佐々木力著『東京大学学問論―学道の劣化』への「あとがき」補遺(折原浩) [423日、改訂]

 

A学兄

  このたびは、ご多忙中にもかかわらず、佐々木力著『東京大学学問論――学道の劣化』(2014320日、作品社刊)をご一読くださり、立ち入った感想までお寄せいただき、まことにありがとうございました。各位のご感想に接し、小生の「あとがき」の趣旨につき、多少補足したい点も出てまいりました。以下にしたためますので、お暇の折、ご笑覧いただければ幸いです。

  まず、小生の「あとがき」は、あらかじめ当事者双方の所見を尋ね、比較照合して事実を究明し、そのうえで理非曲直を示す、というものではありません。その点で、公の裁判を経て、当事者双方の所見を比較対照し、「公判調書」も資料として活用し、東大当局の不正・不当(事実誤認による冤罪処分)を立証した前著『東京大学――近代知性の病像』(1973年、三一書房刊)とは、著作としての性格を異にします。今回も、前著と同じようにしたいとは思いましたが、当局側が情報を公開していない現状では、そうしようがありません。では、何もできないか、何もしなくてよいのか、といいますと、そうではありません。現状でもできること、なすべきことがあります。

佐々木氏にたいする「セクハラ」容疑の停職処分、大学院生にたいする研究指導権の度重なる剥奪(いずれも「特別権力」の発動)が、近代市民法にもとづく裁判なみの、(相対的には) 公正な手続きも踏まず、東大「キャンパス・コート」の密室で、素人の警察官兼検察官兼裁判官により、一方的に判告されたことは、事実です。そこからさらに、(他の教員には通例、おおかた異論なく認められる)「名誉教授」の称号が、佐々木氏には拒まれ、そうした一連の不利益処遇の随伴結果として、国内における再就職の道が断たれたことも、ほぼ確かでしょう。としますと、そういう一方的な不利益処遇を、手をこまねいて見すごすわけにはいきません。たとえ事後的にではあれ、当初の原因に遡って、事実と当否を問い、当局の措置を検証して、非があれば是正を求める必要があります。東大がせめて、近代市民法なみの水準に達するには、ぜひそうしなければなりません。そのために、佐々木氏は本書で、一方の当事者として所見を述べました。それを受けて、小生は、氏の所見内容に、「客観的可能性」の範疇を適用し、まずはその平面で検証しました。この方法手順に限定していることは、「大いにありそうに思われる」「もし、……ならば、……と危惧する」といった表記からも、確認していただけましょう。その結果、佐々木氏の所見を「発表に値する」と判断し、管見を「あとがき」に添え、他方の当事者と当局に、反論と情報提供を求め、「公開された議論の場」で事実と当否を争おう、と提唱しているわけです。

なるほど、小生は、長年にわたる交友から、「佐々木氏が、学問一筋に生きてきた人で、『セクハラ』など犯すはずがない」と確信しています。その意味では、佐々木氏側に荷担しています。しかし、だからといって、「個人的・即人的persönlich」な友情にかまけ、自分の主張を無理にも押し通そうとするのではありません。他方の当事者と当局の反論が出て初めて、双方の所見を比較照合し、事実を究明し、理非曲直を明らかにする条件が整います。そのとき佐々木氏は、論証をもって争うでしょうし、小生にもそうする用意があります。この点も、はっきりとそう断わっています。そのときには、学兄もどうか、所見を発表し、論争に加わってください。ことは、日本の高等教育が今後どうなっていくか、どうすればよいか、にかかわる問題です。

 

  ところで、この案件については、こうした基本的態度決定にたいしても、「『セクハラ』問題の機微は、学問一筋に生きてきた人もまま犯す『特異性』にあり」、「『公開された議論の場』に持ち出すことが『精神的なセカンド・レイプ』にもなりかねない」のだから、公開論争の提唱自体、「『セクハラ』問題にたいする『無理解』ないし『鈍感さ』を表白するにひとしい」という趣旨の批判が提起されるようです。そこであらかじめ、この批判にお答えすれば、なるほど「ファースト・レイプ」が犯され、しかも「被害者」が幼弱のため「公開の場で争えない」という前提に立てば、そういう配慮が必要不可欠でしょう。しかし、この佐々木処分については、「レイプ」は問題外として、そもそも「セクハラ」がおこなわれたのかどうか、おこなわれたとすれば、どんな行為が告発の対象とされ、どう「せクハラ」と認定されたのか、という当初の事実関係が、まさに問題です。一方的な密室判告の既成事実を、そのまま暗黙の前提として、「精神的なセカンド・レイプ」云々を持ち出すのは、本末転倒、少なくとも拙速ではありますまいか。しかもこのばあい、告発当事者は、立派な成人で、表現・自己表現力を人並み以上にそなえていると想定して差し支えない大学院生です。その点で、かりになにか障害があったとすれば、そもそも告発当事者となる資格そのものが問われていたはずです。

また、警察権・検察権・裁判権を一手に握って密室判告をくだした当局者は、素人ながら法学部の教員たちです。ちなみに「教員たち」というのも、主査の寺尾美子氏は、(佐々木氏側から伝えられている「ウッソー!」発言の真偽と是非は問わないとしても)自分の都合で、ある日、ある同僚に、代役を務めさせています。この点は、佐々木氏側の報告だけからも、まずまちがいない事実と推認されましょう。ところが、近代市民法にもとづく公の裁判では、申すまでもなく、裁判所の構成の変更、たとえば陪席判事の交代も、心証形成にかかわる重大事で、それほど気楽にできることではありません。この一件を取り出しただけでも、東大「キャンパス・コート」の密室判告を、無疑問的に「妥当」ときめてかかり、その前提のうえで議論するわけにはいかない、という事情を、ご賢察いただけましょう。

そのうえ、もう一歩踏み込んでよければ、そういう具体的事情を考慮せず、なにか「セクハラ」一般の「特異性」を盾に取って、案件を「公開された議論の場」に持ち出すこと自体に難色を示し、「門前払い」しかねない、そういう「理解」ないし「敏感さ」に、問題はないでしょうか。そういうスタンスが、そのまま一般化されて「一人歩き」しますと、それだけイデオロギー性を帯び、「臭いものには蓋」の風潮がはびこりかねません。そうなりますと、「ファースト・レイプ」ないし「ファースト・セクハラ」が「あった」と決めつけて、無実の人を社会的に葬ろうとする(あるいは、そう決めつけて葬ってしまい、誤ったと気がついても、引き返せず、黙殺して押し切ろうとする、自覚的であれ無自覚的であれ)「強権気質」の人々に、それだけ好都合ではないでしょうか。そういうイデオロギーの陰で、(「疑わしい手続きで、疑わしい事実認定にもとづき、不利益処分をくだされたら、『泣き寝入り』せず、異議を申し立てて争う」という、ただでさえこの日本社会に根付いたかどうか疑わしい)近代市民法的権利が、なしくずしに切り崩される、あるいは少なくとも後退する、というおそれはないでしょうか。

 

ここで、佐々木処分が発生した舞台とその歴史的背景に、一瞥を投じましょう。

小生は1968-69年の「東大紛争」当時、東大の医・文両学部の(このばあいは)学生処分について、処分者・教授会側の所見を「甲説」、学生側の所見を「乙説」に見立て、「医・文教授会→総長・学部長会議・評議会→各学部教授会」というルートで降りてくる情報を鵜呑みにはせず、事件現場に足を運び、双方の文書内容を具体的論点ごとに比較対照し、双方からのヒアリングも交えて、(「自分が教員である」という)「存在被拘束性」を抑制し、「価値自由」に事実を究明しようとしました。それが、一科学者として当然のことでした。

そのさい、学生側からは、かなり抵抗はありましたが、ヒアリングができました。ところが、教授会側は「ガードが固く」、豊川行平医学部長は、「人権上の問題があるので、証人の名前も証言内容も、裁判にならなければ出せない」といって情報公開を拒みました。そういっておきながら、後の裁判でも証言を拒み通したのです。ところで、「あとがき」にも記しましたが、その豊川氏は、1968625日の記者会見で、「『疑わしきは罰せず』とは英国法の常識で、わが東大医学部はそんな道理(法理)には支配されない」と豪語しました。これを聞いて驚いた荒瀬豊氏(当時、新聞研究所助教授)が『東大新聞』に投稿して抗議し、法学部教員にも専門家としての発言を求めましたが、法学部教員は、丸山眞男氏も含め、沈黙を決め込み、誰一人発言しませんでした。

そればかりか、法学部教員の加藤一郎総長代行は、1969118-19日の機動隊導入によって秩序回復を企てる直前、110日の「七学部集会」で取り交わした「十項目確認書」で、医学部処分の誤りを認め、責任者の「進退」に言及して「引責辞職」をほのめかしましたが、豊川医学部長と上田病院長はその後、停年退職まで居直りました。加藤氏は、少なくとも結果的に、学生を欺いたのです。そのうえ、加藤執行部の経済学部教員・大内力氏も、辞職の意向を表明して、これが『学内広報』にも載りましたが、やはり停年まで居座りました。この件を取り上げて『学内広報』の世論操作機能を問題とした小生に、広報委員長の法学部教員・篠原一氏は、「広報委員会が『調査権限』をもつと、おまえのほうこそ、事情を『調査』されるぞ」(要旨)と威嚇し、問題を広報委員会の権限一般にすり替えて、具体的虚報の責任は回避しました。 

いま少し細部に立ち入って、佐々木処分に連なる前史の類例を掘り起こしますと、196811月に、文学部学生が「文団交」で林健太郎新文学部長に「文処分」の事実関係を問い質し、事実がまさに明るみに出ようとした矢先、それまでは沈黙を決め込んでいた丸山眞男氏ほかの法学部教員が、現場に足を運んで事実を確認することもなく、いきなり「人権侵害」「大学を無法地帯とする暴挙」と決めつけ、マス・コミに「抗議声明」を発表しました(たびたび丸山氏を引き合いに出すのは、かれを「目の敵」にしているからではなく、もっとも良質と目されていたかれでさえこのとおりであれば「ましてや他の教員一般においてをや」という論法で、いちいち実証する手間をひとまず有意味に省けるからです)。すると、この「合図」を待っていたかのように、学内の「空気」が変わりました。たとえば教養学部では、西村秀夫氏や小生が、「全共闘が『話し合い』に応じず、『話し合い』解決の目途が立たないのは、『七項目要求』中の『文処分』問題が未決着だからで、ついてはその事実関係をここで検討しようではないか」と提唱しますと、それまではある程度聞く耳をもっていた教養学部教授会メンバーからも、「なに? 『文処分』の事実関係? どうしてそんなことを、いま教養学部教授会で話題にしなければならないのか!? もはやそんな段階ではない!!」と、猛烈な反発が沸き起こり、とても議論にはなりませんでした。公開の席ではありませんが、「林文学部長の『頑張り』を『反故』にする気か!?」「丸山教授らの『抗議』を『無』にするのか!?」と口に出す人さえいました。「あァ、これはもう『沈む泥船上のファッシズム』だ、何をいっても始まらない」という絶望が、一瞬胸をよぎりました。自分の身近な状況で現にみずから直面している問題を「わがこと」として捉えようとせず、ことの拠って来る所以を、科学者として当初の原因に遡って見極めようともせず、こういう派生態のどこかに引っ掛かって思考を停止し、なにかの切っ掛けをつかむや「バスに乗り遅れるな」とばかり「わっと」大勢に就くのです。

 

それもそのはず、「文処分」には、なんとしても隠し通さなければならない事実誤認がありました。文教授会も加藤執行部も、処分の対象とされたN君の行為を、1967104日の「文学部協議会」の閉会後、教員側委員の助教授・築島裕氏の「退席を阻止しようとした」行為と認定し (加藤一郎『東大問題資料1「七学部代表団との確認書」の解説』東大出版会、19693月刊、p. 75)、「退席阻止」という「行為目的」にかんする「意味解釈Sinndeutung」をくだしていました。ところが、学生側と教授会側の主張内容を照合して、築島氏とN君との「行為連関」を再構成してみますと、N君がなぜ(まだ室内にいる) 委員長の教授・玉城康四郎氏に (「文協」閉鎖への危機感から) 次回の開催と日取りの確約をとりつけようとして近づくのではなく(すでに室外に出てしまった) 平委員の築島氏に「並外れて激しい」「退席阻止」行為におよんだのか、その「主観的意味 (動機)」が、分かりません。そもそも「室における退阻止」とはなんのことか、さっぱり分かりません。ところが、先に出た築島氏が、まだ室内にいる同僚の退出空間を開けようと、N君を背後から「抑え」、N君が、この逆方向への「先手」にそれだけ激しく抗議した、と解釈しますと、双方の動機が「明証的」に「理解」され、行為の経過も、無理なく「説明」されます。この仮説が、じつは、後の文学部長・堀米庸三氏ほかの証言によっても「妥当」と立証されました。ところが、加藤執行部は、この事実誤認、とりわけ「行為目的にかんする意味解釈の誤りを温存したまま、1969118-19日、8, 500名の国家警察機動隊を安田講堂に導入したのです。

小生は、1972628日の東京地裁・木梨法廷で、当時の総長代行特別輔佐・法学部教員・坂本義和氏に、文教授会側の文書を示して、この件について問い質しました。しかし、かれは、「言葉尻を捉えた揚げ足取り」と決めつけて逃げてしまいました。その後も、この事実認定とりわけ「意味解釈」の誤りは、直視されず、反省されてもいません。

ところが、今回の佐々木処分では、氏が、南仏で開かれた国際会議への出席の途次、院生Yさんをフランス人の同僚数学史研究者夫妻に紹介して研究指導への支援を求めようとした (と主張している) 件について、法学部教員の渡辺浩氏を委員長とする『学内広報』の最終発表は、佐々木氏は「[Yさんを]海外旅行に同行するように継続的に誘い、[Yさんが]拒絶すると、そのことをもって[Yさんを]繰り返し侮辱的な言葉で非難し、あるいは叱責した……」と述べ、「誘い」「非難」「叱責」と抽象的に集約される行為の具体的実相も、その「動機」にかんする「意味解釈」の根拠も、明示しないまま、一挙に「セクシュアル・ハラスメントまたは、これに類する人格権侵害」と決めつけてしまっています(2005112日『学内広報』No. 1305p. 7)。

さてしかし、事実はいったい、どうだったのでしょうか。「疑わしきを(誤って)罰した」1967-68年の「医・文処分」についても、虚報による世論操作についても、反省のない東大当局、とりわけ法学部教員のことです。「今回も同じ誤りが犯された」とア・プリオリに速断はできませんが、過去の誤りが総括され、反省されていませんと、繰り返し犯されがちなのは確かでしょう。そうならないようにするのが、誤りを見据え、総括して引き継ぐ「歴史」の課題です。今回の件についても、少なくとも、Yさんの告発を受けての密室の「初審」から、この最終発表まで、どのように事実が認定され、とりわけその動機にかんする意味解釈が、どこでどういう根拠にもとづいてくだされたのか、立ち入って究明しておかなければなりません。そうすることが、将来の世代にたいするわたしたちの歴史的責任でしょう。

 

東大の教員は、放っておけば事実を隠し、いざとなれば「人を欺き」ます。1968-69年に事実が明るみに出されたのは、学生の叛乱があったからでした。ところが、その学生も、圧倒的多数は、利益と見るや「意図して欺かれ」、事実には「目をつぶり」ます。なるほど、学生のうちの少数は、一時的に叛乱は起こしますが、「抗しきれない」と見るや、すかさず「流れ解散」して、「不都合なこと」はよく忘れます。「自分たちが、何をめざし、何をどこまでやってきたのか、どこでどう挫折ないし妥協したのか」、きちんと総括して事実を記録し、次世代に引き渡し、「歴史を創る」ことができません。そういう学生が「東大紛争」のあと、強権的に回復されただけの旧秩序に舞い戻り、日常性に馴染んで抵抗と批判を止め、なかには各々の専門領域でそこそこの研究業績を挙げた人がいるとしても、当の研究と自分の生き方とがどう媒介されているのか、説明できない、というのでは、「何のための学問か」という (1968-69年には教員に突きつけた)「問い」が、そのまま当人に回帰し、「振り出し」に戻るほかはありません。

そういう思想状況で、事実の直視を促して「歴史を創る」平和な方法は、公開論争以外にはありますまい。この件では、佐々木氏が臥薪嘗胆し、公開論争を提起してくれて、幸いでした。佐々木処分は、ほかならぬ東大で、問題の法学部を中心に、(1968-69年には一瞬明るみに出た)事実隠蔽・欺瞞・暴力の重畳のうえに、(その後、おそらくは無造作に着任し、「疑わしきを罰して」火傷を負った苦い過去への反省も希薄な、ナイーヴな) 教員たちによって、1967年の「医・文処分」と同様、特別権力の発動として、素人の警察官兼検察官兼裁判官による密室判告として、くだされたのです。この事実を忘れてはなりません。かつて機動隊に守られて温存された特別権力が、こんどは教員に向けられてきました。

1968年当時には、学生の一部が、叛乱の「時流に乗って」ではあれ、教員を追及はしました。しかし、かれらのその後も含め、日本の知識人は、手をこまねいて三木清を獄死に追いやった敗戦後の「初日」から、どこまで前進してきたのでしょうか。

1968-69年の学園闘争が圧殺されたあと、「造反教員」は、①大学は見限って (反公害、反原発などの) 住民運動に転身し、そのなかでそれぞれの専門性も活かしていく「市民科学派」と、②大学現場に止まって闘いを持続し、「体制テクノクラート」の養成軌道を、運動の方向に転轍し、併せて科学性と論証能力を培い、「論証・熟議民主主義」をバック・アップしながら、「市民科学派」との連帯を模索していく「体制内抵抗派」とに分かれました。小生は、後者のひとりとして生きてきたつもりです。その視点からは、同じく「体制内抵抗派」のひとりで反原発の論客・佐々木力氏にたいする停職処分と、度重なる院生指導権の剥奪による後継者育成の杜絶は、いくえにも錯綜しているとはいえ、やはり運動総体にかけられてきた弾圧の一環と見るのが妥当と思われます。それにたいして、いま、「セクハラ」の「特異性」を強調し、被処分者の「脇の甘さ」をあげつらって、密室判告の既成事実を追認するとすれば、それはやはり「本末転倒」で、196811月の「泥船」の光景とも二重写しになるのですが、いかがでしょうか。

[初稿は2014412日に脱稿、掲載。そこでは、2005112日『学内広報』No. 1305の記事につき、佐々木氏側の要約をそのまま引用していたが、その後、直接『学内広報』当該号p. 7にあたって、関連叙述を423日に改訂]