「テンブルック旋風」――『経済と社会』の編纂論争史(1)

 3. 1718京都シンポジウムに向けて(5)

折原

1.「『経済と社会』との訣別」

 編纂論争の口火を切ったのは、テュービンゲン大学の社会学教授フリードリヒ・H・テンブルックでした。かれの研究室のある同大学「ヘーゲル館」からは、歩いて五分もかからないところに、同じ通りに面してJ. C. B. Mohr社の社屋が立っています。かれは、この「地の利」を活かし、同社の文書資料室で、マックス・ヴェーバーとパウル・ジーベック、マリアンネ・ヴェーバーと(パウル・ジーベックの後を襲ったふたりの息子)オスカー/エドガー・ジーベックとの往復書簡を閲覧し、初めて『経済と社会』の「作品 (成立) Werkgeschichte(「生成史Entstehungsgeschichte」とほぼ同義)に光をあてました。その結果、「二部構成」は、編纂者マリアンネ・ヴェーバーが、「旧稿」「改訂稿」間の論点重複を正当化し(「二重化テーゼ」)、ひとつの「体系的主著」に仕立てるために採った虚構で、原著者の構想ではなかった、という事実を、確実に突き止めたのです。この研究成果は、「『経済と社会』との訣別Abschid von "Wirtschaft und Gesellschaft"」と題する論文の形で、ヴィンケルマン編第五版への批判的論評として発表されましたZeitschrift fuer die gesamte Staatswissenschaft, Bd. 131, 1977: 663-702, 邦訳が住谷一彦他訳『マックス・ヴェーバーの業績』、1997、未来社、に収録)。約半世紀間の呪縛を破るこの衝撃的問題提起は、『経済と社会』を典拠としてきたすべての研究者、殊にヴェーバー研究者に、態度決定を迫るものでした。しかし反響は、1980年代に入ってからようやく現われます。シュルフターと折原との「積極的対決」も、テンブルックに発する論争史のコンテクストに位置づけられましょう。

2.「主著」は『宗教社会学論集』――ベンディクス「包括的肖像」への対抗構想

 そのまえに注目しておきたいのは、テンブルックのこの神話破壊が、なるほど意図して挑戦的ではありましたが、なにか「主著」だけを狙い撃ちする耳目聳動的な転覆の企てといったものではなかったことです。かれは、「『経済と社会』との訣別」の二年まえに、論文「マックス・ヴェーバーの業績 Das Werk Max Webers」を発表していました(住谷他訳、1997、に収録)。この表題は、じつは、ラインハルト・ベンディクス著『マックス・ヴェーバー――その包括的一肖像』1960、改訂版1962独訳1964と同一です。ナチに追われてアメリカに逃れたベンディクスは、ヴェーバーの経験的研究内容を中心に「包括的全体像」を構築しようとしました。この著作は、主にパーソンズ流の「法則科学」的ヴェーバー解釈に馴染んでいたアメリカの学界でも反響を呼び、パーソンズ自身が学界誌に特別書評を寄せ、その後標準的な教科書として使われるようになりました。他方、第二次世界大戦後の西ドイツ社会学界でアメリカ流実証主義の受容と展開を精力的に進めていたケルン大学のルネ・ケーニヒに絶賛されKoenig, Rene, Literaturbesprechung, Koelner Zeitschrift fuer Soziologie und Sozialpsychologie, 12 Jrg., 1960: 534-40、かれの推薦によって独訳され、波紋を引き起こしました。独訳には多分、ケーニヒが「序文」を寄せていたと思います。このベンディクス流「包括的全体像」の出現に、「本家本元のお株を奪われた」と感じたドイツ人ヴェーバー研究者も、少なくなかったのではないでしょうか。テンブルックによる同名の論文は、一面では明らかに、ベンディクスの「向こうを張った」ものと解されます。

 ところで、ベンディクスは、「世界宗教の経済倫理」をヴェーバー中期に配し、『経済と社会』を「最晩年の主著」とする(マリアンネ・ヴェーバーからレイモン・アロンにも引き継がれた)伝統的位置づけを踏襲していました。かれは、そうした (「作品史」的には誤っている) 前提のうえに、ヴェーバーは、「世界宗教の経済倫理」を「古代ユダヤ教」をもって完結させたあと、そこに発する宗教的諸観念が、西洋文化圏に普及し、定着する過程を、「最晩年の主著」『経済と社会』とくに「法社会学」章と「支配社会学」章で探究し叙述したのだ、と解して、かれの包括的「肖像portrait」を描いたのです。

 それにたいして、テンブルックは、「ヴェーバーの業績」の「主題的統一 thematic unity」は、もっと「作品史」(したがって思想展開史)に忠実に探究されるべきであると主張し、『経済と社会』を「最晩年の主著」とする通念に挑戦しました。かれによれば、この通念こそ、ヴェーバー研究を永らく「袋小路」に追い込んできた元凶にほかなりません。そもそも『経済と社会』は、教科書風の叢書『社会経済学綱要』への分担寄稿として、必ずしも執筆者の意のままにはならない「請け負い仕事」にすぎず、そのうえ、191920年の「改訂稿」と、191113年という比較的早い時期に書き下ろされ、(テンブルックが中心テーマと見る)「合理化」問題にかけてはまだ「模索段階」にあった「旧稿」とを、別人が合体し、そのさい素材配列を独自に決定した代物で、とうてい信憑性と統一性のある「主著」とみなすことはできない、というのです。

 それにひきかえ、後の『宗教社会学論集』(1920) に収録された一連の諸論文 (190420) は、病後のヴェーバーが自分自身の問題関心から自由にテーマを設定し、首尾一貫して追求した、その全期間にわたる労作です。したがって、それらをみずから改訂/編集し、みずから刊行を企てた『宗教社会学論集』こそ、作品史上、成熟したヴェーバー思想の最終段階の統一を表示する最重要作品で、その意味で「主著」と呼ぶに相応しい、といえましょう。テンブルックは、このように、『経済と社会』と『宗教社会学論集』との間には、時間的前後関係ばかりか、意義上の優劣もある、と見るのです。

3. 「総括」/「結論」としての「序論」と「中間考察」

 さて、テンブルックは、その『宗教社会学論集』についても、伝来の通念に挑戦しました。すなわち、「世界宗教の経済倫理」シリーズの意味を「プロテスタンティズム・テーゼの比較史的検証」と見る「従来幅を利かせてきた解釈」(明らかにアロン以来の定説) を、「ヴェーバー研究における腹立たしい蒙昧」として否認し、代わっては、「世界宗教の経済倫理」の「序論Einleitung」と「中間考察Zwischenbetrachtung(ともに発表は1915) を、「[ヴェーバーの] 永年にわたる歴史・社会学的研究の体系的総括Summe」、ないし「それ自体はトルソに終わった『世界宗教の経済倫理』でヴェーバーが到達した最終段階」を開示する「総まとめFazit」と見て、前景に押し出し、中心に据えました。

 ところで、「序論」や「中間考察」が「総括」や「総まとめ」とは、ちょっと不可解とも思われましょう。ところが、テンブルックによれば、ヴェーバーは「第一次世界大戦が終われば、元の研究には戻れまい」と予期し、すでに1915年には用意されていた「世界宗教の経済倫理」本論草稿の内容を「急いで」「総括」し、さもなければキリスト教にかんする最終章の末尾に据えられたであろう「結論」を、急遽「繰り上げ」、まずは「序論」に、ついで「中間考察」に開陳した、というのです。とすると、「序論」や「中間考察」で結論が出てしまった、というのですから、「本論」のほうは、すでに草稿が「書き下ろされている」「古代ユダヤ教」までは、そのまま発表するとしても、それ以降の諸章は、もはや執筆の労に値しない「余計なもの」となりましょう。当の「結論」に合わせて旧稿を補正したうえは、「余計」章の執筆は取りやめ、むしろ「結論」を踏まえた新しい研究に乗り出したほうがよい、ということになるはずです。じじつテンブルックは、当の補正が『宗教社会学論集』編集時の(「倫理」論文を含む)旧稿の改訂で、『論集』の「序言Vorbemerking(1920) は、当初「序論」と「中間考察」に表明された「結論」の再定式化にほかならないと主張します。そのさい、「古代ユダヤ教」につづく、主としてイスラム教とキリスト教に予定された章の執筆/刊行計画は放棄されていた、とも見ています。

4. 宗教領域に「固有の論理」と、「宗教的合理化」としての「脱呪術化」

 では、「序論」と「中間考察」に、そのように (作品史的には変則的に) 開陳されている「総括」とは、どんな内容でしょうか (『基礎研究序説』: 216, 253-6)。テンブルックは、ヴェーバーが、「倫理」論文を起点としながらも、その後視野を拡大し、「合理性」の歴史的発現形態とその条件を広く探索していった結果、その多様な発現形態を貫いて、「固有の論理」とその「動力学」に服する「宗教領域に固有の合理化」が進展している事実を突き止めた、と見ます。そして、そうした「宗教的合理化」の「複線的系統図」のうち、途中で頓挫をきたさずに完結した二分肢が、「業」の神義論に行き着いたインドと、古代イスラエルの予言から西洋近世の「予定説」にいたる「中東-西洋」とにあり、後者が「脱呪術化Entzauberung」にほかならない、というのです。ですから、「脱呪術化」とは、歴史上幸運な諸条件が偶然重なって生じた外的な結果にとどまらず、「固有の論理」と「動力学」にもとづく「宗教的合理化」の内的な帰結完結態Abschluss」と見られます。ヴェーバーは、この関係を透視していたからこそ、「倫理」論文の改訂1920にあたって、古代ユダヤ教とカルヴィニズムとを結ぶ線上の歴史過程はまだ研究していなかったにもかかわらず、「予定説」を「脱呪術化」の内的「帰結」として位置づけることができた、というのです。

 そのうえで、「宗教的合理化」としての「脱呪術化」が、「全面的/徹底的『合理化』としての『近代化』への初期条件として、捉え返されます (価値のヴェクトルは別方向にありますが、「聖なる領域における疎外からの解放が、聖ならざる領域における解放の条件である」という初期マルクスと同じ認識です)。すなわち、「脱呪術化」によって人間の「ラティオー」「知性」が呪縛から解放され、自由にはたらく条件をあたえられて初めて、宗教以外の諸領域でも、当該領域の「固有法則性」を知性的に認識 (「主知化」)、そうした認識にしたがって当該領域の諸素材を実践的に加工/編制(「合理化」)していけるようになり、「全面的徹底的合理化としての『近代化』」が始動する、というわけです。

5.「テンブルック旋風」への対決とスタンス

 このように、テンブルックによる「逆転 (配置) 二部構成」神話の破壊は、たんに『経済と社会』にかぎって、その編纂問題を提起した、というだけのものではなく、ヴェーバーの業績総体ないしはその主題にかんする才気煥発な新解釈の一環をなしていました。作品史/生成史への沈潜にもとづく、意図して挑戦的で鋭利な、この問題提起からは、1980年代中葉まで、「テンブルック旋風」が吹き荒れている感さえありました。現在でも、「合理化」をいったん方法概念として捉え返し (矢野善郎『マックス・ヴェーバーの方法論的合理主義』、2003、創文社、参照) たうえで、それぞれ「非合理」な与件に根ざす「ラティオー」の歴史的に多様な諸展開を究明/展望し、さらにそれらをいかに統一的整合的に捉えきれるか、と問うたばあい、テンブルックが提出していた上記の解決案は、いぜんとして明快かつ有力な仮説として考慮されるでしょう。しかし、ここでは、そうした問題には立ち入らず、ひとまず『経済と社会』の編纂問題に狭めて、「テンブルック旋風」に対決するとしましょう。

 というのも、テンブルックとともに『経済と社会』よりも『宗教社会学論集』のほうが「主著」として重要で、優越している、と認めるにせよ、だからといって『経済と社会』を「たんなる請け負い仕事」として貶価するのは「行き過ぎ」、というよりも「主著」をめぐる同位対立、といえるのではないでしょうか。『経済と社会』も、それはそれとして、テンブルックのほかならぬ「作品史」的方法を適用して、仔細に再検討し、原著者ヴェーバー自身の構想に沿って再構成し、かれの思想生成/展開史のなかに位置づけるべきではないでしょうか。「ヴェーバーの業績」総体を、もっぱら「現実科学」と見て、「法則科学」的契機を見落とすとすれば、やはり一面的というほかはなく、とりわけ批判的継承者における活学活用への「潜勢Potenz」を減殺してしまう、と考えられます。

 さて、そのように、テンブルックの挑戦を、『経済と社会』のテクストそのものではなく、 既存の編纂にたいする否定的な批判、というふうに限定/相対化し、かれ流の「訣別とは訣別」しましょう。そのうえで、『経済と社会』のテクストを素材として継受し、いかに再構成するか、という積極的問題設定に転じましょう。そうすると、テンブルック自身は、「もしどうしても、すべての草稿を『経済と社会』と銘打った一作品のなかに有意味に整序したいというのであれば、現行 [第五] 版は、きわめて読みやすくlesbar、熟慮を経たueberlegt ひとつの解である」(Abschied: 734) と、意外にあっさりと認め、再構成からは手を引いてしまいます。鋭利な否定的批判が、かならずしも堅実な再建とはむすびつかない一例といえましょう。

6.「狭小化」か、それとも「潜勢」を含めての「極大化」か 

 しかも、かれのヴェーバー解釈全体にかかわることですが、肝要な『宗教社会学論集』についても、「世界宗教の経済倫理」の「序論」と「中間考察」で「総括」ないし「結論」が出てしまったから、あとは「余計」という「[テンブルックの] 総括」は、じっさいに書き遺された『宗教社会学論集』にも、ひとまわり小さい解釈をあてがうことになりましょう。じっさいには、ヴェーバーは、「古代ユダヤ教」のあとに予定していた「イスラム教」、「キリスト教」にかんする続篇の執筆計画を、放棄してはいませんでした。この事実は、「ヒンドゥー教と仏教」の注 (RS: 251 Anm. 1) と本文RS: 252に挿入されたふたつの「後出参照指示」によって「テクスト内在的」に確実に立証されます。

 折原は、いまいった意味で、(「矮小化的」ではないとしても)「狭小化的」ではあるテンブルックのスタンスに対置して、ヴェーバーによる業績総体の、わたくしたち自身による批判的継承にもそなえかれのじっさいに生きられた思惟からははみ出る潜勢も含めた、「極大化的解釈のスタンスをとって、当の業績総体にアプローチしたいと思います。じつは、そのときにこそ、(先に述べたとおり、『経済と社会』旧稿、やはり「文化科学」的「法則科学」であったとすると) では、それらをいわば「道具箱」として駆使する「現実科学」的「文化科学」ないし「歴史科学」は、いったいどこにあるのか、それがかりに、かれの生涯においては実現されずに終わったとして、その構想ないし構想へのヒントは、どこにどのように潜勢として遺されているのか、とぎりぎりのことろまで問いつめ、さらにそのうえで、批判的継承者自身において「法則科学」的契機を編入した「現実科学」的個別研究をどう構想し、そこにヴェーバーの「潜勢」をどう活かしていくか、という課題も生まれてきます。一般に (非実存的) 思想家は、暗黙裡にせよ、対象としている思想家の思想所産を、当の思想家が生涯を閉じるときに「完結」したと決め込み、そういう前提のうえに、「全体像」を構築したり、「位置づけ」をしたりして、「能事終われり」としがちです。しかし、そうした前提は、当の思想家との実存的対決は思ってもみない、スコラ学のスタンスから生まれる錯視というほかはありません。実存的学者/思想者の仕事は、じつはそうした前提を外すところから始まる、といえるのではないでしょうか。

 

余録 テンブルック先生の思い出

 以上が、「テンブルック旋風」と格闘したうえ、現在たどり着いている見地です。しかし、テンブルック教授は、じかに接すると、論文の鋭利で辛辣な筆致からは想像もつかない、温かい人柄の先生で、とりわけ日本人学生/学者には好意を寄せておられました。いまここに、先生の思い出の一端を記して、この (5) 稿をむすびたいと思います(留学/国際交流についてお考えの方々に、一例として、なにかのご参考にもなれば幸いです)

 19933月末、ミュンヘンで国際会議「日本とマックス・ヴェーバー」が開かれ、日独のヴェーバー研究者大勢が一堂に会しました。ところが、(ドイツの「学界/ジャーナリズム複合体制」につねに批判的で、いわば「在野」の立場を堅持された) テンブルック先生は、やはりその会議にも招待されず、会場に書簡を託して、住谷一彦氏とわたくしに、会議終了後テュービンゲンに訪ねてくるようにと誘ってくださいました。わたくしは幸い、勤務先から海外出張の許可をえて、そのあと一年間、ハイデルベルクに滞在できることになっていました。そこで、その期間中、719日と1220日の二回、テュービンゲンを訪ね、テンブルック先生の「コロクヴィウム」で報告/討論しました。月曜日午前に開かれるならわしらしいコロクヴィウムのあと、先生かかりつけの牧場レストランで昼食をご馳走になり、いったん解散、先生のお昼寝のあと、夫婦でお宅に招かれ、奥様/お嬢さん/お孫さん/お弟子さんともども、心温まる歓待を受けました。

 じつは、渡独のまえに、出張/滞在先として、「全集版編纂所のあるミュンヘンと、ヴェーバーゆかりのハイデルベルクと、どちらにしようか」と迷い、シュルフター教授に相談したところ、「ミュンヘンもいいが、ハイデルベルクには大学院生がいるから、なにかといいのではないか」という返事でした。「大学院生がいていい」とは、「シュルフター教授のゼミに出て、院生とともに鍛えられるとよい」という意味です(ついでながら、シュルフター教授は、じつはわたくしより三歳年少なのですが、相手が若々しすぎるせいか、ちょくちょく院生扱いされます)。ところがそれは、若いころ(東大闘争で「授業拒否」していた期間があり、そのうえに「サバティカルを」「長期海外出張を」とはいい出せなくて)留学の機会を逸し、独語会話はままならないわたくしには、ちょっと困る話でした。シュルフター教授のゼミに出ればそれは勉強になるには違いないとしても、その予習/復習で一年を費やすのは、閉口です。留学は初めてなのに、受け身の勉強よりもむしろ、多少の蓄積を携えていき、「縦を横になおして」発表する機会をつくりたい、と秘かに考えていました。シュルフター教授は、その期間、エアフルト大学に兼任で出張して留守がちと聞いて、「これ幸い、鬼のいない間に」と決めました。そこで、ミュンヘンからハイデルに着くとすぐ、アカデミー・シュトラーセにある日本学研究室に、今回も京都に来られるザイファート教授(ミュンヘン会議で面識をえました)を訪ね、とびぬけてよくできる一学生(後に再度日本に留学して研究し、シュヴェントカー他編『記憶文化Erinnerungskultur――1945年以降のドイツ、イタリアおよび日本』、2003, Frankfurt am Main: Fischer: 285-98に、「日本の教科書における歴史政策Geschichtspolitik in japanischen Schulbuechern」を寄稿しているズザンネ・ペーターセンさん)を紹介してもらって、添削のアルバイトに雇いました。

 それから、週に一度、論文の独訳原稿をしたため、妻とふたりで散歩かたがたネッカー河対岸(ヴェーバー・ハウスの並び)にある学生寮を訪ね、かの女のメール・ボックスに原稿を投入して帰り、翌日、こんどはかの女が訪ねてきて、行き届いた添削結果を丁寧に解説してくれる、という生活が始まります。そのようにして、十篇近い論稿を独訳し、ワープロ原稿を、一方ではドイツ用に、妻が町のコピー屋で必要部数増刷し、他方では、東大教養学部相関社会科学科の事務室に送り、約一~二か月で『ワーキング・ペーパー』に仕立て、これも必要部数ドイツに送り返してもらうというふうに、印刷態勢をととのえて、会話能力の不備を補いました。

 

 719日の「コロクヴィウム」報告「テンブルック教授による1970年代中葉の問題提起とわたしのヴェーバー研究 Die Problemstellung Prof. Friedrich H. Tenbrucks um die Mitte der 70er Jahre und meine Weber-Forschung」も、出席者分の小冊子を準備/配布して読み上げ、討論のさいには、テュービンゲン大学の日本語学科アルノルト・金森氏と、日本から当時留学していた勝又正直氏に支援(通訳)してもらいました。当該報告は、原文が東京大学教養学部相関社会科学科編『ワーキング・ペーパー』、第38 (19938) に、後にその邦訳が「ヴェーバー研究の三段階と『経済と社会』の再構成――テンブルックの問題提起に答えて」と題して、拙著『ヴェーバーとともに40年――社会科学の古典を学ぶ』、1996、弘文堂: 156-85に、それぞれ収録されています。このようにすれば、「歳をとって、学問上は対等な交流を要求されるけれども、会話能力が不備で困った」というネックは、多くの人々の協力に恵まれるという条件のもとにおいてではありますが、なんとか乗り切れるのではないでしょうか。もとより、若いころに留学して「揉まれる」に越したことはありませんが。

 さて、報告冊子を手にとったテンブルック先生は、お宅の階段踊り場の談話スペースで、『ケルン社会学・社会心理学雑誌』への投稿を勧めてくださいました。折原が内容上、テンブルック「訣別」に批判的で、「訣別との訣別」を主張しているにもかかわらず、そんなことは意に介さず、批判が学問の進歩に資するのであれば協力を惜しまない、という断固たる原則的スタンスが窺えました。「自分は70歳をすぎて、再構成に手を染める体力がない、代わってやってください」ともおっしゃいました。その報告冊子の改訂稿が、じっさい1994年第一号に載る「信憑性論文」(Eine Grundlegung zur Rekonstruktion von Max Webers "Wirtschaft und Gesellschaft": Die Authentizitaet der Verweise im Text des "2. und 3. Teils" der 1. Aufl., KzfSuSp, 46. Jrg., 1994: 103-21、山口宏訳、『新展開』: 17-46) です。テクスト中に散りばめられた参照指示の信憑性を、「非整合参照指示の系統性」を手掛かりにして論証した例の論文です。これを読んで先生は、「いま、この論文を発表しておくことの意味が、10年後に出でくるでしょう」と予言され、当時『ケルン社会学・社会心理学雑誌』の編集委員を務めておられた高弟、トリーア大学のアロイス・ハーン教授に推薦文を書いてくださいました。ハーン教授によると、編集会議では、他の委員たちに「自分たちも全集版の編纂には最善を尽くし、やることはやっているのに」という抵抗の雰囲気があって、受理までには相当苦労された、と聞きました。「積極的対決をとおして貢献したい」というスタンスは、気分としてはなかなか受け入れられないようです。

 さて、「もう一度」ということで、つぎに伺ったのが、二回目の「コロクヴィウム」(1220) でした。前回と同じく、キュエンツレン、ホーマン、アルブレヒトといった若いお弟子さん、日本からは茨木竹二氏、テュービンゲン大学の同僚教授数人が出席してくださいました。こんど用意した小冊子は、「『訣別』を越えて再構成へ――『経済と社会』初版「第二/三部」におけるヴェーバーの用語法Die Terminologie Max Webers im "2. und 3. Teil" der 1. Aufl.(後に、『ワーキング・ペーパー』第47号、19946月に収録、摘要としては、『トルソの頭』: 291-9、参照) と題し、「旧稿」には「カテゴリー論文」で定式化されている基礎概念 (「ゲマインシャフト行為」「ゲゼルシャフト行為」「諒解行為」など) を表示する術語が用いられていて、「改訂稿」「社会学の基礎概念」の術語は姿を見せない、という事実を、用例一覧 (『トルトの頭』: 320-289 ) を作成して立証するものでした。

 ただしこの報告は、前回とくらべて評判がよくありませんでした。「事実は分かったが、その事実がどういう意味をもつのか」という方向で、矢継ぎ早に質問が出ました。「カテゴリー論文」の概念が一貫して使われている (ちなみに、この点にはその後、シュルフター教授が異議を唱えられ、この問題が今回の「積極的対決」でも、一争点になります) という意味だけでは、納得/満足してもらえません。「では、その『カテゴリー論文』の概念が一貫して使われているという事実は、どういう意味をもつのか」という具合に、答えが問いを呼び、はては「『カテゴリー論文』の術語から『基礎概念』にかけて、改訂がなされたというが、その改訂の事実はなにを意味するのか」というところまで、いきつきました。どうやら、「相手が答えられるかどうか」、というよりも「答えられる問いを自分たちが発しているかどうか」には、いっこうに頓着しないようです。こちらとしては、「その事実を確認するだけでも、大仕事のうえ、意味がありはしませんか。マリアンネ・ヴェーバーもヴィンケルマンも、そういう手間のかかる事実確認を怠ったために、『逆転 (配置) 二部構成』に陥ったし、陥りつづけたし、他の学者も、テンブルック先生による挑戦までは、『おかしい』とも思わずにきたのですよ」といいたいところです。しかし、わたくしは、あえてなにもいわず、「ご質問ごもっとも」と拝聴し、できるかぎり答えようとする姿勢を崩しませんでした。というよりも、「これは多分、学風の違いだな」と察知し、たいへん勉強になりました。今後、わたくしたち日本人学者が、国際的な学術交流を進めて貢献していくには、「一見あたりまえで『陳腐』とされる事実でも、律儀に確証する」という(職人気質と関係のありそうな)側面が「ものをいい」、日本人学者の長所と認められ、育てられていくのではないか、とも思いました。

 さて、テンブルック先生は、そのやりとりを面白そうに眺めておられる、という風でした。居合わせただれも、これが先生の公的活動の最後になろうとは、思ってもみませんでした。その日も、いつものようにお昼寝の時間をおいて、テンブルック邸に集い、談論風発のあと、夕刻においとましました。先生は、奥様が長らく心臓を患っておられたので、その日もわたくしたちを送り出したその足で、車を運転して町に買い物に出られました。夕闇に消えていくお姿が、わたくしには最後になりました。直後、肺癌と診断され、年明けにも入院され、二月には奥様にも先立って逝かれました。臨終には、ホーマン、アルブレヒト、茨木の三高弟だけが立ち会いました。後日、ハイデルの寄留先にとどいた奥様名の死亡通知には、「フリードリヒ・H・テンブルック、学問ひとすじの生涯を閉じました」とだけ記されていました。

2006221日記。つづく。次稿「京都シンポに向けて(6)」から、いよいよシュルフター教授登場です。やや遅れ気味で、焦っています。)