2009年の仕事、年次報告(20091218

 

昨年より、一年間の仕事を振り返って摘記する年次報告は、年賀状への記載は止め、このホームページに移しました。そのため、比較的長文の報告と展開ができて、かえって意を尽くせるようになりました。

 

(1) 今年も、「ヴェーバー研究会21」が、315日、「『儒教とピューリタニズム再考――ヴェーバーの『近代』論と東アジアの近代」と題して、東洋大学白山校舎で開かれ、筆者も参加しました。

 呼びかけ人(荒川敏彦、宇都宮京子、中野敏男の三氏)によるテーマ設定の趣旨は、慎重に抑制を効かせた筆致で書かれていましたが、筆者の忖度するところでは、こうです。

『儒教と道教』は、「世界宗教の経済倫理」シリーズの構想ないし「研究計画の出発点」として重要であるにもかかわらず、「包括的研究の蓄積」に乏しく、むしろ結論章「儒教とピューリタニズム」だけが抜き出されて、「東西比較文化論や比較近代化論の素材として……積極的に言及され、ヴェーバーの『近代化』イメージや『アジア論』イメージが[もっぱら]そこから作られ」([  ]は筆者、以下同様)る嫌いなしとしない。しかし、ほんとうにそれでよいのか。むしろそうした「儒教とピューリタニズム」偏重には、日本における従来のヴェーバー研究の問題性が投影されているのではないか。

  そこで、今回は、「儒教とピューリタニズム」を共通の基礎テキストとしながらも、「そこに示されたヴェーバーの『中国』理解や『ピューリタニズム』理解、そしてその『比較』論などの意義を、一方では今日の中国史研究やプロテスタント研究に、他方ではヴェーバーの比較宗教社会学の全体構想に照らしながら検討し、さらにはそこから照射される東アジアの近代像についても、広く多角的に考え直してみたい」[強調は筆者、以下同様]。そのため、「具体的には、報告者として、(1)中国史、(2)イギリス経済史・クェイカー史、(3)日本思想史」の専門家を招き、それぞれの専門の観点から報告していただき、討論者には、ヴェーバー研究者に加えて、(4)朝鮮史の専門家の参加もえ、それらの「報告を出発点にして、あらためてヴェーバーの議論の意義と限界について考え、討論し」たい。そのように「学問領域の壁を越えた議論」「を通すことで、これまでのヴェーバー研究・理解の問題点もあらためて浮き彫りになるはずだ」と。

 

これにたいして筆者は、①日本のヴェーバー研究が置かれている現状 (窮境) への危機感と、②歴史家との相互交流によって現状 (窮境) を打開しようとする企図と方向性にかけて、抽象的には賛同して、参加しました。しかし、同時に [あえて率直に苦言を呈してよければ]、現在の日本のヴェーバー研究に、そういう相互交流の機会を活かし、多様な領域の専門家と相互に交流し、裨益し合うだけの具体的な蓄積と準備がととのっているのか、「ヴェーバーの比較宗教社会学の全体構想に照らして」といっても、そこから中国史、イギリス史、日本史、朝鮮史それぞれに、具体的にどういう接点ないし「切り口」をみつけ、どういう問題を提起しようというのか、というよりもそれ以前に、そもそも「ヴェーバーの比較宗教社会学の全体構想」とはなんぞや、それを具体的にどう捉えるか、――かりに、そうした具体的な準備なしに、ただ専門家を招いて総花的な報告会を催せば「なんとかなる」というのであれば、[専門家にたいして失礼であるばかりか] 断片的な意見表明の散発に終わり、[「各人がそれぞれ、なにかを学んで帰ればよい」とはいえても]、ただ「学問領域の壁を越えて [ともかくも] 議論をした」という自己満足に終わりはしないか、[そんなことで「意義と限界」を論じられるほど、ヴェーバーの学問とは甘いものなのか] という危惧を禁じえませんでした。

 

当日の報告と議論も、個別的には学ぶ点が多々あったとしても、全般的にはこの危惧が的中したというほかはありません。とりわけ、報告者と討論者との間のやりとりで、大半の時間が費やされ、フロアからの発言は大幅に制限されました。そのため、ヴェーバー研究者として是正しなければならない [と思われる] 問題点がたくさん出ていたにもかかわらず、それらについて逐一発言することができず、相互交流の一端を担おうとする一ヴェーバー研究者としての責任を果たせなかったという慙愧が、筆者には残りました。

そうした問題点が些細なものではないことを、ひとつの具体例によって示しましょう。ある報告者は、「ヴェーバーは、『儒教とピューリタニズム』では、封建制が近代資本主義を阻止すると記しているが、別のところでは、封建制は近代資本主義の発展に有利に作用したといっている。だからヴェーバーは矛盾している」という趣旨の発言をなさいました。

筆者は、その「別のところ」とは、具体的にはどこで、どういうコンテクストですか、と質問し、そこから、「封建制」という要因も、「普遍的諸条件のどんな個性的布置連関」のなかに置かれるか、に応じて、歴史的には多義的に作用する、というヴェーバーの [それこそ「広く多角的」な] 考え方を引き出し、これとの対質という一レベル上の議論にもっていきたかったのですが、叶いませんでした。

そこで、この論点を、遅ればせながらいまここで、具体的に展開しておきましょう。

「伝統的支配」のさまざまな下位類型のうち、「封建制」では、封主・首長にたいする封臣たちの主観的権利が、レーエンの「専有」[と、ばあいによっては封臣間の結束] によってステロ化・固定化され、首長の恣意に、事実上の [やがては「身分制『等族』国家のパーラメント」による制定法という形で] 枠が嵌められます。したがって、固定設備への資本投下というリスクをともなう産業資本主義にとっては [とくにその初期、幼弱期には]、たとえば [首長の恣意が極大化され、いつ「追い立て」を食らうか分からない]「スルタン制」あるいは「家父長制的家産制」にくらべて、相対的には安定した、有利な環境条件が形成されることになります。

そのうえ、封建騎士層はなるほど、商人ないし企業家流の「計算高さRechenhaftigkeit」を、自分たちの [「貴族」としての] 品位感情に悖る挙措として拒否し、富裕な商人も企業家も「身分仲間」としては受け入れません。ですから、自分たちのそうした生き方のなかから「合理的禁欲」を生み出すことはできません。しかし、それだけに他面市民層の貴族化[産業資本としての蓄積軌道からの逃避] を阻止し、かれらの貨幣利得をもっぱら産業資本としての蓄積軌道に追いやるほかはありません。ですから、封建制がまさに近代資本主義的で、それだけでは [商品流通への制限のほか、それに内在するエートスによっても] 近代資本主義を阻止するとしても、いな、まさにさればこそ、そのかたわらにおける、別の主体による産業資本主義の発展は助長しても、不思議ではありません。

西欧中世の、封建制も一要因として含む「諸条件の個性的布置連関Konstellation[星々の個性的配置としての星座] のもとでは、封建制の [それだけを取り出してみれば] まさに反市民的反近代資本主義的特性が、さればこそかえってそのように、「近代産業資本主義の発展に有利に作用した」とヴェーバーは見るのです。

 

もとより、封建制による外からの「貴族化」抑制作用には限界があります。やがて、「貴族化」を「被造物神格化」として拒否する「禁欲的プロテスタンティズム」が登場し、封建制による外からの抑制にとって代わって、内面からの抑止作用が作動し、普及し、産業資本の「揺籃を守る」ことになりましょう。

そのばあい、後者の歴史的・因果的意義が、前者に比してどの程度であったかは、ヴェーバーの「因果帰属の論理」に則り、つぎのように問題を立て、史実を参照しつつ「思考実験」を企てることによって検証され、答えられましょう。すなわち、ピューリタンを初めとする禁欲的プロテスタンティズムの能動分子をオランダや北米に追いやり、「貴族化」抑止作用がそれだけ弛緩したはずのイングランドで、その後の資本主義発展はどうなったか、富裕となった産業資本家の上層が [産業革命を経た後々までも]、土地や [国債、国策会社や一般会社の株式、などの] 証券を取得して「ジェントルマン」に「疑似貴族化」を遂げ、地代や利子の「不労所得」で暮らし、それだけ「政治のために生きる」「余暇」をえて、対外侵略と植民地支配の利権を漁る「政治寄生的-帝国主義的資本主義」に傾いたのではなかったか、他方、「能動分子」を受け入れたオランダや北米の側ではどうだったか、[「アルミニウス派問題」が絡むオランダはひとまずおき、少なくとも、貴族的伝統のない、「平準化」されたアメリカ離脱衆国では] 禁欲的プロテスタンティズムが「イングランド流のジェントルマン化」は抑止したとしても、「平準化」に抗する「排他的ゼクテ」や「排他的クラブ」への、これまた一種の疑似貴族化」を招き、「産業総帥captains of industry」を生み落とし、また別の否定的作用を発揮して「欧米近代の陰影」をなしてきたのではないか、と。

当日もし、「ヴェーバーの比較宗教社会学の全体構想」から、こうした一連の具体的問題提起を引き出して、対置することができたとしたら、報告者もきっと、ご自身の専門領域にかかわる興味深い接点として受け止め、歴史学的に答えて、噛み合った討論に導いてくださったでしょう。それと同時に、「ヴェーバーの矛盾」については再考され、「その水準で片づけてしまったのでは、ヴェーバーの論点も思考法も活かせない」と賢察なさったのではないでしょうか。

 

管見によれば、「ヴェーバーの矛盾」問題には、「ヴェーバーの比較宗教社会学」から、少なくともここまで具体化した問題設定を引き出して、対置することができます。また、そうすることが、相互交流にたいするヴェーバー研究者側の責任――歴史学研究者の論点に、ヴェーバーの「比較歴史社会学」の方法を適用-敷衍し、少なくとも具体的歴史的問題として提起しなおして応答する義務――でもありましょう。ヴェーバー研究者が、なんの応答もせず、「ヴェーバーの矛盾」で引き下がってしまったのでは、いったいなんのためにどれほどヴェーバーを勉強してきたのか、という疑問を投げ返さざるをえませんし [そうすると、最近の風潮では、「護教論」「聖マックス崇拝」というようなレッテルを投げ返して、自分の不勉強に目を背ける向きもあろうかとは思いますが、このさい、そういうことはいっさい「問題外」としましょう]、それと同時に、多忙な時間を割いて登壇ねがった報告者に、[少なくともその一点にかけては]「誤解」のままで帰っていただき、ヴェーバー研究の側から「誤解」の是正に寄与できなかった、その意味で裨益し合えなかったのは申しわけない、という思いを禁じえません。

 

ちなみに、この一例は、たんに「封建制」だけの問題ではありません。「ヴェーバーの比較宗教社会学の全体構想」とは何か、それを抽象的に語るだけではなく [つい最近の実例を挙げるまでもなく、抽象的大言壮語は、不勉強者の「麻薬」として機能します]、まさに「全体構想」として、かれの社会科学方法論の具体的展開としてどう捉えきれるか、という根本問題の一環ではないかと思います。

中-後期ヴェーバーの、それも「倫理論文」以降の、二大主著、『経済と社会』「旧稿」と「世界宗教の経済倫理」シリーズとは、「倫理論文」の [欧米近代における「経済倫理」と「宗教性」との関係、しかも後者による前者の被規定性、に限定された「任意の個別研究」という] 限界を突破しています。しかし、それぞれが、未完に終わっています。ですから、わたくしたちは、それぞれの「潜勢Potenzを汲み取りながら、両主著を相互補完的に読解しなければなりません [要請としては、ヴェーバーの早世による中点を中点として、その「潜勢」を汲み出しながら、わたくしたち自身の比較歴史社会学を、まさにそこから展開し始めなければなりません]。そうしますと、まず前者「旧稿」は、かれ固有の「一般社会学」として位置づけられます。それは、一方では、シュタムラーの「協働生活」「社会生活」概念を、「社会的行為ないし秩序の『合理化』にかんする四階梯尺度」に鋳直し、歴史的変遷を貫いて存立してきた人類の「協働生活」「社会生活」の横断面に適用-展開し、シュタムラーが「本来考えるべきであった」帰結にまで到達している「積極的批判」をなしていると同時に、他方では、各文化圏の特性に照準を合わせながら、たとえば「支配」の下位類型として「伝統的支配」、そのまた下位類型として「封建制」という具合に、普遍的な種類のゲマインシャフトと支配形象につき、類-類型概念と一般経験則の決疑論体系を構築して、客観的「特性把握」と「因果帰属」にそなえる「歴史研究への基礎的予備学」として、捉え返されましょう。そして、この「一般社会学」が、後者「世界宗教」シリーズで、[さしあたり] 中国、インド、古代パレスティナ文化圏に適用され、それぞれの文化総体の特性把握因果帰属」に活かされます。両主著双方の間に、そういう相互補完関係が看取されましょう。

そのうえで、では、当の「特性把握」と「因果帰属」の一般方針どうか、と問いますと、「普遍的諸要素の個性的互酬-循環構造」を「普遍的諸条件の個性的布置連関」から因果的に説明する方法-理論構想、と答えられましょう。かれの社会科学方法論は、じつはそのように、「理解科学」を、「一般化」的「法則科学」的分肢としての社会学 [「旧稿」] と、「個性化」的「現実科学」的分肢としての歴史学 [さしあたり「世界宗教」シリーズ] とに、 方法上は峻別しながら、そのうえで両分肢を独自に総合する比較歴史社会学に収斂していると考えられ、そのように総括することができましょう。

そのようにして、中-後期ヴェーバーの「全体構想」を [少なくともその輪郭は] 描き出しておきませんと、どうしても、[偶々あるテキストのある一部分から、あるいはさまざまなテキストを引っ掻き回しながら、掴み出してきた]「封建制」なり、「禁欲的宗教性」なり、「祭司と騎士との対抗軸」なりを、思わず闇雲に実体化」し、「封建制と資本主義との背反関係」「禁欲と資本主義との親和関係」「祭司と騎士との対抗関係」を、時空を超越する一義的・「法則科学的依存関係であるかのように普遍化即一面化する陥穽を免れがたいでしょう。

 

(2) そのように、日本におけるヴェーバー研究の現状に憂慮を抱くにつけても、筆者としては、拙稿「比較歴史社会学――マックス・ヴェーバーにおける方法定礎と理論展開」[小路田泰直編著『比較歴史社会学へのいざない――マックス・ヴェーバーを知の交流点として』、2009815日、勁草書房] の公刊が遅れ、この「研究会21」に間に合わなかったことが、ちょっと残念でした。というのも、筆者はこの拙稿で、前著『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か――歴史研究への基礎的予備学』[20071215日、勁草書房刊] を、「世界宗教シリーズも射程に入れる方向で補完、敷衍しながら、ほぼ上記のように要約される中-後期ヴェーバーの「全体像」の輪郭を、積極的に提示しています。とりわけ、[編者と書肆のご好意により、多くの紙幅を割り当てていただいたお蔭で]「ヒンドゥー教と仏教」を例に採り、「普遍的諸要素の個性的互酬-循環構造」としての特性把握と、「普遍的諸条件の個性的布置連関」への因果帰属という一般方針を、具体的に解説することができました。すなわち、インド文化総体の特性を、「宗教儀礼的に規制される閉鎖的出生身分 [普遍的要素]」と規定される諸カーストの、「輪廻転生と業の神義論 [普遍的要素]」に媒介された「社会的秩序 [身分階層秩序]」として捉え、これを [波状的民族移動と種族的相互疎隔-敵対といった定住事情に始まる]「普遍的諸条件の個性的[インド亜大陸に固有の]布置連関」に因果帰属する、という一般方針です。そのようにして、「普遍的諸要素」や「普遍的諸条件」を、類概念や「類的理念型」概念として定義し、体系的に展開している「旧稿」と、それらの「個性的互酬-循環構造」や「個性的布置連関」のありようを、各文化圏について究明している「世界宗教」シリーズとを、相互補完的に読解し、両主著を今後の「比較歴史社会学」的研究に活かしていく具体的指針を示そうとつとめました。

拙稿はまた、そうした準備のうえで、ひとりの日本法制史学者(水林彪氏)の、ひとつの著書(『天皇制史論』)に、対質しています。その意味で、一社会学者が歴史学者との相互交流に臨もうとするスタンスと準備の一参考例となりえましょう。なお、小路田編著には、小路田氏、水林氏と筆者に、雀部幸隆氏、松井克浩氏、小関素明氏、植田信廣氏、大久保徹也氏を加えた、八人の討論 (相互交流) の記録と、当日の報告や討論にかかわる独自寄稿ならびに発言補遺も、収録されています。

そういうわけで、小路田編著への拙稿は、いまここ ((1)) で「ヴェーバー研究会21」に向けた批判を、そこでは自分自身に向け換え、同一の批判に答えているつもりです。あるいはむしろ、こうした応答内容が先行していたため、「ヴェーバー研究会21」の企画にたいしては、上記のような危惧と批判を抱いた、といえるかもしれません。

そのようなものとして、拙稿をご一読のうえ、反批判していただければ幸いです。

 

(3) さて、「ヴェーバー研究会21」の前後、日本のヴェーバー研究ないし思想状況一般について、上記のようなことを考えていた矢先、名古屋大学の西原和久氏から、日中社会学会[中国からの留学生と、中国研究に関心を寄せる日本の社会学研究者からなる学術団体。会長 中村則弘 愛媛大学教授]の2009年度年次大会[66-7日、当番校-名古屋大学]に、「マックス・ヴェーバーの比較歴史社会学における欧米とアジアとくに中国」というようなテーマで講演してほしい、というご依頼を受けました。「意味のある偶然」は重なるものです。

主催者は、日中社会学会の結成後、20年を経た今日、中国研究のパラダイム[範型]ないしフレーム・オヴ・レファランス[準拠枠]について再検討する必要を感じられ、そこに発する企画の一環として、「儒教と道教」に展開されたヴェーバーの中国論を、それだけ切り離してではなく、かれの社会科学方法論と世界史的なパースペクティーフのなかで採り上げてみたい、というご意向でした。

これは、筆者がいま、50年余のヴェーバー研究をいったん締め括り、新たに展開しようとしている方向に、奇しくも一致しました。それは、上記 (1)2)に略記したとおり、「倫理論文」以降のヴェーバーの学問展開を、「世界史[普遍史]」的なパースペクティーフをそなえた「比較歴史社会学」構想として捉え返し、その応用的展開に向けて、歴史学と社会学との相互交流を進めていこう、という方向です。そこで、主催者からのご依頼を喜んでお受けし、微力を尽くして、なんとか当日の講演の責めは塞ぎました[主催者が全文印刷して会場で配布してくださった当日稿は、日中社会学会の機関誌『日中社会学』第18号の別冊として刊行されます]。

顧みれば、ちょうど一年前には、奈良女子大学における講演と討論 (200867) に参加していたのでした。これもとづく小路田編著の拙稿にたいして、今回は、①カルヴィニズム批判に力点を置いた、「倫理論文」の内容骨子を加える、②「比較歴史社会学」の方法定礎については、拙稿と重複するけれども、拙稿への批判で「抽象的で分かりにくい」と指摘された箇所に、具体例を添える、③「因果帰属の論理」について、やはり最小限の解説はする、④「旧稿」アウトラインの解説は省略して「読解への二注意点」に縮小する、⑤マルクス/エンゲルスにたいするヴェーバーの「積極的批判」ないし「批判的止揚」という論点にかんしては、批判の対象とされたマルクス所説の引用は省略する、⑥[last, but not least]例解として「ヒンドゥー教と仏教」に代えて「儒教と道教」を採り上げる、といった、いくつかの変更を加えました。

この⑥「儒教と道教」によるヴェーバー比較歴史社会学の例解が、講演の主要なポイントをなしましたが、そこでは、「包括的研究の蓄積」に乏しいという「儒教と道教」の、「世界宗教」シリーズの「全体構想」における第一作としての意義を、つぎの点に求めました。すなわち、ヴェーバーは、西洋人の常識で考えると、中国文化圏は、西洋文化圏も含むすべての文化圏のうちで、近代資本主義の内生的発展にもっとも有利な諸条件に恵まれていた [私人の手中への貨幣財の集積、流動可能な人口の大量増加、反貨殖的な財政政策や宗教性の欠落、商品流通にたいする封建制的ないし領主制的な制約の欠如、中央政府による交通路・運河などのインフラの整備、など] と見ました。そのうえで、それにもかかわらず、内生的発展ばかりか、[西欧で発生した近代資本主義などの近代的文化諸形象を、すでに出来上がったものとして受け入れる] 外生的展開にかけても、1920年の「儒教と道教」発表当時、同じ極東の日本に比べて遅れをとっているようなのはなぜか、と問います。したがって、この問いに答えることは、前提とされた「西洋人の常識」を、一歩一歩覆して相対化していくことになるわけです。

 

(4) ところが、そのようにして講演の責めは塞ぎ、ヴェーバーの比較歴史社会学をひとまず解説し終えた夏、こんどはそこから、筆者自身の比較歴史社会学に出立し、いささかなりとも独自に展開してみたい、という思いがつのってきました。ヴェーバーの方法と構想の「潜勢」を汲みながら、「西欧近代文化世界の嫡子」であったかれとは異なる、筆者自身の立場から、パラダイムを変換し、内容上も再構成し、ヴェーバーを乗り越える手掛かりだけでもつけて、後続世代に手渡したい、という願いです。

顧みれば、50余年まえ、ヴェーバー研究に着手した当初にも、そうした「乗り越え」への抽象的見通しは抱いていました [拙著『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とヴェーバー像の変貌』1969、未來社]。というのも、筆者は、「欧米近代文化世界のマージナルエリア(周辺-境界-外縁地域)」の一隅に生を享けた「マージナルマン」として、「欧米近代文化」そのものを [「規範」ないし「自明の前提」として出発するのではなく、逆に] 世界史の地平で相対化し、非欧米文化との比較というパースペクティーフのもとで、みずからの歴史的境位を見定め、新たな文化理想とアイデンティティを模索していきたい、と思い立っていたからです。「マージナル・エリア」とはこのばあい、欧米列強の外圧によって「開国」を余儀なくされ、「強制されたが欲する」形で、各々の「近代化」とその具体的克服をめざして試行錯誤を重ねてきた諸地域、すなわちインド、ロシア、中国、日本などを指します。そこから、一方の比較対照項である「欧米近代文化」の本質的特性を見きわめ、他方、非欧米文化との比較の方法と構想を学ぶために、[筆者の知るかぎり] 唯一の先駆者として、マックス・ヴェーバーに着目したわけです。

しかしその後、ヴェーバー研究に、あまりにも長い年月を費やしてしまいました。それは、文献研究のみでなく、かれのいう「知的誠実性」に反する師匠・先輩・同僚・後輩との「論証による闘い」も含む、広義のヴェーバー研究ではありましたが。いまでも、筆者は、ヴェーバー研究を「卒業」したのでも、いわんや「完了」したのでもありません。ただ、齢70を過ぎ、ヴェーバーの歴史-社会科学を、当初の問題関心に応える比較歴史社会学として、ひとまず自分なりに納得のいく形にまとめ、その「固有価値」の輪郭は描き出せたからには、そのままヴェーバー文献の研究と解説をつづけるだけではなく、当初の問題設定に立ち帰り、比較歴史社会学の応用的展開にも出立し、若い世代による乗り越えに具体的な手掛かりと素材を提供する責任のほうを、いっそう強く感じ始めただけのことです。この思いが、同じ「マージナル・エリア」のひとつである中国の社会学者と交流する機会を与えられて、いっそう強められたように思います。

 

(5) そこで、この秋には、比較歴史社会学の応用的展開という課題を負い、その一環として、第二回のロシア旅行を企て (923日~30)、ノヴゴロド(15世紀以降モスクワ国家に併呑されたロシア唯一の中世自治都市)を訪ねました。その結果、下記の章を、第23節「西欧とロシア――比較歴史社会学の『思考実験』」をもって締め括るとともに、章を「比較歴史社会学の展開」と改題し、その六節に大幅な増補と改訂を加えました。

さて、そのようにして、増補-改訂稿を仕上げますと、「本来は66日の講演当日にもこれでいくべきだった」と非力を悔いると同時に、日中社会学会会員の範囲を越えて、日本のヴェーバー研究者、もう少し広く歴史-社会科学研究者、あるいはさらに、世界史に関心を向けて日本の将来に思いを馳せておられる一般読者 [とりわけ、筆者がなぜ、ヴェーバーひとりに、かくも長くこだわっているのか、怪訝に思われたにちがいない、かつての聴講者や読者] に、いまようやく筆者自身の比較歴史社会学に出立する方向で、問題を再設定し、翻っては、筆者が把握できたかぎりのヴェーバー比較歴史社会学を、問題解決への方法ならびに素材として手渡したい、という思いがつのりました。そこで、当初からの骨格と講演形式は変えず、この趣旨の増補-改訂稿を、別途、一般書として、平凡社から上梓することに決めました。

なぜ平凡社かといいますと、315日の「研究会21」で、(かつて高田馬場の「寺子屋教室」でいっしょに「世界宗教の経済倫理」を輪読し、その後、平凡社で編集活動に携わっている)関正則氏に、これも偶然出会い、「世界宗教の経済倫理」三部作の翻訳を、ヴェーバーによる思想展開のコンテクストに即して改訂したい、あるいは新訳を出したい、というかねてからの願望を再説-力説され、その後、翻訳は無理としても、それに代わる論著を用意しつつある旨を告げて、かれに編集を依頼することにした次第です。

新著の内容目次は、つぎのとおりで、ちょうど初校が終わり、来年20103月までには刊行の予定です。

 

マックス・ヴェーバーとアジア――比較歴史社会学序説 

はじめに

. ヴェーバーにおける欧米近代――「倫理論文」の内容骨子

1.「職業義務エートス」としての「(近代)資本主義の精神」

2. カルヴィニズムの「二重予定説」と「合理的禁欲」

3.「合理的禁欲」の普及と「(近代) 資本主義の精神」への転態

4.(近代) 資本主義の精神」の帰結と 「二重予定説」の機能変換

5.「倫理論文」におけるヴェーバーの自己限定

. ヴェーバーによる比較歴史社会学の方法と構想――「倫理論文」を越えて世界史へ

6. 研究領域、因果帰属先の拡張と、因果帰属の論理による他文化圏との比較

7. ヴェーバー社会学の創成――歴史研究への基礎的予備学

8.比較歴史社会学――社会学(理解科学の「一般化」的「法則科学」的分肢)と歴史学(「個性化」的「現実科学」的分肢)との総合

9.「旧稿」の趣旨――人間協働生活の普遍的要素にかんする類-類型概念の決疑論体系

10.「カテゴリー論文」の内容骨子――「理解」の方法手順、社会的行為-秩序の「合理化」にかんする「四階梯尺度」

11. ヴェーバー「一般社会学」の特性と、「総体把握」への方法-理論構想

. ヴェーバーの比較歴史社会学におけるアジアとくに中国

12.「欠如理論」ではないヴェーバーの眼差し――非西洋文化の特性把握と因果帰属への一般方針

13. インドにおけるカースト秩序の歴史的形成とその諸条件

14. 中国における近代資本主義の発展に有利な経済的諸条件――X₁ 私人の手中への貨幣集積とX₂ 流動可能な人口の大量増加

15. 経済的には可能な資本-賃労働関係を、社会的に阻止した主要因――X氏族の抵抗

16.氏族の歴史的消長を左右する諸要因――- X 政治-支配体制とX 宗教性

17. ヴェーバー支配社会学の内容骨子――正当的支配の三類型、下位諸類型、それぞれの組織構造と変動因

18. 中国のX 政治-支配体制――春秋戦国期の「封建制」から秦漢帝国以降の「家産官僚制」へ

19. 中国のX宗教性――家産官僚制と正統儒教との個性的互酬-循環構造

20. 中国農村における「ボルシェヴィズムの共鳴基盤」――貧農と光棍

21. 日本における近代資本主義受容の諸条件――封建制と天皇制との個性的互酬-循環構造と、幕末開国期の「白紙状態」

22. 西欧における初発の「近代化」にいたる諸条件

23. 西欧とロシア――比較歴史社会学の「思考実験」

. 比較歴史社会学の展開――ヴェーバーからのパラダイム変換と再構成に向けて

24. 日本における「敗戦後近代主義」のヴェーバー解釈とその被制約性

25.「プロテスタンティズム・テーゼ」の「法則科学」的普遍化即一面化――ベラーと余英時による展開の問題性

26.比較歴史社会学のパラダイム変換に向けて

27. 比較歴史社会学のパースペクティーフにおける「アメリカ合衆国」――「西欧近代の『出遅れた鬼子』」

28. 比較歴史社会学のパースペクティーフにおける「ロシア帝国」と「旧ソ連」――「西欧近代の『巨体の亜流』」

29. イギリス(ユーラシア大陸の西の島国)と日本(東の島国)との対照性に見る中日・日中関係の独自性――「学問力-文化力-平和友好力の互酬-循環」路線への転轍

 

(6) 1128日、小路田泰直氏の呼びかけで、下記のとおり、『比較歴史社会学へのいざない』の出版記念シンポジウムが、早稲田大学で開かれました。

『比較歴史社会学へのいざない――マックス・ヴェーバーを知の交流点として』(勁草書房)出版記念シンポジウム 比較歴史社会学の試み――日本と中国

 このたび、昨年6月に奈良女子大学において、同大学のCOE事業(古代日本形成の特質解明の研究教育拠点)の一環として行われたシンポジウム「マックス・ヴェーバーにおける歴史学と社会学」の記録が、折原浩、小路田泰直、水林彪他著『比較歴史社会学へのいざない――マックス・ヴェーバーを知の交流点として』として、勁草書房から出版されました。つきましてはわれわれは、そこでの問題提起を踏まえ、同時に比較歴史社会学なる知をさらに深めるべく、次のようなシンポジウムを企画しました。奮ってご参加いただければ幸いです。

日時 20091128日(土) 午前10時~午後3時頃

場所 早稲田大学国際会議場(総合学術情報センター) 共同研究室(7)

    169-0051 新宿区西早稲田 1-20-14 電 話:03-5286-1755

    http://www.waseda.jp/jp/campus/waseda.html 地図の建物

内容

1部(午前10時~12時)

『比較歴史社会学へのいざない』について・批判と反省

批評者   松井克浩(新潟大学・社会学)

   菊 幸一(筑波大学・スポーツ社会学)

 第2部(午後1時~午後3時頃)

    比較歴史社会学の試み――日本と中国

     話題提供者  折原 浩(社会学)

           八ケ代美佳(奈良女子大学・歴史学)

 

連絡先 奈良女子大学古代学学術研究センター(0742203779)  

       早稲田大学人間科学学術院山本登志哉研究室(HAE00142@nifty.ne.jp

 

このシンポジウムでは、午後の部への話題を、つぎのレジュメを用意して、発表しました。

20091128(午後の部)日本と中国 日中関係にかんする比較歴史社会学的一考察(折原)

要旨: ユーラシア大陸の西におけるヨーロッパ亜大陸と島国イギリス(および地続きの周辺地域・ロシア)との関係、同じく東における中国亜大陸と島国日本(および地続きの周辺地域・朝鮮半島とヴェトナム)との関係、双方をマクロに比較して、日中関係の特性について考える。

イングランド-ヨーロッパ関係

BC22-20C ブリテン島にビーカ人渡来、ストーンヘンジ建立。

BC7C   ケルト人渡来、鉄製の戦車や武器をもってビーカ人を征服、濠と土塁を巡らした丘砦を築き、

部族間で干戈を交え、奴隷・家畜・獣皮・金銀・錫・鉄を輸出。

BC2C  ケルト系最後のペルガエ人、カエサルの北ガリア侵攻に追われてブリテン島に渡来。 

BC55, 54  カエサル、ブリテン島東南岸に侵寇。豊富な人間資源、地下資源に着目。

AD43     クラウディウス帝、45万の重装歩兵軍を率いて侵入。抵抗するブリトン軍はドルイド教の本

拠アングルシ島に追い詰めて絶滅。ブリタニアを皇帝直轄の属州とし、三軍団を配置し、「ラテ

ィフンディウム」向け奴隷と資源の補給地とする。北のピクト人は抵抗を止めない。

AD122    ハドリアヌス帝、北からのピクト人の侵入にそなえ、壁を築いて北限とする。

AD2C  キリスト教が、ローマの商人と兵士によって持ち込まれ、ドルイド教に代わって普及。

AD4C   東からアングロ・サクソン人、北からはピクト人、西からはスコット人が侵入。衰勢のローマ人は、「外民族をして外民族にあたらせ」ながら、ガリアへ、イタリアへと撤収。

AD410   西ローマ皇帝ホノリウス、諸都市に自衛を命じて、最終的に撤退。

5C後半  アングロ・サクソン諸族、大挙して侵入、ブリトン人の反撃を斥け、諸王国を建設。

9C 前半  ウェセックス王エグバード、デーン人 (北方ヴァイキング) の侵寇に抗して、七王国を統一。

10C   デーン人の侵寇再開。やがて (11C前半)、カヌート王が、デンマーク王、ノルウェー王を兼ね、スウェーデンにも支配を広げる。イングランドは「北海帝国(通商圏)」の一部となる。

1042       カヌート死後、ノルマンディーに亡命していたエドワード (証聖者王、1042-66) が帰国してウェセックス王国を再興。その死後、王位継承にからみ、(同じゲルマン人ながらすでにラテン化していた) ノルマンディー公ギョームが、ローマ教皇の支持をえて、ウェセックス伯を破り、

1066       ウィリアムⅠ世 (征服王、1066-87) として即位。全イングランドに集権的な封建制を敷くが、同時にノルマンディー公とし

てフランス王家に臣従。ウィリアム死後、王位継承をめぐる紛争。

1154       アンジュー伯アンリ、イングランド王ヘンリⅡ世として即位。プランタジネット朝の成立。政略結婚により、スコットランド国境からイギリス海峡を挟んでピレネー山脈にいたる広大な領土。「アンジュー帝国」。フランスのカペー王家と、たえず武力衝突⇨百年戦争に始まる領土争奪戦。 

以上の定住事情: 異種族の波状的侵入-征服。人種的契機による種族対立は相対的には希薄(カースト形成にいたらず)。頻繁な移住と戦争によって、郷里における血縁的・氏族的紐帯・位階の意義は減衰。そこに反血縁的キリスト教が浸透して互酬-循環関係をなす。従士個人の実力がものをいうレーエン封建制の成立。しかも、「アンジュー帝国の出島では、臣従関係-利害が錯綜。故地の大陸にもレーエンをもつ封臣は、カペー王家との「二重忠誠」に傾く。他方、出島にのみレーエンをもつ封臣は、自分のレーエン経営に専念しようとして、イングランド国王による大陸出兵への従軍を忌避。やがて結束して、「パーラメント」合意なき出陣と戦費拠出を拒否。「マグナ・カルタ」締結(1215)。イングランド封臣の権利⇨イギリス臣民一般の権利⇨「天賦の人権」。

日本-中国関係

BC3C  始皇帝、東海に不老不死の仙薬を求めて船団を派遣。

BC2C     前漢の武帝 (BC141-87)、衛氏朝鮮の領土を奪って、楽浪郡・真番・臨屯・玄莵の四郡を置く。

AD57     朝貢した奴国、「漢委奴国王」に冊封される。

AD204 後漢末、楽浪郡の南側に帯方郡が置かれ、韓と倭が管轄対象とされる。

239                倭の卑弥呼、帯方郡を介して魏に朝貢し、斉王芳 (239-54) により「親魏倭王」に冊封される。

313           (前漢末に建国した) 高句麗、楽浪郡と帯方郡を領有。ただし、前燕に服し、「高句麗王」に冊封され、前燕もまた、東晋から、「遼東郡公」に冊封される。

4C中葉  倭の五王 (讃・珍・済・興・武)、宋に使節派遣。

607               遣隋使小野妹子の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」に、煬帝不興。

   ただし、高句麗と提携して隋に対抗してくる事態を避けるために答礼。

612-14  煬帝、三度にわたり高句麗に親征、失敗。このころ、新羅、百済、高句麗の使節、来朝。

624          唐、高句麗王、新羅王、百済王をそれぞれ冊封。

655          唐、高句麗征討を再開 (688年の高句麗滅亡まで戦闘がつづく)

659          これに乗じて百済、新羅を攻撃。新羅の救援要請を受けて唐、百済を攻撃。

663          百済の救援要請を受けた倭・百済連合軍、白村江で、唐・新羅連合軍に大敗。

その後、律令体制を整え、中国に使節を派遣し、朝貢はするが、冊封は受けない関係。

730      (7世紀末、高句麗の故地に誕生した) 渤海から使節来朝。翌年、遣渤海使を派遣。

732          唐、渤海との戦争を開始し、新羅に渤海への出兵を命ずる。

753      安禄山と史思明の反乱による唐の内紛を知った藤原仲麻呂、新羅征討の準備 (実施されず)

935          高麗を建国した王建、この年に新羅を、翌936年、後百済を滅ぼして朝鮮を統一。その翌年より三度、日本に使節を派遣し、朝貢を希望するが、日本は国交拒否、交易と情報収集に限定。

1274     クビライ・カン、使節に返書しない日本に、南宋との連携をおそれ、高麗駐留モンゴル軍と高麗 の連合軍27千を差し向ける。

文永の役。翌々年、南宋の首都臨安の無血開城。

1281       高麗からの東路軍4万と、江南軍10 (日本入植用の農機具と種籾を携えた南宋敗残兵)、第二  回日本遠征。弘安の役。

1401       足利義満 (1368-1408)、「日本准三后道義」名で、明に使節を派遣。貢物を献じ、倭寇による捕虜を返還。これを受けて、第

二代建文帝 (恵帝、1398-1402)、義満を「日本国王」に冊封。

1404       義満、明の第三代永楽帝 (太祖、1402-24) から勘合をえて、(9世紀末の遣唐使廃止以来途絶えていた) 朝貢貿易を再開。琉球、交易の結節点として繁栄。

1592-96                  豊臣秀吉、朝鮮出兵。文禄の役。寧波に首都を置き、明、天竺にも支配をおよぼす構想。

1597-98                    秀吉、ふたたび朝鮮出兵。慶長の役。その後、徳川幕府、「鎖国」体制を構築。

日中関係: 羈縻冊封関係に置かれた朝鮮半島諸国が緩衝地帯をなし、帝国の支配、日本にはおよばず。例外的に、日本側から中国皇帝の冊封を受け、対内的支配を権威づけ、対朝鮮半島諸国関係を有利に展開。

 

筆者によるこの話題提供の内容は、『マックス・ヴェーバーとアジア』の章第29節の要約と多少の敷衍です。歴史家から、「日本についても縄文-弥生時代に遡って考えるべきではないか」、「1588年という時点でイギリスと日本とを対照させる発想については、某氏が先行者としている」「イングランドとアイルランドとの比較」など、数多の啓発と示唆を受けて、たいへん有益でした。

 

近刊拙著で、比較歴史社会学の「思考実験」にあたって参照できた資料は、山川出版社刊の世界各国史などの概説書と、各地を旅行して手に入れたガイドブックなど、ごくかぎられたものでした。来年 [2010] には、比較歴史社会学の観点から意義を見定めた領域の専門的業績から、選択的-重点的に、もう少し突っ込んで学んでいきたいと思います。

そのようにして、多少とも歴史的知識を獲得したうえ、『マックス・ヴェーバー全集』版Ⅰ/223 (「法」) 巻の刊行を待ちながら、ヴェーバー研究の残された懸案『「経済と社会」「旧稿」の再構成――全体像』に立ち帰りたいと考えています。

 

なお、『マックス・ヴェーバー全集』については、今月 [200912] 初頭、Ⅰ/24 [『経済と社会』の成立史] 巻が刊行され、編纂者のヴォルフガング・シュルフター氏から、献呈状を添えた一冊が送られてきました。これには、返信をしたため、恵贈へのお礼を兼ねて『全集』版編纂問題への今後の対応を予告しましたが、この点については、本ホームページの「恵贈著作欄」のほうに記します。

 

以上です。

みなさま、どうかよいお年をお迎えください。

 

20091218日記)