拝啓

  春爛漫、ご清祥のことと拝察いたします。

  さて、このたび、『名古屋大学社会学論集』第32号(2011年度)に寄稿しました一論考「マックス・ヴェーバー『経済と社会』(旧稿)の基礎範疇と体系構成――『全集』版編纂をめぐる対シュルフター論争の総括――」の抜刷が出ましたので、一部同封にてお送りさせていただきます。

 

代わり映えしないテーマ設定のうえ、福島原発事故を機縁に、現代巨大技術の反自然・反生命・反科学性と、それを促進し容認する人間社会のあり方が根底から問われている現状で、なんとも迂遠な話で恐縮です。しかし、老生なりに、かねてよりの思い入れどおり、明治維新以降の富国強兵・アジア侵略・戦後復興・(「原子力の平和利用」を一環とする) 高度成長に、一貫して前提とされてきた「欧米近代に追いつき、追い越せ」路線を、普遍史の地平で問い返す知的媒体として、ヴェーバーの類型論的比較歴史社会学を活かしたい、と念願しております。そうしませんと、311後の思考も、(「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」などの「近代化」論、あるいは「資本主義から社会主義を経て共産主義へ」の「史的唯物論」といった形で、長らく踏み馴らされてきた)「史的一元論」の軌道に引き戻されるか、個別的事実・事例をいきなり普遍化する孤立的・断片的発想に陥るか、どちらかしかないのではないか、と危惧されます。

ヴェーバーの学問総体を、そのように類型論的比較歴史社会学構想として捉え返し、批判的展開にも歩み出すには、これまた迂遠な話ですが、まずは『経済と社会』(旧稿) という「欠けていた環」(誤編纂のため、全体としては読まれていない「社会学上の主著」)を埋めなければなりません。とりわけ、そうした基礎研究を「訓詁学」として一蹴し、「オリジナリティ」を競う風潮のもとでは、誰も、そうした「損な」作業には手を染めないでしょうから、そこは老生の役柄と心得ております。

 

そういうわけで、unzeitgemässな論考ですが、いつかお暇の折、ご笑覧たまわれれば幸甚と存じます。お受け取りのご返信など、どうかご無用に。

寒の戻りもしばしばの候、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

敬具

2012415

折原 浩