一当事者への応答――『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』第一章「授業拒否の前後――東大闘争へのかかわり」の趣旨を補足する意味で

 

  残暑お見舞い申し上げます。

  ご多忙のところを、早速、ご自筆のご返書を頂戴し、恐縮至極に存じます。

先生が、名古屋の水田洋先生とともに、ご高齢にもかかわらず、始終、状況の問題に取り組んでおられることに、つねづね感嘆し、敬服しております。

お申し出により、お電話を差し上げようか、とも思いました。しかし、小生、仕事中の相手を電話に呼び出し、仕事を中断させるのは、基本的には無礼、それにたいして、電子メールは、相手が任意に開いて、応答の是非、内容を決められる点で、電話に比べてベター、という先入観がございます。先生が、「ベッドの上で受話器をとって」とおっしゃるのには、むしろご健康を心配するのですが、パソコン上の画面か、プリント・アウト面を、任意にご覧いただけるのではないか、とも考え、小生といたしまして使い慣れたメディアを選ぶことを、どうかお許しください。

 

(1) 19681112日夜半に、民青が図書館まえに都学連の部隊を配置して、全共闘と衝突した直後、石田雄先生、藤田若雄先生、西村秀夫さん、木下孝代さんらが、「非暴力連帯」を唱えて、双方の間に座り、衝突を止める行動をとられたことを、小生もよく承知しております。小生も、「防空頭巾」をかぶって、加わった記憶がございます。

 

(2) 小生、八月に始めた、学内に限定した、パンフレットによる討論呼びかけでも、全共闘にたいして、「『窮鼠猫を噛む』のも暴力は暴力、君たちは『鼠』になってはいけない、人間として選択してほしい」と諭しておりました。ただ、かれらは、そういう「暴力か非暴力か」という抽象的定式化自体の「イデオロギー性」を問うて、反論してきました。小生は、この反論には一理あると受け止めました。かれらが問うている (当時もっとも尖鋭な争点であった) 文学部処分の当否を具体的に再検証して応答し、理性的な議論をして、かれらが暴力を自発的に放棄するように仕向けるほかはないと考え、その方向を模索しました。

 

(3) 今回の総括でも、縷々述べておりますとおり、当時は文処分問題が、最大の具体的ネックとなっていました。それは、文教授会が、長らく事実関係にかんする議論に応じず、196811411日に、例の「林文学部長軟禁事件」にいたって、学生が事実関係を抜き差しならない形で問うようになって初めて、長老が池之端の法華クラブで密議を開き、「1967104日事件」の再現を企てるというふうに、首尾一貫、事実関係を秘匿してきたからでした。この密議における再現の結果、121日[午前中には]「N君の処分問題について」(甲説)が発表されましたので[正確には、当日午後には、「横槍」が入ったのか、発表が取り止められました]、小生が、これを資料として、学生側の主張(乙説)と「価値自由」に比較対照しましたところ、文教授会また(後に)加藤執行部は、明らかに、「104日事件」におけるN君の「築島先手にたいする後手抗議」を「教官の退室阻止」と取り違える事実誤認を犯していました。

 

(4) ちなみに、11411日団交のときには、三島由紀夫が林学部長にジョニクロを差し入れた、などと、マスコミがやかましく、団交の会場で何が議論されているのか、肝心の内容は、どこかに吹っ飛んでしまっていました。そういう争点移動、争点ぼかしに、例の丸山先生も加わられた「人権声明」が拍車を掛けたのではないでしょうか。小生は会場に駆けつけ、入口で久保真一君に会い、林氏の健康に注意を払っていること、なかでは事実関係が議論されていること[団交会場に文学部の教員は自由に出入りできること、など]を確認して引き上げました。あのとき、丸山先生は、会場に足を運ばれたでしょうか、会場内で何が議論されているのか、ご存知でしたでしょうか。かりに、そういう現場の具体的争点は捨象して、マスコミに「声明」を発表されたのでしたら、そのこと自体が、これまたイギオロギー性を帯びて、問題の具体的解決を歪め、遅らせることになったのではないでしょうか。

 

(5) 小生は、学生側の主張をそのまま受け入れるのではなく、教授会側の主張と「価値自由」に照合して、真相を突き止めようとしてきましたので、文処分にたいする対応が遅れました。しかし、12月になって、文教授会の文書が正式に発表されましたので、急遽、比較照合し、真相にかんする仮説を立て、西村秀夫氏とともに、教養学部教授会に、「話し合いによる解決の目処が立たないのは、七項目中、文処分問題が解決されていないためで、ついてはその事実関係につき、ここで議論しようではないか」と提唱しました。ところが、これには、猛烈な反撥が巻き起こり、とても議論になりませんでした。「そんなことをすれば、林文学部長の『頑張り』を無にしてしまうではないか」「丸山教授らも、声明を発表しているではないか」といい出す人々が多数を占めました。科学者が、問題そのものをザッハリヒに問おうとせず、争点が何かすら、確かめようとせず、そういう派生態のどこかに引っ掛かって、思考を停止してしまうのです。「あァ、これはもうファッシズムだ」という思いが、ちらっと頭をかすめました。

 

(6) あるとき、「こんなことでは、戦中にはとうてい、戦争に反対できなかったろう。いま、その反省はどこにいったのか」と問いかけますと、ある進歩派が、「国家権力が総力を挙げて弾圧してきたのだ、いまのように自由に発言できる気楽な状況ではなかったのだ」と答えるのです。「それはそうだったでしょう。しかし、いまはあなたも、同じ状況で、同じ自由を享受しているのですから、なにか自由に発言なさったらいかがですか」と問い返しますと、黙ってしまいました。要するに、かれらの社会科学には、卑近な状況へのいうなれば実存主義的なアンガージュマンの姿勢がなく、「安全地帯に身を置いた気楽な他者批判」の域を出なかった、といわざるをえません。

 

(7) かつて戦争責任を問い、軍国主義を容認ないし追随して「ノーといえない」「無責任の体系」を批判なさった丸山先生は、小生の世代とくに小生が尊敬するほとんど唯一の師でした。小生も、「教養課程における社会科学教育」を「天職」と心得ていましたので、学生の問いかけに早くから対応しました。そして、そのころは、学生は非常に礼儀正しかったのです。学生は、いきなり研究室を封鎖したり、教官を口汚く罵ったり、ゲバ棒を振り回したりしたのではありません。そうでしたら、小生とて、かれらの問題提起を正面から受け止めて、教養課程における現在進行形の教育課題に見立てて対応することなど、できなかったでしょう。丸山先生が、時計台の封鎖から五カ月後の12月になってから、学生の非礼な対応にぶつかったというのは、残念なことでした。いまでも、もし早期に、礼儀正しい学生が、たとえば山本義隆君が、先生を訪ねて、条理を尽くして自分たちの主張を説明し、先生の批判を求めていたら、どうだったろうかと、ときどき思います。

 

(8) 小生につきましては、8月に、学内に限定して、パンフレットにしたためて討論を呼びかけ始めましたが、それには丸山先生の応答はいっさいありませんでした。文処分にかんする事実誤認のまま、加藤執行部が機動隊を導入し、全共闘運動の大衆性を破壊し、かれらの追及も「上擦り」始めてから、小生も授業拒否という非言語闘争に踏み切って「上擦り」を鎮めると同時に、かれらの「実力主義」は批判しました。それまでは学内に限定していた論証文書を、闘争手段として学外にも公表し、そのかぎり、限定的にマスコミにも出ました。ところが、丸山先生は、「マスコミに出たがる自己顕示病者」とか、「パリサイの徒」とか、現場の問題とも状況とも関係なく、きめつけ始められました。清水君もいっていますように、丸山先生は、当時、深く傷つき過ぎて、われわれの尊敬した丸山先生ではなくなってしまわれたのでしょう。

 

(9)「これまでの運動のプラスの面を延ばし、マイナスを克服するという形ですすめていくほかはない」という先生のご提言には、まったく賛成です。そのためには、これまでのマイナスが具体的にはどういうことであったのか、具体的に語って、同世代者の発言も促し、後の世代の質問や批判に答え、かれらがまたマスナスの陥穽に落ちないように、過去の批判的総括を踏まえて、歴史を創っていってくれるように、問題提起し、資料を提供し、微力を尽くしたいと考えております。

今日のところは、以上までとさせていただきますが、先生が同じようにお考えのことは、たいへん心強く、小生も先生のお歳まで、なんとか頑張らなければ、と決意を新たにしております。ありがとうございました。

 

この暑さ、異常なほどですが、どうかくれぐれもご自愛のほど、お祈り申しあげます。

敬具

86日[2014107日、僅かに増補改訂]

 

折原