『経済と社会』とはどんな本か――3. 1718 京都シンポジウムに向けて (2)

折原 浩

 このシンポジウムで「ヴェーバー的視座の現代的展開」(シンポジウム全体の副題)を企て、あるいは「ヴェーバー的理論の枠組みを求めて」(第一部会の主題)、「中心に」(第一部会の副題より)据えられる『経済と社会』とは、どんな本でしょうか。もとより、観点のとり方次第で、答えはさまざまでしょう。しかし、わたくしはまず、『経済と社会』とは、マックス・ヴェーバーの膨大な著作群のなかでも、また歴史・社会科学全体の山並みにそびえる高峰のなかでも、じつに数奇な運命をたどってきた「(全体としては)読まれない古典」である、と答えないわけにはいきません。

 マックス・ヴェーバーが『経済と社会』の「旧稿」(マリアンネ・ヴェーバー編の初~第三版で「第二/三部」、ヨハンネス・ヴィンケルマン編の第四/五/学生版では「第二部」) を執筆したと思われる191014年から、あるいは、第一次世界大戦による中断を挟み、同じくかれが「旧稿」を改訂して「新稿」「改訂稿」を執筆し (1920年)、途中 (第四章は冒頭のみ) までが第一分冊 (マリアンネ・ヴェーバー編、ヴィンケルマン編、ともに「第一部」) として――したがって、テクストの配列を執筆順とは逆にして――刊行された1921年から数えても、一世紀近い歳月が経過しています。『マックス・ヴェーバー伝』(1926)を著した妻マリアンネ・ヴェーバーも、かの女の後を襲ってマックス・ヴェーバーの数多の著作を編纂したヴィンケルマンも、『経済と社会』をマックス・ヴェーバーの「主著」「かれ畢生の主著」と称していました。そうした評価が、1970年代後半までは疑われず、異論を差し挟む余地はないと信じられてきました。それにもかかわらず、その『経済と社会』を全体として読み切ったといえる人は、専門の学者のなかにさえ、まだひとりもいないのです。編纂者のマリアンネ・ヴェーバーやヴィンケルマンその人も、シュルフター教授も、もちろんわたくし自身も含めて。

 ですから、「ヴェーバー社会理論」ないし「ヴェーバー社会学体系」を「現代的に展開し」ようにも、その「現代的意義を論じ」ようにも、避けて通れない主著『経済と社会』が、学問的にはまだ全体として読解されず、「雲を掴む」ような状態で、展開の「もとい」が突き止められていないのです。むしろ、その「もとい」を定め、議論の出発点ともなるべき「共通諒解」を創り出すこと自体が、まさに「現代的課題」とされるほかはありません。

 他の著名な社会科学者のばあいには、多少とも主著にかんする共通諒解があって、コンメンタールが編まれたり、「全体像」と銘打つ研究書も著されたりしています。それらを「基礎文献」として共通に読解し、そこから思い思いに「現代的展開」を企て、相互に議論することが可能となっています。それでも、その「もとい」を問いなおす基礎研究は、なお必要とされ、尊重されています。

 ところが、マックス・ヴェーバーのばあいは、事情が根本的にちがいます。ヴェーバー研究者は、他の研究者と人並みに「肩を並べたい」一心から、とかく「主著の全体にかんする共通諒解がない」という実情に目を背け、そこを曖昧にしたまま素通りして、あたかも共通諒解があるかのように振る舞い、「最初の一歩を忘れて第二歩から議論を始め」たがります。この点に、ヴェーバー研究者の(ヴェーバー研究者としては根本的な)「知的誠実」、「自分にとって都合の悪い事態の直視を避ける」「狡さ」が看取されます。主著の読解も抜きに、「ヴェーバー概論」や「ヴェーバー入門」を書けるわけがありません。そのように「第二歩から背伸びしよう」とするので、全体としての読解も、全体像の構築も進まないのです。わたくしは正直に「『経済と社会』の全体は知らない」という出発点に立ち、正直に研究を進めたいと思います。

 しかし、さきほどはシュルフター教授の名を挙げ、いまこんなことをいいますと、みなさんは「シュルフター教授は、そんなふうに思っていないのではないか」「折原がシュルフター教授を『同類扱い』すると、教授は『気を悪く』するのではないか」と気遣われるかもしれません。しかし、ご心配ご無用です。シュルフター教授は、この『経済と社会』の全体像問題にかけて、全世界に数少ない、正直で知的に誠実な研究者のひとりです。それも、全体としての解釈をめざす研究の最先端を走っていればこそその困難も実情も分かり背伸びしてごまかそうとはせずにすむのです。そういうシュルフター教授であればこそ、ここで『経済と社会』の全体にたいする「カテゴリー論文の意義」という「鍵問題」をめぐって「積極的に対決」したいと思い、またシュルフター教授も同じように思ってくださるだろう、という確信がもてるのです。

 ではここで、『経済と社会』が「全体としては読まれていない」実情の具体例を挙げましょう。わたくしが長く勤務していた東京大学教養学部の社会科学科には、「尾高文庫」という貴重な蔵書があります。そこには、かつて修行時代にフッサールに師事し、アルフレート・シュッツと親交を結んだ故尾高朝雄教授 (法学者/法哲学者) の遺贈図書が収納されています。そのなかに、いまでは稀覯本に属する『経済と社会』の、度はずれて大きい初版本が、なんとか書架に納まっています。手にとってぺージを繰ってみますと、故尾高教授は「法社会学」章を精読されたにちがいなく、随所に赤鉛筆と定規でアンダーラインが引かれ、ぺージの余白一面に繊細な筆跡で書き込みがなされています。ところが、『経済と社会』の大半を占める他の諸章は、冒頭の導入部も含めて、真っ白です。わたくしも、ある日それを手にして、書き込みの美しさに感嘆すると同時に、故尾高教授ほどの碩学も、ご専門に近い「法社会学」章を選び出して、そこに考察を集中され、あえて全体との関連で解読しようとはされなかったのだな、と感慨深く受け止めたものでした。

 他の学者のばあいも、大同小異です。解読者各人の専門分野に該当ないし関連する章ないし節だけが、孤立させて抜き出され、そのかぎりで集中的に解読され、活用されてきました。その蔭で、各章節が相互にどういう関連に置かれ全体としていかなる構成それも体系的構成をそなえているのか、しかも、そうした体系的構成が、どこまで執筆者マックス・ヴェーバー自身の「主観的に思われた意味に属するのか、とは、あえて問われませんでした。むしろ、「マックス・ヴェーバーにおける宗教社会学と経済社会学の相関」とか、「政治論と宗教社会学との関連」とか、ヴェーバーの労作全体における「相関」「関連」のほうは、好んで問われ、論文の主題として取り上げられました。さらに、195060年代には、ヴェーバーの学問的労作を包括的全体としてas a comprehensive whole」捉え、「全体像Gesamtbild」を構築すると堂々と銘打った、優れた研究 (たとえば、故金子栄一『マックス・ウェーバー研究――比較の学としての社会学』、1957年、創文社刊、ラインハルト・ベンディクス『マックス・ヴェーバー――その学問の包括的一肖像』、1960年、21962年、拙訳、上/下、198788年、三一書房刊) が、登場してきました。それにもかかわらず、そうした企てにおいては論及を欠かせず、じじつ論及されている主著『経済と社会』のなかで、問題の「宗教社会学」章と「経済社会学」該当章とがどういう「相関」をなしているのか、「政治ゲマインシャフト論」と「宗教社会学」との「関連」はどうか、とはたえて問われず、もとより『経済と社会』そのものの全体像も、構築されませんでした。『経済と社会』という、少なくとも社会学上の「主著」に絞って、その体系構成を問うということが、明示的にはなされず、むしろ問い残され、解明されずにきたのです。

 なるほど、共同事業として『経済と社会』(第四版) を全体として邦訳しようという計画はあり(創文社版)、訳者たちの大変な骨折りによって、大部分の邦訳が達成されました。そのうちでも、とくに世良晃志郎氏による『支配の社会学』『法社会学』『都市の類型学』『支配の諸類型』の邦訳は、噛み砕かれた的確な訳文といい、一方では引用されている史実の多くを資料/原資料に当たって調べ、他方では他章の関連箇所からも訳文を引用する周到な訳注といい、全世界的にも類例を見ない第一級の業績です。ヴェーバー著作とくに(原著者が注をつけずに遺した)未定稿の『経済と社会』「旧稿」については、翻訳が、なまなかの研究論文以上に、研究業績として評価されなければなりません。限定/留保/他国語表記などの多い複雑な原文と格闘し、論理展開の道筋を探り出して追跡するばかりでなく、いきなり解説抜きに引用される膨大な歴史的事象については、資料/原資料に当たって調べると同時に、原著者のコンテクストにおける引用の意味も突き止め、考えに考えて初めて、原意に即すると同時に日本語としても噛み砕かれた訳文を、紡ぎ出すことができるのです。

 ただ、世良氏も、『経済と社会』と銘打ってドイツのJ. C. B. Mohr社から刊行されてきた原書の編纂を疑い原著者マックスヴェーバーの意図と構想に即して (原書に収録されたテクストを) 再構成する、ということは、あえて企てられませんでした。原書を所与として、「信憑性のある正しいテクスト」として受け取り、忠実に解釈し、粒々辛苦して適切な日本語文に訳出されたのです。かりに原書が、原著者の意図と構想に即して正しく編纂されていれば、世良氏に倣って他の諸章も訳出していけば問題は解決されます。しかし、この『経済と社会』のばあいは、次節で主題とするとおり、じつは編纂が問題で、編纂を問いなおさないかぎりは、全体の体系的構成はもとより、部分としての諸章も、原著者の意図と構想どおりに正しく解釈し、訳出することはできません。世良氏の訳業も、そこまではおよびませんでした。他の諸章、たとえば、武藤一雄氏ら宗教学者によって豊富な訳注を付された「宗教社会学」章の邦訳についても、同じことがいえます。

 さて、『経済と社会』は、追って詳述するとおり、マックス・ヴェーバーの社会学上の主著です。「体系的社会学者としてのヴェーバー」(田中紀行氏によるシンポジウム趣旨説明より)が、そこに初めて、名実ともに雄大な姿を顕してきます。ヴェーバーは1902年以来、ロッシャーとクニース、カール・メンガーとヴィルヘルム・ヴント (オーギュスト・コント)、ジンメルとシュタムラー、クレペリンとオストヴァルトといった (の方法論) 者との対決をとおして、社会科学方法論上の模索を進めてきました。その成果が、時満ちて「理解社会学」の視点とカテゴリーに積極的に集約されると同時に、この理解社会学が、歴史上の (東西諸文明にかんする比較文化社会学的研究の観点から見て「知るに値する」) 普遍的な「社会諸形象soziale Gebildeに適用され、具体的に展開されます。その結節点に位置しているのが、1913(事情あって別途『ロゴス』誌に)発表された「理解社会学の若干のカテゴリーについてUeber einige Kategorien der verstehenden Soziologie」、略して「カテゴリー論文」にほかなりません。

 ところが、『経済と社会』全体の邦訳計画 (創文社版) には、一見奇妙なことに、社会学者がひとりも参加していません。世良氏は法制史家ですし、武藤氏らは宗教学者です。他の諸章を担当するはずだった青山秀夫氏は近代経済学者/経済理論家、脇圭平氏は政治史家あるいは政治思想史学者といえましょう。この事実は、つぎのふたつのことを意味していたと解釈できます。ひとつは、『経済と社会』全体の体系的統一は、(いましがた触れたとおり)社会学的な体系構成として実現されているので、全体の体系的統一を逸せず、各章もそのなかで統合的に捉えるような全訳計画は、じつは社会学者、しかもヴェーバーにおける方法論と社会学理論との統一を的確に捉えてそこから各章の内容を究明できるような専門家の協力/参加なしには、達成され難いでしょう。しかし当時は、そういう認識が、全訳計画の企画者/参加者に共有されていなかったと思われます。

 いまひとつ、社会学者を「蚊帳の外」とする正当な理由として、当時社会学者側に、この計画に加わって一役を演ずる準備がなかった、という事情が加わります。『経済と社会』の各章は、宗教社会学/社会学/支配社会学といった「連字符社会学」の諸分野に該当し、それぞれには、通常の社会学理論に取り込まれる範囲をはるかに越えて、膨大な歴史的素材が採り上げられ、「類的理念型」ないし「法則的知識」の「例示」「認識手段」として編入され、そうした「類的理念型」が「決疑論Kasuistik」に編成されています。したがって、各章は、そうした歴史的素材に精通した(あるいは精通しうる各分野の専門家でなければとうてい「歯が立たない」、そういう面で(口に出しては言わないものの)「社会学者はものの役に立たない」と評価されたのです。

 ところで、「『(他の)法学者/経済学者等々ではないとしても、社会学者ではある』といわれてきたマックス・ヴェーバーの、ほかならぬ社会学上の主著の全訳計画に、社会学者は『ものの役に立たない』と評価されて、ひとりも参画できない」というこの事態を、当時の社会学者はどう受け止めたのでしょうか。

 わたくしは、大学の文学部社会学科/大学院社会科学研究科社会学専門課程の出身で、当時、教養課程の社会学を担当していましたが、その企画決定を「現下の日本社会学におけるヴェーバー研究の実情に照らせば、公正で、止むをえない」と受け止めました。と同時に、なぜそうなったのかを、並いる社会学者の学問へのスタンスの問題として、相応に深刻に受け止め、考え込まざるをえませんでした。

 というのも、第二次世界大戦の敗戦後、東大文学部社会学科の教授/助教授は、戦前からのヴェーバー研究あるいはドイツ社会学研究の伝統と蓄積をいとも簡単に放棄し、アメリカ流プラグマティズムあるいはソ連型マルクス主義に鞍替えしました。そしてそれぞれ、「産業社会学」「農村社会学」などの特定分野における実証的調査研究に、圧倒的に(あるいは排他的に)力点を置く方向に進んだのです。そうした調査研究自体の方法上の重要性また「価値関係」的観点からみた意義は認めるとしても、敗戦と「進駐」(占領)という政治的外圧から、状況がいったんある方向に (それがたとえ「民主主義」というプラス価値の方向であれ) 動き始めると、みながみな「バスに乗り遅れるな」とばかり、文化的伝統や蓄積を顧みるいとまもなく、立ち止まって熟考することもなく、文献読解さえ貶価/軽視して、一方向に一目散に走り出していました。主体性に「のないこの学者群像と、それに追随する後続世代の付和雷同性に、わたくしは秘かに、「これでは、なにも変っていないではないか」と不信をつのらせ、そうした状況に逆対応的に、対極の狭間で独自の個性を形成する「マージナル・マン」とその「根」の探究に向かいました。

 やがて、第一次東大闘争 (196869) が起き、「戦後日本」における学問性の「根」が問われました。自分の「実存」とは切実にかかわらないところで、ご高説を垂れ、ジャーナリズムに出ては大義名分を唱えていた学者たちが、いざ自分の職場で卑近な利害を脅かされたとなると、とたんに「根」のない学問性は影を潜め (たとえば、学説上は「疑わしきは罰せず」と唱えていた、丸山真男を含む法学部教授たちが、疑わしい学生処分を、学問的に問い返すことなく追認)、急進的なポーズをとっていた社会学者も「口をつぐんで」状況と権力に追随し、圧倒的多数は「首をすくめて嵐が過ぎるのを待ち」ました。しかもなお困ったことに、いったん警察力の導入によって無風状態に戻り、たとえば(日本社会学会の機関誌)『社会学評論』が「大学問題特集」を組むと、「首をすくめていた」社会学者が、とたんに雄弁になって、「自分はそのとき、どこで、なにをしていたのか」との自問は抜きに、こぞって、当事者性の自覚のない、博引旁証の「論文」を書き始めるのです。

 それ以後、わたくしは、日本社会学会からは自然に遠ざかりました。「日本社会学会の社会学」に代え、自分の状況への適用をとおして会得されたヴェーバー社会学を「実存的に社会学すること」の方法として鍛え上げ、そうできるという手応えを掴み、「(必要とあれば) 嫌がられることを、(状況に追随してではなく) いちはやくいうことこそ、われわれの学問の使命である」というかれの言葉をモットーとして、「わが道を行こう」と決めました。それと同時に、他方ではヴェーバー文献にいっそう内在し、その「固有価値」を――「根」のない実証的調査研究への応用価値には還元されない、まさに「固有価値」として――追求する方向で、粒々辛苦の読解を進めました。この文献研究の目標が、当時の状況から、「カテゴリー論文」による『経済と社会』の社会学的基礎づけと、それにもとづく体系構成を究明して、社会学上の主著を「全体として読める古典」に鋳なおし、歴史・社会科学の教材として活かす、という方向に定まってきた次第です。それは同時に、ヴェーバーにおける社会学上の主著の生成と体系構成という根本問題が、よりによって社会学者の「盲点」をなし、他領域のヴェーバー研究者からは「蚊帳の外」に置かれる、という致命的な遅れを取り戻し欠落を埋めることにもなろう、と考えられました。

 さて、話を『経済と社会』に戻しましょう。本来191014年に執筆された「旧稿」は、「カテゴリー論文」(1913)を概念的導入部 (「トルソの頭」) に据え、この「カテゴリー論文」の基礎概念にこそ準拠して読まれなければならず、そうでなければ、少なくとも「旧稿」の体系的構成が、基礎概念から「整合合理的」に読解され、解釈されることはありません。それにたいして、1920年の「新稿」「改訂稿」は、(全篇の改訂に合わせて「カテゴリー論文」が大幅に改訂され、その基礎概念も術語も変更されたうえで書かれている)「第一部」第一章「社会学的基礎諸概念」(1920)(従来の邦訳では、「社会学の基礎概念」ないし「社会学の根本概念」)を、同じく概念的導入部に据え、この「社会学的基礎諸概念」に定式化されている改訂後の新基礎概念に準拠して、読まれなければなりません。

 ところが、初版編纂者のマリアンネ・ヴェーバーは、テクストの執筆順と体系的配列順とを逆にし、改訂後の「新稿」を先に出して「第一部」とし、改訂前の「旧稿」全体は、後続の「第二/三部」に配置しました。「第一部」(改訂後)の基礎概念で、(改訂前の)「第二/三部」の具体的叙述を読むようにと指示したのです。こうして、「合わない頭をつけたトルソ」が創成されました。ヨハンネス・ヴィンケルマンも、いくたの部分的改善は施しましたが、基本的にはこの「逆転二部構成」つまりは「合わない頭をつけたトルソ」編纂を踏襲してしまい、しかも、それを「マリアンネ・ヴェーバーではなく、著者マックス・ヴェーバー自身の構想であった」と強弁するにいたりました。そのようにテクストが誤って編纂されていたのですから、それをいかに忠実に読んでも、著者自身の構想に即して正しく解読できるわけがありません。それではかえって、混乱に陥るばかりです。

 しかも、「カテゴリー論文」から「社会学的基礎諸概念」にかけて、基礎概念と術語そのものが、原著者マックスヴェーバー自身によって改訂され、変更されています。かれ自身は、「旧稿」はそのままの形で出版しようとはしなかったのですから、それでもよかったのです(かれ自身が混乱の「もとい」をつくったというわけではありません)。しかし、マリアンネ・ヴェーバーもヴィンケルマンも、同じ語(たとえば「ゲマインシャフト」)が、「社会学的基礎諸概念」では、「カテゴリー論文」とは別の(「ゲマインシャフト」)概念を表示する術語に、改訂され、変更されているのに、同じだと決めてかかって、そうした変更の基礎概念で(変更の基礎概念で書かれた)「旧稿」の叙述を読むようにと指示したのです。

 そのうえ、たとえばヴェーバーの「ゲマインシャフト」が別人(フェルディナント・テンニエス)の「ゲマインシャフト」と無造作に混同され、そのために混乱はさらに増幅されました。つまり、「ゲマインシャフト」といえば、テンニエスが有名な主著『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(1877) で、対概念として設定した、あの「ゲマインシャフト」にちがいない、と早合点して、ヴェーバー自身の (「カテゴリー論文」では、「ゲマインシャフト」を「ゲゼルシャフト」の上位概念とする) 概念規定を確かめもせずに、無造作に「共同体」「共同態」と訳して怪しまなかったのです。ヴェーバー自身の改訂によって、同一語「ゲマインシャフト」でも、改訂前と改訂後では意味が異なるのに、両者を混同して画一的に訳し、さらにその「ゲマインシャフト」を別人テンニエスの「ゲマインシャフト」とも混同して重ね合わせるのですから、混乱に輪をかけるほかはありませんでした。

 ではなぜ、そんな誤編纂が犯されたのでしょうか。この問題は、つぎの編纂史に繰り入れて論ずることにしましょう。ともかくも、こういう誤謬は、いったん暴露され、説明されてしまうと、「なんで学者がそんな単純なことに気がつかなかったのか」「どうしてそんなことが学者の頭を長らく虜にしてきたのか」と不思議に思えてくるものです。しかし、この『経済と社会』のばあいには、そうした誤読が、だいたい1970年代中葉まで、それほど素朴とも思えないヴェーバー学者の間で疑われずにきました。間違った編纂が、全体の概念的/理論的構成を見失わせ、全体が見えないので、編纂の誤りにも気がつかない、という「悪循環(原因と結果との互酬構造)」が生まれ、これがなんと半世紀間も、牢固として根を下ろしていたのです。しかも、そういう誤読軌道の起点は、社会学理論には素人の妻マリアンネ・ヴェーバーによって敷かれました。マックス・ヴェーバーもテンニエスもある程度は知っている大勢の社会学者が、その軌道を信じて怪しまず、その軌道のうえを歩き出し、いったん歩き出すと止まらなかったのです。わたくしは、この『経済と社会』誤読史にも、いったんある方向が打ち出されると、その根拠を批判的に吟味しようとはせず、みながみな「バスに乗り遅れるな」とばかりに追随して、一方向に一目散に殺到する、戦後日本社会学史を彩った、あの (「根」のない主体性と付和雷同性の) 問題が、異なった形態ではあれ、鮮やかに顕れている、と見ざるをえません。

 では、この悪循環が、1970年代、なにを契機に、どのようにして打破されたのでしょうか。著者の構想に即した編纂への要求と、『経済と社会』さしあたりは「旧稿」を全体として読解しようという学問的願望とが、どのように相互補完的に芽生え、育ってきたのでしょうか。そこで、京都シンポジウムに向けてのこの予備考察も、この問いにもとづいて『経済と社会』の編纂論争史を振り返り、全集版の編纂も進められている現状を、そうした論争史のなかで捉え返し、全集版がはたして、編纂史につきまとってきた誤読と混乱を脱したのか、と問う課題に、一歩を進めていくことにしましょう。

 あらかじめ参考文献をご紹介しておきますと、拙著『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』1996年、東京大学出版会刊)序章「問題の所在」(pp. 2-41) に、1. マックス・ヴェーバーおよび『経済と社会』の意義、2.『経済と社会』解読の現状ならびに課題、3.『経済と社会』の編纂問題、4. 編纂問題論争の発端と現状、5.191113 (その後、191014に訂正) 年草稿」の客観的構成とその指標、6. 本書の構成、という記事があり、ご参考になるかと思います。200624日記。「『経済と社会』編纂史の経緯と諸問題――京都シンポジウムに向けて(3)」につづく