マックス・ヴェーバーにおける「歴史-文化科学方法論」の意義--佐々木力氏の質問に答えて(117日)

 

 

佐々木力様[第一便]

 

お問い合わせの件に、以下のとおりお答えいたします。

結論から申しますと、貴兄が「歴史的論理の悲哀」と訳出されている原文は、ヴェーバーが1906年『社会科学・社会政策論叢』に発表した論文「文化科学の論理学の領域における批判的研究Kritische Studien auf dem Gebiet der kulturwissenschaftlichen Logik(Johannes Winckelmann編『科学論集Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre1922, 7. Aufl., Tübingen: Mohr, S.215-290 に収録) S. 268-69に、つぎのように出てきます。

 

Wie sehr die Geschichtslogik noch im argen liegt, zeigt sich u. a. auch darin, daß über diese wichtige Frage weder Historiker, noch Methodologen der Geschichte, sondern Vertreter weit abliegender Fächer die maβgebenden Untersuchungen angestellt haben.(イタリックは引用者、以下同様)

 

盛岡弘通氏は、ここを、

「歴史の論理学がいまなおどんなに悪い状態にあるか等は、なかんずくこのような重要な問題について権威ある研究をなしている人達が、歴史家でも歴史の方法論者でもなく、かえって歴史からかなり離れた専門の代 [] 者達であったということからも、わかることである」(盛岡弘通訳『歴史は科学か』1965、みすず書房、p. 181、アンダーラインは引用者、以下同様) と訳出しています。

 

ベンサイド氏も引用しているJulien Freundの仏訳 (小生の手許にある版はÉtudes critiques pour servir à la logique des sciences de la «culture»”, Essais sur la théorie de la science, 1965, Librairie Plon, pp. 203-299) では、この箇所が、

“On saisit entre autres la détresse de la logique de l’histoire au fait que les recherches décisives sur cette importante question ont été entreprises non pas par les historiens ou les théoriciens de la méthodologie en histoire, mais par des représentants de spéecialités très éloignées de cette discipline (p. 272).

と、ほぼ正確に訳出されています。

ちなみに訳者のフロイントは、Freundという姓とJulienという名からも推認されるとおり、生前、独仏の言語と文化に通じたストラスブール大学教授で、ヴェーバー文献にかんする最良の仏訳者といえましょう。

 

原文を直訳すれば、「歴史の論理学が、いまなおどんなに振るわない思わしくない状態にあるかは、なによりも、こうした重要な問題について研究上の指針を提供するような研究が、[歴史研究をじっさいにおこなっている]歴史家[たとえばエドゥアルト・マイヤー]でも、歴史の方法論者 [歴史研究をじっさいにおこないながら、その方法論的反省と研究の本質・目的・方法・視点などにかんする論理的定式化もこなせる論者、たとえばヴェーバー自身やジンメル] でもなく、歴史研究からはかけ離れた専門学科の代表者ら[たとえばヴィンデルバント、リッカート、など]によってなされている[「やらかされている」というニュアンスあり]という実情からも、分かる」となりましょうか。

 

問題は、このla détresse de la logique de l’histoireを「歴史的論理の悲哀」というふうに訳せるかどうかです。そこで、この論文全体の趣旨と、そのなかでこの語が用いられているコンテクストを参照しますと、「悲哀」という「主観の状態」を指す訳語は、エドゥアルト・マイヤーの「主観的状態」としても、それにたいするヴェーバーの批判ないし揶揄の表明としても、あるいはまた、ヴェーバー自身が感じていた「悲哀」と解しても、どうも適切ではないようなのです。それには、この論文全体の趣旨と、この語のコンテクストについて、ご説明する必要がありますが、ちょっと長くなりますので、今日はとりあえず、お問い合わせの典拠と訳語についての応答のみ、お伝えいたします。(2014114日記)

 

 

佐々木力様[第二便]

 

ヴェーバー論文「文化科学の論理学の領域における批判的研究」(1906) の、全体の構成と趣旨、および “la détresse de la logique de l’histoireのコンテクストと意味について、小生の理解を、お伝えします。

 

この論文は、ふたつの章、

エドゥアルト・マイヤーとの批判的対決に寄せて Zur Auseinandersetzung mit Eduard Meyer (Éléments pour une discussion des idées d’Édouard Meyer)、および

. 歴史的因果考察における客観的可能性と適合的因果連関 Objektive Möglichkeit und adäquate Verursachung in der historischen Kausalbetrachtung (Possibilité objective et causalité adéquate en histoire)

  から、構成されています。

 

  . は、1902年発表のマイヤー論文「歴史の理論と方法」(盛岡弘通訳『歴史は科学か』の前半pp. 1-176に邦訳が収録) に示された、古代史家マイヤーの認識論的反省と論理学的定式化にたいする否定的批判にあてられています。

それにたいして、. は、ヴェーバー自身が、マイヤーに代わって、「歴史の理論と方法」を、 (マイヤー自身の歴史叙述ほか) 具体的例解も交えながら、論理的に定式化していく、(の否定的批判の) 積極的展開です。

 

著者のベンサイドも指摘しているとおり、ドイツの学界とくに歴史学を含む文化 (人文) 科学界では、マルクスの没年後から20世紀初頭にかけて、それまで踏み慣らされてきた道を安んじて歩きつづけることができなくなり、個別学科の専門家も、自分が携わっている専門的研究の(本質・目的・方法・視点その他の)前提に不安を感じて、認識論的反省とその論理学的定式化を余儀なくされました。なぜそんなことが起きたのかはともかく、古代史の巨匠エドゥアルト・マイヤーも、そのひとりで、そうした反省を「歴史の理論と方法」にまとめ、歴史研究を改めて基礎づけようと企てたわけです。

 

ところが、当時、認識論や論理学のような哲学的学科も、すでに専門化を遂げており、歴史学ほか、sachlich (即対象的・経験的) 諸学科の専門家が、側面的に手を染めて、精通し修得しきれる域を、越えてしまっていました。そのため、マイヤーのような巨匠も、いざ自分が通じてはいる歴史研究の諸前提について論理学的な定式化を試みると、論理学の専門家にも、そうではないヴェーバーにさえ、容易に見破られるような誤謬や不備が目立つ、というわけです。こうした思想状況は、確かに détresse [隘路、窮境、苦境] として、総括され、特徴づけられましょう。

 

それではヴェーバーは、この状況に、どう立ち向かい、この「隘路」「窮境」をどう打開しようとするのでしょうか。

前提として、ヴェーバー自身は、歴史学ほか、sachlich (即対象的・経験的) 諸学科の側に立ち、その発展は、前提を際限なく反省することによってではなく、「じっさいのpraktisch」研究に専念することによって初めて達成される、と説きます。そして、この点について、「歩行の解剖学的原理を把握したうえで歩こうとする人は、ぎこちなくなって、かえって転びかねない」という比喩を引きます。ヴェーバーがいっているわけではありませんが、「ピアニストが自分の指を意識すると、弾き損なう」ともいわれていますね。

 

さて、それでは、マイヤーもその弟子たちも、哲学的学科からの秋波や横槍など見向きもせず、ただひたすら「じっさいの」研究に没頭していればいいのか、といいますと、そうはいきません。認識論的・論理学的詮索という「思想潮流」に浸されてしまっている研究仲間や弟子たちが、巨匠マイヤーの誤った「解剖学的原理」を信じて、つぎつぎに「躓く」危険があるからです。

 

そこで、ヴェーバーの出番となりますが、かれは、一方では、マイヤーの誤りと不備を剔抉し ()、他方では、かれの「じっさいの」研究には含まれ、かれが順当に駆使してもいる方法 (「客観的可能性」の範疇による「歴史的因果帰属」) を取り出し、かれに代わって論理学的に正しく (「客観的に整合合理的」に) 定式化し、かれの実例も具体的例解には活用して、分かりやすく解説 ()、研究仲間や弟子たちの方法会得を促して、「じっさいの」研究に立ち帰らせようとします。

 

そのさい、批判の相手が、マイヤーのように実績のある巨匠であるということが、かれでさえ誤るという深刻な警告・否定的教訓として、他方、かれがじっさいに駆使している方法は、非専門家 (歴史家ではない哲学的学科の専門家) 生半な批判にはびくともしない正しい核心をそなえている、という肯定的確信 (「じっさい」の研究の駆動因) を生む拠り所として、二重に「教育的」意義を帯びます。ヴェーバーの方法論論文はいずれも、こうした(後述のとおり、じつは「アカデミー」の範囲を越える)いうなれば「教育者的使命感」に裏打ちされているように、小生には思えます。

 

ですから、ヴェーバーが、章では、「歴史の論理学」の現状を、マイヤーの不備と誤謬も含め、détresseと総括するにしても、章で、当のマイヤーに的を絞って対決し、所説の難点を逐一剔抉していくときには、一貫して、“confusion” (218)“contradictions frappantes” (221)entièrment fasse” (222)insuffisance” (237)“la pierre d’ achoppement” (243)certaines obscurités et contradictions” (254)confondre” (260) など、論理上「客観的に整合合理的か、それとも非合理的か」にかかわる用語に限定して、自他の「主観的状態性」への言及は避け、sachlichな議論に徹しています。マイヤーの読者は、マイヤー自身が、「歴史の理論と方法」の論理上誤った定式化に、「じっさいの」研究では忠実にしたがわずにいてくれてよかったと、安堵して胸を撫で下ろすであろう、というのです。そういうフェア・プレーの意気に感じたのか、マイヤーも、徹底的に論難されていながら、ヴェーバーの議論を快く受け入れ、いっさい反論しなかった、とも伝えられています。

それでは、そうした章の否定的批判を踏まえ、章で積極的に展開される「歴史の論理学」「歴史的因果帰属の論理」とは、どういうもので、そこではマイヤーの実例がどう活用されているのでしょうか。

ヴェーバーは、古代史家マイヤーが、「マラトンの闘い」を含むペルシャ戦役の「歴史的・因果的意義」を「じっさいには」見事に論証していると判断し、その論理をつぎのように取り出してみせます。すなわち、かりにギリシャ勢がペルシャの大軍に敗北していたとすれば、ペルシャは、他の征服地でも企てたのと同じように、被征服民の野放図な叛乱を虞れ、被征服地の密儀や宗教を「大衆馴致Massendomestikation(ちなにみ、この術語は、この1906年論文にはまだ出てきていません) の手段として活用しようと、ギリシャ側にも出揃ってはいた(デルフォイの密儀やオルフィク教といった)萌芽を培養して、「祭司的・教権的支配体制」あるいは「神政政治体制」にまで伸長させたであろう (古代ペルシャのような「世界帝国」の支配者が、通例反復して規則的に採用する統治-支配策の「一般経験則」を引き合いに出した「客観的可能性判断」)。その結果、その後のギリシャでじっさいには発展したような「世俗的で自由な精神」は、抑止され、「日の目を見なかった」にちがいない。ところが、じっさいにはそうはならず、「世俗的で自由な精神」(歴史研究の対象として「知るに値する」古代文化の遺産)が開花し、展開された、という「結果」は、そのかぎりで、「マラトン戦につづくギリシャ勢の勝利」という歴史的「与件」「前件」「原因」に「因果帰属」される、と。この論理は、じつは「比較対照試験」における「対照群」の「思考実験」的「構成」に相当します (富永裕治・立野保男訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』1998、岩波文庫、pp. 236 ff.)

 

そのように、歴史記述から歴史学的因果帰属に移ろうとすると、ペルシャ戦役やその前後の歴史的経緯にかんする「史実的知識ontologisches Wissenだけでは足りず、そこに、「人間が、所与の類型的状況に、通例いかに反応するか」にかんする「法則的知識nomologisches Wissen」を投入・援用し、「史実的知識」に関連づけてみなければなりません。換言すれば、歴史家が的確な「因果帰属」という研究目的を達成するには、「史実的知識」がどんなに豊富でも、それだけでは足りず、それに関連づけられるべき「法則的知識」の備えも万全で、よく整備されていなければならない、というわけです。この「法則的知識の定式化と整備」という課題が、その後、「理解社会学」に引き継がれ、「社会学的決疑論」という「整理の行き届いた道具箱」がしつらえられます。そのさいに、「大衆馴致」という概念も構成され、決疑論の一環に編入されます。

 

さて、ヴェーバーの場合、重要と思われるのは、このように定式化され、例解される「歴史学の論理」が、なにかアカデミーの歴史家だけの、いわんや専門的論理学者や哲学者だけの、特別に深遠で秘教的・特権的な論理操作といったものではなく、本来健全な人間常識と思考に具備されているもので、歴史学ほかの学問はただ、それを精錬し、拡張するにすぎない、と見ていることです。さればこそ、ヴェーバーは、この論理を、つぎのような市民生活のありふれたエピソードによって、具体的に例解することができます。

ある若い母親が、(時代的制約を受けた話ではありますが) 女中との口論の最中、子どものちょっとした悪戯に苛立って、ついビンタを加えてしまったそうです。その現場に、運悪く夫が帰宅しました。すると、その若い母親は、「じつは、女中と喧嘩していたために、こんなことになってしまった。いつもの私なら、『体罰は心に染み通らない』という良き戒めを守って、手荒なことはけっしてしなかったでしょう。あなたもよくご承知のように」と釈明したそうです。この件を、論理学的に定式化しますと、彼女は、手荒なビンタという現に起きた「結果」を、女中との口論という特異な「前件」に、そこから生じた「偶然的連関」として「因果帰属」しようとし、通例なら適合的連関」として「心に染みる説諭」をしていたにちがいないという「客観的可能性」を、彼女の「恒常的習癖」(反復される通則) にかんする夫の「日常的経験知」に訴えて、主張した、ということになりましょう。別言すれば、自分の「恒常的動機」にかんする夫の「法則的知識」に訴え、問題のビンタが、別人との喧嘩という特別の条件によって誘発された、状況への「偶然的」反応で、「適合的」な「因果連関」をなしてはいない、と論証しているわけです。

 

ゲオルク・ジンメルにも、たとえば「原因と結果とは『一対一』的には固定化されない」、「同じ類型的状況は、当事者の選択を介して、類型的に多様な諸結果を生じうる」という命題を、(1)「二大政党の対立という状況から、①政権党が、野に下ったときのことを慮って、野党にも寛大に対処する、②金輪際、政権を手渡すまいと、野党を切り崩し、徹底的に弾圧する、という類型的二『結果』が生ずる」、あるいは、(2) 近世初頭における北イタリア諸都市の抗争のさい、ある都市の首長が、他都市の捕虜となったにもかかわらず、寛大に処遇されて釈放されたあと、①この処遇に感謝して同じく寛大に応答するであろうという [適合的な] 予想に反して、②かえって激しい反攻に出て、『恩義ある』相手都市を滅ぼしてしまった、という事例を挙げ、なぜかといえば、「ほかならぬ『寛大な』処遇に、かえって戦士としてのプライドを傷つけられ、その『屈辱を晴らそう』としたからだ」というふうに説明しています。

 

さて、管見では、ヴェーバーとジンメルは、「一般的定式から同じく一般的定式へ」と、もっぱら抽象的平面に立て籠もって、読者を寄せつけない、多くの専門的「哲学者」「論理学者」「方法論者」とは異なり、読者も知悉している具体的事実と (読者には一見奇異で難解な) 論理学的定式化との間をたえず往復して、読者を引きつけ、そうすることによって、読者自身がそなえている健全な人間常識と思考力を目覚めさせみずから駆使できるように、(具体的な会得と活用を) 促す、という長所をそなえています。

 

そして、小生は、かれらのこうしたスタンスと影響力には、「アカデミーの良き教師」に限定されない、それ以上の意味がある、と考えます。

というのも、若きマルクスは、「哲学が、大衆の心を捕らえるや、物質的な力になる」と語ったと伝えられていますが、それは、どういう「哲学」が、いかに「大衆」に差し向けられるか、によっても決まる、と思われます。まかり間違えば、自分にはさっぱり分からない (じつは分かりようのない) 抽象命題を、「権威ある」教条ないし公式として振り回し、他党派との「識別標識」として固定化する、といった弊害も生じかねません。小生の偏見でなければ、敗戦後の日本マルクス主義には、スターリン教科書 (『経済学教科書』や『弁証法的唯物論』) の時期ばかりか、その後にも、そうした弊害が引き継がれ、じつは「新左翼」の「広松哲学崇拝」にも、そうした傾向が看取されるように思えます。小生が、「公開自主講座『人間-社会論』」には、むしろヴェーバーの方法論的著作経験的モノグラフ類とを「媒体」「教材」に採用し、一貫して双方の統合的読解につとめてきた所以でもあります。

なるほど、「公開自主講座『人間-社会論』」では、健全な人間常識と思考力の、会衆者参加者自身による掌握と自覚的駆使は、小生自身の力量不足にもよることながら、じつはとても難しい課題である、と痛感しました。しかし、それこそが「根底からの民主化Demokratisierung von Grund ausの要で、これが十分に定着し、先行していませんと、「民主主義運動を社会主義の方向に『領導』『総括』していく」といっても、容易に「上からの引き回し」(と、それへの反発者における同じ弊害の分散的縮小再生産) に終わりはしないか、と危惧されます。

それとともに、労働者階級が、つぎの恐慌のさい、どれほど組織的団結にいたったとしても、技術労働者と連帯できず、技術の基礎にある合理的原理からは疎隔されたまま、技術を制御できないのでは、資本制「生産関係」のもとで発展した「生産力」を土台に、つぎの社会主義的「生産関係」を樹立することはできないのではないでしょうか。この観点からも、技術労働者を養成する大学の教育、とりわけ、体制選択を含む社会問題への個々人の態度決定に与る「教養」教育の意義が、それだけ注視されましょう。

 

大局的に見て、前世紀には、社会主義を目指す運動が、大恐慌後、社会主義ではなくファシズムを生んでしまったわけですが、そういう「産みの苦しみにしては大きすぎる」犠牲 (随伴結果) と、1989年にいたっての「内部崩壊」とを、他勢力のせいにはせず、ヴェーバーの「責任倫理」思考を媒介に、直視・切開・分析のうえ、「環境社会主義」として「こうすればいい」という方向性を、大胆かつ説得力をもって示せれば、昨今の思想的閉塞状況も突破できるのでないか、と期待されます。

さて、ここからは (貴兄のお問い合わせにたいしては) 蛇足ですが、ヴェーバーにおける「法則的知識」の位置づけを、編年史的にたどってみましょう。

1. 「客観性論文」(1904年)段階では、それを「歴史的因果帰属」に不可欠とは認めGWzWL: 179、富永・立野訳: 89-90ながらも、その取り扱いは、個々の歴史家に委ねられ、「ケース・バイ・ケース」とされていました。

「(もっとも広い意味における)歴史家が、自分個人の生活経験によって培われ方法的に訓練された想像力をもって、どれほど確実に、この帰属をなしとげることができるか、また、この帰属を可能にしてくれる特定の科学の援助にどこまで頼るかは、個々のばあいに応じてまちまちである。しかし、いかなるばあいにも、したがって、複雑な経済事象の領域においても、そうした帰属の確かさは、われわれの一般的認識が確かで包括的であればあるほど、それだけ大きくなる。そのさいつねに、したがってすべてのいわゆる『経済』法則においても、例外なく問題となるのは、精密自然科学の意味における狭義の『法則的』連関ではなく、規則の形式で表される適合的な因果連関であり、ここでは立ち入って分析するわけにはいかないが、『客観的可能性』という範疇の適用である。……ただ、そうした規則性の確定・定式化は、認識の目標ではなく、手段である。そして、日常経験から知られる因果結合の規則性を『法則』として定式化しておくことが、意味をもつかどうかは、いずれのばあいにも、そうすることが目的に適うかどうかの問題である」(GWzWL : 179、富永・立野訳: 90-91)。

 

2.「マイヤー論文」(1906) では、そうした「法則科学」的契機が、上記のとおり、「史実的知識」とならぶ「法則的知識」と命名されたうえ、「因果帰属」に不可欠の権能が、具体例に即して認定され、解説されます。しかしなお、「法則的知識」を、それ自体として方法的な開拓-定式化-整備-体系化の対象として、そうした課題に取り組むにはいたっていません。ところが、

3. (「マイヤー論文」よりも後に執筆されたと思われる)「クニースと非合理性の問題 ()」では、下記のとおり、注目すべき一歩が踏み出されます。

「[ヴィルヘルム・ブッシュの著作には]『ひとが悲しんでいるときに喜ぶ人は、たいてい [通例] 人に好かれない』という適切な成句が出てくる。とくにかれが事象の類的なものを、きわめて正確に、必然性の判断ではなく『適合的因果』の規則として捉えているあたり、この成句は、非の打ち所なく定式化された『歴史法則』である。その内容の経験的真理性が、たとえばボーア戦争後におけるイギリス-ドイツ間の政治的緊張の『解明』に適した補助手段として(もとより、おそらくは本質的にいっそう重要な、他のきわめて多くの契機とならんで)活かされることは、疑う余地がない。

ところで、その種の政治的『気分』の発展を [なにほどか方法的また系統的に、たとえば]『社会心理学』的に分析すれば、もとより多種多様な観点のもとに、たいへん興味深い成果が達成され、その成果は、そうした事象の歴史的解明にとっても、このうえなく重要な価値を獲得できるかもしれない。しかし、かならずしもそうではない。具体的なばあいに、『通俗心理学的vulgar-psychologisch』経験では物足りないといって、歴史的(ないし経済的)叙述をも、つねにできるかぎり心理学的『法則』を引き合いに出して飾り立てようとするのは、一種の自然主義的な虚栄心に根ざすもので、具体的なばあいには、科学的研究の経済性にたいするひとつの違反[『通俗心理学』的経験で十分なのに、ことさら手間隙をかける無駄]になろう。

原則上『理解的解明verstehende Deutung』という目標を堅持する、『文化諸現象』の『心理学的』取り扱いには、論理上かなり異質な性格をそなえた概念を構成することが課題になると考えられるが、類概念Gattungsbegriffeと、『適合的因果の規則』という広い意味における『法則Gesetze』の構成もまた、必然的にそうした課題に含まれることは、明らかである。後者 [『適合的因果の規則』という広い意味における『法則』] は、文化現象を解明するばあい、解明の『一義性』への関心に照らして必要な程度の、因果帰属の相対的な確実性を、『日常経験Alltagserfahrung』が保証するには足りないばあいにのみ、しかしながらそのばあいにはつねに、価値あるものとなる。ただし、そうした [概念構成の] 成果の認識価値は、まさにそれゆえ、通例、具体的な歴史的形象を直接理解し「解明」することとの関連を犠牲にしても数量化的な自然科学に似た定式や分類を追求しようとすることが、少なければ少ないほど、また、その結果、自然科学的諸学科がその目的のために使用する諸前提を受け入れることが少なければ少ないほど、それだけ大きくなろう。たとえば『精神物理学的並行関係』というような概念は、『体験しうるものの彼岸』にあるので、当然のことながら、この種の研究には、直接にはいささかも意義をもたない。そして、われわれが所有している『社会心理学』的解明の最良の業績も、その認識価値において、こうした [自然科学的諸学科の] 諸前提のいかなる妥当性からも独立しており、したがって、そうした業績を『心理学』的認識の包括的体系のなかに編入することは、無意味であろう。その論理上決定的な根拠は、まさに、歴史はなるほど、なんらかの現実の全内容を『模写する』――それは、原理上不可能である――という意味の『現実科学』ではないが、別の意味で、すなわち、与えられた現実の、それ自体として概念上は相対的にしか確定しえない構成要素を、『現実のreal』構成要素として、ある具体的な因果連関のなかに嵌め込む、という意味では『現実科学』である、という点にある。

ある具体的な因果連関の存在にかんするそうした個々の判断は、いずれも、それ自体としてただちに、かぎりなく分割されうるものであり、そうした判断のみが――法則的知識がまったく理想的に完成した暁には――精密な『法則』を用いて、完全な帰属に到達するであろう。しかし歴史認識は、具体的な認識目的が要求するかぎりで、そうした分解をおこなうにすぎない。そしてこの、必然的に相対的でしかない、因果帰属の完全性は、それを実現するために使用される『経験規則Erfahrungsregel』の、必然的に相対的でしかない確実性に、表明されている。このことは、言葉を替えていえば、方法的研究にもとづいて獲得されさらに獲得されるべき規則も、つねに、歴史的[因果]帰属に役立つ、おびただしい通俗心理学的日常経験の内部にあるひとつの飛地にすぎないnur eine Enklave innerhalb der Flut vulgar-psychologischer Alltagserfahrungということである。だが、経験とは、論理的な意味では、まさにそうしたものである」(GWzWL : 112-14, 松井秀親訳『ロッシャーとクニース』Ⅱ、1954、未來社: 87-90、改行は引用者)。

持って回った言い方で、やや難解ですが、「『[法則的知識としての] 経験規則』はつねに、歴史的 [因果] 帰属に役立つ『通俗心理学的日常経験の洪水の内部でひとつの飛び地をなすにすぎない」と位置づけ、一方では、そこから乖離して「心理学的『法則』を引き合いに出しては飾り立てようとする」(学知の) 傾向を、「一種の自然主義的な虚栄心」として斥けながら、他方では、そうした「経験規則」を「方法的研究にもとづいて獲得し、さらに獲得していく」ことに意義を認め、その方法として、 クレペリン流の自然科学的「心理学」(「精神物理学Psycho-physik) ではなく、ここでは「社会心理学」を考えている、と申せましょう。

その直後から展開されるかれの「理解社会学」は、まさにそうした「飛び地の方法的開拓にあたります。しかし、それがあくまで、「『通俗心理学的』日常経験の洪水の内部にあるひとつの飛び地」(その意味における「域内辺境) と位置づけられ、見据えられているかぎり、けっして、そこから乖離して、学知として自己目的的に展開され、自己完結してしまうことはありません。ヴェーバーがその後、どんなに「社会学」的決疑論の編成と体系化を進めても、つねに「日常経験知」「通俗心理学的知識」に立ち帰って、その参照を求める所以です。

たとえば、(エジプトとメソポタミアとの大帝国の狭間にある古代イスラエルで、独創的な宗教伝説が歴史的に成立したのはなぜか、を「因果的に説明」すべく援用される) 件の一般経験則、すなわち「新たな宗教思想が創成されるのは、合理的文化の大中心地ではなく、さりとてその影響のおよばない遠隔僻地でもなく、その影響がおよんで『驚き』を触発された (空間的には) 辺境の文化接触地点においてである」という一般命題にも、「(「合理的文化の大中心地」における「文化的飽満satt; gesättigt状態」という一般的条件のもとで) 電車通学に慣れっこになってしまった子どもは、『なぜ電車が動き始めるのか』という疑問に、自分からは思いいたらない」という「日常経験知」が織り込まれています。ヴェーバーの同時代人も、自分たちが日常的には「慣れっこになって」溺れている「洪水」から、あくまでその内部にある飛び地』」(すなわち「ヴェーバー社会学」) に導き入れられるとき、「そういうこともあったのか」という「驚き」を触発され、「なぜか」と問い始めることにもなろう、そこにこそ、「飛び地」を丹念にしつらえる意義がある、というわけです。

 

としますと、この一例のようなヴェーバーの「理解社会学」的「一般経験則」「法則的知識」は、任意の歴史的過去の歴史的因果帰属に不可欠なばかりでなく、むしろ過去を現在に媒介し、現在における「諸要因・諸条件の個性的な布置連関」から、いかなる未来が「客観的に可能」か、を予測するのにも、不可欠かつ活用可能、あるいは、革命的実践を含む状況内投企が、所与の布置連関のもとで、およそ「客観的に可能」か、あるいはまた、いかなる随伴諸結果」をともなうことになるか、を予測するのにも、不可欠かつ活用可能、と考えられましょう。ヴェーバーが、第一次世界大戦にいたるドイツの政治過程に深くコミットし、敗戦後には大学に復職しようとして、いくつかの選択肢からミュンヘン大学を選んだとき、とくに「社会学」的学科の担当を願い出て実現したのは、当の「社会学」に、まさにこうした意味を付与していたから、と思われます。

 

とはいえ、第一次世界大戦前後のドイツを中心とする政治史および思想史に遡って、ヴェーバーの実践的去就を具体的に究明することは、今後の課題に属します。

それにもかかわらず、貴兄に、「お問い合わせにたいしては蛇足」と思いながら、こんなことを先走ってお伝えするのは、貴兄こそ、科学史の専門家にして、その前提を反省して論理学的に定式化できる方法論者・科学哲学でもあり、なおかつ、「根底からの民主化」から始めて「環境社会主義」の方向に進むという難題に、実践的にも取り組んでおられるからです。そういう貴兄にして初めて、マルクス没後から20世紀初頭にいたる「アカデミックな文化科学と哲学」(の「隘路、窮境、苦境」) の死重から、ヴェーバーやジンメルの「生ける要素」を取り出して洗練し、ベンサイド評価にも活かしていただけよう、と確信し、期待するからにほかなりません。

 

第九章の訳文と貴兄の解説を、いちおうは拝読して、気がついたところには朱をいれておきましたので、ご参考になさってください。

 

2014117

折原