学問の未来――ヴェーバー学における末人の跳梁批判

はじめに

 本書は、前著『ヴェーバー学のすすめ』(二〇○三年一一月、未来社刊)の続篇である。前著につづいて、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊――』(二○○二年九月、ミネルヴァ書房刊)にたいする内在批判を徹底させる。それと同時に、一方では、こうした書物が「言論の公共空間」に登場し、「山本七平賞」を受け、脚光を浴びる事態を、「末人の跳梁」として捉え、他方では、この事態を問題とし、羽入書の主張を学問的に検証しようとする学者・研究者がなかなか現われない実情を憂慮し、現代日本のこの思想状況と構造的背景に、知識社会学的な外在考察を加える。

本書の内容は、筆者が一昨年来、そうした内在批判と外在考察をとおして、「学問の未来」につき、憂慮と希望こもごもに語ってきた事柄からなる。すなわち、マックス・ヴェーバー、それも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という一論文に投げかけられた「濡れ衣」を晴らす過程で、ごく狭い専門領域からではあるが、「学問とはなにか」「いかにあるべきか」をめぐり、日本の学問を将来担って立つべき若い人々(「先になるべき後なる者」)を念頭に置きながら、具体的な題材に即して考えてきた応答をなしている。そこで、やや大仰と感じないでもないが、頭書の主題を選び、副題を付して限定することにした。

 副題には、「末人の跳梁にたいする批判」(外在考察)と「ヴェーバー学における批判」(内在考察)という二重の意味を込めたつもりである。「末人の跳梁」とは、(「倫理」論文の正確な読解を怠り、「ヴェーバー藁人形」に斬りつけて「耳目聳動」を狙い、トレルチや大塚久雄もしのぐ「最高段階に登り詰めた」と自負する)羽入書の出現と(これを氷山の一角とする)いうなれば「羽入予備軍」の構造的再生産を、焦点に据え、こういう風潮を助長する半学者・半評論家群像、および、批判的検証を回避して「嵐の過ぎるのを待つ」学者・研究者の広い裾野、を含めて考えている。筆者は、本書の外在考察が、羽入書そのものはもとより、羽入書の出現とそれへの対応に姿を現した、二重/三重の無責任態勢を、改めて問題とし、克服していく契機ともなれば、と念願している。この考察は、人文/社会科学系の学者・研究者に、自然科学畑では公害/医療過誤/交通事故問題などを契機につとに問われてきた、専門家としての(応答/論争応諾)責任、関係書籍/論文の著者としての(自分の公表した内容について誤解/曲解の拡大を防止する)社会的責任、および教育者としての(知的誠実性と文献読解力を育成する)指導責任について、改めて問いかけることになろう。

 羽入書の著者は、筆者の批判に、一年半にもなるのに応答しない。もっぱら「知的誠実性」を規準にヴェーバーを批判した当人が、筆者の反批判には「知的誠実性」をもって答えず、ある対談には出て、「ブランド商品を百円ショップの安物とけなされて、腹を立てている」と語る。これではいたしかたない。筆者は、修士/博士論文に値しない羽入論文(羽入書の原論文)に学位を認定した東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻の指導教官/論文審査官に、羽入論文をどう評価し、学位を認定したのか、と問わざるをえない。欠陥車を売り出して事故を引き起こす会社の経営陣と同様、責任を問われてしかるべきではないか。筆者は、本書を上梓し、「羽入論文が学位に値しない」という筆者側主張の論拠を公表したうえで、これを一資料に、東京大学大学院倫理学専攻関係の指導教官/論文審査官に、公開論争を提起する予定である。

「ヴェーバー学における批判」の面については、右記「内在批判の徹底」について補足する形で述べよう。前著では、羽入書が、「倫理」論文全体を読解しないまま、第一章「問題提起」第二節「資本主義の精神」と第三節「ルターの職業観」それぞれ冒頭の細部に、羽入の側から「疑似問題」を持ち込み、「ひとり相撲」をとり、相手に届かない架空の議論を繰り広げている実態――それが、相手を知らない論文審査官や評論家には、相手を手玉にとっている本物の相撲に見える関係――を批判的に明らかにした。それにたいして、本書では、「疑似問題」の持ち込みから結論にいたる当の議論内容も詳細に追跡して、そこに示されている数々の難点を、(「倫理」論文のみでなく)文献読解一般にかかわる「注意すべき問題点」として取り出し、併せて適切な読解への指針をそのつど提示しようとつとめている。いうなれば、羽入書を「反面教材として活用しようとした。筆者は、大学/大学院における文献講読演習で、「倫理」論文が主テクストとされ、羽入書と本書とが副教材として活用されることを願っている。

 他方、そのためにも、また、批判の半面としても、筆者自身のヴェーバー理解を積極的に対置し、「羽入が本来考えるべきであったこと」を補填すると同時に、そうすることをとおして従来の研究水準を乗り越えようとつとめた。本書では、羽入書には欠けている数々の論点内容や素材の方法的な取り扱い方などを究明し、ヴェーバー研究の専門的水準で論じたつもりである。一例を挙げれば、羽入は、「フランクリンの神」を「カルヴィニズムの予定説の神」と同一視する誤解にもとづき、ヴェーバーが「カルヴィニズムをカルヴィニズムで説明する」同義反復ないし不当前提論法を犯し、しかもそれを隠蔽する二重の詐術を弄したと称して、「ヴェーバー藁人形」を立ち上げている。ところが、当の同一視には、大塚久雄が、フランクリン原文の(pre-destine でもpre-determineでさえない)determineを「預定」と訳して、切っ掛けを与えている。筆者は、この事実を指摘するとともに、フランクリン文献に当たって、「フランクリン神観の特性を捉え、それが「カルヴィニズムの予定説の神」とどの点でどう異なるのか、具体的に論証している。

 

 なお、筆者は今回、羽入書との批判的対決をとおして、「倫理」論文の読解案内から始めてヴェーバー歴史・社会科学の方法の会得にいたる入門書/再入門書の必要性を痛感した。そこで、「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」を『未来』(二○○四年三月号)に発表するとともに、本書の元稿にも、羽入書批判の関連箇所ごとに、一、理念型の経験的妥当性、二、多義的「合理化」論とその方法的意義、三、「戦後近代主義」ヴェーバー解釈からのパラダイム転換、四、「倫理」論文冒頭(第一章第一節)の理路と方法展開の展望、五、ヴェーバー宗教社会学概説(理論的枠組みと「二重予定説」の位置づけ)とも題すべき補説を書き加えた。ところが、それらは、事柄としていっそう重要であるため、羽入書批判としては均衡を失するほどに膨れ上がり、構成を乱すことにもなりかねなかった。筆者としては、羽入書批判を否定面だけに終わらせず、内在批判への徹底をとおして、かえってなにかポジティヴな内容を打ち出し、ヴェーバー研究にも寄与したいと力を入れたが、そうすればするほど膨大となって構成も難しくなるというディレンマを抱え込んだ。これに、未来社の西谷能英氏が、原稿を閲覧のうえ、それらを本書の姉妹篇として別立てに編集し、本書とほぼ同時に公刊するというアイデアを提案してくださった。筆者として、異存のあろうはずがない。そこで、その姉妹篇を『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』と題して、ほぼ同時に上梓することになった。まことに、一書を世に出すとは、編集者と著者との協働作業である、と改めて思う。

 その姉妹篇では、本書の延長線上で、ヴェーバーの歴史・社会科学に改めて光が当てられよう。たとえば、ヴェーバーの歴史・社会科学が、歴史・社会現象につき、要因の多元性を認め、各要因の「固有法則性」を解き明かすことは、ヴェーバー自身も明言し、従来から認められ、論じられてきたとおりである。ところがじつは、そればかりではない。かれは、ある原因からいったんある結果が生ずると、この結果が翻って原因に反作用する、といった「原因と結果との相互性互酬性」を認める見地から、たとえば「経済→宗教」「宗教→経済」といった「多面的な因果関係」を、典型的な事例の研究をとおして「理念型」的関係概念として決疑論/カタログ風に定式化/体系化しておき、そのあと個々の問題事例と取り組むに当たっては、その「道具箱」から双方向の「理念型」的関係概念を取り出して適用し、こんどは「原因 ?結果の互酬循環構造」として捉え返そうとしていた。「倫理」論文から「世界宗教の経済倫理」シリーズをへて『宗教社会学論集』「序言」にいたる展開を追ってみると、ヴェーバーが、こうした方法的/理論的態勢を着々ととのえつつあった実情が窺われ、かれの歴史・社会科学の潜勢力が、改めて掘り起こされよう。

「倫理」論文初稿発表の百周年を、この日本で、なんと「ヴェーバー詐欺師説」が横行するままに迎え、やり過ごすのではなく、本書と姉妹篇『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』が、このスキャンダルをむしろ「逆手に取って」、ヴェーバー歴史・社会科学の射程と意義にかんする学問的認識と評価を回復し、いっそう拡大して、この日本における歴史・社会科学の着実な発展に活かす一契機ともなれば、この間、筆者として年来の研究課題(『経済と社会』旧稿の再構成)を先送りしている責任も、いくぶん軽減されるであろうか。(2005526日記)