『経済と社会』の編纂史――3. 1718京都シンポジウムに向けて(4)

折原

1.   マリアンネ・ヴェーバー編纂の問題

 マリアンネ・ヴェーバーは、夫の作品を、バラバラの論文集積には終わらせず、「主著」に仕上げて後世に残したいという願望を、早くから抱いていたようです。そして、新版『政治経済学必携』、後に『社会経済学綱要』の企画が持ち上がると、それが「叢書」「講座」ともいうべき共同著作で、第一線の研究論文というよりも、既存の研究成果を一般向けに集成する「教科書」的著作であったにもかかわらず、それへの夫の寄稿を「主著」に見立てようとしました。そのかの女にとって、草稿が完成せず、二束の未定稿として遺されたことは、かえすがえすも残念だったにちがいありません。

 ところで、19206月のマックス・ヴェーバー死去のさい、「改訂稿」のほうは、第四章「身分と階級」の冒頭までが、第一分冊として公刊される予定で、すでに校正刷りが出て、かれも目を通していました。「改訂稿」の続篇については、第四章までのテクスト中に、「法社会学」「支配社会学」「宗教社会学」「『市場』の社会学」「(家ゲマインシャフト、家共産制とその解体、性別分業、近隣団体、近隣ゲマインシャフトにおける同胞的救難義務の再編態としての篤志労働、篤志労働への氏族長の請求権、家ゲマインシャフトの経営への発展、を論ずる)  第五章」「『民主制』の理論」「転覆の理論」「国家社会学」への「後出参照指示」(全59個。拙著『マックス・ウェーバー基礎研究序説』、1988、未来社: 117-25、に収録)が付されているところから見て、それぞれに対応する諸章の執筆 (「旧稿」の改訂) が予定されてはいたのでしょう。しかし、その草稿も、「構成表」も、構想にかかわるメモ類も、残されてはいませんでした。

 こうした状況からテクスト編纂に着手しなければならないとき、学問上の規範に照らして「整合合理的richtigkeitsrational」には、つぎのような、生成史に忠実な措置が考えられましょう。すなわち、「改訂稿」はそのまま予定どおりに公刊し、「旧稿」のほうは、まえもって第一次世界大戦前に書き下ろされ、ほとんど手を加えられず、戦後に改訂の素材として用いられた草稿として、それが遺稿中に発見された状態にかんする正確な記録を添え、なんらかの形で別立てにして (たとえば「191014年草稿」として) 発表するという措置です。そのうえで、両稿の関係については、後世の研究に委ねてもよかったでしょう(ただ、そうしていたのでは、遺稿が日の目を見ない、という可能性は、あったかと思います)。そのさいには、両稿の間に「論点の重複」があることも、「旧稿」(すなわち素材稿)から「改訂稿」への論点継受の痕跡として、当然であるばかりか、かえって原著者による改訂ないし思想展開の足跡をたどるのに欠かせない道標として、テクスト生成史また思想発展史の研究に活かされたことでしょう。

 ところが、マリアンネ・ヴェーバーは、公刊間近の「改訂稿」第一分冊には手を加えなかったものの、(結果的に三分冊となる) その続篇に、遺された「旧稿」「戦前草稿」を漏れなく収録し、その全体を「原著者の体系的主著」と銘打って世に問おうとしました。そうすると、ことの成り行き上、執筆順とは逆に、公刊間近の「改訂稿」を先に出し、そのあとに「旧稿」を配列し、それぞれに「第一部」と「第二/三部」という体系上同格の地位を与えることにならざるをえないでしょう。そして、「改訂稿」も含めての「一書」となると、「1914年構成表」は「旧稿かぎりで失効し、全面的には依拠できないからには、「第二/三部」への遺稿の配列も含む章別編成は、どうしても、編者独自の決定に委ねられるほかはありません。さらに、「第一部」と「第二/三部」との関係についても、「主著」に相応しい「体系的説明」を用意し、読者に提示し、「一書」としての体裁をととのえなければなりますまい。そうすると、「第一部」と「第二/三部」との(生成史的には当然の)論点重複が、そういうマリアンネ・ヴェーバーの目には、「主著」としての「体系性」を脅かす「難点」と映らざるをえなかったでしょう。

 そこで、かの女は、この「難点」を「解決」し、「体系的主著」としての体裁をととのえる、いわば「窮余の策」として、つぎのような解釈を案出し、かの女の「序言Vorwort」に記載し、読者に提示しました(この「序言」は、まえにも触れたとおり、当初には、初めてかの女の編纂になる「第二分冊」(1921) の冒頭、つぎには四分冊を合本した「初版」(1922)「第二/三部」の劈頭に掲載されましたが、「第二版」(1925)以降は、全巻の冒頭に繰り上げられ、「初版への序言」と改題されます)。その解釈とは、つまりこうです。「『第一部』は『抽象社会学』で、そこでは社会学的類型概念が構成され、体系的 (「決疑論」的) に編成される。それにたいして『第二/三部』は『具体社会学』で、『第一部』で構成された概念が、そこで歴史的諸現象に適用され、それらの理解/説明に役立てられる。したがって、『第一部』と『第二/三部』とは、一方は「概念構成」、他方は「概念適用」という相異なる目的/機能を担って、一『体系』の双翼をなし、同一の歴史的素材も、前者では、構成される[類型]概念の具体的例示/認識手段、後者では、当の概念の適用によって理解/説明されるべき対象として、いわば『位置価』を異にするから、けっしてたんなる重複ではない」という一見巧妙な説明です。

 しかし、この説明を「鵜呑み」にせず、立ち止まって考えれば、「改訂稿」であとから構成された概念が、以前に書き下ろされ、その後は「若干の補足を加えられただけ」という「旧稿」で、すでに歴史的諸対象に適用されていたというのは、ありえないことですから、その説が虚構であることは明白です。また、テクストを厳密に読めば、「稿」を読むのに、「旧稿」に合致する「基礎概念」 (理由あって別途『ロゴス』誌に発表された「カテゴリー論文」に定式化されている「ゲマインシャフト行為」「ゲゼルシャフト結成」などの基礎概念) ではなく、改訂によって変更されたあとの (「改訂稿」第一章の)基礎概念」を持ち込まざるをえないため、いたるところで「矛盾」にぶつかって、疑念が目覚めるはずです。たとえば、「ゲマインシャフトへのゲゼルシャフト結成」とか、異なる「階級」(ブルジョアジーとプロレタリアート)間のゲマインシャフト行為」といった「奇異な」表記に遭遇して、戸惑わざるをえないでしょう(『「経済と社会」の再構成――トルソの頭』: 7-8、参照)。ただし、こうした表記が誤記ではないとなると、「ゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフト」といった基礎概念が、「稿」では、テンニエスの対概念とは異なる、また、(テンニエスの対概念に歩み寄った)基礎概念」とも異なる、なにか「旧稿に独自の意味で使われているのではないか、と見当がつくはずですね。

 ところが、こうした「矛盾」をもたらす「逆転 (配置) 二部構成論」は、浩瀚な伝記も著してマックス・ヴェーバーの最良の理解者また解説者と讃えられたマリアンネ・ヴェーバーによって導入されたうえ、ある意味でなお紛らわしいことに、そこに援用された論理そのもの (「抽象概念の構成」と「そうした抽象概念の具体的対象への適用) には、マックス・ヴェーバー自身による「法則科学」と「現実科学」との区別に、一脈通じるものがありました。すなわち、かれは、190306年期の方法論的思索に、リッカートによる「特殊化」的「文化科学」と「一般化」的「自然科学」との区分を援用し、「現実科学Wirklichkeitswissenschaft」と「法則科学Gesetzeswissenschaft」との区別を立てましたWL: 3-7, 113-4, 170-5, 237。「現実科学」とは、研究者の「価値理念」から「知るに値する」「価値関係」的対象を選定し、その具体的特性個性を、現実の因果連関の一項 (「被説明項」) に見立て、同じく「知るに値する」先行の具体的一項 (「説明項」) に「因果帰属」しようとする――あるいは、前者を後者から「因果的に説明」しようとする――歴史 (科学) 研究の謂いです。他方、「法則科学」とは、対象において反復する「一般的なもの」を抽出して「類/類型概念」と「一般経験規則」を構成/定式化し、「因果帰属」への適用にそなえようとする社会学などです。かれは、この区別のうえで、1907年の「シュタムラー批判」論文において、「規則」や「意味」のカテゴリーを論理的に分析/彫琢しながら、シュタムラーの「社会」概念を批判し、かれ独自の社会概念に鋳なおし、これを「カテゴリー論文」で定式化し、「旧稿」で具体的に展開します。この関係には、追って立ち帰ります。

 ここでは、マリアンネ・ヴェーバーの指示する線に沿って、『経済と社会』の「改訂稿」を「法則科学」的概念構成、「旧稿」を「現実科学」的概念適用に、それぞれ比定してみましょう。すると、「カテゴリー論文」と「改訂稿」は、たしかに「法則科学」的・社会学的概念構成とその「決疑論」的編成を企てた著作といえます。しかしそれでは、「旧稿」はどうでしょうか。これもじつは、先に引用した「家ゲマインシャフト」章冒頭の「構成予示」・「架橋句」に明記されていたとおり、「1914年構成表」の2.7. に該当する諸章では「普遍的な種類のゲマインシャフトを一般的に性格づけ」ることを目指しています。また、8.で、「ゲマインシャフトの発展形態を支配のカテゴリーと関連づけて」捉え、「経済との関連を問う」さいにも、「一般化的に「支配諸形象」の「普遍的な類型 (ここではまだ「合理的形態」と呼ばれている「合法 (依法) 的支配」、「伝統的支配」、「カリスマ的支配」の三類型) を構成し、それぞれ (および「身分制 (国家)」のような下位類型) と「経済との関連一般化的に問うて一般的に定式化しています。ですから「旧稿」も、「法則科学」的概念構成の著作なのです。

 ただ、ここでは、「法則科学」といっても、「一般的なものに、ただそれが一般的であるがゆえに」、あるいは「反復するものに、ただそれが反復するがゆえに」関心を向ける、というのではなく、採り上げられる「一般的なもの」自体が、「われわれにとって重要」で「知るに値する」という研究主体からの価値関係的制約を被っています。その点にかぎっては、いわば「文化科学法則科学」で、「自然科学」的「法則科学」ではない、といちおういえるかもしれません。しかしそれでは、一般に「自然科学」は、およそいかなる「価値関係」性もそなえていない、いわば「没価値的法則科学」なのでしょうか。こうした問題が提起されざるをえません。ただ、ここでそうした問題に立ち入るのは、「道草」として行き過ぎ、というよりもむしろ、「道草」として論ずるには重大すぎる、といわなければなりますまい。

 そこで、議論の本筋に戻ると、『経済と社会』は、「旧稿」「改訂稿」ともども「文化科学」的「法則科学」の性格をそなえ、特定の(東西諸文化圏それぞれの対照的特性個性を、相互の比較によって鋭く概念的に定式化し、それぞれが「なぜかくなって別様ではないか」を「因果的に説明」するという)「価値観点」から見て「知るに値する」「一般的なもの」を取り上げ、それらにかんする「一般化」的/「類型論」的概念構成を目的とした著作である、と規定できましょう。ただ、「旧稿」が、膨大な歴史的素材との格闘をとおして諸類型を抽出する、概念構成のいわば第一段階をなしているのにたいして、「改訂稿」のほうは、そのようにしていったん構成された類型概念を、さらに鋭く、一義的なものに純化し、「決疑論」的/体系的編成を強化する第二段階をなしているといえましょう。したがって、「改訂稿」を読むだけでは、概念構成の最終結果が抽象的に把握されるだけで、とかく「あやふや」になりがちなのにたいして、「旧稿」を併せ読むと、そうした結果にいたる概念構成の全過程を原著者とともに具体的に追思惟し、その潜勢も含めて的確に会得することができます。ですから、わたくしたち自身が、マックス・ヴェーバーの比較文化社会学的思惟を、みずから追思惟し、その潜勢も含めて的確に会得し、(東西諸文化圏の狭間にある日本のいわば「文化史的位置価」を活かして)独自に展開していくには、どうしても『経済と社会』を、「旧稿」も含めて全体として読んでおきたいのです。

 じっさい、マリアンネ・ヴェーバーも、かの女の「序言」で、「第一部」の一般読者を念頭に置き、「第二/三部」を、上記の趣旨で意義づけてもいました。これは適切なメッセージで、とくにわたくしたち自身にとり、いまいった意味で重要と思います。しかし他方、この議論を突き詰めていくと、かの女を悩ませた、「第一部」と「第二/三部」との論点重複が、そうした追思惟の道標として、積極的に意義づけられてくるばかりか、「旧稿」と「改訂稿」との配置も、「逆転 (配置) 二部構成論」とは正反対に、執筆順すなわち概念構成の段取りに沿うように改められなければなりません。そうなると、かの女の「体系的主著」という思い入れとは、矛盾をきたすでしょう。しかし、わたくしたちは、そうした「個別主義的」な思い入れからは自由に、先に進むことができますし、そうすべきでしょう。

 ところで(ここでの議論の本筋からはちょっと外れますが)、『経済と社会』が「旧稿」も含めて「法則科学」に属するとすれば、他方の「現実科学」は、いったいどこにあるのでしょうか。まず考えられるのは、『経済と社会』と並ぶ『宗教社会学論集』、そこに収録された諸論稿でしょう。とくに「世界宗教の経済倫理」シリーズは、「旧稿」で構成された諸概念が適用され、他方、そこで採り上げられる具体的社会諸形象 (たとえば、インドの「カースト制」) が、「旧稿」の諸概念 (たとえば、「身分」ならびに「宗教儀礼によって相互に排他的に閉鎖された諸身分の位階制的ゲゼルシャフト結成態」というような概念) の「例示」・「認識手段」としても読め、そうした概念の理解に役立つ、という意味で、『経済と社会』と「相互補完関係」にあります。この関係は、ヴェーバー自身が意図したことでもありました。かれは、1915年に「世界宗教の経済倫理」シリーズを『社会科学・社会政策論叢』に掲載し始めるにあたって、「できれば『旧稿』中の『宗教社会学』章と同時に発表したかった」という趣旨のことを書いています (Archiv, Bd. 41: 1 Anm.)。とすると、「世界宗教の経済倫理」シリーズが「現実科学」的叙述なのでしょうか。

 また、同じく『宗教社会学論集』に収録されている「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、まずは「資本主義の精神」を、「知るに値する」対象として、その特性にかんする「歴史的個性体」概念を構成し、これを「禁欲的プロテスタンティズムの倫理」に「意味(因果)帰属」しようとする研究プロジェクトとして、執筆当時には確かにひとつの現実科学的歴史研究と目され、その末尾でも「純然たる歴史叙述rein historische Darstellung(RSI: 204) と規定されていました。ところが、著者ヴェーバーは、この論文の「改訂稿」1920を、『宗教社会学論集』に収録したのです。この事実は、なにを意味するのでしょうか。「倫理」論文は、よく読まれ、頻繁に論じられてもきましたが、意外にも、この問いが(方法論とむすびつけて)問われてはいないようです。「現実科学」としての初版が、改訂によって「法則科学」的社会学論文に変身をとげたのでしょうか。それとも、その間に、「現実科学」と「法則科学」との区別をひとつの柱としていたかれの190306年期の)方法論/科学観が、なにほどか変化をきたし、「倫理」論文が、いぜんとして「現実科学」的「意味(因果)帰属」ではありながら、同時につぎの研究プロジェクトにたいしては文化科学法則科学の概念構成という意味を帯びその準備階梯をなす、というふうに捉え返されたのでしょうか。とすると、その「方法論/科学観の変化」は、厳密にはどう規定されるでしょうか。「法則科学」についても「価値関係的被制約性を認め、「文化科学」的「法則科学」というカテゴリーを考え、実質上定立した、といえるのでしょうか。また、「つぎの研究プロジェクト」としては、なにが考えられていたのでしょうか。こうして、『経済と社会』 (「旧稿」と「改訂稿」) 方法論的性格をめぐる問いは、ヴェーバーの学問総体、あるいは学問的プログラム総体への問いとむすびついてきます。ただ、いまここで、この問題に立ち入るのは、急ぎすぎでしょう。

 ともかくも、マリアンネ・ヴェーバーの創案になる「逆転 (配置) 二部構成論」は、「『抽象概念の構成』と『具体的社会形象への概念の適用』との区別と統合」という (大まかには確かにマックス・ヴェーバー自身に由来する) 論理をそなえていました。一方、『経済と社会』の新旧テクスト、とくに「旧稿」そのものが厖大かつ難解で、厳密に通読すること、ましてや、その間における方法論の展開と関連づけて解釈することが、困難でした。方法論そのものの読解も、190306年期における「現実科学」と「法則科学」との区別が、その後、経験科学的研究の進展につれ、それとの「相互媒介」のなかで、どんな変遷をとげたのか、その観点から翻って、各経験的モノグラフがいかに位置づけられるのか、と問うまでにはいたりませんでした。こうして、「逆転 (配置) 二部構成論」は、ヴェーバー研究のそうした実情に助けられ、他方では、テクスト編纂者とテクスト利用者との相互批判なき分業と、「なんといっても未亡人が編纂した未完の遺稿なのだから」として厳格な学問的批判を手控える暗黙の諒解にも支えられて、一種の「神話」と化し、永らく編纂者/翻訳者/研究者を含む『経済と社会』の読者を呪縛してきたのです。

2.ヨハンネス・ヴィンケルマン編纂の問題

 この神話の呪縛は、第二次世界大戦後に登場した、つぎの編纂者ヨハンネス・ヴィンケルマンにあっても解けず、それどころかかえって補強されました。かれは、マリアンネ・ヴェーバーの「逆転 (配置) 二部構成」を引き継ぎながら、かの女によっては (「二部構成」をとるかぎり「正当に」) 棄却された「1914年構成表」が、戦後1918年の執筆再開改訂の後までなお活きていると誤って判断し、それを規準に、全篇を再編成したのです (当の判断の根拠と、それが成り立たないことの論証としては、拙著『トルソの頭』: 36-7)。「1914年構成表」は、先に掲げたとおり、八項目 (1.8.) の「一部」編成ですから、本来「二部構成」とは矛盾します。ところが、ヴィンケルマンは、「1914年構成表」の一項目1. に「第一部」と「第二部」の区分を持ち込み、テクストが欠落していた[1]「社会的秩序という範疇」に「改訂稿」(全180ぺージ分)を押し込みました。そのうえで、[2]「経済と法の原理的関係」には、マリアンネ・ヴェーバー編の「第二部第六章・経済と法秩序」、[3]「団体の経済的関係一般」には、同じく「第二部第一章・経済と社会一般」をあてて、「第二部」(マリアンネ・ヴェーバー編の「第二/三部」を「第二部」ひとつに統一) の冒頭に配置したのです。こういうやり方で、「改訂稿」と「旧稿」というふたつの異なるテクストを「一書」に合体し、さらにそうした「逆転 (配置) 二部構成」を、マリアンネ・ヴェーバーの虚構ではなく、原著者マックス・ヴェーバー自身の元来の構想であると強弁しました。

 そのように、かれの再編纂は、全体としては誤りで、ますます混迷の度を深めました。客観的に見れば、『経済と社会』を、編纂者としての主観的意図とは正反対に、「読解不能の古典」に追い込むほかはなかったのです。しかしもとより、かれの功績も、看過されてはなりません。第三版までには残されていた誤記/誤植、あるいは引用外国語の不適切な転記の類が、各領域の専門家の協力をえて訂正されたり、第五版には(かれ執筆の)『注釈巻』が付けられて、原著者が参照したとおぼしき文献類が挙示されたり、本文の部分的解釈や研究には、大いに役立ちました。こうした諸点は確かにかれの功績で、これらの改善を含む第四版以降の諸版が、総合的に見てマリアンネ・ヴェーバー編よりも良い版本と評価され、他の代替版がない以上、各国語訳にも用いられ、日本における創文社版の全訳計画も、第四版を底本としたのでした。

 ヴィンケルマン編纂の貢献は、そうした「意図された結果」だけにとどまりません。むしろ「意図せざる結果」として、重要な改善がなされたことも見逃せません。すなわち、かれの再編纂本の「旧稿部分にかぎっては、そこには妥当する「1914年構成表」に準拠してテクストが再配列されたのですから、そのかぎりでは確かに改善されています。たとえば、1. [2]「経済と法の原理的関係」に該当するテクストが、マリアンネ・ヴェーバー編では(どちらかといえば「1910年構成表」における「4. a」経済と法 (1. 原理的関係、2. 今日の状態にいたる発展の諸時期))項目の構成にしたがって第二部第六章・経済と法秩序」に繰り下げられ、「第二部第七章・法社会学」のみへの「概念的導入部」であるかに位置づけられていたのを、ヴィンケルマンは、「1914年構成表」を準拠標として、その1. [2]の「原位置」に戻しました (「第二部第一章・経済と [社会] 秩序」)。そうすることによって、2.「家ゲマインシャフト」以下の諸「ゲマインシャフト」論/諸「支配形象」論全体への「概念的導入部」第 [2] 項目として、その「位置価」を回復したのです。

 ところが、全集版の「旧稿」該当巻Ⅰ/22では、当の「経済と[社会]秩序」のテクストが、再度第三分巻「法」に繰り下げられ、「法社会学」のテクストにのみ前置され、マリアンネ・ヴェーバー編纂に戻っています。ですから、全集版は、マリアンネ・ヴェーバー編およびヴィンケルマン編の「合わない頭」を、「合う頭」に付け替えるのではなく、全体を「頭のない五肢体部分」に解体し、「頭」の一部「経済と [社会]  秩序」稿を、「頭」ではない (「第三肢体部分」の) 第三分巻「法」の冒頭に繰り下げ、全体への概念的導入部というその位置価を抹消してしまったのです。実質上「旧稿」テクストを構成する五分巻中、ヴォルフガンク・ゲッファート編の、当の第三分巻「法」のみ、現在 (20062) のところ未刊なのですが、それが日の目を見た暁に、この問題がどのように解決されているか、それとも、解決されずに釈明されるか、いずれにせよ、その公刊が待たれます。

 ですから、現在の状況では、「旧稿部分にかぎれば、ヴィンケルマン編の版本のほうが、「1914年構成表に合致する適合度の高い、その意味で良いテクストを提供している、といえます。これまで「旧稿」該当巻Ⅰ/22全体の編纂にイニシアティヴをとってきたと見られる「第一分巻・諸ゲマインシャフト」の編纂者モムゼンは、折原による事前の警告/再考を求める独訳資料の提供にもかかわらず、「1914年構成表」の信憑性と妥当性を否認し、これにもとづく全巻構成を放棄し、「舵もなく漂流」して、「頭のない五肢体部分」への解体に行き着いてしまったようです。それにひきかえ、ギュンター・ロートとクラウス・ウィッティチにの編纂になる英訳本 (Roth, Guenther, & Wittich, Claus, eds., Economy and Society, 1968, 21978, Berkeley: University of California Press) は、ヴィンケルマン編の「第二部」を底本としたうえ、巻末に「カテゴリー論文」「第二部」からの抄訳(「社会的行為と集団の諸類型Types of social action and groups」)を付し、「旧稿」「第二部」は(「第一部」の「基礎概念」ではなく抄訳の「基礎概念」に準拠して読まれるべきことを、明快に指示しています。したがって、現在入手しうる相対的に最良の版本は、この英訳本です。

 いまひとつ、ヴィンケルマンは、テクストを再配列/再編成するための「テクスト在的指標」として、テクストの随所に散りばめられている「前後参照指示」に着目はしました。ただ、かれは、「前後参照指示」をテクスト全篇にわたって網羅的に調べ上げることなく、かれの編纂に好都合な任意の例だけを拾い上げて、かれの編纂を正当化しました。それだけではなく、自分の編纂が正しいという自信が強すぎたのか、かれの編纂に不都合な「参照指示」を、都合がよいように書き替えることまでしました。

 そこで、折原は、ヴィンケルマンの着想を引き継ぐ一方、「例の選び方が恣意的で、好都合な例を並べ立てるだけでは、論証にはならない」という (直接にはエミール・デュルケームの) 警句にしたがい、『経済と社会』テクストに散見される「参照指示」(「旧稿」中では「限定句・黙示的他出指示」を含めて567、「前後他出指示」だけをとると447) 網羅的に検索し、それぞれの被指示箇所も網羅的に突き止めて、一覧表を作成し (『トルソの頭』: 301-19)、独訳してモムゼン他の全集版編纂陣に提供しました。

 他方、それだけでは、ヴィンケルマンによる書き替えの先例もあるので、参照指示自体に「(原著者に由来する) 信憑性Authentizitaet」はあるのか、との疑念が拭いきれません。そこで、当の「信憑性」問題を正面から取り上げ、まずは、「旧稿」テクスト中に、ヴェーバー著作には稀有/異例の、41 (9 ) もの「非整合参照指示」(「被指示箇所のない指示」「逆転誤指示」など)を検出しました(『新展開』: 23-26。そのうえで、それら「非整合参照指示」の41例をよく吟味してみますと、非整合にも「類型的な系統性」があって、テクストを「1914年構成表」にしたがって再配列し、1. [1]「社会的秩序というカテゴリー」の位置に「カテゴリー論文」をもってきますと、ほぼすべての「非整合」が解消するのです。この事実は、「原著者は整合的に挿入していた参照指示が、別人によるテクスト配列替えのためそのあとでは(原著者は関知しない)非整合として現われた、というふうに説明されましょう。他方、夫の原稿を尊重したマリアンネ・ヴェーバーも、かの女にしたがったパリュイも、なにか恣意的に参照指示を書き替えたとは考えられません。とすると、「非整合」が「系統的」で、当の「系統性」が配列替えに由来する、と考えられるかぎり、参照指示自体は、原著者が整合的に書き入れたがままの信憑性をそなえている、と推認されましょう。

 この論証を、折原は、全集版の刊行以前に1994年の『ケルン社会学・社会心理学雑誌』46: 103-21 (邦訳を『新展開』: 17-46 に収録) に発表しました。ですから、そのあとでは、学問上の規範に照らして「整合合理的」には、全集版のドイツ編纂陣から、この論証に批判が加えられるか、(望むらくは)ヴィンケルマンの着想を引き継ぐ「参照指示/被指示一覧」が、ドイツ側独自の比較対照資料として作成され、折原が提供したそれと対置されるか、なにかそうした正面からの対応がなされてしかるべきだったでしょう。ところが、じっさいにはそのいずれもなされないまま、ただ「折原が依拠している『参照指示』は、第一次編纂者が書き替えているかもしれないから、信憑性に問題がある」との(折原としては上記論文で反論ずみの)疑念が洩らされるだけでした。その一方、テクスト中の「参照指示ネットワークには背馳する編纂が、なしくずしに進められ、第五/第二/第一/第四分巻までが刊行され、『経済と社会』をますます「全体としては読めない古典」に追い込む「既成事実」が積み重ねられてきました。ただ、第二分巻「宗教ゲマインシャフト」の編者ハンス・G.・キッペンベルクは、「編集報告Editorischer Bericht」欄に「Anhang付録」を加えて、担当の「宗教ゲマインシャフト」章を中心に、対内的および対外的な「参照指示ネットワーク」の一覧表を作成し、表示してはいます (MWGA, I22-2: 94-100, 115-7)

 それにたいして、この「前後参照指示のネットワーク」を、テクストの再配列/再構成に向けて準拠できる、信憑性をそなえた「テクスト内在的指標」として応用すると、どうでしょうか。たとえば、いましがた問題とした「経済と [社会] 秩序」章のテクスト中には4個の「前出参照指示」があり、その被指示箇所は「カテゴリー論文」中にのみ検出されます (『新展開』: 23-4, 32-4)。この「テクスト連関」の事実は、原著者マックス・ヴェーバーが (少なくともテクスト執筆のある局面で)「カテゴリー論文」(「第二部」)を「経済と [社会] 秩序」章の直前に置く構成を考え、そうして初めて4個の「前出参照指示」を後置予定の「経済と [社会] 秩序」章中に挿入しえた、という事情を裏付ける証拠ではないでしょうか。これに類する「前後参照指示ネットワーク」の活用例には、追って頻繁に論及するでしょう。

(2006216日記、「『経済と社会』の編纂論争史――3. 1718京都シンポジウムに向けて(5)」につづく).