3. 1718 京都(大学とハイデルベルク大学との交流協定に基づく)シンポジウムに向けて(1)

折原 浩

 来る2006年]31718日の両日、京都大学で、「マックス・ヴェーバーと現代社会――ヴェーバー的視座の現代的展開」というテーマ設定のもとに、同大学とハイデルベルク大学との交流協定に基づくシンポジウムが、開催されます。

 ハイデルベルク大学からは、社会学のヴォルフガンク・シュルフター教授、同じくマルクース・ポールマン教授、日本学講座担当で日本の思想/労働運動に造詣の深いヴォルフガンク・ザイファート教授が参加されます。日本側からは、主催者京都大学の八木紀一郎教授(経済学史)、田中紀行助教授(社会学)、大沢真幸助教授(社会学)、他大学から、現在大阪大学に在職のヴォルフガンク・シュヴェントカー助教授(文明動態学)、奈良教育大学の佐野誠教授 (法制史) という錚々たる顔ぶれに、わたくし無位無官・自由人のヴェーバー研究者にして社会学徒の折原浩が加わります。

 第一部会17日午後)「ヴェーバー的理論の枠組を求めて――『経済と社会』を中心に」、第二部会18日午前)「ヴェーバーと文化の社会学」、第三部会 (18日午後)「ヴェーバーと日本の政治」に分かれ、報告と討論がおこなわれ、第一日夜 (68) に懇親会が予定されています。

 主催者 (田中紀行氏) からは、シンポジウム全体の趣旨が、「ハイデルベルクゆかりの社会科学者ヴェーバーを中心に据え、今後両大学間の学術交流をこの分野で活性化していくための出発点」とする/「日本におけるヴェーバー研究・ヴェーバー受容の到達点のみならず、本学における社会科学諸分野の研究の現状についても、海外の研究者に知ってもらう」機会とする/「近年わが国ではヴェーバー研究の細分化が進む一方で、それが今日の社会諸科学にとっていかなる意義を有するのかについては十分に検討されてこなかったきらいがある」ので、「今回は体系的社会学者としてのヴェーバーに焦点を合わせ、そのアプローチ (研究プログラム) の現代的意義をさぐることをめざ」す、と説明されています。

 詳細については、事務局 (京都大学大学院文学研究科、田中紀行研究室 606-8501 京都市左京区吉田本町、TELFAX 075-753--2448、電子メールntanaka@socio.kyoto-u.ac.jp) にお問い合わせください。

 

 この京都シンポジウムの件が本HPに登場するのは、確かこれが初めてですので、今日は、第一部会へのわたくしの報告テーマ(第一次案)と、このシンポジウムに参加するスタンスについて、概要を述べてみたいと思います。

報告に予定しているテーマ[第一次案2006130日現在)

Die massgebende Bedeutung des "Kategorienaufsatzes" beim "Vorkriegsmanuskript" von Max Webers Beitrag zum Grundris der Sozialoekonomik――Eine positive Auseinandersetzung mit Wolfgang Schluchter

Hiroshi Orihara

Vorbemerkung

. Punkte, in denen Orihara mit Schluchter uebereinstimmt――Eine Rueckblick auf die Editionsgeschichte des GdS-Beitrags

. Ein noch nicht uebereingekommener Punkt, ueber den Orihara mit Schluchter hier diskutieren moechte: Auf die Frage, ob die Begriffe des "Kategorienaufsatzes" in der "zweiten Phase" vom Ende 1912 bis Mitte 1914 ihre massgebende Rolle verloren haben, antwortet Schluchter "Ja", Orihara "Nein".

A.    Die Bedeutung des "Kategorienaufsatzes" besteht darin, das dessen Begriffe nicht nur Kritik an Stammler, sondern auch die gesamten methodologischen Ueberlegungen Webers bis dahin zusammenfassen. Gerade diese Bedeutung ist auch in der "zweiten Phase" noch nicht verloren. Dafuer einige "entstehungsgeschichtlichen" und "systematischen" Belege

B.    Dafuer "philologische" Belege (1): Die dem "Kategorienaufsatz" eigentuemlichen Begriffe sind auch in den Texten aus der "zweiten Phase" tatsaechlich angewandt worden.

  1. Dafuer "philologische" Belege (2): Der Begriff, also das Wort, "Einverstaendnis" und seine Komposita sind auch nach wie vor der "zweiten Phase", z. B. im Abschnitt "Herrschaftssoziologie", eben benutzt worden.

Fazit: Wenn Verschiebungen und Unterschiede zwischen der Textgruppen

oder -schichten, vom Gesichtspunkt der "Entstehungsgeschichte" aus

betrachtet, auch noch so gross sein moegen――Freilich ist es sehr wichtig,

sie zu beweisen――, koennen sie dennoch die relativ hohe Integriertheit

derselben als der Bestandteile "eines Projekts", die gerade aus der

methodischen Grundlagen des "Kategorienaufsatzes" stammt, nicht

aufloesen, sondern nur wechselseitig ergaenzend erweisen.

 

マックス・ヴェーバー『社会経済学綱要』寄稿「戦前草稿」[『経済と社会』旧稿] における「カテゴリー論文」の規準的意義――ヴォルフガンク・シュルフターとの積極的対決

折原 浩

序言

. 折原がシュルフターと意見一致する諸点――『綱要』寄稿の編纂史を顧みて

. 折原がシュルフターとなお意見一致せず、ここで討論したいと思う一点――カテゴリー論文の諸概念が、1912年末から1914年中葉にかけての「第二 (執筆) 期」には、規準的な役割を失ったのか、という問題に、シュルフターは「然り」、折原は「否」と答える。

  1. カテゴリー論文の意義は、その諸概念が、シュタムラー批判のみでなく、

それまでの方法論的思索全体を、集約している点にこそある。まさにこの意義は、第二局面でも失われてはいない。二三の「作品史的」また「体系的」論証。

B.    「文献学的」論証 (1)。カテゴリー論文の諸概念は、第二期のテクスト群にもじっさいに適用されている。

C.    「文献学的」論証 (2)。「諒解」の概念 (したがって語) およびその合成語は、第二局面たとえば「支配の社会学」篇にも、いぜんとして用いられている。

小括

「作品成立史」の観点から見て、テクスト諸群/諸層間の変位 (力点移動) や相違がいかに大きくとも――それらを確証することはきわめて重要ではあるが――、 そうした変位や相違は、「ひとつのプロジェクト」の構成部分をなすテクスト諸群/諸層の――カテゴリー論文の方法的基礎に由来する――相対的に高度な統合を、解体はせず、むしろ相互補完的に証明している。

テーマ設定の趣旨と、このテーマでシンポジウムに参加するスタンスについて

 ご覧のとおり、かなり細かい専門的テーマで、全体の主題「マックス・ヴェーバーと現代社会」はもとより、副題「ヴェーバー的視座の現代的展開」と、いったいどんな関係にあるのか、との反問が予想されます。

 ただ、このテーマ「カテゴリー論文の規準的意義」は、現在分冊刊行が進行している『マックス・ヴェーバー全集』第Ⅰ部第22 (『経済と社会』旧稿・「第二部」該当巻、「体系的社会学者」としてのヴェーバーの主要作品) を、「ヴェーバー的視座の現代的展開」として、あるいは「ヴェーバー的理論 (の枠組)」として (われわれが、また今後の世代が) 的確に受け止め、展開していけるかどうか、がかかっている死活問題ともいえるものです。

 また、この問題が、今回来日される全集版編纂者シュルフター教授とわたくしとの間で、なお意見が一致しない最大の懸案ともなっています。シュルフター教授は、「カテゴリー論文の規準的意義」は「旧稿」編纂の「第二局面」で失われたから、「カテゴリー論文」を「旧稿」全体に前置すべきではない (あるいは、前置するのは「学生版」だけでよい) と主張します。それにたいして、わたくしは、「カテゴリー論文の規準的意義」は「第二局面」でもいぜんとして失われてはいないので、前置すべきであり、そうでなければ、「旧稿」が「頭のない五肢体部分」に解体されて、「旧稿」全体の統一的/体系的読解/解釈が難しくなる、と反論しています。今回、シュルフター教授が、せっかく京都まで来てくださるのですから、この点について教授と直接、積極的に正面対決し、委曲を尽くして討論し、その成果を全集版の編纂にも活かしてほしい、と思わずにはいられません。

 このような思い入れには、全集版の編纂をめぐるここ十年あまりの一連の経過が、反映されています。全集版編纂陣の重鎮のひとりヴォルフガンク・モムゼン氏は、一昨年、海水浴中の事故で急逝されました。モムゼン氏亡きあと、全集版『経済と社会』旧稿該当第22(第一分巻「諸ゲマインシャフト」、第二分巻「宗教ゲマインシャフト」、第三分巻「法」、第四分巻「支配」、第五分巻「都市」、第六分巻「索引、編纂資料」のうち、第三、六分巻は未刊) 瑕疵を補填し、第六分巻を (第一~五分巻の補正も含めて) 充実させ、なんとか全分巻刊行を終えるには、ここまできてしまうと、シュルフター教授が第六分巻の編集担当者となって英断を発揮されるよりほかはない、とわたくしは考えています。

 ところが、それならば、そうした課題をなにもシンポジウムに持ち出さなくとも、専門誌上で、あるいはメールのやりとりで、詰めて議論すればよいではないか、シンポジウムとは、もっとなにか華々しい、普遍性をそなえた見解を開陳したり闘わせたりする場であるべきではないか、というご意見もありましょう。それはたしかに、一面ではそのとおりです。わたくし自身、これまでにもシュルフター教授とは、『ケルン社会学・社会心理学雑誌』誌上で論争していますし (シュルフター/折原著、鈴木宗徳/山口宏訳『「経済と社会」再構成論の新展開――ヴェーバー研究の非神話化と「全集」版のゆくえ』、2000年、未来社刊、に収録)、随時メールのやりとりもしています。ところが、そうしてもなかなか詰められない問題が残されており、それをこそこんど採り上げよう、と思うわけです。

 また、「華々しい祭り」というシンポジウム観には、わたくしも理解はできますが、他面、異見ももっています。たしかに、シンポジウムへの参加者、とくに若い世代が、華々しくも卓抜/勇壮な諸意見/諸見地に触れて、大いに刺激を受け、着想も手に入れるというのは、たいへん意義のあることです。しかし、それと同時に、学問とはそれほど華々しいことばかりではなく、たしかに「細分化され」ざるをえない、その最先端のところでいったいどういうことがおこなわれているのか、という面も、じかに知ってほしいと思うのです。

 とりわけ、テクストの編纂というような仕事は、まことに地味な、「労多くして益少ない」部門ともいえましょう。しかし、そういう地味な部門が学問を支える基盤/基礎でもあります。「ヴェーバー的視座ないし理論の現代的展開」には、信頼のおけるテクストが必要です。

 ところで、「『マックス・ヴェーバー全集』の予約講読者の2/3が日本人」という事実が、誇らしげにとまではいかなくとも、なにかプラスのこととして語られるのを、よく耳にします。たしかに、ドイツにおける粒々辛苦の編纂の成果を、大勢の研究者/読者が享受し、活学活用する、というのはよいことです。ドイツの編纂者にも、それでこそ労が報われると喜んでもらえるでしょう。ただ、それを聞くたびに、わたくしは、享受者が多いというだけで、よいのだろうか、「それだけ沢山の享受者がいるのなら、そのなかから何人かは、編纂に協力して役立つ人が出てきてもよさそうなのに」とは考えないのだろうか、と疑問に思わずにはいられません。やはり「本店-出店」意識を、研究実践上は克服していないのではないか、それでは、いつまでたっても欧米の学者と対等に交流していくことはできないのではないか、と思います。確かに、テクスト編纂というような仕事は、テクストに用いられている言語を母国語とする学者に任せておけばよい、そのほうが効率的、ともいえます。しかし、さればこそ、そういうアリーナでも、論争し、役立ちたいとは思わないのでしょうか。

 さて、我田引水となって恐縮ですが、以上が、今回の京都シンポジウムにあえて地道な専門的テーマを持ち込む(本人は積極的と思い込んでいる)理由です。しかし、他面、いきなり「『シュタムラー批判』がどうのこうの」とか、「『諒解Einverstaendnis』という術語とその合成語が、『旧稿』テクストのどことどこに、どう出てくるか」というような議論に入ってしまったのでは、シュルフター教授との「空中戦」を眺めるだけで、なんのことかさっぱり分からず、退屈きわまりない、ということにもなりかねません。そこで、そうならないように、「積極的対決」にいたる前史――たとえば、『経済と社会』の編纂史上、なにが問題になって、シュルフター教授とわたくしがそれぞれどういう所見を述べてきたのか、どこまで意見一致しているのか、「カテゴリー論文」のアウトラインとその意義はいかなるものか、それが「シュタムラー批判」の積極的展開であるとすると、そもそも「シュタムラー批判」とはどんなものだったのか、といった関連論点――にかんする予備知識をあらかじめ提供して、当日はそうした諸論点にかんする「おさらい」はしないで、すぐに討論を始められるようにする、といった工夫が必要となります。そこで、今回、わたくしのテーマ設定を主催者にお伝えするさいに、そうした前史にかんする予備知識を適宜提供する記事を、このHPにあらかじめ連載する方針とプランもお伝えして、了承をえました。

 そういうわけで、今回の「京都シンポに向けて」を(1)とし、ひきつづき(2)、(3)……を連載していきたいと思います。このシンポジウムとわたくしのテーマ報告にも関心をもって参加してくださる方々は、3. 1718までの期間に、このHPを開いてみておいていただけますと、幸いです。

2006131日)