「思想性をそなえた社会学」の伝統を活かそう――名古屋大学社会学研究室開設70周年記念 祝賀会スピーチ

 

 

[去る114日、名古屋市内のルブラ王山で、名古屋大学社会学研究室(以下、本研究室と略記)の開設70周年を記念する集いが開催されました。本稿は、その席上で試みたスピーチの復元です。本田喜代治、阿閉吉男、両先生のお仕事を、やや強引に自分に引き寄せて解釈した嫌いはありますが、本研究室の伝統を集約し、将来に向けて期待を語ったつもりです。117日記]

 

 

ご紹介にあずかりました折原です。

1996年から1999年まで、三年間ですが、当研究室のお手伝いをさせていただきました。

その間、本研究室の伝統をどう捉え、将来に向けてどう活かすか、と多少とも考えるところがございました。昔の話で恐縮ですが、その内容をかい摘んでお伝えし、祝辞に代えさせていただきたいと思います。

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本研究室には、一口にいって「思想性をそなえた社会学」の伝統がありました。

いきなり「社会学」という専門学科のなかに入り、「自分の研究課題」を決め、「業績」を挙げればそれでよい、「能事終われり」というのではなく、「なぜ、そうするのか」と問い返し、たとえばマルクス主義や実存主義のような、同時代の思想潮流との関連で、社会学を「相対化」して捉え返し、方向づけていこうとするスタンス、とでも規定されましょうか。

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そういう伝統の軌道は、本田喜代治先生と阿閉吉男先生によって敷設されました。

本田先生は、ご承知のとおり、マルクス主義・「唯物史観」による社会学の基礎付けに腐心されました。一方では「人間と自然との物質代謝Stoffwechsel」という基盤から目を離さず、他方では、諸個人には解消しきれない「社会構成体」の「固有法則性」を問い、デュルケムやアメリカ社会学の知見も援用されて、平易明快に説かれました。当時のマルクス主義一般には、「教条主義」ともいうべき通弊が見られましたが、本田先生はじつに柔軟に語っておられたようです。そのうえ、側面から、田中清助先生の「アソシアシオン」論という、これまた柔軟なマルクス解釈の補強も受けておられたでしょう。

また、平山高次先生訳のアンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』は、デュルケム学派の「社会学主義」を「閉じた社会」の「静的道徳、-宗教」として相対化し、「開いた社会」の「動的道徳、-宗教」に視界を開く「社会学批判」でもありました。

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他方、阿閉先生は、ジンメル、マックス・ヴェーバーなど、ドイツ社会学に通じておられました。とはいえ、学説史家に止まっておられたのではありません。先生は、ヴェーバーを、ハインリヒ・リッカートだけでなく、カール・ヤスパースとの関連でも捉えられ、(わたくしがお見受けしたところでは) 前者よりも後者を重視しておられたようです。

ヤスパースは、ヴェーバーの影響を受け、精神病理学から心理学をへて哲学に転じた、20世紀実存主義の驍将でした。かれは当時 (「戦間期」)、ドイツの学界を見回しても、「みずから哲学している哲学者 philosophierender Philosoph」はいない、と察知し、むしろヴェーバーだけが時代の根本問題に迫る独自の「社会学」を創始し、「哲学している」と見て、ヴェーバーの急逝後、「哲学する (Philosophieren) はたらきを目覚めさせよう」と決意して哲学に転じた、と語っています。

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そこで、社会学をめぐる思想環境として、マルクス主義と実存主義という20世紀二大思潮の対抗場裡に、マックス・ヴェーバーを置いてみましょう。

マルクス主義には「森は見ても木を見ない」「全体論holism」の通弊、実存主義には「木は見ても森を見ない」「原子論atomism」の陥穽が顕著でした。ところが、ヴェーバーは、双方とも相互補完的な関係に置いて「止揚」し、「木も森も見る」「理解社会学」を編み出しました。理解社会学では、「認識者も認識対象も共に人間である」という特別の事情を活かして、人間個人の行為を「外から観察」するのみか、内面的「動機」も「解明-理解」し、そうすることによって当の行為の経過を「説明」しようとします。そのように「個人の行為」(「木」) から出発しながらも、「社会形象soziale Gebilde(「森」) も、「実体化」はせず、「秩序づけられた行為連関」として、動態的に捉え返していきます。ヴェーバーは、そういう「理解社会学」を、まずは「一般化」的「法則科学」として基礎づけ、これを普遍史・世界史大に適用-展開して、「西洋中心主義」に閉じ籠もることなく、「儒教と道教」「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」までが書き遺された「比較歴史社会学」を構想していました。そのうえ、そういう対象知を、つねに自分の卑近な現場実践にも呼び戻し、反省知としても活かそうとしました。学問について「哲学し」(認識論・方法論)、大学について「社会学するSoziologieren」、「マルクス以後の実存思想家the post-Marxian existential thinker」であった、と申せましょう。

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さて、本研究室では、本田、阿閉、両先生によって育まれた土壌に、北川隆吉先生によって、「戦後社会学」の実証的調査研究の気風がもたらされました。どんなに「思想性をそなえた社会学」でも、実証を欠けば、経験科学としては「宙に浮き」、「哲学的思弁」に迷い込んで「空転」しますから、実証的調査研究ないし歴史的経験知による検証は不可欠です。

ところが、日本の「戦後社会学」には、当事者には直視されにくい盲点がありました。すなわち、家族・農村・都市・企業・官庁・労働組合、はては伝統芸能団体や病理集団まで、日本社会のほぼ全域にわたって、「日本社会の近代化・民主化」を妨げている「封建遺制」「家父長制」、要するに「前近代的なもの」を、調査研究によって抉りだし、打倒されるべき「問題」にかんする対象知は蓄積しました。しかし、自分たちがそのように生きている現場としての大学は、問い残していました。やはり「灯台元暗し」だったのです。学問的対象知を反転させ、反省知として活かす実存主義が、戦後社会学一般には根を下ろしていませんでした。

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さて、わたくしは、1950年代後半の日本で、一学生として、マルクス主義よりも先に、実存主義にコミットしていましたから、ヤスパースに倣って、ヴェーバーを「社会学する実存思想家」として捉えることができました。ですから、1968年に、自分の職場の大学に「紛争」が起きますと、争点となった「学生処分」問題に、理解社会学を適用し、事実関係を究明いたしました。大学当局が処分理由とした「もめごと」「摩擦」を、学生一個人と教員一個人との「行為連関」として、「価値自由に」捉え返し、事実と理にもとづいて問題を解決しようとしたのです。そうしますと、当局が致命的な事実誤認を犯し、しかもその直視を避けて隠蔽を重ねている事実が、見紛いようもなく明らかになりました。そこで、その事実を論証して、大学を批判いたしました。ところが、東大は、「組織としての既得権益の維持を自己目的とする利害関心」が旺盛で、学問上の真理に優越してしまっており、学問的批判は、さればこそむしろいっそう嫌われました。

北川先生は、そういう実情を直観的に捉えて、憂慮してくださっていたようです。そのうえ、本田、阿閉、両先生以来の本研究室の伝統は、もとよりよくご承知でしたから、嫌われ者のわたくしも、本研究室の伝統を引き継ぐには一定程度適任と評価して、ご推薦くださり、本学文学部教授会も満票をもって迎え入れてくだいました。

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そこで、 在任中の三年間に、なにをやったのか、が問題となりますが、ともかくもキャンパスの近辺に移り住み、講義・演習・研究室運営に一生懸命に取り組みました。『文学部研究論集』と『名古屋大学社会学論集』に、毎号欠かさず、ヴェーバー研究関連の論文を寄稿し、ヴェーバー「客観性論文」の補訳・解説 (岩波文庫版) も刊行しました。また、停年退職後、かなり経ってからですが、200966日には、西原和久先生のお招きを受け、本学で開催された「日中社会学会」の第21回年次大会にやってまいりまして、「マックス・ヴェーバーの比較歴史社会学におけるアジアとくに中国」と題して報告いたしました。その内容を敷衍した拙著『マックス・ヴェーバーとアジア――比較歴史社会学序説』(20103月、平凡社刊)は、長年のヴェーバー研究を、『宗教社会学論集』と『経済と社会』との相互補完的解釈によって、ひとまず集約し、わたくしたち自身による「比較歴史社会学」の展開に向けて、方法を確かめ、「パラダイム変換」を企てる試みで、わたくしとしましては「名古屋期の所産」と位置づけております。

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そういうわけで、本研究室における三年間は、わたくしにとってまことに楽しい、内容充実したインタールードでした。問題はむしろ、三年後に停年で本研究室を去るとき、その将来をどのように考えていたのか、にありましょう。

もとより、辞めていく人間、とくにわたくしのような短期間の「助っ人」は、後事をすべて後輩に託し、とやかく容喙してはならない、と自戒してはおりました。とはいえ、本研究室の伝統の継承は、理論面は主として新任の西原和久先生に、調査研究面は主として松本康君に託し、理論にも調査にも長けた丹邉君が「扇の要」に座って、ご両所を支えていってくれるだろう、と期待しておりました。ところが、土壇場で松本君が東京に転勤し、他方では、環境学研究科への大改革の話が「降って湧いたように」浮上しました。じつは、わたくしが辞めるまで、そういう話はいっさい耳にしておりませんでした。その後、西原先生と丹邉君のご苦労はいかばかりか、と気にかけてはおりましたが、じっさいにはなにもお助けできませんでした。

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ところで、環境学研究科への移行は、それ自体としては、むしろ積極的に受け止め、本研究室の伝統を、そのなかで発展的に活かす方途を模索すべきでありましょう。とはいえ、それには、本研究室開設以来の伝統を、全体として展望し、望むらくは「思想性をそなえた社会学」として、どう拡充していくか、そういう反省もまた、必要とされましょう。丹邉君もまもなく停年を迎えられるでしょうが、あまり忙しくなさらず、「名古屋大学社会学研究室史」をまとめて、今後の発展に寄与していただけないか、とも祈念いたします。

 

どうも、マージナルな位置から、とりとめもない思いを不躾にもご披露して、恐縮に存じます。ただ、これもひとえに、本研究室の発展を祈念してのこととご海容ください。ご静聴ありがとうございました。(2019114)