現代技術史研究会M分科会主催「エチル化学労組の闘いに学ぶ」(記録映画『エチル化学労組』上映会、2013210日、於東京・渋谷、文化総合センター大和田)にて

 

はじめに

みなさん、こんにちは。

ご紹介いただきました折原です。

今日は、若い方々にもお会いできるかと思って出てきたのですが、お見受けするところ、だいたい、ある年代以上のご年輩の方々ですね(笑)。

私は、いまご覧になった映画の「制作者」ということになっていますが、じつは当時、自分が制作者であることも、そもそも映画の制作者とは何をするのかも、まったく知りませんでした。監督の大内田圭弥さんといっしょに編集に携わった熊本一規君から、「試写会のときに、びっくりすることがありますよ」といわれて、「何かな」と思っておりますと、映画のおしまいの「制作」欄に名前が出てきて、じっさいにびっくりしました。その経緯は、熊本君に話してもらったほうがいいと思うのですが、多分、途中で制作費が足りなくなり、なにがしかお立て替えした、という事情によるのでしょう。大した額ではなかったのですが、ただ、私は当時、「授業拒否」をしており、いつ「首」になるか分からない状況でしたので、吉江耕也君、熊本君は、各地で上映会を開くつど、何回にもわたって、返済してくれました。

いま、改めてこの映画を見ますと、井上、工野、両君の「日常を淡々と追って、静かに訴える」という制作意図がよく分かります。当時はまだ、ビデオ・カメラやパソコンによる動画編集は、普及していなかったので、大内田さんや撮影助手の一ノ瀬紀之さんは、たいへん苦労して、現地に大きな機材を持ち込み、フィルムで撮影しました。難しい場面もよく記録されていると思います。

当時、私は、この近くの駒場にある東大教養学部で、西村秀夫さん、最首悟さんら、教員の有志と、学生・院生・一般市民とともに、「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」(以下、「連続シンポ」)という催しを、週に二、三回、定期的に開いておりました。196869年の東大闘争が、大学当局の機動隊導入と授業再開によって押しつぶされた後、そういう闘争圧殺には荷担できないと考えて、授業再開を拒否し、それに代わる反大学・批判大学・解放大学の試みとして、「連続シンポ」を始めました。これをひとつの母胎に、熊本君たちが、工学部の吉江君らと連携して、「エチル化学労組を支援する会・東京連絡会」を結成し、写真家の福島菊次郎さんの呼びかけもあって、記録映画をつくろうということになったのでしょう。197112月には、「連続シンポ」第153回として、映画『エチル化学労組』の上映・報告・討論集会を開き、井上、工野、両君にも、出席していただいています。

 

1. 若者の鋭い感性――問題を「わがこと」と捉えて、労働の内容と意味を問う

さて、当時の若者は、井上、工野、両君にせよ、吉江、熊本、両君にせよ、一見「自分とは『無縁』なこと」、あるいは「『見て見ぬふり』をしてやり過ごせば『済む』こと」でも、「わがこと」「自分の問題」と受け止め、すばやく対応する、鋭敏な感性をそなえていた、と感嘆します。

井上、工野、両君は、「東京・牛込柳町の谷間に自動車の排気ガスが溜まって、鉛公害の被害が出ている」と報道されますと、すぐに山口県新南陽市から出掛けてきて、実態を調査し、自分たちがつくろうとしている四エチル鉛が、労災と公害の原因になる、と知りました。つまり、生産工程で事故が起きれば、自分たちが労災の「被害者」になるけれども、自分たちの労働によって首尾よく生産された製品が、販売され、ガソリンに混ぜられ、排気ガスを撒き散らせば、自分たちが鉛公害の恒常的「加害者」になる、という問題に、当事者として直面したのです。それまでの労働運動では、「どういう労働条件で働くか、が問題で、労働の中身内容は、資本家・経営者が決めることで、自分たちの責任ではない」と諒解されていましたが、両君らは、その枠を越えて議論を深め、結論として四エチル鉛の製造そのものを拒否し、鉛公害の被害を未然に防いだのです。

吉江、熊本、両君も、その闘いを知り、リーダーのふたりが、親会社・東洋曹達への再雇用を拒まれ、実質上解雇された、と聞くと、ただちに「支援・連絡会」を結成しました。そして、法的支援にとどまる合化労連本部に代わって、各地で映画上映会を開き、エチル化学労組の問題提起とその意義を伝え、支援の輪を広げていきました。

井上、工野、両君ら、エチル化学労組は、現場の闘いによって公害を未然に止めたのですから、凄いことでした。かりに、その後、電力会社や原発関連企業の労働組合が、エチル化学労組の闘いに触発され、同じ水準で、原発の建設および運転を「わがこと」として問題とし、現場で拒否していたとしたら、どうだったでしょうか。

いま、そのように思いめぐらさずにはいられません。

 

2. 東大闘争に現れた若者の感性――日常性の問い返し

じつは、この四君ほど鮮やかではありませんが、同じような感性が、1968年の全共闘運動に決起した学生一般にも、共有されていたように思います。東大闘争の発端は医学部にありましたが、長年「インターン闘争」「卒後研修協約闘争」を闘ってきた医学部の学生・研修生が、19683月に、17名の大量処分を受け、これへの反撃として615日に時計台を占拠しますと、大河内一男東大総長は、間髪いれず、二日後に機動隊を導入して、かれらを排除しました。この報に接して、駒場の一般学生は、当初は、「時計台占拠こそ、機動隊導入を招いた暴挙で、『大学自治』の敵」と受け止めていました。ところが、その後、急速に考えを改めました。「医学部の闘いを『対岸の火災』のように傍観してきた自分たちの日常こそ、医学部学生・研修生を起死回生の時計台占拠に追い詰めた元凶ではなかったか」「占拠それ自体は『暴挙』と難じられようが、では他に、どういう選択肢があったのか、『泣き寝入りしろ』とでもいうのか、それよりもなによりも、この自分はどうすればよかったのか」と、当事者の立場に身を置いて問題をわがこととして捉え始めたのです。

かれらがそのように考え、振る舞った背景には、「ベトナム戦争におけるアメリカ軍の暴虐を報道では知りながら、手を拱いて『勉強』に明け暮れている自分たちの『日常』とは何か」という懐疑と問いかけがあったでしょう。としますと、現在の若者にも、「福島や福井には原発を、沖縄には米軍基地を押しつけ、そういう差別と抑圧のうえに『繁栄』を追い求めた『高度経済成長』とは、いったい何だったのか、また、その後の低迷を経ても、なお旧来の『豊かさ』に戻ろうとする、現在の『日常』とは、何か」という懐疑と捉え返しが、始まっているのでしょうか。じつは、そのへんのところを、今日、若い方々がお集まりであれば、伺ってみたかったのです。

 

3. 専門的研究-教育内容の批判的検証――第一次学園闘争の到達点と残された課題

ところで、エチル化学労組の闘いから、「自分たちの労働(ないしは研究・教育)という行為の内容と意味を問い、その結論を行為に結びつける」という視点を取り出して、196869年の学園闘争を振り返りますと、どうでしょうか。

当時、全共闘の学生は、科学者であるはずの大学教員が、専門の研究領域ではともかく、自分たち学生が提起した状況の問題には、科学者としてまっとうに対応できない、という実態を暴露し、「専門バカ」という言葉を当てました。というのも、科学者が、専門の研究領域で、A説とB説との対立に直面すれば、双方を公正に比較対照し、どちらに理があるか、しかるべき根拠を挙げて論証し、議論するはずです。ところが、圧倒的多数の東大教員は、学生処分という学内問題、自分の現場の問題について、教授会側の見解をA説、学生側の主張をB説とし、双方を公正に比較対照して、理非曲直を明らかにしようとはしませんでした。それどころか、医学部と文学部の教授会が犯した、科学者として致命的な事実誤認を正さないまま、機動隊を導入し、授業を再開して、「正常化」に突き進みました。私たちは、そういう「正常化」に反対して、「連続シンポ」を開設したわけです。

さて、その「連続シンポ」では、参加者の関心が、学内から学外へ広がり、公害・差別・教育という三つのテーマに収斂しました。というのも、全共闘運動は、敗戦後の学生運動史上、おそらくは初めて、「『被害者』意識に根ざす権利主張から、『加害者』性の自覚にもとづく『自己否定』へ」と脱皮しました。つまり、大学内で弱い立場にある、たとえば処分を受ける立場の学生が、「被害者」として、自分たちの権利を主張し、拡張する、たとえば「トイレット・ペーパーをそなえよ」と当局に要求する、そういう「日常生活改良運動」の限界を察知し、学内では、学生以上に、あるいはまさに学生によって、差別され、抑圧されている職員や臨時職員に注目し、さしあたり「臨時職員を正規の職員として雇用せよ」と要求する「臨職闘争」に立ち上がりました。同時に、全社会的に見ると自分たちが「加害者」の位置にある、という関係を見据え、「自己否定」の思想を孕み、社会的に抑圧された人々の闘争にかかわって、その「自己否定」を「実あらしめよう」としました。この「被害者」「加害者」という言葉は、さきほどの映画でも、井上君と工野君の対話のなかに出てきて、当時の若者に共有されていた思想であることが窺えます。

さて、「連続シンポ」では、公害問題へのかかわりから、「エチル化学労組を支援する会・東京連絡会」が生まれたのですが、他方、こういうことも頻繁に起きました。たとえば1971年の「新潟第二水俣病」問題では、「原因が、阿賀野川流域にある昭和電工の工場廃水ではなく、新潟地震で信濃川河口の倉庫から流れ出た農薬にある」と唱える、御用学者に行き当たりました。教員研究者が、「専門の研究領域でもやはりいい加減で、理非曲直を明らかにして去就を決めることができない、あるいは、少なくともそうしてはいない、そういう実態の、誰の目にも明らかな典型例に出会ったのです。196869年学園闘争が、教員研究者について、状況の問題にはまっとうに対応できない実態を暴露したとしますと、こんどは、そういう「専門バカ」が、専門の研究領域では、立派な科学者なのか、それとも、やはりいい加減で、「バカ専門」でもあるのか、この点を、専門的研究-教育の中身内容に踏み込んで具体的に検証していく、という課題に直面したわけです。ちなみに、この「専門バカ」あるいは「バカ専門」という言葉は、抽象的な罵言として「一人歩き」する危険がありますので、私は使用を避けましたが、当時、助手共闘のなかには、「『専門バカ』は『バカ専門』でもある」と主張し、自分が所属している学部の教員の専門的な研究内容を、批判的に洗い出そうとする人もいました。

この点、「連続シンポ」では、たとえば工学部と薬学部について、「対抗ガイダンス」という企画が生まれました。つまり、当該学部に進学を予定している学生たちに、それぞれの学部の、研究-教育内容上の問題点を示し、批判的なスタンスの覚醒と堅持を呼びかける試みです。また、「連続シンポ」とは別に、理工系の若手研究者からなる『ぷろじぇ』同人(この誌名から推して、サルトルの影響を受けた人たちと思われます)が、駒場で、当時工学部の教員が進学生向けに編集した「工学入門」の教科書を採り上げ、執筆者を招き、フロアの進学予定者を前に、その問題点を指摘する「公開討論集会」を開いたことがあります。そこでは、同人の山口幸夫さんらが、教科書に出ている数式やデータの誤りまで、克明に抉り出し、執筆者は「返す言葉もなく」、学生たちも驚いて、これから進学しようとする工学部の研究・教育内容にたいしても、批判的スタンスを堅持しようと「肝に銘じた」ことでしょう。

私も、その会場にいて、「ここに、学園闘争のつぎの課題がある」と予感しました。しかし、この点については、他に、いろいろなお考えが、ありましょう。じつは、今日のこの会にも、東京都立大学で高木仁三郎さんの同僚であった、私と同年の湯浅欽史さんが、お見えになっていますので、ご意見を伺えたら、と思います。

私の考えでは、196869年の学園闘争は、全体として見ると、そういう課題への個々の萌芽は生まれても、なにか系統的な取り組みにはいたらなかった、と総括できそうです。そういう方向で、たとえば政府の審議会委員になっている「専門家」ないし「学識経験者」について、かれらの専門的研究内容を批判的に検証し、併せて審議会発言との整合性も問う、というような試みが、はたしてどの程度、なされたでしょうか。そういう課題を担いきれる批判勢力が、大学現場には残されなかったために、たとえば東大工学部の原子力工学科が「原子力ムラ」御用学者の温床となり、かれらが無責任に振る舞う足場になった、ということはないでしょうか。

いま、エチル化学労組の闘いに照らして、196869年の第一次学園闘争に、そういう限界が認められるとしますと、そこのところを批判的に総括し、乗り越えていく方向に、今後の課題があろうか、と思われます。

ご静聴、どうもありがとうございました。