ヴェーバー研究の「新しい風」に寄せて

 

 昨2007年、筆者は、⒈ 水林彪「『支配のLegitimität』概念再考」(『思想』3月号)、⒉ 雀部幸隆『公共善の政治学――ヴェーバー政治思想の原理論的再構成』(未来社)、⒊ 松井克浩『ヴェーバー社会理論のダイナミクス――「諒解」概念による「経済と社会」の再検討』(未来社)との連携を考えながら、小著『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か――歴史研究への基礎的予備学』(勁草書房)を上梓した。ヴェーバー研究の「新しい風」に乗って、学問-思想状況における相互補完と加速を企てた。「新しい風」とは、「無知の知」にもとづいて未読解の原典に就く、地道で周到な研鑽の持続が、同時に、新しい応用・展開の可能性も開く、実直な学風の謂いである。

水林論文にたいしては、その問題提起を適切と追認するかたわら、「支配の正当性」問題そのものを、『経済と社会』191014「旧稿」)「支配」篇全体と、『経済と社会』1920「改訂稿」)「社会学的基礎諸概念」への思想展開、という包括的な枠組みのなかで捉え返し、その固有価値と潜勢を汲み出して、さらなる応用にそなえた。歴史・社会科学における基礎論(ヴェーバー研究にかぎれば「ヴェーバーへの道」)と応用研究(「ヴェーバーからの道」)との相互交流に向けて、基礎論の側から、足元を固め、一歩を踏み出そうと試みたのである。

 

一、雀部著の意義と射程――戦後民主主義の積極的批判

雀部著は、W・モムゼンの「ヴェーバー批判」を、「社会契約論」への過同調に根ざす (突き詰めれば「ヴェーバーはアメリカ人ではなかった」と難ずる) 的外れの議論として、『政治論集』の綿密な読解と、最新の研究成果を摂取したワイマール共和国憲政史との両面から反批判したうえ、ヴェーバーの政治思想を「公共善の政治学」として原理論的に再構成し、翻っては日本知識人の「戦後民主主義」とこの視座からする日本近代政治史像との問い直しを迫る、画期的な意欲作である。これにたいして、小著は、原理論的再構成の素材をなすヴェーバーの「政治ゲマインシャフト論」「近代国家(前史)論」にかぎっては、「カテゴリー論文」の基礎概念にもとづく「旧稿」の読解を共有する点にかけて、相互補完関係にある。

しかし、雀部著の本領は、「戦後民主主義」が、ヴェーバー「職業としての政治」との正面対決を避けてきた事実を指摘し、その読解から、むしろ「戦後民主主義」自体の対自化とパラダイム転換を迫る、力強い論旨に求められよう。この主眼点につき、筆者は、問い質される側にいるひとりとして、根本的反省を迫られているが、小著では、「戦勝者ならびに戦敗者の自己義認・自己正当化Selbstrechtfertigung要求」とこれに根ざす「似非倫理」という批判視点を、(『経済と社会』の叙述からは洩れる、理論展開の潜勢として)探り当てている。

筆者は、1960年代のベトナム戦争反対運動とこれに連動した全国学園闘争にいたるまで、

「戦後(近代)民主主義」の影響を全面的に受けた。それどころか、日本社会の各所には、なお「近代化」「民主化」されなければならない問題が多々あり、そのかぎり「戦後民主主義」はいまもって有効と考えている。たとえば大学が、「理性の府(ゲゼルシャフト)」として、学問の規範に則って「整合合理的」に是正されなければならない(曖昧な諒解のもとに、虚仮威しのひとり相撲作品に学位を与え、世に害毒を流してはならない)ことは、別著『大衆化する大学院―― 一個別事例にみる研究指導と学位認定』(2005、未來社) で論じたとおりである。

しかし他面、筆者の誤解でなければ、「戦後民主主義」のオピニオン・リーダーは、太平洋戦争への自分自身の(少なくとも消極的)荷担の事実、したがって開戦前夜における即時的な批判的対決の欠落を、みずから俎上に乗せて問題にしようとはしなかった (中野敏男『大塚久雄と丸山真男』、2001、青土社、参照)。むしろ、敗戦後の軍国主義批判と「欧米近代」の規範化・理想化(「影」の捨象)によって、そうした初発の問題性が「隠蔽-正当化」されていたのではないか。かれらが、戦勝者の「東京裁判」を、「自己義認・自己正当化要求」に根ざす独善として批判することができず、(絨毯爆撃・機銃掃射・原爆投下による)非武装市民の桁違いの殺戮という厳然たる事実についても、(真珠湾の軍事基地武装兵士に限定された奇襲にたいする「過剰報復」として、あるいは「東京裁判」にいう「人道にたいする罪」として)公明正大に問い糾そうとはしなかったのも、「自己義認・自己正当化要求」に根ざす「似非倫理」の平面を戦勝者と共有してしまっていたからではないか。その結果、戦勝国アメリカが、独善の度をそれだけいっそう強め、ベトナム戦争からアフガン-イラク戦争へと、(国際犯罪としてのテロを「新しい戦争」と言いくるめ、「大量破壊兵器貯蔵」のデマも流して) 破壊と殺戮を重ねる、その補完要因をなしてきたのではないか。

ヴェーバーの上記視点は、「戦後民主主義」のそうした盲点と、それを担った知識人の「事後正当化癖」「影弁慶優等生根性」といった脆弱性を、問い返す縁ともなりえよう。「戦後民主主義」にたいするそうした積極的批判(相手を打倒するのではなく、相手が解決できなかった問題を、相手に代わって考え、解決しようとする批判)のうえに、公正な比較文化史像-世界史像を構築し、世界平和に連なる日本の「公共善」を追求する「国民的」主体性への希求こそ、雀部著を貫く基調であり、筆者もまた賛同するところである。

 

二、松井著の意義と射程――「諒解」概念の展開可能性

松井著と小著とは、「カテゴリー論文」の基礎概念にもとづく「旧稿」の体系的読解をめざし、(「旧稿」を、著者ヴェーバーの「1914年構成表」に依拠して、①「概念的導入」篇、②「ゲマインシャフト」篇、および③「支配」篇に三分すれば)松井著が①と②、小著が①と③を集約的に論じ、その意味で相互補完関係をなしている。したがって、読者がいま「旧稿」全篇を体系的に読解しようとされるならば、小著をプロレゴーメナとする両著の併読が、ヴェーバー研究の現在の到達水準から道標を提供する案内として役立つであろう。

そのうえで松井著は、ヴェーバー研究の活性化をめざし、「カテゴリー論文」の基礎概念中とくに「諒解Einverständnis」に着目して、「ヴェーバー社会理論」のダイナミクスを復権させようとする。「鉄の檻」(「官僚制」)による現代人の「無気力な歯車」化といったステレオタイプにたいしても、(外からニーチェを持ち出すのではなく)「ヴェーバー社会理論」への内在を深めることによって、突破口を探ろうとする。しかも、「諒解」概念とその射程にかけては、佐久間孝正や中野敏男の「物象化論」を批判の俎上に乗せ、筆者の「没意味化論」にもとづく、「ゲゼルシャフト関係」の「頽落態」という「諒解関係」の捉え方にも、正面から批判を加える。松井によれば、ほとんどすべての「ゲゼルシャフト形成」は、「制定秩序」を「授与」されるゲマインシャフトの内部に、それ以前の(より「原生的」な)ゲマインシャフトを「取り込み」、「再編成」し、常態として「ゲマインシャフトの重層」構造を創り出す。「ゲゼルシャフト関係」の「合理的」秩序といえども、じつは「諒解」によって「妥当」するのであり、したがって「諒解」のカテゴリーこそ、あらゆる「ゲマインシャフト(社会)秩序」の存立と変動を解く鍵である。

こうした議論の延長線上には、たとえばつぎのような展開の可能性が開けよう。

.「閉鎖的大工業」の「官僚制」組織においても、(労働者仲間がインフォーマルに設定する)「労働支出量規準(ノルマ)」を破って労働用具を破壊された「メソディスト派労働者」の対応様式のほかに、仲間との連帯感から「怠業Bremsen(小著、7072、参照)を実施し、自分の稼得賃金を減らしても、経営者による「ノルマ」の引き上げを阻止する対応など、労働現場に編入される「諒解の如何に応じて多様な可能性が開けている。この論点は、鼓肇雄の研究以来、日本ではよく知られていたはずである。

. ヴェーバーも、G・ジンメルやK・ヤスパースも、「殻Gehäuse」という語に、「外界から幼弱な生命を守り、孵化にそなえる生命の暫定的凝固態」というニュアンスを籠めていた。それを「檻cage」に硬直化させたのは、T・パーソンズやA・ミッツマンらアメリカの解釈者と二次文献屋のようである (横田理博と荒川敏彦との会話からヒントをえている)とすると、そうした語義変換にはむしろ、「諒解」をめぐるアメリカ社会の事情が反映されているのではないか。すなわち、アメリカ合衆国とは、語の「価値自由」な意味で「伝統諸国からの脱落衆国United Dropouts from Traditional Countries」にほかならない。ピューリタンをはじめ、(それぞれ理由はあれ、いずれも) 伝統諸国から脱落してきた諸個人が、互いに契約を結び、ルールを決め、原住者や原住動物は銃砲で駆逐して創り出した (雀部著の指摘のとおり「社会契約論」のモデルにもっとも近い) 人工的集合態である。そこには、永年の風雪に耐えてきた共通の伝統という「諒解」の支えがない。したがって、人為的に制定したルールをそれだけ厳格に守り、制定律の欠落を「アノミー (無規範状態)」として恐れ、ルール違反にはそれだけ厳しく対応して、「諒解層の稀薄な」集合を維持していくよりほかにはない。とすれば、そうした精神風土のもとに生きている社会学者が、「官僚制」をもっぱら制定秩序の「檻」と解しても、不思議はなかろう。

. そもそも「官僚」一般がどう振る舞うかについても、「職業としての政治」は、「政治家の名誉」と対比して「官僚の名誉」に論及している。すなわち、官僚は、自分の思想信条に反する不本意な業務命令を受けたばあい、その旨を上司に訴え出て再考を求めることができる。しかし、そのうえで再度、同一の業務命令がくだされたならば、あたかも当初からそれに服することが本意であったかのように、その履行に携わるべきであり、そうすることが「官僚の名誉」にほかならない。とすると、この規範命題を経験科学の平面に移して、行為準則に組み換えると、「名誉感」という「諒解」の有無と程度に応じて、官僚の対応様式 (少なくとも「上訴」の頻度)、したがって制定律のじっさいの「妥当」様態には、なにほどか有意な差異が生じてくると予想されよう。

. また、「官僚制」組織とりわけ上層部の腐敗が著しく、組織目的に反する逆機能の自己運動に陥り、指示された「偽装」や「隠蔽」がまかり通って臨界に達するときには、「消費者や公衆の安全や信頼」に準拠する「諒解」を、「職務上の秘密」(制定律) や「秘匿命令」に優先させ、しかるべき証拠事実を外部に公表ないし漏洩する対応が、組織内部からも現場の「諒解」に支えられて発生せざるをえないであろう。現に連日のように繰り広げられている「陳謝」会見の背後には、そうした事実が潜み、「鉄の檻」が内部から再編成される可能性も垣間見えるのではないか。

 

三、松井の批判にたいする筆者の態度決定――没意味化論の限定的堅持

  以上、「諒解」概念の展開可能性を示す事例を、思いつくままに挙げてみた。そこでは「諒解」が、プラスの積極的価値関係性において現れている。ところが、筆者はこれまで、「諒解」をもっぱら、「ゲゼルシャフト関係」の「没意味化」「頽落態」として、消極的な価値関係性において捉えてきた。これと相即的に、現実の「没意味化」に抗するに、意味自覚的で責任倫理的な、高度に意識的・理性的な個人を、「価値理念」として対置してやまなかった。この点を松井は、「後続世代の『新しい接触』が、より包括的な地平から先行世代のパースペクティーフを相対化して捉え返せる」K・マンハイム)という利点を活かし、「社会理論として一面的」と看破し、批判した。剴切というほかはない。これによって筆者も、自分の一面性を自覚し、「諒解」の積極的な側面にも目を開かれ、それだけ「価値自由」に、「諒解」概念の豊かな含意を汲み出す方向に、歩み出すことができた。

ただ、それでは、否定的な種類の「諒解」には、今後いっさい「目をつぶる」のかというと、そうではない。むしろ、松井著の「あとがき」によれば、(「誰かが命令しているわけではないのに、いったん流れができると逆らえなくなる」というような)「曖昧で不定型な自縄自縛の雰囲気」が、「いまの日本社会に広がって」おり、昨今の「大学改革」でも、大学教員が、首をすくめて押し黙ったまま、自分でも不本意な方向に流され、その結果には「強制する者がいるわけではないので、……誰も責任を負わない」という。松井は、かつて「丸山眞男が問題にした日本社会のありようからさっぱり変化がない」とも付言し262-63、「諒解」に着目する問題関心の一端を表白している。とすると、その一端は、かつて筆者が「没意味化」論を提起したときの状況と動機に重なる。

196869年全国学園闘争のさいにも、(丸山を含む)大半の大学教員は、「大学は『理性の府』である」と宣言しながら、「学生対策」の「流れ」に足をすくわれ、学生から提起されてきた「不在者処分」「事実誤認」という現場問題には、学者として「理性的」に対応せず、まともに議論すらせず、公開討論の呼びかけにも苛立ち、「流れ」に押され通して、強権に頼る「紛争収拾」に雪崩込んだ。「理性の府(ゲゼルシャフト)」が、じっさいにはその「没意味化」「頽落態」で、保身と利害によって動くことを、身をもって立証したのである。ところが、そのように「理性人」を呪縛する「諒解」の「流れ」が、いぜんとして「いまの日本社会に広がって」いるという。遺憾ながら、実情はそのとおりであろう。

では、知識人としての大学教員が、そういう「流れ」に浸ったままでよいのか。むしろ、現場で即時「流れに抗して」立ち、「流れ」の呪縛力をそのつど明晰な理性的討論によって払いのけられる(「脱呪術化entzaubern!、強靱にして論証的な批判主体に、ひとりひとりが自己形成を遂げる必要はないか。丸山が、太平洋戦争の前夜(「ここがロードスだ、ここで跳べ!」というばあいの)ロードスでは跳べず、首をすくめて押し黙ったまま、戦争への「流れ」に引きずられ、その反省を事後「無責任体系としての日本社会論」に投影し、結実させたとすれば、丸山のそうした反省と志そのものは、「戦後民主主義」の積極的批判によって、かえってわれわれ自身に引き継がれ、丸山の限界を越えて活かされなければなるまい。

ことは、大学教員だけの問題ではない。今後の日本には、国際場裡で、たとえ四面楚歌でも――「価値理念」を異にする「異質な他者」からなる各国代表に取り囲まれ、「流れ」に圧倒されそうになっても――、ひるまず、大国の顔色を窺わず、世界平和に連なる日本の「公共善」を、淡々と(「対話論的に普遍妥当的・客観的な論証」も交えながら)主張し抜けるような、政治家・外交官・学者・評論家などが、育ってこなければなるまい。しかし、それにはまず、そうした人材の育成にあたる大学教員が、「一生に一度も論争せず、同質的な仲間内で暮らし」、「不都合なことは『流れ』に委ね、押し黙ってやり過ごし」、「嵐が去ってから、おもむろに辺りを見回して饒舌に語り出す」といった「影弁慶優等生根性」「事後正当化癖」から脱却し、あるいは脱却をめざしつつ、学生に立ち向かわなければなるまい。

ところで、小著第二章でも力説したとおり、ヴェーバーの社会科学方法論は、従来独話論的に解されてきたが、それはじつは、そうとしか解せない独話論的「主体」が「自分に合わせ、自分にも分かるように『解釈』」(じつは誤解)した結果である。ヴェーバーの方法論そのものは、「価値理念」を異にする異質な他者」との対話論争を前提とし、そのただなかでなおかつ「普遍妥当性」「客観性」を確保するにはどうすればよいか、その原則と手順を解き明かす指針にほかならない。とすれば、それは、「影弁慶優等生」を「普遍妥当性・客観性を担える論証的批判主体」に鍛え上げる、格好の教材でなくしてなんであろう!

さて、話が思わず本題から逸れたが、筆者はそういうわけで、「諒解」を「没意味化」の相で捉え、理性的・批判的個人を対置する実存的スタンスそのものは清算せず、その一面性を自覚したうえで堅持していきたい。

なお、「諒解」の定義については、「没意味」「頽落」といった価値評価は払拭し、小著でおこなったとおり、「(ゲマインシャフト行為の前段階をなす)同種の大量行為」-「無秩序なゲマインシャフト行為」-「(非制定秩序に準拠する)諒解行為」-「(制定秩序に準拠する)ゲゼルシャフト行為」という「ゲマインシャフト行為ないし秩序の『合理化』にかんする四階梯尺度」を考え、その第三階梯、(この「合理化」尺度を「価値自由」な前提とすれば)第四階梯の(「頽落」ではなく、たんなる)逆行(の位置にある)形態、とひとまず規定しておきたい。松井は、「諒解」をもっと基底的なものとして捉えようとするから、筆者のこの規定にも不満であろう28-29)。しかし、「諒解」の概念が、「社会学的基礎諸概念」では「分かりやすくするために」放棄されているほど、難解であることは、いなめない事実である。そこで、いったんはこうした、四つの「類的理念型」からなる一尺度を考えたい。ヴェーバー自身も「カテゴリー論文」で、「ゲゼルシャフト関係」の規定を先行させているが、そうせずにいきなり「諒解」を持ち出すとなると、掴み所のない議論に陥りかねない、と危惧されよう。

  松井著とのこれ以上立ち入った対質は、今後の専門的論議に委ねる。ここではむしろ、雀部著、松井著と小著との間に、「カテゴリー論文」の基礎概念による「旧稿」の体系的読解という共通了解が成立した事実、したがって日本のヴェーバー研究に、広く歴史・社会科学の基礎固めに向け、一筋の連続的発展軌道が通った事実、を確認し、このこと自体の一般的意義につき、戦後精神史にも遡って、(次号掲載予定の次節以下で)考えてみたい。(つづく)

 

 

ヴェーバー研究の「新しい風」に寄せて(承前)

 

四、戦後精神史の一齣――ベトナム戦争とヴェーバー再解釈

1935年生まれの筆者は、敗戦直後、日本の再建に一役を担おうと、「理科少年」となり、日本の科学技術の発展に寄与しようと志した。しかし、物心がついて程なく、「戦後近代主義」を知り、「それだけでは駄目だ」、「精神が問題だ」と教えられた。そのうえ、「日本の知識人は、二階の建前では『欧米近代人』の真似ごと、一階の実生活では『伝統埋没人』」というK・レーヴィットの寸鉄に刺され、「それでは、『近代人の建前』を実生活にも貫徹してみせよう」、「現実の行為、とりわけ学問上の実績で、『欧米近代人』と対等に勝負しよう」と思い立った。「日本通」レーヴィットの辛辣な揶揄に、内心では傷つき、いきり立っていたともいえる。

このスタンスから脱却する転機は、1960年代のベトナム戦争反対運動にあった。その渦中で、筆者は、「戦後近代主義」による「欧米近代」の理想化に素材として利用されていたヴェーバー著作、とくに「倫理論文」を読み直し、当のヴェーバーが、「近代資本主義の精神」ばかりか、その淵源をなしたプロテスタンティズム(正確には、バプテスト系を除く「禁欲的プロテスタンティズム」、とくにカルヴィニズム)そのものにも、その「合理性」と裏腹の「独善性」「非人間性」「反同胞性」を看取していた事実を突き止めた1965年に発表した二論文、「マックス・ウェーバーにおける『近代人』および『マージナル・マン・インテリゲンツィヤ』の問題」、「マックス・ウェーバーと辺境革命の問題」、『危機における人間と学問』、1969、未来社、所収、とくに259-64274-75294-95を参照)。ここからは、ヴェーバーの着眼を仮説とし、欧米とくにアメリカの精神史について実証的に検証する、「ヴェーバーからの道」が開けていた。人類文化史の土俵で、古参伝統諸国にたいする新参「脱落衆国」の(「優位に立って見返してやりたい」という)過補償」動機が、「二重予定説」の (人類を、「神の栄光」を地上に広める「道具」としての「選民」と、それ以外の「棄民」とに二分し、後者を「神の敵」に見立てて蔑視、憎悪する) 独善と結びつけば、(バプテスト系「寛容と平和」との対抗関係はあれ)対内的には「魔女狩り」「赤狩り」「テロリスト狩り」、対外的には伝統諸国への強圧的干渉により、「神の敵」「正義の敵」を創り出しては(銃砲から原爆を経て枯葉剤にいたる)手段を選ばず「殲滅」しにかかる、そういう「アメリカ的心性」が、(放っておくと全人類を巻き添えにしかねない)「西欧近代の(出遅れた)鬼子の精神」として生成されよう。

しかし筆者は、ヴェーバー再解釈から引き出される研究課題のうち、所詮はネガティヴなアメリカ精神史ではなく、つぎのような研究構想を抱いた。すなわち、「『新しい宗教(思想)』は、文明の中心地ではなく、その影響にさらされて『驚き』を触発された辺境・周辺地から生まれる」というヴェーバーの「辺境革命論」を、「『親文明』の『世界帝国』は『傲慢hubris』に囚われて滅び、むしろその支配にさらされた『後進マージナル・エリア』で、外来文化と伝統文化の狭間に陥る『マージナル・マン・インテリゲンツィヤ』が、そうした分裂の『苦悩から学び』、『子文明』を担うべき『高度宗教』を創始する」というAJ・トインビーの文明史観と結びつけて、18世紀から欧米列強の脅威にさらされ、それぞれの伝統を揺るがされた「後進マージナル・エリア」群(インド、帝政ロシア、中国、日本など)に焦点を合わせ、次世代の「文明」を担う新しい文化創造の可能性を、比較文化史的に探究していく、という研究構想である。そして、そういう巨視的な比較研究の方法と理論的枠組みは、「世界宗教の経済倫理」三部作(「儒教と道教」「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」)に片鱗を覗かせたヴェーバーの歴史・社会科学、(その一般基礎論として『経済と社会』に展開されている)「ヴェーバー社会学」に求める以外にはないと考え、その研究に着手したのである。

 

五、「戦後社会学」の貧困――「固有価値」音痴の近視眼的「業績プラグマティズム」

ところが、いざ「ヴェーバー研究」のなかに入り、本腰を入れて取り組んでみると、少なくとも社会学の分野では、(金子栄一の先駆的研究を除き)「ヴェーバー社会学とは何か」「ヴェーバーは、社会科学の数ある諸部門の狭間で、なぜ『社会学』を必要とし、その方法的定礎と体系的展開を、どこまで達成していたのか」といった、根本的な問いに答える研究は、見当たらなかった (小著は、遅ればせながら、この問いへの解答をなしている)それどころか、およそそうした問いを発すること自体が、「戦後社会学」ではずっと「不毛な『学学』」として排斥されるか、「二流学問」「訓詁学」として蔑まれていた。これもじつは、「固有価値」音痴で、すべてを卑近な「応用価値」に還元するアメリカ流「業績プラグマティズム」の影響であり、「影弁慶優等生」の「変わり身の早さ」「事後正当化癖」の顕れでもあったろう。戦勝国アメリカの社会学が滔々と流れ込み、争って受け入れられ、「戦後には、『自己義認・自己正当化要求』を媒介に、戦勝者が敗者となり、戦敗者が勝者となる」という弁証法が忘れられていたのである。

ことほどさように「バスに乗り遅れるな」とばかり新流行を追うのでは、「パーソンズに止揚された」ヴェーバーについて、社会学上の主著『経済と社会』のテクスト編纂の不備を察知し、誤編纂を確かめ、それから解放されたテクストを原著者ヴェーバー自身の構想に即して再構成-再編纂し、「読める古典」に蘇らせ、歴史・社会科学の共有財産として広く(研究上、教育上の)活用に供する、といった基礎研究が、顧みられるはずもない。しかし、筆者は、幸か不幸か、上記のような研究構想を抱いていたお蔭で、それに応用が可能な巨視的文化比較の方法と理論的枠組みといえば、ヴェーバーの先行業績以外には考えられない、と初めから確信していた。したがって、どんな流行にも目を奪われず、貶価にも動ぜず、面倒な基礎研究に取り組んで、「わが道を歩む」ことができた。

 

六、デュルケームの学風――「敗戦世代」として、戦後の「知的再建」に向けて

一方、筆者は、1965年度から、一大学の教養課程で、(理科生を含む)新入生に向け、社会学の入門講義を担当し始めた。それには、「社会学とは何か」「学生が社会学を学ぶことに、どういう意味があるか」という問いに最小限の答えを用意する必要があった。筆者はこの難問に、自分で考え抜いた確答はまだないとしても、最良と信ずる「古典中の古典」É・デュルケームとヴェーバーを、いわば「準拠人」として紹介し、学生に考える素材を提供し、そうしながら自分の解答も模索していく方向で、折り合いをつけた。

そのさい、筆者は、デュルケームの学風から、ヴェーバーに優るとも劣らず、学ぶところがあった。若きデュルケームは、187071年の晋仏戦争敗北で傷ついた)フランスの知的-道徳的再建を志し、戦勝国ドイツに留学して、哲学と「道徳の科学」の実情を視察し、翻って祖国の現状を批判的に考察している。かれ(の理念型的対比)によれば、フランスでは、学者個々人が、「卓越distinction」や「独創性originalité」を求め、競って華麗な体系を築きたがる (ヴェーバー流にいいかえれば、「ザッヘに仕え」ようとしない)。ところが、そういう個性の産物は、他者による継承が難しく、一代かぎりで立ち枯れ、次世代は「元の木阿弥」から再出発しなければならない。先行世代の成果が後続世代に引き継がれ、世代ごとに何ものかが付け加えられていくという「進歩」ないし連続的「発展」がない (デュルケームが念頭に置いているのは、一回的な創造に意義のある芸術上の「文化運動」ではなく、「誤謬の是正」という意味の「単線的進歩」、あるいは「より包括的な体系化中心からする止揚」という意味の「弁証法的進歩」が成り立つ、「文明過程」としての「科学」である)。それに比してドイツでは、学者や学生の間に「集団感情」「連帯感」がいきわたり、これを基盤に、共時的な交流と通時的な継承が活発におこなわれている。その結果、ドイツの科学は、蓄積された成果にかんするかぎり、数世代の間に、フランスに立ち勝り、格差が開くばかりになる、というのである。

帰国後のデュルケームは、この比較観察からえられた着想を、社会一般に適用し、「『社会連帯』にたいする(連帯欠如の)『利己主義とアノミー』」、(その「社会生理学」的原因として)「集団意識」「集団表象」の弛緩-解体、(その「社会形態学」的基盤として)「媒介的中間集団」の欠落、を探り当て、この事態を「社会の病気」(自殺の急増)、「政治の病気」(革命と反革命との悪循環) の根因と診断する(「デュルケーム社会学」)。そのうえで、病因の根治をめざし、「中間集団」の再組織による(「個人人格の尊重」を含む)「集団表象」「集団意識」の賦活、「社会連帯」の再建に向け、(カトリックの教育壟断に代わる)「世俗道徳」を提唱し、ソルボンヌの教壇から説くにいたる。

さて、筆者は、「理論」から連続的に「実践」に踏み込むこの「新道徳の布教」には、ヴェーバーの「価値自由」論からして、否定的に対峙せざるをえなかった。しかし、「敗戦世代」の学者として、祖国再建への責任感が、社会学の創始・研究・教育・実践(的越境まで)に浸透している、この首尾一貫性には、感嘆し、敬服するほかはなかった。かれは、大学における研究と教育には「手を抜き」、ジャーナリズムや学外集会に出ては政治活動に「うつつを抜かす」(「戦後社会学」にまま見られた) スタンスは採らない。大学におけるかれの研究は、祖国再建の青写真を描く前記「デュルケーム社会学」であり、教育はその担い手を育ててフランス全土に送り届ける実践であり、『社会学年報』の創刊を初めとする学会活動は、フランスの科学に連続的発展の軌道を敷設する努力であった。かれの著作は (独創性の誇示ではなく)、一方では、形成途上の社会学について後進の研究実践を導く懇切丁寧な指針集であり、他方では、「社会学の何であるか、社会学に何ができるか」を、当時衆目を集めていた自殺の急増を題材として平易明快に説く、入門書ながら「研究と教育を統合する」最高水準の情宣活動であった。筆者は、「理論と実践」その他の問題については一定の留保を設けながらも、こうしたデュルケームの学風は、なんとか摂取し、日本の知的再建にも活かしたいと願った。そこで、「社会学研究étude de sociologie」という副題の付いた『自殺論』を、一方では『社会学的方法の諸規準』に開陳されたかれの方法論と関連づけ、他方ではヴェーバーの所説と対比して、徹底的に教材化し、『デュルケームとウェーバー――社会科学の方法』と題して上梓した次第である (上下、1981、三一書房)

 

七、『経済と社会』編纂問題――国際論争と国内ディレンマ

他方、一年間の講義を二分し、後半にはヴェーバーの「倫理論文」を教科書に使った。しかし、社会学一般の講義としては、「倫理論文」のような個別研究に止まらず、『経済と社会』(旧稿)と「世界宗教の経済倫理」にも範囲を広げ、「ヴェーバー社会学」の基礎視角、体系骨子、および比較文化史的展開も、聴講生の視野に収めてもらいたかった。卒業後に国際人としての活躍を期待すると、とくにそうであった。ところがそこにも、こんどは教材としての『経済と社会』の不備、テクストの誤編纂、体系的読解の欠落、という障害が立ちはだかった。そこで筆者は、このさい「旧稿」テクストの再構成に、やはり本腰を入れて取り組もうと決意した。研究者としても、教材研究へのそうした「度外れた」深入りが、自分個人の研究構想に向けては「迂遠」に過ぎようとも、日本のヴェーバー研究全体にとっては必要な基礎固めになろう、と考えた。

ところが、程なくして、テュービンゲン大学のFH・テンブルックが、「『経済と社会』との訣別」(1977) と題する論文を発表した。かれは、(『社会経済学綱要』の版元)JCBMohr社の所在地に居住する「地の利」を活かし、(『社会経済学綱要』の編集をめぐる) 編集者マックス・ヴェーバーと同社、(著者没後の『経済と社会』編纂をめぐる) 編纂者マリアンネ・ヴェーバーと同社、双方の間に交わされた往復書簡を資料として、初版以来の(著者の執筆順とは逆に、「改訂稿」を「第一部」、「旧稿」を「第二、三部」に配置する)「二部構成」編纂が、第一次編纂者の創作であり、第二次編纂者J・ヴィンケルマンも、それを原著者自身の構想と強弁し、結果として読者を誤導している事情を、異論の余地なく立証したのである。これを受けて、筆者はテンブルックの (「旧稿」そのものまで「請負仕事」と貶価し、その再構成には進まない)「訣別とは訣別」し、かれの批判によって誤編纂から解放された「旧稿」テクストを、こんどは原著者自身の構想に即し、「カテゴリー論文」の基礎概念に則って体系的に再構成する、積極的批判に転じた。そして、その延長線上で、「旧稿」を『ヴェーバー全集』Ⅰ/22として再編纂する難題に直面していた『全集』版編纂陣とくにW・シュルフターとの論争 (批判的協力) 関係に入り、現在にいたっている。その経過と現状については、小著ほか各所で論じているので、重複は避ける。しかし、雀部著、松井著との間に連続的発展軌道が敷かれた事実の意義を浮き彫りにする背景として、つぎの事情だけは、ここでやはり特筆しておきたい。

筆者はこの約四半世紀間、「旧稿」編纂問題にかんする議論を、『全集』版編纂陣の (全篇の体系的構成に立ち入る議論抜きに、「旧稿」を「概念的導入」篇のない五分巻、いうなれば初版以来の「合わない頭をつけたトルソ」に代わる「頭のない五死屍片」に解体する) 誤った編纂方針を批判し、全世界のヴェーバー研究者・読者に、適正に編纂されたテクストを提供するように求め、さらに (不幸にも、誤った既定方針と既成事実の防衛にまわってしまった) 編纂陣に異議を申し立てる論争として、展開せざるをえなかった。この事情は、個々の論文や資料を、逐一ドイツ語や(途中からは、より広範囲の読者に訴えるため)英語に翻訳して、編纂陣に送り届けたり、専門誌に発表したり、といった形式上の負担に加え、議論の内容にも影響した。というのも、ドイツの編纂陣は、筆者の批判にたいして、「一私人の解釈にすぎず、テクスト編纂の基礎たりえない。編纂には、複数ありうる一々の解釈を超える、相応に客観的な規準がなければならない」という(形式的には正しい)論法で対応し、(じつは無解釈・無規準で、多分に便宜的・出版技術的な)既定の「等量五分巻」編纂方針を防衛する、という挙に出た。これには、たとえば前後参照指示ネットワークの検出とか、術語用例の網羅的検索とか、解釈の如何に左右されない、もっぱらテクスト内在的で客観的な指標に準拠する文献学的(「戦後社会学」では、前述のとおり「学学」的・「二流学問」的・「訓詁学」的と蔑まれた)作業をあえて優先させ、これに力点を置いて対抗するよりほかにはない。筆者は、相応に面倒で時間と根気を要する文献学的作業に没頭し、反面いきおい、「一私人の解釈にすぎない」とあしらわれかねない自説の提起は極力禁欲する、という傾きを帯びざるをえなかった。

ところが、そうなると、国内の才気煥発なヴェーバー研究者が、(なにか斬新な解釈が生まれると約束され、見通されているのならともかく、そうしたアドバルーンや「能書き」は逆効果となるばかりの、それ自体としては無味乾燥な) 文献学的論争に、みずから関心を向け、これまた面倒な追試に手を染めてくれるわけがない。好意的な書評(嘉目克彦氏と経済学史家古川順一氏による)と、自著への双説併記 (「文献通」の証文とはなっても、肝要な争点については、レフェリーとしての判断も停止する旨の宣告) が限度であった。

そのうえ、論争の相手はといえば、「本場」ドイツのモムゼンやシュルフターときている。かつてジャーナリズムで「本店-出店関係」の打破を唱えた「戦後社会学」の論客も、自分で「本店との学問論争」に乗り出そうとはつゆ思わない実情であってみれば、「本店」に論争――しかも、母国語で作業できる「本店」に圧倒的に有利な文献学上の論争――を挑んでも、「初めから勝負はついている、徒労に終わるのは目に見えている」とあしらわれても、いたしかたない。

他方、『ヴェーバー全集』予約購読者の三分の二が日本人である事実を、なにか誇らしげに語る日本人学者は多い。しかし、「読者がそれほど多いのであれば、編纂の労苦も分かち合う研究者が、日本から出て協力してもよいのではないか。そうして初めて、対等な国際交流の条件がととのうのではないか」というふうには、なかなか考えない。ということはやはり、「本店-出店関係」を当然の前提とし、しかも受益者の立場に甘んじている、という実情を顕してはいまいか。

 

八、歴史-社会科学における連続的発展軌道の敷設とその意義

さて、そういう圧倒的な「流れ」のなかで、「頭のない五死屍片」が、なんといっても国際『全集』版の権威を帯びて、つぎつぎに公刊された。どの巻も、独立の「単行本」に見立て、全篇の体系構成とそのなかでの位置づけを問わないとすれば、個々の論点や例示の史実にかんする豊富な注釈を装備し、そのかぎり内容も充実した良書として。残るのは、第三分巻『法』と付録(第六分巻)「編纂資料集」のみ。大勢は決した。勝負はあった。

ところが、まさにそのとき、筆者の「負け」仕事を追試し、「カテゴリー論文」の基礎概念に準拠する「旧稿」全篇の再構成という年来の主張を認め、そのうえで「ヴェーバー国家論」の再構成や「諒解」概念による「ヴェーバー社会理論」の活性化を企て、筆者の到達点を積極批判的に乗り越える雀部著、松井著が出現したのである。「捨てる者あり、拾う者あり」。筆者にとって、学者人生最大の喜びというほかはない。

ちなみに、雀部氏も松井氏も、筆者にとり、同じ大学の出身とか、同じ師匠の教えを受けた「同門」とか、なにかそういう「仲間」ではない。松井氏にいたっては、松井著の刊行後、初めて顔を合わせたくらいである。つまり、両氏との間には、研究者としての学問的関心と判断の一致、それ以外にはなにもない。いや、そこから生まれる人間的信頼と、日本の歴史-社会科学を基礎から堅実な連続的発展の軌道に乗せようとする、開かれた連帯への志向以外には、と付け加えるべきかもしれない。

翻って、「戦後民主主義」の(歴史-社会科学において一時期隆盛を誇った)「学派」は、総帥生前また没後の状態から総合的に判断すると、カリスマ的師匠のもとに馳せ参じた「影弁慶優等生」群の「文化運動」に尽きたように見受けられる。「学派」は、対外的にも対内的にも、根本的な批判と論争は避け、師匠の過ちと限界には「目をつぶり」、師匠に正面から批判を掲げて立ち向かえる気骨ある弟子を育てなかった。師匠あっての「連帯感」では、師匠の没後には薄れ、「利己主義とアノミー」に舞い戻るのも必至ではないか。「文明過程」の一環をなす「科学」としての「進歩」の軌道は、敷かれているのか。こうした問題も含め、「戦後民主主義」の積極的批判のうえに、歴史-社会科学を基礎から連続的発展の軌道に乗せ、日本の知的再建に寄与すべき時がきた。いま、この日本に、歴史-社会科学の一隅から「新しい風」が吹き始めている。200823日脱稿)