に陥れてきたのです。

それでは、現在刊行中の『マックス・ヴェーバー全集』版はどうか、といいますと、編纂陣は、「羹に懲りて膾を吹く」かのように、「旧稿」全体の再構成は棚上げ[5]、「概念的導入」篇ぬきの、題材ごとの五分巻 (Ⅰ/22-1「もろもろのゲマインシャフト」、2「宗教ゲマインシャフト」、3「法」、4「支配」、5「都市」)――つまりは「頭のない五死屍片」――に解体して、逐次刊行しています (2010年7月現在、 第三分巻のみ未刊)。こういう現状ですから、わたくしたちが「旧稿」全体の再構成を企てようとしますと、どうしても『全集』版編纂の批判から始めざるをえないのです。

 

さて、そうした誤編纂によって現にもたらされている混乱のうち、もっとも重大と思われる一例を具体的に確認し、その是正から、本日のテーマに入っていきたいと思います。

「旧稿」全体の体系構成を支える基礎カテゴリーのひとつとして、まずVergesellschaftung[6] が注目されます。

ところが、世良晃志郎訳『法社会学』『支配の社会学』、武藤一雄他訳『宗教社会学』のような粒々辛苦の名訳でも、このVergesellschaftungには、「利益社会関係」[7](随所)から、「団結」(世良訳、支配: 346「組織」「組織化」(武藤他訳: 84, 85)「組織体形成」(武藤他訳: 86, 88-89) 「組織社会化」(世良訳、支配: 347) などを経て、なんと「共同体関係」(武藤他訳: 22, 23, 28, 30) にいたる、区々の訳語が当てられ、ただそのつどルビがふられています。

この事実は、訳者もやはり誤編纂に誘導され[8]、「新稿」«基礎概念» «Vergesellschaftung»[9] を「旧稿」に持ち込み、「旧稿」中の (語形は同じでも概念規定は異なる) Vergesellschaftungに押しかぶせ、双方の齟齬に困惑を感じながら、コンテクストに即した適訳を求めて悪戦苦闘した痕跡と解せましょう。訳例ごとのルビも、訳者自身が疑念を払拭しきれず、訳語の統一が難しい実情を読者にも伝えようとした「苦肉の策」、というよりもむしろ「(誤編纂本を底本とせざるをえなかった邦訳者としての) 良心性の証左」ではなかったでしょうか。

 

というのも、「旧稿には、「第一部」第一章 «基礎概念» (全稿の抜本的改訂とともに改めて導入され、規定された) «Vergesellschaftung» ではなく(「旧稿」執筆中の1913年に別途『ロゴス』誌に発表され、後に『科学論集』に収録された論文)「理解社会学のいくつかのカテゴリーについてÜber einige Kategorien der verstehenden Soziologie(以下「カテゴリー論文」) で定立されていたVergesellschaftungが、これとワン・セットをなすVergemeinschaftung(「ゲマインシャフト関係」= «社会関係 (一般)»など、抜本的改訂前の同時期の基礎カテゴリーとともに、 (管見では[10]) ほぼ一貫して適用されています。そして、この基礎カテゴリーの概念規定が(用語は同一のばあいにも)«基礎概念» の概念規定とは、以下のとおり異なっているのです。

 

「カテゴリー論文」では、まず「行為者が主観的に抱いている(経験的)『意味』において、他人の行動に関連づけられている行為一般」が「ゲマインシャフト行為Gemeinschaftshandeln」と定義されます。そのうえで、(ゲマインシャフト行為はゲマインシャフト行為でも)(行為者が主観的に抱いている『意味』に即して) 目的合理的に『秩序Ordnung (行為準則のシステム) を制定satzenし』(あるいは、目的合理的に『制定された秩序』がすでにあり)、そうした『制定秩序(制定律)』に目的合理的に準拠する、そのかぎりにおけるゲマインシャフト行為」が、「ゲゼルシャフト行為Gesellschaftshandeln」と規定されます。ですから、この「カテゴリー論文」では、ゲゼルシャフトはゲマインシャフトの概念ではなく下位概念です。ゲゼルシャフト行為は、ゲマインシャフト行為のうち、制定秩序に準拠する特例として、必ずゲマインシャフト行為ですが、ゲマインシャフト行為は、必ずしもゲゼルシャフト行為ではありません。したがって、Vergesellschaftung (ゲゼルシャフト関係、すなわち、制定秩序に準拠し合う複数行為者のゲマインシャフト行為関係の特例、ないしはそうした特例をなす関係の形成) も、Vergemeinschaftung (ゲマインシャフト関係、すなわち、制定秩序があろうがなかろうが、複数行為者のゲマインシャフト行為関係一般、ないしそうした関係一般の形成) 概念ではなく、下位概念です。ゲゼルシャフト関係は、制定秩序を媒介とする、ゲマインシャフト関係の特例として、必ずゲマインシャフト関係ですが、ゲゼルシャフト関係は、必ずしもゲマインシャフト関係ではありません。

ちなみに、「法秩序Rechtsordnung」とは、「制定秩序」のうち、その「経験的妥当empirische Geltung」が「強制装置Zwangsapparat[11]によって「保障garantieren」された特例と解されます。

 

ところが、«基礎概念» では、ゲマインシャフト行為が «社会的行為 soziales Handeln» に置き換えられ (それにともない、「ゲマインシャフト行為」と「ゲゼルシャフト行為」という術語は双方とも脱落して)、新たに «社会関係soziale Beziehung» という概念が導入されます。そしてこの «社会関係» について、 «Vergemeinschaftung» «Vergesellschaftung» とが、こんどは対概念として区別されます[12]«社会関係» とは、「多数の関与者個人が、それぞれ主観的に抱いている経験的意味内容に即して、互いに定位einstellenし合う――他人の出方を予想し、その予想に準拠してみずからの行為を調整していく――ばあい、そうした相互的定位にもとづく多数者の «社会的行為» 関係」[13]の謂です。«Vergemeinschaftung» とは、「そうした社会的行為の定位が、関与者によって主観的に感じられている (情動的または伝統的な) 共属Zusammengehörigkeitに根ざしているばあい、そのかぎりにおける社会関係」と定義され、それにたいして «Vergesellschaftung» は、「社会的行為の定位が、(価値合理的または目的合理的に動機づけられた)利害の調整Interessenausgleichまたは利害の結合Interessenverbindungにもとづくとき、そのかぎりにおける社会関係」と規定されます[14]ですから、概念上こんどは「«Vergesellschaftung» が同時に «Vergemeinschaftung» である」ということはありえません[15]

 

ところで、「旧稿ではしばしば、「ゲゼルシャフト化された (『制定秩序』によって媒介された) ゲマインシャフトvergesellschaftete Gemeinschaft」「(なんらかの) ゲマインシャフトへのゲゼルシャフト形成Vergesellschaftung zu einer ----- Gemeinschaft」「敵対する階級と階級 (たとえばブルジョワジーとプロレタリアート) の間のゲマインシャフト行為」といった表記に出会います。そこに、 «基礎概念» の «Vergemeinschaftung» や «Vergesellschaftung» (あるいはテンニエスに由来する通念としての対概念) を持ち込んで、「利益社会化された共同社会関係」「共同社会への利益社会形成」「敵対する階級間の共同行為」と訳しますと、これではなんのことか分かりません。ところが、そうした表記も、原著者の意図どおり「カテゴリー論文」の概念規定と用語法にしたがって読めば、判然と意味が通ります。しかも、じつはそこに、「旧稿社会学的概念構成に固有の (あるいは、«基礎概念» からは少なくとも読み取り難い) ダイナミズムと新たな展開の可能性が、秘められています(後述)

 

さて、(管見によれば)カテゴリー論文で定立され、「旧稿に適用されて[16]、その全体構成の骨格をなしている基礎カテゴリーには、「ゲゼルシャフト行為」以外に、①「同種の大量行為gleichartiges Massenhandeln」、②「無定型のゲマインシャフト行為amorphes Gemeinschaftshandeln」、③「諒解行為Einverständnishandeln」があります。①「同種の大量行為」とは、相互間にはまだ「意味」関係が形成されない複数個人の同種の行為(突然の驟雨に通行人が一斉に雨傘を広げるといった、自然現象への同種反応から、「思わず」なされる「模倣」や「群集-群衆行為」)、②「無定型のゲマインシャフト行為」とは、「意味」関係は生成しながら、まだ「秩序」は形成されないゲマインシャフト行為、③「諒解行為」とは、秩序は形成されながら、それが目的合理的に制定された秩序ではなく (その点で、ゲゼルシャフト行為とは異なり)、さりとてまったく無秩序というのでもなく、あたかも制定秩序があるかのように (事実上秩序立って、あるいは一定の経験的規則性をもって) 経過するゲマインシャフト行為、とひとまず定義されましょう。

肝要なのは、この四カテゴリーが、①「同種の大量行為」⇌ ②「無定型のゲマインシャフト行為」⇌ ③「諒解行為(というゲマインシャフト行為)⇌ ④「ゲゼルシャフト行為(というゲマインシャフト行為)」というふうに (ただし「飛び越し」もありうる) 流動的相互移行関係の指標として設定され、「ゲマインシャフト行為ないし秩序の『合理化Rationalisierung』にかんする『理念型的階梯尺度」をなしている、ということです。ただし、この尺度を、①から④へと、「ひとつ後の段階が前の段階に取って代わる」「発展段階」の図式と考えてはなりません。また、「合理化」が、なにものにも制約されず、将来に向かって「とめどなく」進み、個々人を「鉄の檻」に閉じ込め、がんじがらめに縛り上げていく、というふうに、なにか「進化 (宿命) 論」風に解されてもなりません。

この問題には、後でまた立ち帰ることとし、ここではまず、ヴェーバーが「旧稿」で、この①~④を根幹とする「カテゴリー論文」の基礎カテゴリーと用語法を、意図的に堅持していた事実を、いくつかの引用によって確認しておきましょう。たとえば、

 

(「旧稿」全体の「概念的導入」篇に属し、「法概念の社会学的意味転換」「習俗、慣習律、および法――人間行動の経験的諸秩序」「法と経済との原理的関係」とも題されるべき三節からなる)「経済と秩序」章[17]には、こうあります。「……『法』という言葉は、政治権力の保障によって法強制が約束されているばあいにかぎって用いられるべきである、という主張は、ここでわれわれが堅持している用語法からしてaus der hier festgehaltenen Terminologie heraus、いうまでもなく拒否される。……われわれはむしろ、強制装置によって――すなわち、当該の事実が発生したばあいのために、強制手段の行使に向けて準備をととのえている一人または複数の人間によって――行使されるなんらかの物理的または心理的な強制手段が約束されているばあい、言い換えれば、『法強制』の目的のために特別のゲゼルシャフト関係Vergesellschaftung (世良訳では「組織」) が存立しているばあいには、つねに『法秩序』という語を用いたいと考える」(WuG: 185, 世良訳『法』: 21)。さらに、

 

同じく「経済と秩序」章に、「慣習律Konventionが行為の規則性を支配するようになるやいなや、言い換えれば『大量行為Massenhandeln』が『諒解行為Einverständnishandeln』に転化するやいなや――けだし、このことこそ、われわれの用語法に翻訳したばあいin unsere Terminologie übersetztの、この[慣習律が行為の規則性を支配するようになる]過程の意味なのである――、われわれは『伝統Tradition』という言葉を使いたいと思う」WuG: 192, 世良訳『法』: 45とあります。また、

 

「旧稿」「ゲマインシャフト」篇中の「政治ゲマインシャフト」章に属する「階級・身分・党派」節[18]では、「階級Klasse」という (当時とかく「実体化」されがちだった)「社会形象(構成体)」を、いわば組織化Organisierung (凝結) 解体Desorganisierung (拡散)との流動的相互移行関係において、動態的に捉え返そうとする視点と概念構成が、つぎのように提示されています。

ヴェーバーによれば、「『階級』とは、ここで堅持されている意味ではin dem hier festgehaltenen Sinn、ゲマインシャフト [浜島訳では「共同體」] ではなく、ゲマインシャフト行為 [浜島訳では「共同行為」] を可能にする (しばしば、じっさいに生み出しもする) 基礎Grundlageにすぎない」(WuG: 531, 浜島訳『権力と支配』: 217-18)つまり、交換を目的として市場で出会い、競争する多数者の間に、物的所有にたいする処分権が不均等に配分されているばあい、そうした競争は、「持てる者 (有産者)」に有利で、(純粋な市場的条件のもとでは) あらゆる高価な財貨の独占、交換による利得シャンスの独占、企業者機能および資本利得に関与するシャンスの独占、をもたらすでしょう。そのように、⑴ある一群の多数者に、かれらの生活上のシャンスを因果的に決定する要因が共有され、⑵その要因が、もっぱら経済的な財貨所有と営利への利害関心に、しかも⑶ (商品または労働) 市場の諸条件のもとで、具現され、表明されるばあい、そうした「階級状況Klassenlage (階級的地位)」を共有する多数者を、そのかぎりで (ゲマインシャフト関係をなしているか否かにかかわりなく、「人間群Gruppe統計的集団]」として)「階級」と呼ぼうというわけです。「この用語法にしたがうとnach dieser Terminologie、『階級』を生ぜしめるものは、一義的に経済的な利害関心、それもとくに『市場』の存在に拘束された経済的利害関心である」(WuG: 532, 浜島訳『権力と支配』: 220) ということになります。

ところで、共通の階級状況から、(「即自的階級Klasse an sichから対自的階級Klasse für sichへ」という図式に見られるように) 必ず一義的な「階級的利害」と一方向の「ゲマインシャフト行為(=階級行為)」が打ち出されてくるのか、というと、けっしてそうではありません[19]。ヴェーバーによれば、「共通の階級状況から、ゲゼルシャフト形成Vergesellschaftungがなされるかどうか、それどころか、ともかくもゲマインシャフト行為Gemeinschaftshandelnが発生するかどうかさえ、[まさに問われるべき問題であって] 普遍的な現象ではけっしてない。階級状況の影響は、本質上種の反応gleichartiges Reagieren、つまり (ここで選定されている用語法では in der hier gewählten Terminologie)『大量行為 Massenhandeln』の創出にかぎられるか、あるいは、この種の行為さえ、まったくもたらさないばあいもある。さらに、そうした影響が無定型のゲマインシャフト行為amorphes Gemeinschaftshandelnの発生にかぎられるばあいもあろう。古代オリエントの倫理にも知られている労働者の『怨嗟』、つまり雇い主の仕打ちにたいする道徳的非難も、そうした無定型のゲマインシャフト行為であった。それは、実践的意義の点では、ごく最近の産業発展にともなって再度典型的に見られるようになった現象、すなわち、労働者間の暗黙の諒解Einverständnisによる『怠業』(労働給付の意図的削減) に匹敵するものであろう」。そのうえで、「[階級状況を共有する] 階級所属者の『大量行為』から『ゲマインシャフト行為』ばあいによっては『ゲゼルシャフト関係』が発展する度合いは、一般的な文化的条件とりわけ知的な条件に依存しており、また、『階級状況』から発生する[生活シャンスの]対照性[格差]の度合い、とくにそうした格差をもたらす因果関係の透明性、によって制約されている」(WuG: 533, 浜島訳『権力と支配』: 220) と見られます。さらに、

 

⑷「旧稿」「支配」篇への概念的導入部 (「支配」章) では、「支配」一般の意義が、基礎カテゴリー①~④の援用によって、つぎのとおり「合理化の梃子」に求められます[20]。「ゲマインシャフト行為のすべての領域は、例外なく、支配形象のきわめて深刻な影響を示している。無定型のゲマインシャフト行為amorphes Gemeinschaftshandeln [世良訳では「共同社会行為」] ら、新たに合理的なゲゼルシャフト関係rationale Vergesellschaftung [世良訳では「利益社会関係」] を発生させるものは、きわめて多くのばあい、支配と支配が行使される態様であり、そうでない他のばあいにも、ゲマインシャフト行為に形を与え、とりわけゲマインシャフト行為の『目的』志向性をそもそも初めて一義的に刻印するのは、やはり支配の構造とその展開である」(WuG: 541, 世良訳『支配』Ⅰ: 3-4)。このばあい「ゲマインシャフト行為の『目的』志向性をそもそも初めて一義的に刻印する」とは、支配者が被支配者に、(「合理的なゲゼルシャフト形成」のばあいのように) 「制定秩序」を「授与oktroyieren」するのではなくとも、当の「目的」を押し付け、被支配者がそれを「妥当gültig」として取り扱い、その「目的」達成をめざす (少なくとも、それをあからさまには妨げない)諒解行為」におもむく事態を指していったものでしょう。また、さまざまな支配類型-支配形態のうち、とくに

 

(「正当的支配の三類型」章、「合理的支配」節で採り上げられる、「合理的支配」の「単一支配monokratisch」的形態としての)「官僚制Bürokratie」については、つぎのとおり、その「永続的性格」が説かれます。「ひとたび完全に実現されると、官僚制は、もっとも打ち壊しがたい社会形象のひとつとなる。官僚制化Bürokratisierungとはそれ自体、『ゲマインシャフト行為』を、合理的に秩序づけられた『ゲゼルシャフト行為』rational geordnetes “Gesellschaftshandeln” [世良訳では「合理的に組織された利益社会行為」] に転移させるための、特有の手段そのものである。したがって官僚制化は、官僚制装置を意のままにできる支配者にとっては、支配関係を『ゲゼルシャフト関係として秩序づけるVergesellschaftung [世良訳では「合理的社会関係化」] 手段として、過去において第一級の権力手段であったし、現在でもそうである。というのも、他の諸条件が等しいとすれば、計画的に秩序づけられ、指揮される『ゲゼルシャフト行為 [世良訳では「利益社会行為」] 』は、これに抵抗するいかなる『大量行為 [世良訳では「大衆行為」] 』あるいはまた『ゲマインシャフト行為 [世良訳では「共同行為」] 』にも立ち優っている。そういうわけで、官僚制化がひとたび余すところなく貫徹されると、支配関係の事実上不壊に近い形態がつくり出されるのである」(WuG: 569-70, 世良訳『支配』Ⅰ: 115)

 

なるほど、この⑷と⑸の (「支配」篇からの) 引用には、「ここで堅持されている用語法によれば」というような語句は見当たりません[21]し、③「諒解行為」という術語も明示的には用いられていません。ですから、これら「支配」篇のテクストでは、「カテゴリー論文」で導入された基礎カテゴリー①~④の規準的意義が、まさにそれだけ薄れているようにも見えます。

じっさい、シュルフターは (1998年以降)、「旧稿」における基礎カテゴリーの規準的意義には、テクストの執筆時期によって違いがあり、1912年末あるいは1913年初頭以降の「第二期 (ないし第二局面)」には、当の規準的意義が失われ、さればこそヴェーバーは「カテゴリー論文」を別途『ロゴス』誌に発表して「旧稿」からは「斬り落とし」、別の「頭」を用意しつつあった、と見ました[22]。そして、シュルフターが、(「宗教社会学」章とともに)「第二期」の代表作と見たのが、他ならぬ「支配」篇です。かれは、「カテゴリー論文」「斬り落とし」の証拠として、「カテゴリー論文」に特有の「諒解とその合成語Einverständnis und seine Komposita」が、「第二期」の諸稿では「用いられなくなっている」と主張しました[23]

しかしこれは、明白な事実誤認で、「支配」篇にも「諒解とその合成語」が三箇所[24]で用いられています。そのうちの一箇所――内容上も、「封建制」から「身分制(等族)国家」が発展してくる経緯と機縁にかかわる重要な箇所――を、さしあたりは、「カテゴリー論文」で導入された基礎カテゴリーの動かぬ規準的意義の証拠として、ここに引用してみましょう。

 

⑹「支配」篇では、「概念的導入」部にあたる「支配」章のあと、「正当的支配の三類型」章で、「合理的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」が、この順序で採り上げられ、そのあと「政治的支配と教権制的支配」章、「都市」章と続き、最後尾に「近代国家の発展」と「近代政党」の二章が配される予定でした[25]。このうち「伝統的支配」節では、「家父長制Patriarchalismus」から「家産制Patrimonialismus」を経て「家産国家的政治形象(構成体) patrimonialstaatliches politisches Gebilde」にいたる、家支配の拡大再編成が、「首長Herr」 と「輔佐幹部Verwaltungsstab」との (後者が、前者から「貸与」された支配権を「専有appropriieren」し、これを前者が、後者から「奪回expropiieren」しようとする) 権力闘争に焦点を合わせて、動態的に捉え返されます。そして、「専有」(「分権化」) の極として「身分制的」家産制、「奪回」(「集権化」) の極として「家父長制的」家産制という、ふたつの「理念型」概念が構成され、「封建制」が前者への、「スルタン制」が後者への、発展の極限事例として位置づけられます。そのうえで、封建制下で「専有」された主観的諸権利のステロ化から「身分制 (等族) 国家」が成立してくる経緯機縁が、つぎのとおり「諒解行為を含む基礎カテゴリーを明示的に用いて説明されています。ここは内容上、「西洋文化圏では、普遍的諸要因のいかなる個性的布置連関のもとで、伝統的支配から合理的支配 (合法律的支配) への『突破口』が開かれたのか」という普遍史的問題に、ヴェーバーがほかならぬ「カテゴリー論文」の基礎カテゴリーを総動員して答えている、きわめて重要な箇所と思われますので、少々長くなりますが、全文引用してみましょう。

「要するに、俸祿制的および封建制的に変形を遂げた家産制的政治形象とは、首長・官職保有者・被支配者の、あくまで具体的に規定された主観的諸権益や諸義務のコスモスであり、事情によっては、そうしたもののカーオスである。それは、客観的な諸秩序Ordnungen によって一般的な形で規定された諸『官庁Behörde』が、それぞれこれまた同様の仕方で規制された職務範囲 [権限] をそなえている、というようなシステムとは対照的である。首長・官職保有者・被支配者の諸権益や諸義務は、相互に交錯、制限し合い、それらの協働からひとつのゲマインシャフト行為 [世良訳では「共同行為」] が成立してくるが、このゲマインシャフト行為は、近代的な公法学のカテゴリーをもってしては理論構成しえないものであり、語の近代的な意味における『国家』という名称をこれに適用することも、この国家という語を純家産制的形象に適用することよりもっと困難である。封建制は、『家父長制的』家産制とは逆の、『身分制的』家産制の方向における極限事例をなすものである。

  さて、その種のゲマインシャフト行為の形成を秩序づける力としては、家産制一般に特徴的な伝統・特権・ヴァイストゥーム・判決例のほか、さまざまな権力保有者の間で取り結ばれるそのときどきの協定Paktieren von Fall zu Fallがある。この協定こそ、西洋の『身分制国家Ständestaat』に典型的で、まさにこの種の国家の本質をなしていた。個々のレーエン保有者やプフリュンデ保有者、および、君主の授与にもとづいて専有された諸権力を保有しているその他の者が、そうした権力を、かれらの保有している保障された『特権』にもとづいて行使するのと同じように、君主に授けられた力も、レーエン保有者やその他の権力保有者によって承認され、保障されるべき君主の即人的『特権』、すなわち君主の『大権』と見なされた。ところがいまや、これらの特権保有者たちは、かれらの協働なしには不可能な、ある具体的行動をとるために、そのつど互いにゲゼルシャフト関係を取り結ぶDiese Privilegienträger nun vergesellschften sich von Fall zu Fall zu einer konkreten Aktion, welche ohne ihr Zusammenwirken nicht möglich wäre。『身分制国家』の存立とは、もっぱらつぎのことを意味する。すなわち、いっさいの権利・義務が契約によって保障されている結果、またそのために生じた非弾力性の結果、上記のような協定をたえず繰り返し結ぶことが避けられなくなり、この状態が慢性的となって、事情次第では明示的な『ゲゼルシャフト形成Vergesellschaftung [世良訳では「組織社会化」] により、ひとつの制定秩序gesatzte Ordnungに転化する、ということである。身分制国家は、レーエン保有者たちがひとたびひとつの権利仲間Rechtsgenossenschaftに結集するにいたった後に――、種々さまざまな機縁から成立した。しかし、主としては、ステロ化され、弾力性を失ったレーエンおよび特権の構成体を、行政上異例の、または新たに成立した必要に適合させるための一形式として、成立したのである。ところで、……そうした異例の需要そのものは、主としては、政治的とりわけ軍事的な行政 [政治団体間の戦争と戦争準備] から生じた。しかし、経済構造の変化、とりわけ貨幣経済の進展が、これらの需要を充足する方法を可能とし、したがってまた、他の政治団体との闘争や競争の場裡にあっては、そういう方法をとることを余儀なからしめたというかぎりで、経済的要因も [間接には] 協働していたわけである。――とりわけ、巨額の貨幣額を一挙に調達することは、ステロ化した封建制的-家産制的行政構造の通常の手段をもってしては不可能であった。このことは、多くのばあいすでに、各人は――首長もその他すべての権力保有者も――、自分の行政の費用は、これを――しかも自分の費用のみを――自分自身の財布で賄わなければならないという、この種の支配構造に妥当していた原則だけからしても、そうならざるをえなかった。右のような特別の資金を調達する方法は、なんら用意されてはいなかったのである。したがって、たえず改めて諒解し合うことeine immer erneute Verständigungが必要となり、また、この目的のためには、個々の権力保有者を、[バラバラにしたままで、そのつど個別に諒解をとりつけ、協定を結ぶのではなく、目的合理的な秩序制定によって] 秩序づけられた団体に結集させる、そうしたゲゼルシャフト形成Vergesellschaftung [世良訳では「組織化」] が不可避であった。そして、まさにこのゲゼルシャフト形成こそ、特権保有者たちが、君主とゲゼルシャフト関係を取り結んで『等族Stand』となり、そのようにして、さまざまな権力保有者のたんなる諒解行為Einverständnishandelnやそのつどのゲゼルシャフト結成Vergesellschaftung von Fall zu Fallから、ひとつの多年生の政治形象ein perennierendes politisches Gebilde [個々の諒解や協定を超えて存続する身分制等族国家] を成立させたのである。しかしやがて、この形象の内部では、つねに処理を迫る新たな行政課題がたえず広範囲に進展し、これが、君主の官僚制の発展を招来するにいたった。そして、この官僚制が、これはこれで『身分制国家』の団体Verbandを再度破砕する定めにあった」(WuG: 636-37, 世良訳『支配』Ⅱ: 345-48)

 

以上、Vergesellschftungという一語に着目し、その訳語の不統一という事実から、「二(三)部構成の一書」という誤編纂の後遺症として、(「カテゴリー論文」で定立され、「旧稿」に適用されている)基礎カテゴリーの看過-逸失という現状に、照射を当てました。わたくしたちは、この批判的総括を踏まえて、「旧稿」の全体を、この基礎カテゴリーに依拠して再構成する、という課題に、こんどは積極的に取り組まなければなりません。しかし、そのまえに念のため、この基礎カテゴリーが、まさに「旧稿」の基礎カテゴリーであり、したがって「旧稿」再構成のをなす、という事情を、もう少し一般的に確認しておきたいと思います。2010721日記、下記につづく)

 

2. ゲゼルシャフト形成としての「社会」の合理化と、ゲマインシャフトの「重層性」   次稿 

3.「旧稿」編纂論争史の到達点と現状

4.「旧稿」全体の再構成 (テクスト再編纂と内容再構成との同時並行)

5.「法社会学」章の内部構成

6. 結論――「旧稿」全体の構成と「法社会学」章の位置

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] その主要な一部に、当初の「1910年題材分担案Stoffverteilungsplan(以下「1910年構成表」と略記) では、「経済と社会Wirtschaft und Gesellschaft」という標題が冠せられていました。それが、(1914年の叢書刊行開始にあたり、マックス・ヴェーバーが「編集主幹Schriftleiter」名で執筆した)「序言Vorwort」につづく「全巻の構成Einteilung des Gesamtwerkes(以下「1914年構成表Disposition von 1914) 欄では、(第一巻Buchの第三部AbteilungC「経済と社会」のⅠ.に編入されて)「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力Die Wirtschaft und die gesellschaftlichen Ordnungen und Mächte」と改題されます。これと別人執筆のⅡ.とが、第三部=C「経済と社会」を構成することになったわけです。ところが、マリアンネ・ヴェーバーは、第一分冊(「第一部」、1921年刊)から、標題をふたたび『経済と社会』に戻し、その後、(「旧稿」を「第二、三部」として収録した第二~四分冊分も合本した)初版(1922)から、ヴィンケルマン編纂に移った第四版(1955)を経て第五版 (1972) にいたるまで、『経済と社会』というタイトルが、読者に親しまれてきました。『全集』版は、主題を「経済と社会」、副題を「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」として、公刊されています。  

[2]「旧稿」の原稿そのものは、「経済と秩序」「法社会学」の二稿を除き、第二次世界大戦中に、疎開先で行方不明になり、継承されていません。この二稿は、マリアンネ・ヴェーバーが、「法社会学」の英訳者マックス・ラインシュタインに贈って、アメリカに渡っていたため、戦災を免れ、1957年に、版元に返還されました。

[3] 原著者は、«基礎概念» 冒頭の注で、「分かりやすくするために用語法を変更する」とはっきり断っていたのですから、本来ならば、その変更を追跡して、変更前の基礎カテゴリーを突き止め、それで「第二(三)部」の「旧稿」を読むべきでした。しかし、おおかたの読者は、編纂者や訳者も含め、同じ一「書」の「部」別にすぎないから、語彙も同じなら概念も「同じ」と前提して、読解に取りかかっていたようです。

[4] ようやく、原著者の死後、半世紀あまり経ってから、フリードリヒ・H・テンブルックが、『全集』版編纂陣の外から、「二 () 部構成」をマリアンネ・ヴェーバーの「創作」「虚構」として暴き、「『経済と社会』との訣別」(1977)を唱えました。この画期的問題提起に、編纂陣のなかでただひとり正面から応答したのが、ヴォルフガンク・シュルフターです。それにたいして、折原浩は、海外から(ただし、『全集』版予約講読者の三分の二を占める日本から)応答し、テンブルックの問題提起は正しいと認める一方、ほかならぬかれの批判によって誤編纂から解放された「旧稿」テクストそのものを、こんどは原著者マックス・ヴェーバー自身の構想に即して再構成する、という課題に取り組み、シュルフターとの「積極的批判」関係に入りました。

[5] 本来ならば、編纂陣内で、先行誤編纂にたいする批判的総括がなされ、そのうえでテクスト全体をどう再編纂すべきか、立ち入った議論がなされるべきでした。しかし、編纂陣内で、そういう議論が闘わされた形跡はありませんし、編纂者間で(たとえばシュルフターとヴォルフガンク・モムゼンとでは)編纂方針が食い違っていました。

[6] 後で詳述しますが、「旧稿」のVergesellschaftungは、「目的合理的に制定された秩序があって、複数の行為者が、互いにその制定秩序に準拠して行為しているゲマインシャフト関係Vergemeinschaftung (改訂後には «社会関係») 」と定義されましょう。

[7] これは、改訂後の «基礎概念» における概念規定、あるいは、フェルディナント・テンニエスの主著1987に由来し、通念とも化している「共同社会Gemeinschaftと利益社会Gesellschaft」との概念を、語形から判断してそのまま改訂前の「旧稿」に持ち込み、後者を当てた訳語にちがいありません。

[8] それと同時に「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ (「前近代」から「近代」へ) 」という「敗戦後近代主義」の価値判断図式が、この誤誘導を受け入れ、原著者マックス・ヴェーバーの用語法をそれ自体として検討する基礎研究は怠る、素地をなしていた、と見られましょう。これはけっして、邦訳者だけの問題ではありません。

[9] 同一の語(たとえばVergesellschaftungが、«基礎概念» と「カテゴリー論文」とで、違った意味に用いられ、混乱を招くので、«基礎概念» の基礎カテゴリーには、そのつど «   » を付けて区別することにします。

[10]「管見では」と限定するのは、この問題が現在(2010)、『全集』版編纂陣を代表するヴォルフガンク・シュルフターと、筆者との間で、所見の対立する争点をなしているからです。シュルフターは、「カテゴリー論文」の規準的意義には、191014年の「旧稿」執筆期にかぎっても、差異がある、と説き、総じて(そこで展開された基礎カテゴリーにもとづく)「旧稿」全体の「相対的統合性relative Integriertheit」について、筆者より懐疑的です。この問題には、編纂論争史 (現局面) の主要問題として、後段で立ち帰ります。なお、『全集』版では、「カテゴリー論文」からの引用が、稀覯本に類する『ロゴス』誌版のみからなされ、読者自身による参照が、それだけ困難にされています。

[11] この「強制装置」という術語 (定義は後述) は、「旧稿」では頻繁に使われていますが、«基礎概念» では姿を消し、「強制スタッフErzwangungsstab」という同意語が一箇所 (WuG: 18、阿閉・内藤訳: 52) に見られるだけです。

[12] そのかぎり、テンニエスに由来する通念に歩み寄っているわけです。

[13] WuG: 13、阿閉・内藤訳: 39.

[14] WuG: 21、阿閉・内藤訳: 62.

[15] このように明晰に区別された概念を「理念型として «社会関係» の複雑で多面的な経験的現実に適用し、たとえば、「ある «社会関係» が、 «Vergesellschaftung» の極に接近していても、なお «Vergemeinschaftung» の側面は残されている」とか、「ある方向への «Vergesellschaftung» にともない、そこから新たな «Vergemeinschaftung» が派生している」といった実相を、鋭く取り出していこうというわけです。ただし、こんどはその運用において

[16] 原著者がこの段取りを考えていたことは、「カテゴリー論文」の「第一部」(Ⅰ~Ⅲ章) から「第二部(Ⅳ~Ⅶ章) への、つぎの架橋句によって示唆されています。「社会学においては、日常的によく知られ『慣れ親しまれた』意味上の連関 [A] が、他の連関 [B] の定義に利用され、その後に、前者の連関 [A] のほうがまた、後者 [B] の定義によって定義される、といった取り扱いが絶えずなされなければならない。われわれは[ここで]そのようないくつかの定義に入っていこう」(WL: 440, 海老原・中野訳: 41)

このあとにすぐ続く「第二部」では、「大量行為」から「ゲゼルシャフト行為」にいたる連関 [B] が、さまざまな具体的連関 [A] を例示に用いながら、基礎カテゴリーとして定義されますが、その後にこんどは旧稿、家から、近隣、氏族、経営、オイコス、種族、市場、政治団体、階級、身分、党派、国民を経て、都市を含む支配諸形象にいたる、「われわれにとって重要かつ普遍的な種類の」連関 [A] が、順次採り上げられ、連関 [B] の基礎カテゴリーを援用して、社会学的に定義されていくわけです。

[17] これは、「1910年構成表」では 「(a)経済と法、⒈ 原理的関係、⒉ 現在の状態にいたる発展の諸時期」の a)-⒈ に対応し、「1914年構成表」でも「⒈ [a] 社会的秩序のカテゴリー、[b] 経済と法の原理的関係、[c] 団体の経済的関係一般」の⒈-[b]として残り、前後参照指示のネットワークによっても「概念的導入」篇の――「カテゴリー論文」を冒頭に置くとすれば、それにすぐつづく――「第二章」に当たります。

[18] これは、「1910年構成表」では「経済と社会集団」中の一項目、「1914年構成表」では、第七項中の一項目(「政治団体」、「法の発展諸条件」につづき、「国民」に先立つ一項目)に当たります。

[19] 財貨の「所有」-「非所有」が、基本的には「階級状況」を決定するとはいえ、そうした基礎カテゴリーの内部では、市場で営利追求に利用できる所有の種類や、他方では市場に提供できる給付の種類に応じて、階級的地位はさらに細分化されましょう。また、有産者がかれらの所有を利用するさい、その行為に与える「意味」の違いに応じて、「企業者Unternehmer階級」となるか「利子生活者Rentner階級」となるか、が分かれ、無産の労務提供者も、かれらの給付を買い手との持続的関係において利用するか、それとも、そのつどケース・バイ・ケースに利用するか、によって、階級的地位は分化を遂げましょう。

[20] 「旧稿」は大きく「概念的導入」篇、「ゲマインシャフト」篇、「支配」篇に三分されますが、「支配」に「三大別の一」という位置価が与えられるのも、まさにそれゆえです。

[21] ただし、⑸では、基礎カテゴリーの各々に、そのつど引用符が付され、ヴェーバーがそれらに特別の意義を与えている事情が、示唆されています。

[22] シュルフター・折原共著、鈴木宗徳・山口宏共訳『「経済と社会」再構成論の新展開――ヴェーバー研究の非神話化と『全集』版のゆくえ』(2000、未来社): 63-64. 

[23] 上掲書: 104-06.

[24] WuG: 590, 635, 世良訳、支配: 174, 338 の二箇所と、このあとに引用する一箇所との、計三箇所です。

[25] 「支配」篇全体のこうした構成、とくにそのなかで「都市」章が占める特異な位置については、拙著『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か』(2007、勁草書房): 158ff.; 拙稿「比較歴史社会学――マックス・ヴェーバーにおける方法定礎と理論展開」、小路田泰直編『比較歴史社会学へのいざない』(2009、勁草書房): 35-40; 拙著『マックス・ヴェーバーとアジア――比較歴史社会学序説』(2010、平凡社): 106-18, 参照。