1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014118日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」) に寄せて                     201411月~20152  折原浩

 

 

[本稿は、昨201411月から、上記の副題を表題として、このHP 2014年欄に連載し始めたものです。ところがこの間、「マックス・ヴェーバー生誕150周年記念シンポジウム (旧臘7日)を挟み、年を越して書き継ぐうち、(当面「関心の焦点」となっている)1960年代の精神史」とりわけ「196869年東大紛争」の経緯に立ち入り、「プロフェッショナルとは何か」「現場でどんな使命に生きるべきか」という岡崎君の問いに、現場経験から具体的に答えていく形となってきました。そこで今回、主題は内容に即して「1960年代精神史とプロフェッショナリズム」に改め、起稿時の表題は副題として保存し、適宜中見出しも付けて、内容を多少引き締めました。しばらくはこの延長線上で、執筆をつづけるつもりです。2015122日]

[ひとまず脱稿しました。岡崎君の問題提起にたいする応答を内容的に要約して「結び」とすることも考えましたが、後続世代の「新たな接近」にひとつの批判材料を提出するに止めました。ここから何を汲み取り、何を捨てるか、自由に検討していただければ幸いです。2015211日]

 

はじめに――現役学生からの問題提起

一昨 (2013) 年来、東大医学部の臨床研究に、データの改竄など、不正疑惑が三件発覚し、相次いで報道された。この件につき、昨年六月、東大医学部六年生の岡崎幸治君ら学生有志五人が、連名で総長・医学部長・病院長宛てに公開質問状を発したところ624日付け『朝日新聞』朝刊「東大医学部生五人、総長に公開質問状」参照)、八月に、学生を対象とする「臨床研究について考える会」が開かれたという。副題の新聞記事は、その「考える会」にかんする簡潔な報告と、岡崎君の総括ならびに決意表明である。

「考える会」では、岡崎君が「説明会」とも呼び替えているとおり、「病院長が臨床研究の抱える問題を解説」し、不正疑惑のうち二件については「それぞれの内部調査委員長を務めた先生方が説明」したという。しかし、その「内容に新しい事実は」なく、残る一件は、当事者の前任校で起きたとの理由で、採り上げられなかった。岡崎君は、「満足のいく回答は得られなかった」が、「説明会」を開いたこと自体も含め、臨床研究の今後につき、「学生諸君と一緒に考えていきたい」との「学生に向き合う姿勢は感じられた」と評価している (アンダーラインによる強調はいずれも引用者、以下同様)

「説明会」ではまた、「新たな倫理教育プログラム」の導入も示唆ないし提案されたようである。しかし、岡崎君には、不正を問われた当事者が「説明会」に出て説明責任を果たそうとはしないまま、「新しいシステムを持ち出すことで、『自分たちが今後どうすべきか』という当事者としての問題の明確化や相互批判を回避してい[る]ように感じられた」という([  ]内は、引用者が、趣旨は曲げないように、コンテクストに応じて変更ないし補足)。同君は、そのようにして「制度がいくら整っても、意識が欠如していれば元も子もない」と厳しい。

岡崎君にとって「問題の本質はプロフェッショナリズムの欠如」にある。では「プロフェッショナル」とは何かといえば、「自らの使命を神に公言 (プロフェス) する人」で、医師の使命は「『患者第一』の精神にのっとって人を救うこと」にあるという。

今回疑われている不正も、東大医学部教授の当事者たちが、「プロフェッショナル」の「精神」を失い、「常に見据えるはずの患者の利益を見失った結果」と推認されよう。岡崎君は、そこから一歩踏み込んで、それはなぜか、と問い、「目先のお金や業績に気を取られ」たためではないか、と疑念を漏らし、「プロフェッショナル」をして「プロフェッショナリズム」を失わせる社会的背景にも、目を向けている。

岡崎君によれば、「医師集団」は、今回の「説明会」でも、同僚間の庇い合いを優先させ、「広く社会からの信頼を損なったことに [] 鈍感」で、「研究に貴重な税金が使われていることへの認識も甘い」。それにたいして同君は、いまこそ「医師集団」が、失われた「社会の信頼を回復するために」、「相互批判をいとわず、説明責任を果たす必要がある」と主張する。

同君自身、昨夏には、福島県南相馬市の病院を見学し、大病院から被災地に出向いて被爆の検査や診療に熱心に取り組んでいる先輩の姿に、真正なプロフェッショナリズムの発露を見出し、感銘を受けたという。同君も今年から医師になるが、「私が診るべきは『患者さん』であり、決して研究標本を扱うごとく、『病気』を見たくはない」と結んでいる。

さて、筆者は、いまから約半世紀前、196263年に(岡崎君とほぼ同年齢の一大学院生として)「大学管理法」問題に取り組み、196869年には、医学部に端を発した「東大紛争」の渦中で、(教養学部の一教員として)学生諸君の質問と追及にさらされた。当時も、やはり学生諸君から、「学問は何のためにあるか」「学者・研究者はいかに生きるべきか」「専門職は、どんな原則のもとに、どういう『職業倫理』にしたがって仕事すべきか」との、今回と同じような問題が提起され、教員が回答を迫られた。筆者もそのとき以来、同じ問題を抱え、みずから応答しようとつとめ、ときには発言もしてきた[1]

とりわけ、2011311日の東日本大震災とそれにともなう福島第一原子力発電所の事故以来、斑目春樹氏はじめ東大工学部教授らの無責任な対応や発言を目の当たりにし、この間の経過を顧み、改めて反省を迫られた。筆者自身、「東大紛争」時にはすでに提起されていた問題を、その後解決できず、原発反対には唱和しながらも、大学現場の (工学部にかぎられない)「原子力ムラ」を温存させてきてしまった無力に、一当事者として責任を感ずる。それと同時に、そういう大学現場にいる学生諸君が、問題そのものはデータの改竄という学問研究の根幹に触れるところまできているのに、昨今の不正疑惑をどう受け止めているのか、往時の先輩のように目立って発言・行動はせず、沈黙しているのはなぜか、という疑問も拒みようがなく、学生諸君の動向に注目してきた。それが、ここにきて、岡崎君ら有志による公開質問状の発表と結果の報告に接し、若者の正義感と行動力はやはり失われていない、という万感の思いで受け止めた次第である。

岡崎君らの勇気ある態度表明には、筆者も往時であれば、すぐにでも訪ねて連帯を表明したいところである。しかし現在、老生にできることはいたって少ない。ただ、「196263年大管法」と「196869年東大紛争」の経過を振り返り、その渦中で、(文科系ではあるが)院生ないし若手教員として、学問と大学と「プロフェッショナリズム」について考えた内容をお伝えし、現在の学生-院生諸君への問題提起とも参考意見ともして、連帯の挨拶に代えたいと思う。1114日記、つづく]

 

§1.「東大紛争」の発端――医学部の学生処分とその背景

学生諸君もおそらくは知ってのとおり、「東大紛争」は医学部から始まった。その「医学部紛争」は、戦後長らく欠陥が指摘されていた「インターン制度」(卒後研修制度) をめぐる医学部学生-研修生と教授会-病院当局との対立に起因している。詳細は別稿[2]に譲るが、当初、医学生は、卒業後、大学病院ほか(主として国公立の)病院で、ひとつの診療科に配属され、低賃金で(「登録医制」への)医療制度再編の「穴埋め」に使われるのではないか、と懸念する一方、多くの診療科をまわって幅広い研修を重ね、(たとえば、地方の「無医村」に赴任しても、住民の多様な診療要求に対応できる)良き医師たらんと、まさに岡崎君のいう「プロフェッショナリズム」を体して、病院当局との間に「研修協約」を結び、自分たちとしても納得のいく研修を積もうとしていた。ところが、「研修」をもっぱら「教育」の一環として捉える医学部・病院当局が、この「協約」条項に難色を示し、学生・研修生側は、「協約」要求の正当性を確信して、ストライキに入った。「第一次研修協約闘争」1967年)である。

ただ、このときには、医学部教授会内にも、問題が微妙で、六年間の大学教育を終えた卒業生の「研修協約」という(少なくとも相対的には控えめで、理にかなう)要求であっただけに、大筋としては正当と認め、共感する人々(かりに「ハト派」)も、吉川春寿学部長初め、かなりいたらしい。というのも、学生・研修生がストを打ったにもかかわらず、医学部教授会は、当時の「矢内原三原則」にしたがって(学生大会へのスト提案者、提案を受け付けた議長、スト決議の実行責任者を)機械的に処分しようとはせず、「全員戒告」という(正規の処分ではない)処置に止めた。

ところがこれを、大河内一男総長ら「東大本部」(「時計台当局」) が「矢内原三原則」を楯に取って咎め立てた。そのため、医学部教授会は、学部長・評議員を更迭し、こんどは厚生官僚出身の豊川行平氏、佐藤栄作首相の主治医・上田英雄氏を、学部長・病院長に選出した。そして、この「タカ派」執行部が、学生の面会・話し合い要求を拒み、「医師法一部改正案」の国会通過を待って、新制度を学生に説明しようという姿勢で臨んだのである。

これに反発した医学部学生・研修生は、翌1968129日、再度ストを構えた (「第二次研修協約闘争」) が、豊川学部長も上田病院長も、面会要求を拒んで学内に姿を現さず、解決の目途が立たなかった。ところが、219日、上田病院長が、(おそらく紛争中とは知らずに訪れた)外国人学者を案内して(おそらく学士会館分館で)昼食を共にしようと、病院前を通りかかったところ、日時を改めて正式な面会を求める学生・研修生と、その場に駆けつけた上田内科・春見医局長との間に「摩擦」が起きた(「春見事件」)。

その直後、学生・研修生は、上田医局内でこの事件を「学生の暴力行為」として非難する宣伝がなされていると聞き、「摩擦」つまり双方の「行為連関」において、どちらがどんな暴力をふるったのか、医局で[3]春見氏と「押し問答」を重ねたらしい。これを、豊川執行部は、「医師となるべき者が医局で深夜まで騒ぎ、医局長を威嚇した『暴力行為』」と認定し、これを理由に17名の学生・研修生を、こんどは退学・無期停学・譴責という正式の処分に付した。豊川学部長が、調査 (警察権)・立案 (検察権)・採択指揮 (部局内の予審裁判権) を一手に掌握して医学部内をまとめ、学部長会議との間を二往復[4]しても20日という迅速さで、312日の処分発令にいたった。それまでは「教育的処分」の少なくとも慣行とされていた、本人からの事情聴取も、おこなわれなかった。そのため、たまたま久留米に出向いて事件現場には居合わせなかった、医学部学生自治会委員長の粒良邦彦君までが、処分されていた。

「医学部全学闘」と「青年医師連合」の学生・研修生は、この処分に抗議して、大学の儀式を公開論争の場に転じようとする「卒業式-、入学式闘争」を経て、615日には(当時大学本部のあった)時計台を占拠-封鎖した。すると、大河内総長は、すかさず二日後、機動隊を導入して封鎖を解除した[5]。その是非をめぐって議論が沸騰し、紛争が全学化したのである。

そういうわけで、「東大紛争」の経過を発端にまで遡ってみると、「第一次研修協約闘争」における医学部教授会の「ハト派」的対応にたいする大河内総長ら当局の問責が、ひとつの岐路をなしていたことが分かる。では、東大当局はなぜ、そういう強硬姿勢に出たのか。たんに「矢内原三原則」にこだわっただけなのか。

 

§2.60年安保」――「政治と学問」への問い

少し遡るが、1960年には、日米安全保障条約に反対し、岸信介内閣の強行採決に抗議する市民のデモ隊が、連日国会を取り囲み、街頭の政治運動が未曾有の盛り上がりを見せた。その後、岸退陣のあとを受けた自民党の池田勇人内閣は、これに危機感を抱き、一方では「所得倍増計画」を発表して大衆を慰撫し、「高度経済成長」政策を押し進めるとともに、他方では「安保に反対する若者は、大学を拠点として出撃してきた、大学が『革命戦士』の養成に利用されている、大学の管理をなんとかせねばならん」(趣旨)と唱え、(それまでにも出しては引っ込め、「アドバルーン」を上げていた)「大学管理法」案の制定に乗り出した。これに、中山伊知郎・東畑精一・有沢広巳氏ら、池田首相と親しい「学界長老」が、「そういうやり方では『一般教員』の反発を招いて逆効果になる、むしろ大学が『自主的に対処』するように仕向けるから、任せてほしい」(趣旨)と「とりなし」に入り、池田内閣は、「大管法」の法制化は、とりあえず手控えたのである。

さて、「60年安保」時には、東大文学部の教員有志も、「樺美智子さん虐殺抗議」の横断幕を掲げて、本郷キャンパスから国会南門までデモ行進した。社会学専攻のノンポリ院生だった筆者も、教員のこの決起には感激し、(「右翼の襲撃があったら、先生方を守ろう」と)院生仲間とともに隊列の後尾に付いた。また、法政大学の北川隆吉[6]研究室に置かれた「民主主義を守る学者・研究者の会」(略称「民学研」)の事務局を手伝いながら、政治運動と学問研究との関係(というよりも、双方をいかに関連づけていくか)について思いめぐらし、院生仲間で議論し合った。というのも、そこまで昂揚した街頭運動も、政治日程の頂点を過ぎると「流れ解散」して「政治の季節」の「潮が引き」、「学問の季節」に入れば「学内改良運動」 (たとえば「トイレット・ペーパーをそなえよ」といった「日常的諸要求」) に戻ると予想し(そうなるのをじっさいにも見届けながら)、そうした (いわば「はれ」と「け」の)「単純な循環」を繰り返していていいのか、という疑問に捕らえられたからである。

この問題について、わたしたち院生は、大学に留まる将来を、(学生運動の活動家も含む)学部学生とはちがい、一過性の一時期 (一般には四年、医学部生は六年の在学期間) としてではなく、むしろ「プロフェッショナル」としての長いタイム・スパンで見通す立場にあった。そのため、議論はおのずと、学部学生とは異なる、つぎの方向に導かれた。すなわち、まだ抽象的な思念の域を出なかったが、「政治の季節」には昂揚して従来の「殻」を割って出ようとする「生」と「情念」を、街頭行動の退潮とともに「雲散霧消」させて「旧態に戻る」のではなく、運動の渦中でつぶさに確認し、「理念」や「言説」に結晶・結実させて、つぎの「学問の季節」に送り込み、そのようにして長期的に「政治の季節」と「学問の季節」との(「単純な循環」ではなく)「スパイラル(螺旋)」[7]を生み出し、発展的に社会を変えていこう、という方向である[8]

すると、ちょうどそこに、池田内閣が二年後、政治と学問との双方に跨がる「大管法」案という格好の争点を持ち出してきた。

 

§3.196263年大管法」を逆手にとって

わたしたち院生は、上記のような見地から、この「危機」を (「大管法」制定を阻止して「身に降りかかってきた火の粉を払いのける」だけの) 政治的防御に止めるのではなく、むしろわたしたち自身が今後、「学問の自由」と「大学の自治」をどう考え、どう担っていけばよいか、運動の渦中で議論し、できればわたしたち自身の学問論と大学論、広くは「プロフェッショナル」としての「職業倫理」「職業エートス」[9]を紡ぎ出す「絶好の機会」として「逆利用」しようよ、と申し合わせた。そこで、研究室の一角にライブラリーを設け、「大管法」関連の諸案を資料として集めるとともに、他方では、(当時の学生運動では支配的だった) マルクス主義や左翼の文献ばかりでなく、ドイツ観念論からマックス・ヴェーバーをへてカール・ヤスパース、はては高坂正顕氏[10]にいたる、学問論・大学論関係の諸説、オルテガ・イ・ガセの技術論と「大衆人」論[11]、カール・マンハイムの「イデオロギー論」(知識社会学)[12]と「知識人」論、ロバート・E・パークらの「境界人」論[13]など、関連文献を集めては読み合い、議論した。

当面の「大管法」問題については、文部省・中教審・国大協といった関係団体の諸案を比較・分析して、対文部省関係については、①学長その他の大学人事にかかわる文相拒否権の実質化[14]、学内については、学長への権限・権力の集中 (評議会や教授会の諮問機関化)、③正教授のみによる教授会構成 (大学の「意思決定」過程からの若い助教授や講師の排除)、④学生の (学外も含む) 「秩序違反」にたいする学内処分の厳正-強化、⑤大学構内への警察力導入にたいする抵抗感の排除、⑥「一般教官」と「一般学生」との (一朝有事のさいには、前者が管理機構の末端としてはたらき、後者を首尾よく「統合」できるように、平常時からそなえておく) 日常的コミュニケーション」の円滑化・緊密化、というような問題点を摘出し、国家権力による統制強化構想の一環として捉え返した。そのうえで、問題の項目ごとに、諸案の論点を年表風にまとめて比較対照する資料を作成し、各方面に提供して、議論を呼びかけた。

他方、学問論・大学論関係では、「大管法」案にたいする学内の諸部局や学生・院生の多様な対応を見渡し、比較・検討するなかで、「『学問の自由』と『大学の自治』を『守れ』」という従来のスローガンに疑念が芽生え、運動目標の再考を迫られた。

そこにいたる機縁のひとつは、当時の東大法学部長が、「大管法」に反対は反対でも、「大学の講座とは、家族のようなもので、家風に合わない余所者が、外部から無理やり押し込まれたのでは、やっていけない」(趣旨)と発言した事実にある。わたしたちには、この発言内容自体、「講座」内における明朗闊達な発言や議論を妨げる「家父長制」的権威主義ないし「家族主義」的融和精神の残滓を表白する言辞として、確かに問題であった。なるほどそれは、「こういえば通りがよい」という方便として使われたのではあろう。ところが、それでは、「大管法」反対運動にも、「対外倫理と対内倫理の二重性」「対外排斥と対内緊密の同時性」という一般経験則がはたらいて、克服されるべき残滓をかえって補強する「逆機能」を果たしかねない、と危惧された。

しかし、わたしたちがむしろ、それ以上に問題と感じたのは、わたしたち自身がかつて学生として当の「家父長制」的権威主義や「家族主義」的融和精神にたいする批判を学んだ、同じ法学部に在籍する『日本社会の家族的構成』や『現代政治の思想と行動』[15]の著者たちが、この学部長発言に異議を唱えず、沈黙している事態であった。それは、法学部にかぎらず、各学部内、あるいは大学全体の「風通し」の悪さと「ものいえば唇寒し」の伝統的精神風土に根差す、学知と実践との乖離を「問わず語りに語り」出す「灯台下暗し」の象徴的事例として、いっそう深刻な問題ではないか、と思われたのである。

 

§4.「学問の自由」の意味転換と「根底からの民主化」に向けて

ところが、問題はじつは、そういう「偉い先生方」だけの話ではなかった。わたしたち院生は、「大管法」にかんする資料を提供して議論を呼びかけたうえで、自分たちの属する文学部社会学研究室を皮切りに、各研究室単位で院生と教職員の議論を詰め、連署の「大管法」反対声明を発していこうと企てた。当時はなお「学外権力の介入から『学問の自由』『大学の自治』を守れ」というスローガンが効力を保っていたので、署名は順調に、院生-助手-講師-助教授-教授と進んだ。ところが、主任教授のところで、暗礁に乗り上げた。「60年安保」時には、本郷キャンパスから国会南門へのデモにも加わっていた主任教授ではあったが、こんどは、「そういうふうに『下から』署名を集めてきて、わたしひとりが署名しないとなると、世間に『あ、本郷の社会学科、割れてるな』と思われる、逆に、わたしが最初に署名すると、他の先生方も同じことを考えて、署名せざるをえなくなる、いずれにせよ『内面的な拘束力』がはたらくから、そういう連署の声明はよくない」といって、断られ、押し切られた。「問題は、『世間がどう見るか』ではなく、『先生ご自身が個人としてどうお考えになるか』です」と喉元まで出かかったが、「内面的な拘束力」という言葉に捕らわれて、一瞬たじろいだ。このときは、不覚にも、連署の共同声明は出せずじまいだった。

この一件は、なるほど、大学の講座が、「家父長制」的権威主義と「家族主義」的融和精神との残滓に、いまなお根強く支配され、「世間体を気にかけて言うべきこともいえない」「ものいえば唇寒し」の空気が澱んでいる実態を、客観的事実として露呈していた。そういう残滓が、全社会的な官僚制[16]ピラミッド(「立身出世」のはしご)の形成にともなう「保身-出世第一主義careerismの大勢とも癒着し、自由な発言を内面から抑止し、理性的な討論と合意の形成を妨げている実情を、鮮明に表出した、ともいえよう。この実情を「比較文明論」的に位置づけるとすれば、「欧米近代」の侵略と脅威にさらされた後進的な文化的諸「境域marginal areas[17] (インド、ロシア、中国、日本など) では、「近代」の熟成を待たずに「近代」が持ち込まれ、あるいは取り込まれて、「近代」と癒着するため、「近代的自我」の形成が二重に阻害され、個人の自立が達成されずに伸び悩んでいる事態、とも解されよう。

ところが、問題はじつは、そのように「理屈をつけ」「客観的に位置づけて」済む「他人事」ではなかった。そういう弊害をよく心得、言葉のうえではいつも反対を唱え、思弁も逞しくしていながら、いざ自分の現場の問題として、卑近な「上司」(である主任教授)の意向に逆らう選択と態度決定を迫られるや、躊躇して拒否も反論も鈍る、自分個人の脆弱さを、いやおうなく思い知らされたのである。

筆者の脳裏には、カール・レーヴィット[18]の批判が去来した。一時期東北大学に在籍して日本人学者の生活と意識に通じていたかれは、「日本人学者は、二階家に住み、二階では欧米近代の思想や学問を喋々するが、一階に降りると伝統にどっぷり浸って暮らしている」(趣旨) と辛辣に語っていた。筆者は、「何気なく読み流していた」この箴言の意味を、このとき初めて正面から受け止めた。「図星!!」と思うほどに、「それなら一階でも、二階の原理原則を貫いてみせよう」[19]と気負ったことは否めないが、今後、同じような状況に直面したら、こんどは「ひるまずに初志を貫こう」と思いなおした[20]

そういう経緯もあって、わたしたち院生の議論はいきおい、「学問の自由」と「大学の自治」とは、「すでに大学内にある」と仮定された「自由」と「自治」を、外部権力(政府・文部省)の干渉や介入から「守る」というのではなく、少なくともそれだけではなく、むしろ大学内部の制度と人間関係において不断に培われる精神を、現場で問題とし、(戦後日本の社会学も問い残してきていた) 大学そのものも研究対象に据え、具体的問題を具体的に切開しながら自己変革を遂げていくことこそ、肝要ではないか、という方向に導かれた。そういう当事者としての現場批判自己批判のなかから、理性的な議論をとおして「合意を形成」し、「自発的結社」を創設し、首尾よく運営していくことが、「根底からの民主化」の第一歩と思われた。大状況を射程に収めた問題設定も、当面は大学現場で、そういう「自由」と「自治」を達成し、できればそこから漸進的な拡充を企て、(前近代的な「家父長制」や「家族的融和」の残滓を温存し、これと癒着しながら進行している)「全社会的な官僚制化」に抗して、さしあたりは「近代的自我」形成を貫徹し、「個人の自立」を達成し、そのうえに欧米近代と日本的伝統(のなかの選択的に活かせる諸要素)との「現在的文化総合」を追求して、「雑種文化」(加藤周一) という「ひとつの新しい個性」の創成を期す、という方向に、意味転換された。

ちなみに、「官僚制Bürokratie」とは、官庁だけではなく、軍隊を筆頭に、病院・研究所・企業・労働組合・政党その他、多少とも大規模な「組織」には、その「効率性」ゆえにいきわたる、ピラミッド状の (公式には「指揮命令系統」、非公式には往々にして「抑圧移譲」、構成員の側からは「昇進順位」の) 位階秩序を意味する。そして、「全社会的な官僚制化Bürokratisierung」とは、そうした「支配」(「命令-服従」)関係が、「組織」のみならず、「組織」にも、たとえば「産学協同」の「利害状況Interessenlage」によって、また、(そうした「利害関係」が「慣習律」となり、「規則」に「制定」され、国家権力によって裏打ち・「保障」されて、「合法性Legalität」という「正当性Legitimität」の)「権威Autorität」をまとい、広く普及していく事態を指していう[21]

岡崎君が「プロフェッショナリズム」を腐蝕する要因と見ている「目先のお金と業績」も、そうした「全社会的な官僚制化」の支配的潮流が大学内に流れ込んだ支流・分肢・末端の「澱み」として位置づけられよう。筆者の世代には、「産学協同」がなお、科学の批判性と学者の「知的誠実性」(自分にとって不都合な事実を直視する勇気) を損ねる「非難すべき逸脱」として「負のレッテル」を貼られていた。ところが、「高度経済成長」につれて、「金銭上の利益」を疑問なく受け入れ、「自明の前提」として出発する「飽満したgesättigt」気風が、止めどなく蔓延し、「産業界から研究資金を調達し、見返りに研究成果を提供して相応の報酬を受け取るのは当然で、それができなければ『学者として無能』、とやかくいうのは『無能な学者』の妬み」といわんばかりの「正の価値徴表」に転化してしまった。それが、「『誰も』がやっている」「『みんな』で渡れば怖くない」という伝統的「集団同調性」「集団的無責任」と癒着し、「自己正当化」と「居直り」を補強し、その結果「経済と学問との緊張(ヴェーバーのいう「価値秩序の神々の争い」のひとつ) がゆるめば、データの隠蔽や改竄や捏造までは「あと一歩」というところであろう。岡崎君たちの取り組みは、それだけ困難の度を増していると思われる。

 

§5.「没意味化」の流れに抗して――「社会学」から「社会学すること」へ

さて、「学問の自由」「大学の自治」の理念と運動の目標を、そういう方向に意味転換するさい、わたしたちが将来、その「プロフェッショナル」になろうとしている専攻領域の「社会学」については、その現状と今後の担い方をめぐって、好んで議論が交わされた。「社会学」は、学知の一部門とはいえ、専門分化の現状を「自明の前提」として素朴に出発し、学知かぎりで自己完結するのであってはなるまい。その域を越えて社会批判に乗り出すとしても、それが (たとえば東大法学部の大先達のように)「無風の安全地帯に身を置いて (たとえば敗戦後になって) 初めて発動する、気楽な他者批判の事後評論」に止まり、現在進行形の現場問題には口を噤むというのでは、いかにも虚しい。では、自分たちはどうすべきか。

筆者は当時、マックス・ヴェーバーの「実存と学問」について、専門的に立ち入って研究したいと考えていたが、それも、そこからは、つぎのような原則を引き出すことができそうに思えたからである。すなわち、企業・労働組合・官庁・政党・大学・研究所ほか、どんな社会「組織」も、その成熟 (「臨機的」な人間結集の「多年生perennierend」化、継続的に目的を追求する「経営Betrieb」の「合理化Rationalisierung[22]・「官僚制化」) につれて、「組織」そのもの維持ないし拡大自己目的とする「利害関心Interesse」が派生し、これがむしろ圧倒的に優勢となって、前景を覆ってくる。それと同時に、当の「組織」が創設されるさいには基礎とされた「理念Idee」や本来の「設置目的」は、それだけ後景に退いて、曖昧となり、疎んじられ、忘れられもする。そのようにして、さしあたりは「組織」の、やがては (そうした諸「組織」が簇生-林立し、「官僚制」ピラミッド状に編制されて成る)「社会」全体の「没意味化」がもたらされる。

とすると、そういう「組織」の内部に生きる個人は、「没意味化」の「流れに身を委ね」、「保身-出世第一主義」に陥り、「組織」の自己運動ないし自己拡張の「歯車 (伝導装置) に甘んずるか、それとも、そうした圧倒的趨勢を見据えながらも、当初の「理念」(すなわち、大学であれば「真理探求」とその「社会的責任」)を想起し、その「普遍性」(すなわち、大学そのものをも「真理探求」の対象に据えて、特殊な例外とはせず、あくまで理非曲直を明らかにしていく「使命」と「心構え」)に思いをいたし、「流れに抗して」生きるのか、どちらかを選ばなければならない。ヴェーバー自身は生涯、「政治と学問との緊張(これまた「価値秩序の神々の争い」のひとつを生き、大状況の政治にたいする現在進行形の批判と論評も怠らなかったが、若いころの就職事情から始めて、卑近な大学問題への現場発言と行動も欠かさなかった。

そういう姿を (ハイデルベルクの「マックス・ヴェーバー・サークル」で) 間近に見ていたカール・ヤスパースは、ヴェーバーを「現代に生きる哲学的実存」と見て、「哲学Philosophie」に「哲学することPhilosophieren」を対置した。とすれば、わたしたちがヴェーバーから学び、活かすべきことも、「社会学することSoziologieren」であり、別言すれば「現場問題への社会学的アンガージュマン(自己拘束)(ジャン・ポール・サルトル) であろう。わたしたち自身が、そのように生きて、各々の現場を起点に、日本社会の「根底からの民主化」[23]に向けて、なにほどか寄与していくことはできないものか。

 

§6.「教養」教育の理念――理科生こそ「社会学する」スタンスを

そのように、大学「組織」の現場から出発して「社会学」を「社会学すること」と捉え返し、日本社会の「根底からの民主化」を展望しながら、「大学現場で今後いかに生きるか」という当初の問題設定に立ち帰ると、筆者には「社会学」という「プロフェッション」の、教育上-実践上の意義、とりわけ(日本では敗戦後に創設された)教養課程における社会学教育の意義が、つぎのとおりに開示されてきた。すなわち、結果に追われて前提を問ういとまのない生き方を強いる (それ自体、「近代公教育体制」の「合理化」「官僚制化」の一環として位置づけられる) 受験勉強からは解放されて、しばし「自分自身を顧みる」余裕(モラトリアム)を獲得する教養課程の学生諸君が、「社会学すること」「社会学的アンガージュマン」のスタンスを、自己形成(教養)の核心として身につけてくれれば、そこからどんな専門課程に進学し、卒業後いかなる社会領域に乗り出していくとしても、当のスタンスを堅持して、各々の現場の問題と取り組み、それだけ日本社会の「根底からの民主化」に寄与し、民主主義の裾野を広げていくことができるのではあるまいか、と。

とりわけ、教養課程における「社会学」の講義や演習は、理科生にもそうしたスタンスの会得を促す、制度上も保障された、(現存の公教育体制では) 唯一の機会として、それだけ重要な位置価を帯びる。当時は、「戦中の科学者や技術者は、視野が狭く、批判力に乏しく、与えられた目的を鵜呑みにして、軍国主義の戦争政策に協力した」という(戦争協力にたいする)反省が、まだ生きていて、理科生にも、教養科目として人文科学三科目、社会科学三科目(他方、文科生にも、自然科学三科目と、専門外の人文ないし社会科学三科目)、計二十四単位の履修が義務づけられていた。

そのうえ、理科生にたいする「社会学」教育の意義を、翻って、日本社会の「根底からの民主化」という展望のなかに位置づけると、つぎのような捉え返しも可能と思えた。すなわち、労災・公害・放射能禍など、(社会体制の如何にかかわりない)「工業化」の「負の側面」の防除から、働く人々を「労働疎外」に陥れる、過剰なまでに高度化した生産諸力の適正な制御にいたる、経済-産業社会の「根底からの民主化」は、専門的な実力は身につけていて、現場で働く人々の信頼をかちえられると同時に(「無知の知」[24]を堅持して「科学迷信」[25]には陥らず)現場の問題と取り組んで「社会的責任」をまっとうできるような、 「真正なプロフェッショナル」としての科学者や技術者を、現在の理科生のなかから育成し、現場で働く人々との連帯関係を模索-構築-確立していくのでなければ、とうてい達成されないであろう[26]、と。

ところが、現状では、「全社会的な官僚制化」の一環としての「専門化」、それも (あらゆる領域にわたり、「勉強」や「お稽古ごと」ばかりか、スポーツとくに「選手養成」にもおよんでいる)早期専門化」につれて、肝心の教養課程が、それだけ圧迫され、縮小され、軽視される傾向にある。その結果、前提を問わない受験勉強と、同じく前提を問わない専門学習とが、短絡的に直結し、教養課程の「モラトリアム」という(人生と世界にたいして批判的に対峙することも可能とする)「アルキメーデースの支点」が失われ、全社会的に敷きつめられた「官僚制」のエスカレーターにいち早く乗ること(親から見れば、乗せること)が、人生最大の懸案であるかのように現れている。

当事者の教員自身も、教養課程の「理念」と「設置目的」は顧みず、専門課程への「予備門」くらいに考え[27]、それでいて (「組織」の維持と拡大を自己目的とする、教養学部・教養部にも共通の利害関心と、「旧制帝国大学の専門学部並みに処遇されたい」という「身分的」利害関心とは、専門学部の教員に引けをとらず旺盛で) 専門課程との「格差解消」にはしばしば「血道を上げて」いた。そういう (教養課程の教員自身も陥っている) 「保身-立身出世主義」[28]の「流れに抗して」、教養課程に独自の、とくに理科生の「教養」形成の意義が、上記のように再認識-再確認され、教育目標の設定や教材編成に具体的に活かされ、拡充されていかなければならない、と考えられたのである。

 

§7.「大管法」法制化に代わる「国大協・自主規制路線」

さて、「大管法」反対運動は、政府が法案の国会上程は手控えて、表面上は終息した。しかしそれは、前述のとおり、池田首相と個人的に親しい「学界三長老」の「とりなし」によって、政府が「振り上げた拳は引っ込めた」だけのことである。大学にたいする権力統制強化の意図まで捨てたわけではない。

むしろ、「大管法案反対には唱和して気勢を上げた全国の大学教員が、政府の法制化見合せを(なんと思ってか)「闘争勝利」と「総括」し、(困ったことに)安堵して「オールを休め」、旧来の「学問の季節」に舞い戻ると、「三長老」の「とりなし」が「ものをいい」始めた。硬軟とりまぜた、いっそう巧妙な統制強化が、政治日程には登らず、徐々に形を整えた。大学内の管理機関が政府の意向を「自主的に」「先取り」「代行」し、その結果、対抗軸が「政府大学」という (「社会形象soziale Gebilde」・「集合的主体kollektive Subjekte間の) 目に見える形から「大学内部の隠微な人間関係human relations」に「転移」して姿は隠す、いっそう巧妙な「国大協・自主規制路線」である。

大河内総長ら東大当局が、「第一次研修協約闘争」時に、医学部教授会の「ハト派」的対応への不満から、「タカ派」執行部への交替を使嗾したのも、「第二次研修協約闘争」では、本人からの事情聴取を欠く手続き上の瑕疵が明白な処分案件を、「事情聴取を経ないのは異例」と、いったんは医学部に「差し戻し」[29]ながら、結局は再提案をそのまま承認してしまったのも、この「国大協・自主規制路線」という背後の重圧を抜きにしては考え難い。

ところが、この件を、そうした社会的-政治的背景には思いいたらず、一方では、大河内総長個人の「リーダーシップや決断力に乏し」い「パーソナリティ」に還元し、他方では、「文系で紛争が起こるとすれば文学部、理系では医学部」(の「権威主義」から) というふうに、問題を個別化局部化して (それだけ法学部の「城内リベラリズム」や「紛争収拾への貢献」を黙示-顕示して) 問題をはぐらかす(と筆者には思える)類型的所見が、当時からあったし、いまもって(リベラルで進歩的な政治学者と見られていた法学部教員で、「加藤執行部」の「特別輔佐」を務めた)坂本義和氏によって主張され、出回っている[30]

確かに、東大文学部でも同じ1967年の104日、やはり教員-学生間に「摩擦」事件が起き、これを理由に一学生が無期停学処分に付された。医学部処分の白紙撤回要求を引き継いだ「全学共闘会議」(以下、全共闘)は、この文処分も、本質的には医処分と同様、「国大協・自主規制路線」が、文学部教授会の「前近代的」体質(学生にたいする「身分」差別)を梃子に、学生運動への弾圧措置として発現し、学内に貫徹された一事例として捉えた。全共闘は、19687月の「代表者会議」で、同8月には安田講堂前広場の大衆集会で、「七項目要求」を確認し公表したが、そこには「文処分の白紙撤回」が一項目として登録された。

ところで、医処分の事実経過は、医処分を「相撲部屋と同じくらい古い」医学部特有の体質に帰して局部化する所見の無理を、上記 (§ 1.) のとおり明らかにしている。それでは、文処分はどうだったのか。これが、医処分とほぼ同時期に、いまひとつの学部で起きた学生処分であることは間違いない。しかし、双方を「古い権威主義の帰結」という先入観によって括るのではなく、むしろ並行現象として比較・分析してみると、事柄の本質がいっそうはっきり見えてくるのではないか。

そういうわけで、ここからは、文処分の事実関係を、少々細部に立ち入って分析していきたいと思う。しかし、そのまえに、この文処分という問題そのものが「東大紛争」全体の経過のなかで、どういう位置を占めていたのか、細部への導入もかねて、見定めておくとしよう。1122日記、つづく]

 

§8. 専門「部局」(制度) と「プロフェッショナリズム」(精神) との乖離

文処分は、医処分ほど瑕疵が目立つ拙速処分ではなかった。医学部の被処分者17名中、粒良君は、医学部講師の高橋晄正・原田憲一両氏による詳細・周到な現地調査によって、久留米滞在のアリバイが証明され、冤罪が明白となり、これが医処分全体への疑義を広汎にわたって呼び起こした。ところが、文処分は、学生Nひとりにたいする処分で、文教授会は、「医処分とは異なり、N君を呼び出して『事情聴取』を実施したから、手続き上も、事実認定にも問題はない」と主張していた。

ここで、本題からはちょっと逸れるが、粒良君の足跡調査によるアリバイ証明が、そのように医学部の教員によってなされた事実の意義に触れておきたい。というのも、それがほとんど顧みられず、忘れられているからである。

大学における学生処分は、たとえそれが、手続き上また実質上、正当になされたとしても、「特別権力」の発動による本人への不利益処遇であることに変わりはない。「大学自治」「学部自治」というと「聞こえはよい」が、そこでは警察権・検察権・(予審)裁判権が、近代市民法による裁判とは異なり、理念上・制度上の権限分割 (専門分化) 相互掣肘の関係に置かれてはいないから、素人の学部教授会とりわけ学部長が「特別権力」を一手に握り、恣意的に行使する危険があることは否めない。とすれば、そういう微妙な問題に、大学内で真っ先に関心を寄せ、万一、被処分学生に不当・不法な不利益がおよび、人権侵害の疑いも否定しきれない、という事態が生じたならば、その件を率先して問題とし、事実関係を精査し、再検討する難題を、進んで引き受けるべきなのは、「組織」の理念本来の設置目的からすれば、どこよりもまず「法学部」を名乗る部局ではあるまいか。ところがこの場合、じっさいに粒良君の足跡調査を実施したのは、問題そのものにかけては素人の医学部教員であった。

高橋・原田両氏は、当初には医教授会に調査結果を報告して「善処」を要望しようとしたが、豊川執行部が、「教授会が一度決定したことに異論を唱えるとは何ごとか」「教授会への叛逆だ」といきり立つばかりで話にならないので、やむをえず調査結果を公表し、そこから波紋が広がった。ところが、そうなっても、法学部の教員は誰ひとり、高橋・原田報告の追跡調査に乗り出そうとはしなかったし、医教授会側の所見と比較・照合し、高橋・原田報告の真偽を再検証して所見を発表しようともしなかった。

そのうえ、1968624日、豊川医学部長は、新聞記者との会見で、明らかに粒良処分を念頭におき、「『疑わしきは罰せず』とは『英国法の常識』で、わが東大医学部はそんな法理には支配されん」(趣旨)と豪語した。この報道に接して驚いた荒瀬豊氏 (当時、新聞研究所助教授) は、『東大新聞』に投稿して抗議し、そのさい、「自分は必ずしもこの問題にかんする専門家ではないので、法学部の先生方には、ぜひ専門家として発言していただきたい」と要望した。ところが、法学部教員は誰ひとり、発言しようとはしなかった。

「学問は何のためにあるか」「プロフェッショナルはいかなる使命に生きるべきか」という岡崎君の問いは、当時もそのように、東大現場で問われていたのである。「制度」の柵をこえて理非曲直を求め、「プロフェッショナル」の「精神」に生きようとする先達は、医学部にも新聞研究所にも、確かにいたのだ。

 

§9. 文処分にかんする「便乗」疑惑と事実関係の学生側主張

さて、本題に戻ると、文処分問題は、医処分紛争の全学化以降、医処分より遅れて争点として浮上し、上記のとおり19687月、全共闘の代表者会議で「七項目要求」の一項目に加えられ、同8月に大衆的に確認され、公表された。そういう経緯から、教員および学生一般の間には、当時から、「文処分は、医処分に『便乗』して『七項目要求』に『持ち込まれた』のではないか」という疑念があり、尾を引いていた。

しかし、そうした疑惑は当然、処分の理由とされた「摩擦」事件の事実関係に遡って検証され、「便乗」かどうか、確認され、論証されなければならない。そこで、「摩擦」事件の事実関係にかんする、まずは学生側の主張内容を確認し、追って教授会側の主張内容と照合して、真相を究明していくとしよう。

東大全共闘が1968815日付けで発表した文書『東大闘争勝利のために』には、こう記されている。

「文学部教授会は、……『教授会決定を認めぬ限り、いかなる話し合いもあり得ぬ』という立場を固持し、昨年 1967年]104日に開かれた定例文協においても、『オブザーバー排除』という『決定』を認めぬ限り、文協の閉鎖もやむを得ないという『最終方針』を明らかにし、学生側と並行線を辿ったまま、退場戦術を強行せんとした。その際、学生は、[学友会]執行部を中心として、日程をあらためてのオブザーバー問題での交渉の継続を要求して会議室の入口に全員むらがったが、教授会側は交渉の継続要求を拒否し、退場を強行し、その際、教授会側委員のうちT教官は、入口に立っていた学友の内、N君に手をかけ、自分と一緒に外へ引きずり出すといった暴挙をもおこなったのである。N君は当然にもこうした退場が全く不当なものであることに抗議すると共に、特にT教官が個人的に加えた暴力的行為に対する自己批判を要求した。しかし、学部側はこれにいっさい応えずに退場していったのである」

多少解説を加えると、「文協」とは、「文学部協議会」の略である。これは、敗戦後いつのころからか開設され、文学部の教授会、助手会(以文会)、学生自治会(学友会)の三者を代表する委員によって構成され、文学部の運営全般とくに学生生活に関係の深い諸問題について協議する機関であった。協議機関とはいえ、こういう「話し合い」の慣行が確立していたこと自体、文学部が(たとえば法学部に比べて)特別に「権威主義」的でも「官僚主義」的でもなかった事実の証左であろう。

ところが、1967年には、新設された「学生ホール」の管理をめぐって、教授会と学友会との間に対立が生じ、文協の会場に、学友会委員以外の文学部学生も入室して、傍聴するようになった。教授会は当初、この「オブザーバー」も、(学友会委員と「ホールを利用する学生団体」との間に意見のくい違いや対立があって、「利用諸団体」の関心と意向が、必ずしも学友会委員によっては代表されていない、という事情も汲み)「利用団体」の代表者と解釈して、認めていたようである。ところが、524日の教授会は、(おそらくは、「学生との協議は、正式の代表にかぎれ」という、「大衆団交」化をおそれる「国大協」方針の下達にしたがい)「オブザーバーの排除」を一方的に決めてしまった。そのため、双方の対立が夏を越し、920日には、教授会委員が、「オブザーバーがいる」との理由で、文協の会場から一方的に総退場している。

つぎに辛うじて開かれた定例文協が、問題の104日である。当日、教授会の前に開かれた文協の閉会直後、教官委員の助教授T氏と学生N君との間に (医学部の「春見事件」の場合と同じく)「摩擦」が起き、N君が「教官への非礼」を理由に、無期停学処分に付され、文協もそれ以後、事実上閉鎖された。

問題は、この場合も、医学部の「春見事件」と同じく、「摩擦」の実態にある。これについて学生側は、上記のとおり、教官側が退場するさい、T教官は「N君に手をかけ、自分と一緒に外へ引きずり出すといった暴挙をもおこなった」と主張していた。ただ、学生側の文書には、(「一般経験則」として) 自分たちに好都合な誇張がしばしば見られるから、それが「暴挙」であったかどうか、そうとすれば、どの程度の、どんな「暴挙」であったのか、については疑いを差し挟む余地があり、他方の主張内容と照合して慎重に検証されなければならない。ただし、N君は、T教官の退場そのものにも「抗議」はしたが、それとともに「特にT教官が個人的に加えた暴力的行為に対する自己批判を要求した」と主張し、どちらかといえば、後者に力点を置いている。学生側のこの主張は、N君の行為の具体的態様は捨象しているとしても、それがじっさいには (少なくとも勝義には)  T教官の「先手」にたいする「後手」の「自己批判要求」であったのに、それを「退場阻止一般に抽象化し、「教官の先手はそもそも論外として、学生の後手だけを問い、もっぱらその態様を理由に学生を処分するのは、不公正な『身分差別』である」という主張とも解釈はできる。しかしここでは、この点について性急に結論をくだすことは避け、学生側文書からの問題提起と受け止め、むしろこれにたいする教授会側および11月に登場して、翌196911819日には機動隊を導入する)「加藤執行部」の、その後の応答と反論に注目していくとしよう。

 

§10. 処分解除――既成事実化して「火種」を抹消

ところが、文教授会は、夏休み明け直前の94日、「手続きにも事実認定にも問題はない」という主張とは裏腹に、当の処分を急遽、解除してしまった。「解除」というと、「解決」とも早合点されて「聞こえはよい」が、じっさいには、処分の事実が学籍簿に正式に記録され、処分が完了-完成し、動かし難い既成事実となる。したがって、解除の条件をみたさない性急な「解除」は、むしろ処分の既成事実化によって政治的な「火種」を政治的に「抹消」しようとする政治「工作」とも解されよう。

そのさい、文学部長が解除案を学部長会議に提出したところ、「本人が知らないうちに解除されていた、というのでは、いかにも唐突で、かえって『誤解』を招く」(趣旨)という異論が出て、医処分案の場合と同様、いったんは文学部教授会に「差し戻され」た[31]。そこで、N君の指導教員の哲学教授・岩崎武雄氏が92日にN君を呼び出して面会したところ、「本人は『背景を考えなければ無意味』といって自己の非を認めてはいない」が、それは「組織の中で活動している者としての図式的な答えのように思え」、「話し合いの態度は静かで、……言外に反省の様子が窺え、……停学解除の件を持ち出しても反発する風もなく、勉学意欲は失っていないようであった」という[32]。この報告を受けて、学部長会議と評議会は、翌々4日、文学部の再提案を承認し、処分解除を決定した。

ところが、当時の「教育的処分」制度によれば、処分の解除には、①処分期間中の謹慎、②改悛、③復学への意思表示、という三条件がみたされなければならなかった。「停学」がことごとく「無期停学」と決められていたのも、「応報刑」ではなく「教育刑」としては一理あることで、これら三条件がいつ充足され、「教育」がまっとうされるかは、事柄の性質上、あらかじめ期限を切って予定することはできないからである。ところが、文教授会は、N君が、①謹慎どころか、処分期間中の625日には登校して、学生大会の議長となり、ストライキを決議している(紛れもなく「矢内原三原則」に違反して、追加処分の対象とされなければならなかった)にもかかわらず、逆に処分を解除しようとし、残る二条件(②と③)については、上記のとおり岩崎氏の主観的印象をN君の内面に押し込んで要件事実に仕立てている。しかも、文教授会は、(「教育刑」から「応報刑」への制度改正の議論と手続きを経ない)「上からの顚覆ないし革命」ともいうべき、この場当たり的な恣意強行を、「もっぱら『教育的見地』にもとづく措置で、『教育の府』では『教育的配慮』が『たんなる規則の遵守』に優先する」とまで強弁した。

ところが、そのようにどれほど無理を犯しても、ひとたび「解除」が決定されてしまうと、当の既成事実を問い返すことは、それだけ困難になる。「『済んだ』ことを、なんで『蒸し返す』のか」という反感が生まれ、広汎に浸透するからである。学内大衆のこの直接的心理反応が、文処分について反問し議論すること自体を、(おそらくは文教授会の狙いどおり)著しく困難にし、真相の究明とそれにもとづく理性的な解決には有害な政治的機能をはたしたことは否めない。

 

§11. 事実関係にかんする教授会情報の一方的散布

さて、夏休みが明け、学内の議論が沸騰して、「七項目要求」中の文処分という「火種が再燃する」兆しを見せると、文教授会は1028日、「文学部の学生処分について」と題する文書を、当時発行された「東大・弘報委員会」の『資料』第3号に発表した。そこにはこうある。

「事件の発生した昨年の104日には最初、正規の委員のみによる文協が開催されていたが、途中より多数の学生が『オブザーバー』と称し教授会側委員の意向を無視して入室し、静穏な協議が行われ難い情況となり、又、教授会もすでに開始されていたので、議長 (文協の議長は三者が交代であたることになっている。当日の議長は以文会側の委員であった) は教授会側の要求により閉会を宣した。そして教授会側委員がすでに開催中の教授会に出席するため退席しようとしたところ、一学生が、退席する一教官のネクタイをつかみ、罵詈雑言をあびせるという非礼な行為を行った。教授会はこの行為の動機に悪意はないと判断し、文協委員長その他の教官を通じ、本人に私的な陳謝を再三うながしたが、本人は説得に応ぜず、遂に処分のやむなきにいたった」

これは、文教授会が、1967年「104日事件」発生から一年後1968617日の第一次機動隊導入から数えても四カ月後に、初めて、全学に向けて正式に発表した、(医教授会の「医学部の異常事態について」に相当する) 釈明文書である。しかし、その文面内容は、事前の8月には発表されていた全共闘側の要求に答えていないばかりか、じつは、全共闘側の主張内容と噛み合う反論の体もなしていない。というのも、全共闘側は、上記のとおり「特にT教官が個人的に加えた暴力的行為に対する自己批判を要求した」と主張し、これに力点を置いていたのに、文教授会の文書は、「そうではない」という反論・反証をもって応えるのではなく、ただ「退席する一教官への非礼な行為」という当初からの主張をそのまま一方的に繰り返すばかりだからである。

なるほど、この文書を最初に一読した大多数の人々、とりわけ (文教授会側からの一方的な情報しか受け取っていなかった) 圧倒的多数の他学部教員は、「あァ、医学部につづいて文学部でも、『学生が騒いで、無理難題を吹っ掛けている』のか」くらいに受け止め、その内容を、学生側の主張内容と逐一比較・対照して、「104日事件」における双方の行為連関事実問題として問い、理非曲直を究明しようとはしなかったであろう。ところが、そうであればあるほど、N君初め文学部学生側は、「自分たちの主張内容は無視され、それには噛み合わない情報ばかりを、相手方が『中立を装いながら一方的に流し、学内多数派の支持を取り付け、自分たちを孤立に追い込み、そのようにして相手方の意思と決定を押し通し、事態を理非曲直でなく政治的に乗り切ろうとしている」と受け止め、それだけ反感をつのらせるほかはなかろう。

 

§12.「民主制」の問題傾向と「プロフェッショナル」の使命

じつはここに、「民主制一般の問題傾向が、一端を顕している。つまり、当面の具体的問題をめぐって、当事者間で議論を詰め、理非曲直によって解決を見出そうとするのではなく、権力を握る側が、当事者・第三者からなる外側に向けて決定権者の範囲を拡大していき、そういう多数派の支持を、場合によっては利益誘導や感情操作によって取り付け、いちはやく多数決に持ち込んで、「民主主義」を装いながら、自分たちの特殊利害や既得権益に適う「決定」を押しつけ、押し通そうとする傾向である。周知のとおり、(196869年全国学園闘争の直後から、「水俣病」を契機に、全社会的に問われるようになった) 公害問題においても、つねにこのやり方で、現地住民の直接当事者・害者には不利な決定が「上から」押しつけられ、同心円の広-狭域間に、差別が持ち込まれ、構造化される。

とはいえ、筆者はもとより、「民主制」一般を否定する者ではない。むしろ、「民主制」がそうした問題傾向を帯びる現実を、冷静に見据え、鋭く剔抉して、多数派工作者が、どれほどもっともらしい主張を繰り広げても、(医学部の高橋・原田両氏のように) 議論を理非曲直の軌道に戻し少数直接当事者の窮境に焦点を合わせ、その権利を擁護して、理にかなう解決を目指すこと、少なくともそのために論陣を張ることが、「根底からの民主化」を「使命」とする「プロフェッショナル」には、まさに堅持すべき「使命」として要請されると思うのである。

となると、一口に「プロフェッショナル」といっても、「専門家」群の単純単質の塊を指すのではなく、こうした微妙な問題にどう具体的に対決するかに応じて、他極にある「保身-出世第一主義者」(いうなれば「似而非プロフェッショナル」「御用学者」) との間に、スペクトル状の分布があり、これが現実にはつねに流動的に再生産されている、という事態が目に入ってこよう。

ここで、岡崎君が、「プロフェッショナルとは、自らの使命を神に公言 (プロフェス) する人」と定義していることが、注目を引く。同君の考える「プロフェッショナル」とは、「専門家」一般ではなく、「神」との関係において、自分の「使命」を選び取り、公言し、そこから (「患者第一」というような) 原則を決め、これに反する状況では「流れに抗して」も生きられる個人を指していうのであろう。ここで「神」とは、筆者としては、必ずしも欧米の「ユダヤ・キリスト教的伝統」に沿って継承されてきた「現世超越的唯一神」のみではなく、たとえば過去の「戦争犠牲者の魂からの問いかけ」や、逆に将来、放射能禍や資源枯渇のため絶滅の危機に瀕する人類の後続世代による「先行世代の責任への問い」というような「超越者」「超越的契機」一般を指すものと解したい。筆者は、岡崎君の「プロフェッショナリズム」に賛同し、ただそれを、このように広く解釈すると同時に、現実の「スペクトル状分布」にも目配りしていきたい、と思うのである。

さて、話を1028日付け文書に戻すと、後半部で、「教授会は、[N君の] 動機に悪意はないと判断し、……教官を通じ、本人に私的な陳謝を再三うながしたが、本人は説得に応ぜず、遂に処分の止むなきにいたった」と明記している。とすると、ここからは、教授会の「事情聴取」が、じつは本人への一方的な陳謝請求説得工作」で(事実関係にかんする相手方の主張を聴いて、自分たちの確信をいったんは相対化し、事実関係を捉えなおす、という意味の)事情聴取」の体はなしていなかったのではないか、という疑問が、生じざるをえない。

そのさい、N君の「行為の動機 (「悪意はない」と、肯定的にせよ、ともかくも) 言及するからには、N君の当の「動機づけ要因を、さらに立ち入って究明する必要があろう。そうすると、「行為連関の相手方についても、同じく動機問わざるをえなくなろう。というのも、(教授会側の主張をそのまま受け取れば、確かに学生一般の行為通則からは逸脱する)N君の「並外れて激しい」抗議ないし「自己批判要求」が、他の教官委員、とりわけ(危機に瀕していることは確かな文協の存続と、次回の日取り決定との鍵を握る委員長の玉城康四郎教授ではなく、よりによって平委員で唯一の助教授Tひとりに向けられ、集中しているのはなぜか、という疑問に逢着せざるをえず、この問いへの応答を避けて通るわけにはいかないからである。ところが、1028日付け文書には、N君との「摩擦」にいたるT教官側の行為とその動機には、「文協会場からの退席」という他の三教官委員と共通同一抽象的契機以外は、まったく言及されていない。これでは、当事者の文学部学生ばかりでなく、大学現場における一「行為連関」の真相を求める科学者も、納得させることはできない。

 

§13.「林文学部長軟禁事件」のコンテクストと意義

そういうわけで、「104日事件」の「行為連関事実については、196811411の「八日間団交」(世上は「林健太郎新文学部長軟禁事件」ないし「缶詰団交」) にいたるまで、文学部教授会と文学部学生とが、正式に対座し、議論を交わし、理非曲直を究明する機会は、皆無であった。学生側からは、相手方の「自己正当化」文書が、全学の弘報委員会『資料』に公表されて、少なくとも自分たち当事者の実感と主張からは懸け離れた所見が、学内「多数派」(他学部教員および学生一般) に広められ、先入観が誘発され、補強されていく事態に、不信と反感をつのらせ、相手方と直接対決して、理非曲直を明らかにする機会を、なんとしても持ちたいと、それだけ切望していたにちがいない。

ところで、11月に入ると、それまで文処分を論外として、いっさいの話し合いを拒んできた大河内執行部が退陣し、「加藤新執行部」が、こんどは「学生との話し合い」を旗印に掲げて登場した。ということは、当事者の文学部学生にとっては、前年の「104日事件」以来、初めて、文学部長をはじめとする文学部教員と、文学部内の教室で、文処分の事実関係に遡って「話し合い」、質疑応答によって議論を噛み合わせ、理非曲直を究明する機会の実現可能性が、やっと開けてきた、ということであろう。それが11411日の「八日間団交」だったのである。

ところが、マスコミが、それがどういう機会か、会場内で何が議論されているのか、といったコンテクストと内容にはおかまいなく、興味本位に、三島由紀夫氏による「ジョニー・ウォーカー黒、差し入れ」を書き立てたり、「ハップニング合宿」と揶揄したり、なんと学内からも、丸山眞男氏らが、(同じ本郷キャンパスの隣接の建物内にある「団交」会場まで、丸山氏の研究室からはほんの200メートルたらずなのに、みずから足を運んで、学生から直接事情を聴こうともせず[33]もっぱらマスコミの報道に頼り、「不当監禁」「林文学部長にたいする人権侵害」「大学を無法地帯とする暴挙」などと、マスコミ向けとしか思えない大仰な抽象的声明をもって呼応し、注目をさらった。この声明が、早くから態度表明を期待されていた丸山眞男氏の、初の公的発言であった。ところが、そういう「内外野スタンド」の喧騒にまみれて、「『104日事件』の事実関係につき、初めて立ち入って議論を尽くすべき機会」という「八日間団交」の内実と意義は、それだけ霞んで、見えなくなってしまった。

他方、その間、文学部の長老教授たちは、そこはやはり当事者として「危機感」をつのらせたにちがいなく、上野・池之端の「法華クラブ」に本部を構えて、(なぜか「摩擦」事件の教員当事者T助教授と、早くから処分に疑問を呈していた藤堂明保教授らは除外して)「密議」を凝らし、「団交」会場への出入りが自由だった文学部教員からの報告をもとに、「104日事件」現場の「再現」を企てたらしい。その「結論」を集約して、1968121日の午前、文学部教授会名の文書「N君の処分問題について」が発表(文学部事務室で配布)された。しかし、どこからか横槍が入ったらしく、午後には配布・公開が中止された。

しかし、(121日午前に運良く入手できた) その文書を読むと、「104日事件」当日の事実経過にかんする記述が、後段の§16 で検討するとおり微妙に変更されている。ともかくも文教授会が、事実関係について、多少は立ち入った釈明を企て、815日に発表されていた学生側の所見と比較・対照して、「104日事件」当日における双方の「行為連関」を再構成するのに足る手がかりだけは、遅きに失したとはいえ、ここに初めて、半日かぎりで、全学の学生・教職員のまえに示されたのである。

後段では、この手がかりから、当の「行為連関」を再構成し、文教授会の事実誤認と、これを鵜呑みにして再考さえ怠った、加藤執行部の失態と責任を明らかにしていくであろう。加藤一郎氏は、法学部の一教員で、この法学部とは、前述のとおり、学部の理念と本来の設置目的からすれば、「特別権力」の発動による当事者への不利益処遇の事実と当否に、真っ先に関心を寄せてしかるべき「専門」部局であった。ところが、加藤一郎氏は、不勉強で、みずから公言した「再検討」を怠っており、機動隊導入直前1969110日に「七学部 (当事者の医・薬・文、三学部を除く非当事者性の勝る七学部の学生) 代表団と「十項目確認書」を取り交わした時点でも、再導入にその「解説」を書いて公表した時点でも、「文協閉会後に退席しようとしたT教官を学生のN君が阻止しようとして、そのネクタイをつかみ、罵詈雑言をあびせた」と、1028日文書の所見をそのまま踏襲し、明記している[34]加藤執行部の特別輔佐を務めた(同じく法学部教員の)坂本義和氏も、後に、「学生ホール管理運営問題についての学生と教官の協議を打ち切ろうとした一教官のネクタイを、N君という学生がつかんだ」と回想-記述し、加藤氏の「文協閉会後」を「協議を打ち切ろうとした」時点に繰り上げて、わずかにくい違いを見せてはいるが、「T N行為連関」の正確な認識を欠いている点で、加藤氏とまったく変わりはない[35]。「七学部代表団」の学生たちも、加藤執行部の政治操作に乗せられたのか、むしろ好んで便乗したのか、「同心円の外縁に侍る当事・決定権者」群団に抱え込まれて、理非曲直と真相には目をつぶり、大学として致命的な事実誤認は不問に付した。

 

§14.「沈む泥船のファッシズム」

 他学部の教員はどうか、といえば、圧倒的多数は、「なにがなんでも、煩わされまい」という「研究至上主義」の「本能」と、「組織」維持を自己目的とする「没意味」的利害関心から、全経緯を、理非曲直ではなく、もっぱら勝敗という政治的範疇で捉えていた。「医処分で『負け』、こんどは文処分でも『負ける』のか」という「厭戦」気分、あるいは「このうえ『負けて』たまるか」という「敵愾心」を、つのらせるばかりだったのである。

教養学部の教官懇談会や教授会で、西村秀夫氏[36]と筆者は、「全共闘が加藤執行部による『話し合い』の呼びかけに、いまのところ応じようとしないのは、この点にかぎっては双方が一致して認めているとおり、文処分問題が未決着だからで、ついてはここで、当の文処分問題を、事実関係も含め、再検討しようではないか」と提唱した。すると、つねひごろは本郷の教員よりもリベラルとの印象を受けていた駒場の教員ではあるが、「なに? 文処分の事実関係? なんでそんなことを、いま教養学部で話題にしなければならないのか? もはやそんな段階ではない!!」とざわめき、感情的反発が勝って、とても議論にはならなかった。「そんなことをすれば、林文学部長の『頑張り』を『無』にしてしまうではないか?」「丸山教授らの声明を『反故』にする気か?」と口に出す人さえいた。

「あァ、これはもう沈む泥船のファッシズムだ」[37]という絶望感が、一瞬筆者の胸をよぎった。まともな科学者ならば、甲説 (教授会説) と乙説 (学生説) とが対立して、並行線をたどっているとき、双方の主張を、情報源に遡って(場合によっては「改竄」「歪曲」「誇張」「隠蔽」などの問題がないかどうか)検証したうえ、それぞれの内容を比較・対照し、どちらにがあるか、具体的に根拠を挙げて論証し、判定しようとするであろう。自分の専門領域における学問研究をとおして、そういう明晰と知的誠実のスタンスを身につけ、それが「エートス」とも化している「真正なプロフェッショナル」の科学者であるならば、自分個人にとっては専門外の問題についても、(高橋晄正・原田憲一両氏や荒瀬豊氏のように) おのずとそうした「エートス」に適うように思考し、みずからできるかぎり理非曲直を解き明かし、学内に議論を呼びかけ、「専門家」にも鑑定を乞うて、意見表明を求め、議論を重ねるはずではないか[38]。ところが、世上は「科学者」「知識人」と見なされ、「理性的に振る舞う」と思い込まれている東大教員が、ことほどさように状況に翻弄され、直近の現場に足を運んで事実を確認しようともせず、「医・文教授会→(議事録も公開されない、密室の)学部長会議・評議会→自分の所属する教授会への学部長報告」という一方的ルートの「天下り」情報と、マスコミの報道と(普段は批判的に見下している)論調とを、ほとんど「鵜呑み」にし、その時々の状況における派生的な出来事 (林健太郎氏の「頑張り」や、丸山眞男氏らのマスコミ向け発言) に引っ掛かっては、自分個人としての原因究明は怠り、事柄の本質を見失って「浮足立つ」のである。

「戦後民主主義」の最良のオピニオン・リーダーとして尊敬を集めていた丸山氏にして「このとおり」とすれば、「ましてやその他大勢においてをや!!」。筆者が、丸山氏について、「これでは、戦争前夜と戦中には、一言も『戦争反対』といえなかったわけだ」と直言すると、氏の弟子筋らしいある進歩派の教育学者が、「そりゃー、国家権力が総力を挙げて弾圧してきて、気楽にものがいえる時代ではなかったのだ」と凄んだ。「それはそうでしょう。それならあなたもいま『気楽に』発言なさったらいかがですか」と問い返すと、黙ってしまった。かれが、個人としての (つまり、「党派」「組織」の役割分担・承認・後援は想定し難い) 発言を、あえて状況に投企するのを、見聞した験しがない[39]

 

§15.「なにがなんでも収拾へ」の動きと「黄色ゲバルト部隊」の導入

そういうわけで、学内一般の政治気流は、この「八日間団交」を境に、文処分の撤回 (つまりは「政治的敗北」) 反対、というよりも文処分問題そのものの抹殺という方向に、急速に傾き始めた。そこに、出所は不明であるが、「全共闘は、『七項目要求』が『ほとんどすべて呑まれてしまった』ので、こんどは『呑み方がわるい』と言い出し、闘争そのものに固執している。これでは、いつまで経っても終わらない」という (双方の主張内容を比較・対照して、ほんとうに「呑まれた」のかどうか、自分で検証しようとはせず、「もうこのへんで、なんとか終わってほしい」という「同心円の外縁に侍る形式的決定権者」大衆の「非当事者・第三者」的「収拾願望」には応える) 巧妙なデマが流れ始めた。これと「入試中止」「東大閉鎖」のキャンペーンをきっかけに、それまでキャンパス内の議論には加わろうとせず、「ネトライキ」を決め込んでいた「一般学生」大衆が、「なにがなんでも『スト解除』『授業再開』(その延長線上の『卒業証書取得』)」という (「保身-出世第一主義者」としては切実な) 利害関心に駆られて、徐々に蠢き始め、「『みんな』で渡れば怖くない」とばかり、「徒党を組み」始めた。

そこに、1112土曜日の夜半 (つまり、翌日曜日の新聞朝刊を編集する締め切り時刻を過ぎ、報道記事が翌々月曜日の朝刊までは載らず、見送られる公算も高い、ちょうどその頃合いを見計らってか)短い樫の棒を携え、黄色いヘルメットを着用した、明らかに訓練の行き届いた「ゲバルト部隊」が、本郷キャンパス中央図書館前に導入された。最前列には、(にわかにかき集められたにちがいない) 素人学生群を配置し、全共闘の (にわかに買い集められたにちがいない) ゲバ棒を持つ集団と対峙し、正面衝突した。武闘の勝敗は明らかであった。長ゲバ棒の第一撃が、最前列の素人学生群を襲っても、すかさず背後の武闘専門家が前面に躍り出てきて、長ゲバ棒の第二撃以前に、数秒間滅多打ちにし、長ゲバ棒の「烏合の衆」を追い散らした。流血の惨事であった。

社会科学研究所の藤田若雄氏、石田雄氏、農学部の原島圭二氏、西村秀夫氏、文学部学生の加納(旧姓木下)孝代さん (石田氏以外は、無教会のキリスト者) らと筆者は、翌日の夜から度々、「流血回避・非暴力連帯」のたすきをかけて、本郷キャンパス内の衝突が予想される要所に立ち、あるいは座り込んだ。怪我人が増え、重傷者も出た。そういう丸腰の人垣で衝突を避ける努力はつづけるとしても、それには限度があり、死者も出かねない。「こういう状況では、警察力の導入もやむをえない」と思った。藤田、石田、西村氏らも、同意見であった。

しかし、事態がここまで険悪になっても、加藤執行部は、文処分を再検討して「話し合い」による解決を一歩前に進めようとはしなかった。「もはやそんな段階ではない!!」「『暴力』に押されて『理非を曲げる』のか」「『毅然たる』態度をとれ」という抽象的な政治的感情的非難のほうをおそれたのであろう。丸山氏らの声明以後、そういう政治気流が、意図された目的かどうかはともかく、にわかに強まり、学内にみなぎったことは確かである。それにたいして、わたしたちは、「理非を曲げる」どころか、「当の理非事実に即して再検討せよ、そうすることこそ、『暴力』を止める本道」と主張し、それぞれ単独者としての決意にもとづいて、身を挺して発言し、勧告していたにすぎない。

ちなみに、丸山眞男氏は、このときも現場には姿を現さなかった。その後、法学部図書館内の「明治文庫」には泊まり込んで「文化財は擁護」し、これを大義名分として加藤総長代行に機動隊導入を要請したという。丸山氏には、突き詰めれば「人命」よりも「文化」とりわけ「学問」という「形式」のほうが大切だったのであろう。後に「人生は形式です」と「凛然と言い放った」[40]そうである(事後に「人生はそして文化は形式です」と訂正したという)

いずれにせよ、加藤一郎総長代行も坂本義和特別輔佐も、文処分問題を、原則論的に、内容に即して再検討しようとはせず、そのために生じ、嵩じ、険悪となっている衝突に、状況論的場当たり的に対応するのみであった。それでいて、「衝突-流血回避」を、機動隊再導入の名分には謳った。

じつは、1967104日に始まる文処分の事実関係を、「科学者」として誇り高い東大教員が、「加藤執行部」の構成員はじめ、科学者として当然の手続きにしたがい、相対立する双方の主張を、情報源の検証から始めて、相互に比較・対照し、問題の発端に遡って、原因を「価値自由」[41]に究明し、文教授会の事実認識を追跡し、論証し、事実誤認があって冤罪と分かれば、当然ながら白紙撤回を求め、責任者が責任をとっていたとしたら、つまり東大が、一年余の間に、「学問の府」「理性の府」として「あたりまえのこと」をしていさえすれば、その後の経過はまったく異なり196911819日の機動隊導入も、入試中止も、なされずに済んだ公算が高い。

では、どうして、そんなことがいえるのか。「済んだこと」について「もしも別様だったら」と問うこと (historical if) 自体、「ナンセンス」と主張する向きもあろう。しかし、そういう「素朴実証主義」は、既成事実を正当化して、歴史から学ぶ道を閉ざし、同じ類型の過ちにたいしてそれだけ無防備な「居直り」を補強するばかりではないか[42]。とまれ、抽象論はさておき、文処分の具体的事実に戻ろう。 [122日記、つづく]

 

§16. 真相究明の手がかり――「半日公開文書」の記述変更と沈黙

 文教授会による121日半日公開文書「N君の処分問題について」は、「104日事件」における教授会側委員の一斉退席までは、従来と変わりのない所見を述べている。しかし、T教官の退席とN君の行為との関連にかんする記述が、つぎのとおりに変更された。この変更は、理非曲直と真相の究明に向けての一歩という観点から見れば、「八日間団交」の成果というほかはない。

「教授会側委員は教授会出席のため、一斉に退出しようとした。そのとき議場入口付近にいた『オブザーバー』学生はこの退席を阻止しようとして入口の扉付近に集まったが、教授会側委員は、築島助教授、関野教授、玉城教授、登張教授の順で、学生たちをかきわけて扉外に出ようとした。このとき一学生が、すでに扉外に出ていた築島助教授のネクタイをつかみ、大声を発して罵詈雑言をあびせるという行為に出た」。

変更はごくわずかで、注意して読まないと、見逃されかねない。しかし、築島助教授が先頭に立って「扉外に出ようとした」時点と、N君が「すでに扉外に出ていた」築島助教授の「ネクタイをつかむ」時点との間に何が起きたのか、については沈黙している。一見些細なこの隙間が、注目を引く。ちなみに、医処分にかんする医教授会の文書も、「春見事件」の事実関係について、「上田病院長は、一時は路傍の植え込みの中に押し込まれる形にもなったが、通報によってかけつけた上田内科春見医局長他数名の医師に守られて、内科病室内一階廊下に達することができた」、そのさい「春見医局長は、学生らの集団に取り囲まれた上田教授に近づくにあたって暴力を用いたと非難されることをおそれ、腕組みをして近づくだけの配慮をしていたし、数名の医師もこの情況を目撃している」[43]と主張した。これも、漫然と読んだのでは看過されかねないが、春見氏が「学生の囲み」に「腕組みをして近づく」時点と、上田氏がその春見氏「他数名の医師に守られて、内科病室内一階廊下」に向け移動を開始する時点との間に何が起きたのか、別言すれば、上田氏がどのように「学生の囲み」から脱したのか、については沈黙を守っている。こうした類型的沈黙の背後に、いったいどんな事実が潜んでいたのか[44]

 

§17.活かすべき先人の技法――マンハイムの知識社会学とヴェーバーの因果帰属論

ところで、筆者がかつて院生として「196263年大管法」反対運動の渦中で読んだカール・マンハイムの「知識社会学」的著作は、ある言語形象 (言表なり文書なり) の「イデオロギー性」ないし「存在被拘束性」を具体的に検出し、究明しようとするさいには、「何が語られているか」よりもむしろ「何が語られていないか」に注目せよ、と示唆している。意図して人を欺く単純素朴な「嘘」(「部分的イデオロギー」) ではなく、無意識裡にも (ことによると「主観的には善意をもって」) 犯され、結果としてはいっそう深刻に人を欺く、いうなれば「思考範疇として常習化」し、ある意味で「体系化」された歪曲 (「全体的イデオロギー」) は、肝要な点にかんする端的な沈黙や、抽象化による焦点ぼかし」「はぐらかし」に「氷山の一角」を顕す、というのである。

他方、マックス・ヴェーバーは、歴史上のある事件について、「素朴実証主義」的な記述の域を越え、「因果的意義の究明にまで進むには、当の事件にかんする「史実 () 的知識ontologisches Wissenだけでは足りず、「所与の (類型的) 状況に、人間は通例どう (類型的に) 反応するか」にかかわる「法則 () 的知識nomologisches Wissen(「一般経験則」「日常経験知」「通俗心理学的知見」) を援用し、想像力をはたらかせて「史実 () 的知識」と関連づけてみなければならない、と説いた。かれは、「因果帰属」のさい、両知識をどう結合するかについて、方法論上の定式化と例解を企てた[45]あと、かれが蓄えていた厖大な「法則 () 的知識」(古今東西の歴史的諸事象から抽出した「一般経験則」) を、あくまで日常経験知に足場を置きながらも、いわば「その圏域内に入り込んでいる異邦の飛び地Enklave」として、かれの社会学」に統合・定式化し、類型論的・決疑論的に整備しておこうとした。そこに、かれの「社会学」が成立する[46]

とはいえ、そんな七面倒くさい方法や技法は知らなくとも、市民の健全な人間常識を発揮しさえすれば、東大医・文両教授会文書の沈黙・空白箇所の背後に、どんな「行為連関」が隠されているのか、など、いとも簡単に暴露し究明できる、と主張する向きもあろう。それがさほど簡単かどうかはともかく、筆者もまた、市民自身の常識発揮こそ望ましいと考え、むしろそのためにこそ、たとえばマンハイムやヴェーバーの方法や技法にかんする学知も活かそうと志す者である。それにもかかわらず、いまここでなぜ、かれらの所説を持ち出すのかといえば、それらは、いやしくも「社会科学のプロフェッショナル」であれば、丸山眞男氏はもとより、東大文学部で社会学を講じ、筆者も他ならぬマンハイムについて教わった高橋徹氏にも、学知としては周知の事柄だったはずである。後に文学部長となって衝に当たる歴史学者の堀米庸三氏も、ヴェーバーの「因果帰属」論には精通していたにちがいない。ところが、かれらは、自分の現場に起きた紛争の争点にかかわる、医・文教授会文書の沈黙・空白箇所を、問題とはせず、マンハイムやヴェーバーの(学知としては通じていて、講義や演習では申し分なく解説していたにちがいない)技法や方法を、じっさいに適用しようとはしなかった。それらを活用して文処分を検討しようとせず、「話し合い」による解決を遅らせ、そのかぎり (「黄色ゲバルト部隊」の導入による武力衝突・流血とあいまって) 機動隊導入に道を開いた、というほかはない。マンハイムをして端的に語らせれば、かれら「社会科学のプロフェッショナル」もまた、医・文教授会を捕らえて全学を欺いた「全体的イデオロギー」に「すっぽりと嵌まって」おり「同じ穴の狢」だった[47]ということになろう。

とすると、少なくともここには、「(マンハイムやヴェーバーにかんする) 学知・学問は何のためにあるのか」、「市民の健全な人間常識の補強補完として役立つためか、それとも逆に、『専門家』として人間常識から屹立し、『権威』をまとい、『学知の驕りacademic arrogance』にも囚われ、『組織』の自己維持-自己拡張に仕えるためか」、「学知十分にそなえていながら、いざ自分の現場・職場で去就が問われるや、あっさりと捨てて『全体的イデオロギー』に荷担する『プロフェッショナル』とは、はたして何者か、真正な『プロフェッショナル』といえるのか」、「では、『真正なプロフェッショナル』を『似而非プロフェッショナル』から分かつ一線は何か」、「どうすれば、『似而非プロフェッショナル』に通じる『保身-出世第一主義』の『流れ』に抗して、『真正なプロフェッショナル』のスタンスを獲得、堅持できるか」といった(岡崎君らによって、いままさに再提起されている)問題が、東大現場の「社会科学者」や「歴史家」に具体的に問われていたことになろう。

そして、筆者には、「196869年学園紛争-闘争」の機動隊による圧殺と旧秩序の回復以来、この問題が、いささかも解決されず、忘れられ、問い返されることなく、今日にいたっているように思われる。かつては教員を (「流れに棹さして」ではあれ、あれだけ厳しく) 追及した当事者の学生・院生OBOGも、その後、手の裏を返すように旧秩序に舞い戻り、その「存在被拘束性」をもろに身に受けて、それだけ批判性を失い、口を噤み、傍観して、問題の解決を遠退かせ、先送りしているように見受けられる。岡崎君らはいま、同じ問題を、データ改竄という学問研究の「末路」に直面して、ふたたび公然と採り上げ、回答を求めているのである。[1212日記、つづく]

 

§18.「T N行為連関」における「T先手」の「明証的」理解とその「経験的妥当」

さて、「104日事件」の事実関係に戻ると、N君がなぜまだ文協会場に残っている委員長の教授玉城康四郎氏をさしおいてすでに扉外に出てしまった平委員の助教授築島氏に、「ネクタイをつかみ、罵詈雑言をあびせる」並外れて異様な行為に出たのか、その動機が問題であった。「退席阻止」「退室阻止」としては異様に「激越」なうえ、阻止先の選択理由が、分からないのである。文教授会は、N君の行為の「並外れて激しい」態様を、動機からは切り離し、それだけを孤立させて取り出し、(当初には)「非礼な行為」、(後には)「暴力行為」と規定-断定して、「処分に値する」との価値判断を力説、強調するばかりであった[48]。なるほど、学生側が、(文教授会側が繰り返し明言して強調している) この態様にかぎっては反論せず、「自己批判要求」にやはり抽象化している事実から推して、教授会側の見紛い難い具体的陳述のとおり「ネクタイをつかみ、罵詈雑言をあびせる」行為であった公算が高い。そうであったとすれば、筆者もまた、そうした行為自体は、遺憾に思う。

とすると、当事者T個人が、そうした行為を受けて、直接的な心理的反応として怒るのには無理はなく、「陳謝請求」に短絡するのも、やや軽率とはいえ致し方ないといえよう。しかし、教授会が、この件を、報復ではない教育的処分の手続きに乗せる以上、そこでいったん立ち止まり、冷静さを取り戻す必要があったのではないか。当の行為を、教員にたいする学生の日常的通則的態度からの逸脱として捉え、それが異様であればあるほど、いったいなぜそれほど異様な逸脱が生じたのか、と動機を問い、当の具体的動機を突き止め、これにたいして「教育者として」「適切に」対処すべきではなかったか[49]。そうすることこそ、「教育的処分」の本旨ではないのか。

そこで、もっぱら築島助教授に向けられたN君の「異様な」「逸脱行動」について、ありうる動機を、まずは先験的に仮構し、網羅的に数え上げてみると、①N君がそもそも、「動機」を「理解」することも問うこともできない「異常な」挙動にしばしば出る、たとえば「統合失調症」を患っていた、②かねてからもっぱら築島助教授個人に「恨み」を抱いていたが、それを「この機に乗じて」晴らした、むしろ、③築島助教授のほうがN君に、もっぱら築島氏に跳ね返る必然性のある反応行為を動機づけた、ないしはそのきっかけを与えた、という三つの仮説が、定立可能であろう。ところが、仮説①は、そもそもN君が処分された、つまり「有責性」を認められた、という事実によって否定される。仮説は、1028日付けの文教授会文書が、「[N君の] 動機に悪意はないと判断し」た、と述べている事実から、まず否認されよう。とすると、残る仮説は、のみである。

では、いかなる「きっかけ」か。

まず、学生文協委員およびオブザーバーが、教授会委員の (少なくとも前回920日の) 一斉総退場以来、オブザーバー問題を理由とする文協閉鎖への危機感をつのらせていた、という事情を想起しなければならない。そこで、この「史実」に、「こういう類型的状況では、学生は通例、文協そのものの存続と次回の日取りにかんする確約をとりつけようとして、その鍵を握る委員長に向かって歩み寄る、あるいは殺到する」という「一般経験則」「法則(論)的知識」を関連づけてみると、N君が、まだ文協会場の中にいるか、あるいは退場の途上にある玉城委員長ではなく、すでに扉外に出てしまった平委員の築島助教授に、よりによって「並外れて激しい」行為を向けた「異様さ」が、それだけ浮き彫りにされ、その動機「解明」が、いよいよもって重要となろう。なるほど、築島助教授が扉外に出てしまったからこそ、会場に連れ戻そうとして「並外れて激しい」行為におよんだ、とも考えられはする。しかし、そうだとすると、「手をつかんで引き戻す」とか、「背後にまわって腰や背中を押す」とか、なにかそういう類の行為に出るはずで、ことさらネクタイをつかんで罵詈雑言をあびせる」というのは不自然である。

そこで、築島助教授の側に視線を転じ、想像力ないし「エンパシー」(マンハイム) をはたらかせて「本人の身になってみる」と、真っ先に学生の囲みを割って扉外に出たあと(すでに教授会が開始されている時刻というので) 教授会室に向かおうと思ったにはちがいない。しかし、そのまま振り返りもせず、一目散に立ち去ったとは考え難い。というのも、そこは「同僚の誼」(「恒常的動機」の「一般経験則」) で、後にとり残されている同僚の委員を気遣い、後ろを振り返って見たにちがいないからである。すると、「入口の扉付近に集まった」[50]オブザーバー学生が、文協の存続と次回の日取りにかんする確約をとりつけようと、後につづく同僚委員とりわけ委員長に歩み寄る、あるいは殺到する様子が、目に映ったはずである。そこで咄嗟に、あるいは(ことによると)「一斉総退場の第二回目決行」という同僚間の「申し合わせ」を思い出し[51]、「手を拱いて見守る」のではなく、同僚の退室空間を確保ないし拡大するために最後列にいる最寄りの学生を (N君とは知らず) 制止しようと、手ないし着衣を抑えたとしても不思議はない。

築島助教授のこの行為について、学生側は、前記のとおり、「T教官は、入口に立っていた学友の内、N君に手をかけ自分と一緒に外へ引きずり出すといった暴挙をもおこなった」と主張している。そうした態様は、常日頃は温厚な教員一般の恒常的習癖 (「一般経験則」) には反するので、この点は、学生の文書にありがちな「好都合な誇張」と疑う余地があった。しかし、それにたいするN君側の反応が、これまた「学生一般の日常経験則」には反する「並外れて激しい」行為であったからには、そうした反応を誘い出した築島助教授側の行為も、同じく「教員一般の日常的経験則」には反する「並外れた激しさ」をそなえていた、と考えることはできる。双方を「人間として対等」と見なし、日常的、その意味で例外的な「摩擦」状況に置いてみれば、むしろそう仮定すべきかもしれない。教授会側の文書に、この仮定への言及がないのは、当の文書に表明された思考そのものが、「学生と教員」という「身分」の対称性に思い至らず、学生側の行為態様だけを取り出して他をすべて捨象する「遠近法的視座」を素朴に前提として疑わないかぎり、それだけ「身分」による「存在被拘束性」を帯び、まさにそうした「全体的イデオロギー」の一環をなしている事実を、それだけ鮮かに表明しているともいえよう。

いずれにせよ、態様はどうあれ、築島助教授が先にN君の身体ないし着衣への物理的接触におよんだことは、まずまちがいない。そして、そうだとすれば、この「行為連関」の他方の当事者N君は、(ともかくもまだ扉外に出ずにいる、反対方向の) 委員長に「気を奪われ」、そちらに歩み寄ろう、あるいは突進しようとして、思いがけず逆方向から (少なくとも) 接触制止されたわけで、その手応えはそれだけ大きく感じられたにちがいない。とすると、「自分と一緒に外へ引きずり出すといった暴挙」という学生側の記述も、あながち「誇張」一点張りとはいいきれない。かりにそうした動機がなくN君の行為が、文教授会と加藤執行部が後々まで固執したように「退席阻止」一般であったとすれば、それがなぜ、扉外に出てしまった平委員の築島助教授ひとりに並外れて激しく」向けられなければならなかったのか、「理解」できず、「説明」できないのである。[1217日記、つづく]

 

§19.残された詰め――本人の証言による「T先手」仮説の検証

さて、筆者は、文教授会「121日半日公開文書の内容を、発表直後から学生側の文書内容と比較・照合し、上記の「理解社会学」的「解明」を経て、つぎの命題には、さほどの遅滞なく到達した。すなわち、「築島氏がN君に(いかなる態様であれ、ともかくも)先手を掛け」、これに「N君が後手で抗議した」という認識命題である。そして、この行為連関について、「築島氏側の先手が、かりになかったとすればN君が、他の教官委員とりわけ委員長の玉城氏をさしおいて、すでに扉外に出てしまった平委員の築島氏に、もっぱら行為を向けて『並外れて激しく』抗議することが、「客観的に可能」とは考えられず、その公算は低い。しかし、それにもかかわらず、じっさいには「並外れて激しい抗議」がなされ、先験的には想定可能な他の動機 (上記①) はいずれも棄却されるので、築島氏の先手が「じっさいにあって現実に作用した」結果、N君の後手抗議が生じた、と考えるほかはない。このようにして、「築島先手-N君後手」という「因果連関」の「明証性」も、(明証性とは区別される)「経験的妥当性empirische Gültigkeit」も、相当程度の公算をもって立証されたわけである[52]

そこで当然、この所見を「東大紛争」の現実の状況に実践的に投企し、文処分の白紙撤回、少なくともその根本的再検討に向けて、事態の打開をはかることが、考えられようし、じっさいに考えられた。というよりも、そうすることが、上記のような「理解社会学」的動機解明と因果帰属に取り組む前提であり、目的であった。ところが、筆者には、ひとつには原則論的、いまひとつには状況論的な躊躇があって、論証結果の公表実践的態度表明には踏み切れず、無為に時を過ごして、19686911819日の機動隊導入を迎えてしまった。

原則論的な躊躇とは、ひとつには「文化科学」(「理解科学」を個性的連関の因果帰属に適用する「現実科学」ないし「歴史科学」と、同じく「理解科学」を反復的生起に適用して一般経験則を抽出する「法則科学」)の方法論上の要請から、いまひとつは「近代市民法にもとづく裁判の審理手続き」を想定するところから、生まれるものであった。筆者は確かに、争点の文処分問題について極力「文化科学のプロフェッショナル」として対応し、教授会側の所見 (甲説) と学生側のそれ (乙説) とが相容れずに対立している状況で、「教授会メンバー」の「存在被拘束性」に翻弄されるままに、甲説を受け入れて荷担する、というのではなく、さりとて、正反対に、乙説を(かえって「過同調overconformity」気味に)擁護する、というのでもなく、双方の狭間に立つ「境界人 (マージナル・マン)」の「立ち位置」を選び、双方に「距離を取り」、双方の主張の「存在被拘束」的「誇張」「抽象化」「沈黙」「隠蔽」を見破って補正したうえ、相対立する所見内容を「価値自由」に比較・対照し、理非曲直を解き明かし、真相に迫っていこうとした。そうするうえで、先人マックス・ヴェーバーやカール・マンハイムが、かれら自身の実践のなかから紡ぎ出した方法や技法が、筆者自身の実践を孕む真相究明にも、おおいに役立ったことは、上述のとおりである。

ところが、文処分問題へのこの適用例を、さらに自己批判的に再検討すると、筆者はなるほど、双方の文書に表明されたかぎりの、「事実」にかんする主張内容は、十分に尊重し、半ば無意識裡に隠蔽されていたと思われる「事実」も含めて「解明」につとめ、双方の「恒常的(ないし類型的)習癖」にかんする「一般経験則」も援用して、「T N行為連関」の「明証的」かつ「経験的に妥当な」「説明」にまでは首尾よく到達した。しかし、「客観的可能性」の範疇による推認命題は、事実上の生起にたいしては、やはり仮説の域を出ず、この仮説を、さらに史実 () 的知識に照らして再検証する余地が残されている。少なくとも科学者としては、それまでに到達した知の限界をわきまえずに、「完全知」「全体知」に絶対化する「科学迷信」に陥ってはならない。そこには、「すべては疑いうる」「もっともラディカルな懐疑が認識の父である」という学問の要請と、「疑う余地のない確信・自己確信」にしたがうかのように振る舞うのが有効という政治の要諦との、架橋し難い深淵がある。

とりわけ、「築島先手」という肝要な一点については、前後の状況証拠にもとづく推論を重ね、上記のとおり「現実になされた」と推認するほかはない、と考えるにしても、なお「史実(論)知識」による検証を詰め証拠を固める必要があった。当時は存命の築島氏本人に、「先手を掛けたのかどうか」と問い、氏自身の証言によって「半日公開文書」の最後の空隙を埋める段取りである。「紛争」の渦中とあって、大きな困難が予想されるとしても、絶対に不可能なことではない。

「文化科学」の方法論の問題に一般化していえば、狭義の歴史科学」においては、過去同時代者)の主人公について、行為の条件、経過、および結果の「観察」から「史実(論)的知識」を取得し、そこに「法則(論)的知識」を援用して、行為の「動機」を「明証的」に「解明」したうえ、「かりに当の動機がなかったとすれば」と仮構し (「実験科学」における「対照群」を構成してみ) て、「そこでは行為の経過がどうなったか」と問い、そのような「思考実験(他の諸条件を一定に制御する実験室的状況の設定は不可能な、「実験科学」としての「文化科学」に残された「因果帰属」の方法) にもとづく「客観的可能性判断として、当の「動機」の因果的意義をひとまずは確定することができる。しかし、その結論は、与件変更による解明」に向けて開かれており、とりわけ「理解科学」中、狭義の歴史学とは異なり、主人公が同時代者で、「史実(論)的知識」の補正補完が可能な社会学においては、そうした同時代者への調査研究が、インタヴューあるいは質問紙によっておこなわれ、その技法・方法論も開拓されている。

他方ではまた、かりにN君が、公の裁判所に、無期停学処分の不法・不当を訴え、身分保全の訴訟を提起して受理されていたとすれば、裁判官は必ず、築島氏を証人として喚問し、原告、被告双方の尋問、反対尋問、再主尋問にさらして、「先手」の有無と態様を究明するにちがいない。N君自身が訴訟を提起しなかったとしても、「かりにそうしていたとしたら、その場合には、どういうふうに審問が進められ、どんな結論がえられたであろうか」と問い、そうした経過を仮構して、現に進められた文教授会の手続き、事実認識、および結論と対比することはできるし、そうすることによって、N君にたいしても、築島氏にたいしても、いっそう公正を期することができるわけである。

さて、筆者も、「社会学的調査法」を修得し、「聴き取り (ヒアリング) の技法」を、「東大紛争」の現場にも適用し、双方の文献調査に加えて学生側からはしばしば「聴き取り」実施していた。ところが、肝心の教員側主人公・築島裕氏にたいしては、もとよりインタヴューを企画しはしたが、本人の忌避と文教授会のガードが固く、実現は難しかった。

仄聞するところ、築島氏は「104日事件」の「摩擦」の直後、教授会室に駆け込み、興奮した口調で「一部始終を告げ」、当該学生への処分を強く要請したという。文教授会が、この要請に応えて、というよりも引きずられて、N君を無期停学処分に付していた以上、築島氏が、当の処分の問題点について、みずから「口を割って」証言し、教授会とくに(当時の学部長・評議員ら)処分の責任者を「危険に曝し」「窮地に陥れ」かねないことは、「教授会への裏切り」とりわけ責任者を「二階に上げて梯子を外す」にひとしい仕儀と感得されて、忌避されたにちがいない。文教授会の長老たちも、「八日間団交」と並行して法華クラブで実施した「現場再現」に、肝心の築島氏を召喚せず、なにか「腫れ物に触る」かのように気遣う風情であった。築島氏を、教授会メンバーとしての「所属集団への忠誠」と、科学者としての「事実と理への忠誠」との板挟みの窮地に追い込み、前者から後者への急転を招くことを、内心おそれていたのではあるまいか。201519日記、つづく]

そういうわけで、筆者は、「築島先手」の推認には到達してからも、上記の原則的要請を受けて、自分の論証の、なおありうべき不備をわきまえ、少なくとも直接証言によって検証を詰める必要は自覚していたから、自分の仮説を添えて議論を呼びかけることはできても、「自説が正しい」と前提して文処分の白紙撤回を要求することには、なお逡巡を感じていた。教養学部の教授会や教官懇談会で西村秀夫氏とともに発言した趣旨も、文処分の再検討への呼びかけであって、文処分の白紙撤回を、教養学部教授会で決議し、学部長会議や評議会に提案すべしと、いきなり提唱したのではない。再検討への提案さえ受け入れられれば、なんらかの形で、築島喚問が実現され、最終的な詰めがなされると予想し、そのときには、その情報公開を求め、要所で発言を重ねていきたい、と考えていた。しかし、楽観的にすぎた。

相手方、まず文教授会は、「眦を決して」いた。「もはや、理非曲直や真相など、どうでもよい、なにがなんでもN処分の既成事実を固守する」という政治的態度決定に身を固め、再検討への呼びかけなど「歯牙にもかけなかった」。文教授会メンバーの有志40名は、1120日付けで、連判状をしたため、秘密裡に加藤総長代行に送っていた。後に明らかとなった[53]その内容は、「104日事件」の真相も、当時本郷キャンパスで頻発した「武力衝突による流血」も、「どこ吹く風」といわんばかりに、「収拾を急ぐあまり、いたずらに学生側の無法な要求に妥協することは、紛争の真の解決ではなく、新たな紛争の糸口になりかねない」との抽象的「ドミノ理論」を掲げ、「大学当局としては、譲りえない線を学生に明示し、それにたいして学生がいかに暴力的に反抗してきても、一歩も後退せぬ毅然とした態度をとれ」と叱咤激励するものであった。専門上の業績では著名な名誉教授たちも、これに呼応するかのように、背後で動き、「上から」極秘裡に、加藤執行部に圧力を加えたようである。120日記、つづく]

 

§20.「理性の府」神話の崩壊――「大学解体」と「自己否定」の登場

他方、1968年の12月ともなると、全共闘側も、当事者の「スト実」系文学部生を除き、ある意味で「浮足立って」きた。「東大解体」「大学解体」翻っては「自己否定」というスローガンが華々しく掲げられる一方、「七項目要求」中の一項目・文処分、しかもその発端となった一年前の「104日事件」の事実関係は、それだけ争点としては霞み、後景に退き、顧慮されなくなった。こうした状況で、筆者としては、1112日夜半以降、日々険悪化する武力衝突への臨機的対応に追われ、「ゲバ棒に代わる、事実と理による抜本的解決は、文処分の再検討を軌道に乗せる『話し合い』以外にはない」「全共闘の『話し合い拒否』は、加藤執行部の不勉強な『文処分再検討拒否』に起因する」と確信しながらも、双方をここまで隔ててきた状況の重さを思うと、原則論的な躊躇を抑えて、細々とした事実を採り上げ、「一年前の『104日事件』に遡って再検討しよう」と主唱し、議論を広げ、合意に到達するという、考えただけでも気が遠くなりそうな努力に着手する気力が、どうしても沸かなかった。

ところで、状況のこうした推移にはもとより、運動としての内的必然性はあった。「1967104日築島事件」「1968219日春見事件」の発生から一年余あるいは半年余と、年月が経過しても、被処分者の異議申し立てにまともに応答しようとしない当局。その当局を教授会メンバーとして支えていながら、肝要な争点については、一方の当事者である当該(医・文)教授会の主張をほとんど鵜呑みにしたうえ、陰に陽に荷担し、科学者として事件の発端に遡り、事実を掘り起こし、理非曲直を解き明かして、個人としての意見をもち、個人としての発言によって教授会を動かそうとはせず、そういう少なくとも半年余の思考停止を「組織の一員だから」と弁明し、なおかつ「大学は理性の府」と称し、責任を相手の「暴力」に転嫁して平然としている教員群。大学のこうした日常的現実は、「秩序」が安泰で、「正当性の神話が浸透しているかぎり、争点化されず、「目に見えない」。ところが、バリケート封鎖によって「日常性が堰止められ」、半年にもおよぶと、実態が時々刻々、白日のもとに曝されてくる。それにともなって、「こんな大学なら、いったん『解体』するしかない」という主張が生まれ、勢いをえた。「こうなった以上、一処分の事実関係は、大学総体のこうした実態が暴かれる契機として、すでに役割を終えた」のであり、「いまさらそんな『些細なこと』を議論しても始まらない」、「こうなれば、処分そのものの権限を握る教授会を『解体』するのみだ」というわけである。

さて、発端の「医学部紛争」から、1968617日の第一次機動隊導入による「紛争の全学化」以降、学生・院生たちの意識と問題設定が、どのような変遷を遂げたのか、というテーマについては、今後、まずは当事者の自己総括から始めて、おおいに議論され、慎重に検討-再検討されてしかるべきであろう。ただ、はっきりしているのは、「東大解体」から「大学解体」、翻って「自己否定」というスローガンが、なにかいきなり飛び出してきたのではないという事実である。東大紛争の渦中で、これに類する言表が初めて登場したのは、筆者の知るかぎり、1968年の夏休みが明けた9月、医学部の青空集会で、かの粒良邦彦君が、わが身に受けた冤罪とその事後処理の責任を、集会に出た当事者の教員たちに問い、かれらが質問を「はぐらかして」「のらりくらりと逃げる」姿勢に、思わず「こんな東大なら、つぶれたほうがいい」と言い放った時である。

そこにいたる経緯は、こうであった。卒業式前々日の326日に「高橋・原田報告書」が公表されると、(321日の記者会見では「これ以上の調査は必要ない」と強硬姿勢を保っていた) 豊川医学部長ではあったが、翌27日、「当人が文書をもって正式に申し出るならば、事情を聴取する用意がある」と一見折れて出た。これは、(当時ようやく、手続き上の瑕疵と認められてきた)事情聴取の欠落を、事後に補填しようとする措置とも、粒良君を他の16名から分断して対処しようとする策略とも、解釈され、医学生・研修生の間では、反対の声が強かった。しかし粒良君は、熟慮の末、この「事情聴取」に応じ、4912日には東京上野、1317日には長野県池の平で、延べ一週間を越える供述をおこなったのである。

その「結論」は、二カ月後の第一次機動隊導入をへて、628日の「総長会見」の日に、やっと出た。ところが、その内容は、同日の医学部長「談話」によると、粒良君が「事件当時九州にいたということも、また事件現場にいなかったということも、明らかにできなかった」が、「同君が、事情聴取の間、教官への信頼感をもって自己の行動についてのべ、良心に誓って現場にいなかったことを主張している点」は「強く認識」して、「処分を、この際 [] 発表前の状態に還元する」というものである。粒良君の供述内容を要約し、医教授会の所見を対置して、議論を噛み合わせ、理非曲直を明らかにしようとするものではない。そうした姿勢は微塵もない。むしろ、「白でもなく、黒でもない」「どちらともいえない」という(普通には判断留保を表明する)語法を採用し、「疑わしきは罰せず」として「処分を撤回するつもりなのか」という「早合点」を誘発するのであるが、よく読むと「九州にいた [] とも、事件現場にいなかった [] とも、明らかにできなかった [依然として「黒」である]」が、「教授会信頼」の態度は評価し、「この際は [決定済みではあるが] 発表は見合わせている状態にまで還元する」というのである。「その場逃れ」の官僚風作文で、「騒ぎがおさまったら、再発表する」との魂胆と読めないこともない。9月の青空集会でも、ある教員は、(高橋・原田両氏が久留米で写真照合と証言を求め、「家計簿」を開いてもらって日時を確認した)「バーのマダム」と(豊川医学部長が「人権問題」と称して名前も証言内容も明かさない)「恩師」との「どちらを信用するかの問題だ」とうそぶいたという。当時、本郷と駒場、両キャンパスのいたるところで繰り広げられた教員への随時の質問は、次第に追及集会の様相を帯び、この種の応答が、無数に飛び出してきた。大学の秩序を支えてきた「理性の府」という「正当性」神話が、そのように故あって、綻びを見せ始めたのである。

ところで、支配の「正当性」神話一般は、平常時には「自明のこと」として疑われずにいるが、なんらかの契機で暴露され、ひとたび疑われるや、一転して、支配者が破綻を取り繕おうとするつど、激しい憎しみの対象となる。神話の呪縛から解き放たれた「理知ratio」は、反転して、神話そのものの批判に向けられ、その解体に拍車をかける。全共闘側では、「こんな東大なら、つぶれたほうがいい」という粒良発言に籠められた「対象否定」の (当初は条件付きで、限定されていた) 情念が、「東大の解体」、さらに「大学の解体」へと普遍化され、それと同時に、「そういう東大生」「そういう大学生」として現にあるわが身否定へと跳ね返り、「自己否定の情念理念が孕まれた。

「大学」は、「近代公教育体制」の「帝国主義的再編」(ヴェーバー流にいえば、「全社会的な官僚制化」の一環としての「人材養成-振り分け装置」の再編)にともない、類型別(「上級-中級」)技術労働力の効率的養成装置として、それぞれ「合理化」され、「差別-選別体系」の要衝として、整備されつつある。自分たちは、幼いころから、そうした「差別-選別体系」に組み込まれ、否応なく「優-劣」を競わされ、その「梯子段」を登るつど、(いま教員において対象化され、可視的となっている)優越感を、無意識裡にも植えつけられ、金輪際否定されるべき存在として、現に「ある」。かねてから東大生には、銀杏のバッジを身につけたがると同時に、大学名を問われると「いやー、都内のある大学でして……」と口を濁す、といった両義性の意識構造が、根付いていたが、いまやこれを不快と感じ、正面から見据え、その形成因もろとも否定して、乗り越えようというのである。

学生運動のただなかで、敗戦後おそらくは初めて、「大学とは何か」「学問とは何か」「自己とは何か」「人間とは何か」という問いが、キャンパスのあちこちで飛び交った。こうした対話や討論は、やがて合流して、「対象否定」と「自己否定」とを根底で支える「人間存在の原点とは何か」「何を究極の拠り所とし、何を目指して闘うべきか」という問いにまで深められ、これに正面から答えようと、滝沢克己氏が(ファントム・ジェット戦闘機の墜落を契機とする九大闘争の現場から)、氏自身の普遍神学=「ただの人」論を携えて登場する。敗戦後の学生運動も、「政治の季節」と「学問の季節」との「単純な循環」を脱して、運動の「究極の根拠」を探り、これを踏まえて立とうとする地点に、ようやく到達したのである。

こうして開かれてきた地平の意義は、別途、主題として採り上げられ、掘り下げられ、総括されなければならない。ただ、大学闘争、とくに大学内の大衆運動としては、そういう根源的・哲学的次元をにわかに共有し、足並みを揃え「一丸となって」先に進むのには、無理があったろう。「政治の季節」と「学問の季節」との循環そのものを一挙に止揚して、無制約・無形式のまま「満開の生」を謳歌しつづけよう(あるいは、このさいなにか「究極の生-形式統一」に到達しよう)という「終末論」的期待は、実現不可能な幻想でしかない。とすれば、大学闘争としては、学内大衆の支持をえていた「七項目要求」について、具体的な論証を放棄せず、むしろ具体的に詰めたうえ、加藤執行部の「話し合い」路線に乗ると同時に逆手にとり、しかるべき対応を引き出し、極力、要求の貫徹を期したうえは、ひとまずみずから闘争は終わらせ、「政治の季節」は閉じ、「大学解体」(「反大学」「批判大学」「自由大学」「大学解放」)や「自己否定」に登り詰めた問題提起は、つとめて明快な思想に結晶させてつぎの学問の季節に送り込み、改めて戦略を練り、時満ちて「螺旋状」の実現を期する、という方途を選択すべきではなかったか。129日記、つづく]

 

§21.「境界人」から「闘い」へ

しかし、闘争を終わらせることは、始めること以上に難しい。全共闘の主張が次第に抽象度を高めると同時に、運動形態は武闘に傾斜し、それだけ学生大衆から遊離するほかはなかった。学園闘争を「70年安保闘争への前哨戦」と位置づける「新左翼」諸党派は、個別現場の争点には無関心のまま(あるいは、第二次的関心しか抱かずに)来援・介入し、むしろ「耳目聳動による世論受け」を狙い、覇権争いを繰り広げた。「ノン・セクト・ラディカルズ」の全共闘「指導部」には、そうした動きを抑制して、政治運動と大学闘争との統合を維持していく指導力はなかった。全共闘運動の「参加者個人の自発的意思を最大限尊重し、集団的規律は極小化する」という(上昇・拡大局面では長所としてはたらいた)特性が、こうなると裏目に出た。次第に、抽象的なイデオロギー主張と「ゲバ棒」合戦が優勢となり、政治闘争として歯止めを欠くまま尖鋭化したが、同時に「負のスパイラル」に囚われ、無意識裡にも深みに嵌まっていった。そのようにして、先細りの極、国家権力の暴力装置によって武装解除されるか、さもなければ、「内ゲバ」によって自滅するよりほかはなかった。

「そこまではついていけない」と察知し、五月雨式に「闘争から降りた」良識ある部分は、機動隊再導入と授業再開後、徐々に復権を遂げる日常的秩序に戻るほかはなく、(かつて上昇・昂揚局面では、「大学解体」とセットにして威勢よく主張できたが、こんどはもっぱらわが身に跳ね返ってくる)「自己否定」の呪縛に堪えなければならなかった。そうした苦境から突破口を模索した旧全共闘系学生・院生や、この状況に「新たに接近・接触」したひとつ後の世代からは、反公害・反差別・その他、学外の住民市民運動と連帯する方向に活路を求めた者も多い。

他方、全国の諸大学に「飛び火」した紛争では、それぞれの現場に固有の争点にかんする議論の蓄積を欠いたまま、いきなり「日大-、東大闘争の地平を越えて」というスローガンが掲げられ、大学本部のバリケード封鎖ほか、「戦術エスカレーション」「戦術の一人歩き」に短絡する傾向が顕著に見られた。そこでは、地域の住民・市民運動との接点を欠く場合、「バリケード封鎖はしてみたものの、なかで何をすればいいのか分からない」「日常性を持ちこたえられない」という声が、しばしば聞かれた。[131日記、つづく]

おおよそ以上のような、全共闘運動全体の推移と、学園闘争としての衰退のなかで、筆者は、「境界人」として発言してきた者として、いまや両極的に対立するにいたった当局・教授会と全共闘 (とくに助手共闘・院生共闘) との双方から「十字砲火」をあびた。前者には、特筆すべき内容はなかった。筆者が提起してきた問題に正面から対決するものではなく、「組織内多数派の気分」の激発にすぎなかったからである。

それにたいして、後者は筆者に、原則的な対決を迫った。その趣旨は、争点にかんする管見を添えての問題提起と議論の呼びかけが、一方では、全共闘の実力行使(ストライキとバリケード封鎖)によって、当局と教授会が見解表明を余儀なくされ、そのようにして議論の素材が出揃うという状況の流動化を前提としていたばかりでなく、他方では、筆者のそうした議論によっては、結果として、196911819日の機動隊導入を阻止できなかったではないか、いまや、議論・言語闘争のそうした限界を認めて、実力行使・言語闘争に踏み切れ、とやや「上擦って」「短兵急に」要求するものであった。

ところで、筆者は、617日の第一次機動隊導入以降、思いがけない学内紛争ではあったが、それを、教養課程における社会学担当の一教員として、「わがこと」と受け止め、「196263年大管法」闘争の延長線上で、研究上のささやかな蓄積も動員し、まずは上記のとおり、争点とされた処分問題の真相究明につとめてきた。他方、この紛争そのものを「社会学する」対象に据え、真相を究明し、理に適う解決を探ることが、学生に「社会学する」手近な思考素材を提供し、学生がやがて市民としてさまざまな「紛争」に直面するとき、そのつど理性的に対処して民主的解決へのイニシアティヴをとれるように、そのための「予行演習」「個別事例演習」としても役立つであろう、その意味で教養課程の理念にかなう (この状況では唯一適切な) 教育活動でもある、と位置づけていた。

なるほど、現場の問題に現在進行形で取り組めば、仮説の性急な実体化を含め、過ちを犯す危険があり、教員であるだけにその影響は大きいにちがいない。しかし、その場合には、どこでどう誤ったのか、議論をとおして具体的に検証し、そのつど是正していくほかはない。それこそ、状況における「教える自由」と「学ぶ自由」との出会いではないか。「影響力のある教員として、発言はそれだけ慎重に」という戒めは分かる。だが、そのために萎縮し、尻込みして、発言を控えることが、はたして「教員として責任ある態度」といえるのか。そう思い込むあまり、逃げたり、はぐらかしたり、いずれにせよ個人としての明快な意見形成と積極的発言を回避する姿勢が、かえって、闘争学生ばかりか一般学生もの失望を買って、事態を紛糾させ、ここまで混迷に陥れてしまったではないか。そう考えた筆者は、管見を添えて教員に議論を呼びかけるだけではなく、学生との公式・非公式の討論にも、よろこんで応じてきていた。

では、そうしたスタンスで真相の究明につとめた結果、何が分かったか。全共闘側の主張が、基本的に正しかった。医処分の誤りにつづき、文処分の誤りも、九分九厘明らかになった。残るは、(「明証性」と「経験的妥当性」は論証されている)「築島先手仮説」を、築島証言を待って最終的に確証する詰めだけである。

それにもかかわらず、東大当局・加藤執行部は、(西村秀夫氏や最首悟氏の再三の助言や仲介の申し出にもかかわらず) 文処分の事実関係に遡って再検討しようとはせず、もとより築島喚問も実施せず、「退席阻止」という事実誤認を維持し、「文処分は当時の規準にしたがって正当になされた」から「再検討はできない」と主張しつづけた。構内における武力衝突の昂進と険悪化に「理性の府」としては対処せず、むしろ武力衝突と人命の危険を大義名分に掲げて、安田講堂に8,500人の機動隊を再導入したのである。

それでは、そういう真相を知った一科学者として、この状況でどうすればよいのか。全共闘が、(上記のとおり、スローガンの抽象化と武闘への傾斜のため、学内の大衆からは遊離して) 半ばはみずから招いた結果として、政治的には不利な状況に追い込まれていることは否めない。しかし、むしろまさにそうであればこそ、このさい政治的利害よりも理非曲直を優先させ、全共闘支持の旗印を鮮明にして、(理非曲直よりも組織維持の政治的利害を優先させ、事実誤認を秘匿・隠蔽・正当化して、機動隊の力を借り、骨絡みの「正常化」にこぎつけようとする)東大の倒錯と、正面から闘うべきではないのか。そうではなくて、この期におよんで争点の真相には口を噤み、授業を再開し、「正常化」に荷担するとすれば、それは、(「境界人」にたいする「二重人格」という通例の否定的評価どおりに)しばらくは「二股膏薬」として「日和を見た」けれども、真相が九分九厘明らかとなるや、それには目をつぶって、大学の頽廃に与し、「保身に憂き身をやつす」ことになるではないか。そうなったら、自分の研究者-教育者志望とは、いったい何だったのか。何のための「大管法」闘争、「学問論・大学論」の模索、ヴェーバー研究、マンハイム研究、「境界人」論の再構築、等々だったのか。そのうえ、この状況で「社会学すること」にいっときは期待をかけた学生も、「ああ、やっぱり……」と失望し、不信をつのらせ、「論証では権力に対抗できない」「長いものには巻かれろ」式のシニシズムやニヒリズムに陥るのも必至ではないか。

そう考えて、筆者は、「争点の文処分にかんする全共闘の主張を基本的に支持する」という原則を決め、学内外に表明して、全共闘と「別個に進んで共に撃つ」(非暴力・不服従の) 闘いに踏み切った。授業再開を拒否するとともに、(それまではもっぱら教員向けの問題提起として、議論の呼びかけに添付するだけだった)論証文書を、学内外に公開した。

 

§22.「政治の神」と「学問の神」との相克 

全共闘運動の衰勢と政治的敗北が必至と見えた時点におけるそうした荷担には、「責任倫理」を忘れ、「心情倫理」に堕する所作ではないか、という批判が (ヴェーバーの「職業としての政治」から抜き取って) 差し向けられた。これには、(その一般的趣旨は分かったつもりでいた) 筆者として、まずは頭を抱えた。しかし、苦慮の末、「『政治の神』と『学問の神』とが非和解的に対立して、両立不可能となり、どちらかを選ぶしかない、この状況では、学者として学問の神に荷担し、たとえ『政治の神』の逆鱗に触れようとも、あくまで『真理価値』実現への『心意Gesinnung』を優先させ、ただその『随伴諸結果Nebenerfolge』にも最大限責任はとる」という論理で対抗できる、というよりも、そうするほかはない、と確信した。

それに即応して、「闘い」「実力行使」とはいっても、あくまで言語的・論理的対決を主要な土俵として想定し、それを誘い出すための消極的非暴力形態に自己限定するほかはなかった。たとえば、「授業再開拒否」にしても、機動隊再導入による秩序回復・「正常化」にたいする「態度価値」(VE・フランクル) の表明であって、「勝利」への展望はほとんどなかった。ただ、「随伴結果」として予想される「業務命令-不服従-懲戒処分」にさいしては、人事院に不服を申し立て、その口頭審理という公開の土俵に当局者の召喚を求め、そこで東大闘争の事実経過と理非曲直を争い、あわよくば「再争点化」して「第二次東大闘争」への「起爆剤」にしようと考えたにすぎない。「闘い」とはいえ、初めから「負け」を予期し、せめて公開論争への残された唯一の機会として「逆手にとろう」という「捨て身」戦術の域を出なかった。

ただ当時、全共闘とくに助手共闘や院生共闘の一部は、(「安田砦攻防戦」では、機動隊の背後で、武闘を見守るしかないという「立ち位置」におかれ、そこから生じる)不快と苛立ちを、(比較的近くにいる、批判的少数派の)教員に向けて発散し、多分に「上擦った」他者追及にのめり込む傾きを帯びていた。闘争の後退局面で露わとなり、ときには陰惨な「査問」の様相も帯びる、そうした「心情倫理」的傾向を、自分の若いころの「左翼」体験も引き合いに出しながら、正面から真摯に批判する同僚もいた(社会科学研究所の戸塚秀夫氏)。しかし、筆者は、その「責任倫理」論を (抽象的ながら) 正論と受け止めて感銘を覚えるとともに、筆者個人として、この状況では、政治家や政治的活動家の「責任倫理」ないし「責任倫理」一般ではなく学者の「責任倫理」に徹するほかはないと心に決めた。ただし、それまでの言語的関与の延長線上に、不服従の実力行使を加えて、助手共闘・院生共闘の要請に応えながらも、他方ではあくまで、言語闘争に固執し、むしろ非言語闘争も言語闘争に集約していくことにより、かれらの「心情倫理」と「実力主義」を黙示的には批判し、かれらがやがては言語闘争に立ち帰ってくれるようにと期待した。

闘いの具体的な中身としては、まず 文処分とくに事実関係の再検討と、それにもとづく白紙撤回をめざす、文学部闘争の継続があった。そこでは、独自に公開文書合戦を開始した。つぎに、 (安田講堂に立て籠もって逮捕され、起訴された学生・院生被告団の)「東大裁判」に、証人および傍聴人として出廷するとともに、「特別弁護人」(職業上の弁護士ではない法廷弁護人)に選任されて、東京地裁に喚問される大河内一男前総長、加藤総長代行ら証人 (当局者) にたいする主尋問にあたった (1969年秋から1973年春)。他方、 全国「教官共闘」会議の結成を展望しながら、(神戸、岡山など、いくつかの大学で処分された) 「造反教員」の人事院公開口頭審理に、代理人として加わった。④ 駒場では、西村秀夫・信貴辰貴・石田保昭・最首悟らの各氏と語らい、「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」を開設し、1969年秋から三年余にわたって実施した。これをとおして、(闘争圧殺による孤立・分散、後退局面におけるもろもろの困難、とくに「自己否定」の呪縛に苦しんでいた) 学生たちの再起を介助しながら、東大闘争の経過と意味については、後続世代に引き継ぐべく、「裁判闘争」と連携して、事実の確認と記録につとめた。やがて公害・差別・教育の三テーマにかかわる全国各地の市民・住民運動と連携して、視野を広げ、現場から闘争者を招いて討論を重ねた。それは、学生たちが、そこに積極的社会参加への結節点を見出して「自己否定」の呪縛から脱する契機を提供しようとするものであったし、翻っては、自分たちの思想上のルーツを見つめなおす機会ともなった。これら ②~ については、別稿でいま少し詳細に総括しているし[54]、今後さらに敷衍することも考えている。ここでは、上述との関連で、その後における 文処分問題の経過を、結末までたどり、ひとまず「プロフェッショナリズム」論を「結ぶ」ことにしよう。[25日記、つづく]

 

§23. 文処分の「取り消し」と「築島先手仮説」の立証

先にも触れたとおり、文学部の全共闘系学生は、加藤執行部の「七学部集会」と「十項目確認書」(という当事者・広域決定権者の「囲い込み」) による収拾策には乗らず、ストを継続していた。その結果、1969年の夏休み明けには、東大の十学部中、文学部だけが授業再開にとり残される事態となっていた。文教授会は、こうした政治状況への危機感からか、争点の文処分を「なかったことにしようや」と「取り消す」意向を示し、これを評議会は、1969930日に了承した。

ところが、「取り消し」の趣旨は、「授業再開と正常化に向け、教官-学生間の不信を取り除くため、このさいあえて処分を取り消し、『教育的処分』制度と『批判的に訣別』する決意を[それだけ鮮明に]示す[ため]」と説明され、なぜ「教官-学生間の不信」がかくも深まったのか、なぜ「教育的処分」制度と「批判的に訣別」するのか、その理由や根拠にはまったく言及せず、文処分そのものについては、相変わらず「当時の『教育的処分』制度に則って『適法』になされ、誤りではなかった」と正当化するばかりであった[55]。文学部学生・院生・助手や、西村秀夫氏や筆者など、「大学でものごとを律する権威は事実と理のみ」と確信する構成員が、一致して求めていたように、「104日事件」に遡って事実関係を再検討し、非があれば責任者の責任を問い、そうした批判的総括のうえに立って、制度改革にも取り組もうというのではない。文学部が孤立する政治状況への政治的危機感から、人々の視線を将来に逸らして問題の直視を避け、処分は「なかったこと」あるいは「終わったこと」にして、その決定と解除(既成事実化)への責任追及をかわそうとする「窮余の策」(敗戦を「終戦」といいくるめるような、この国の支配層による「危機管理」の常套手段) と見えた。

ところが、文学部内では、そういう表立った動きと公報の背後で、じつに重要な一歩が、静かに踏み出されていた。遅きに失したとはいえ、築島助教授の属する文学部国文学科の学科集会 (「国文科追及集会」) が、96日に本郷の学士会館分館で開かれ、そこに築島氏とN君が共に出席し、直接の対質がおこなわれたのである。二年ほど前の「104日事件」の直後、築島氏の駆け込み要請を受け、本来は文教授会が実施していなければならなかった (一方的な陳謝請求ではない、文字通りの) 事情聴取が、ここに初めて(ストの継続を背景として)大学院生のイニシアティヴのもとに実現した。

そこで明らかにされた「TN行為連関」は、主催者のひとり (当時大学院生、後に東大教養学部助教授-教授)  F君の報告 (101日付け「文処分の根本的疑問」) によれば、こうである。[26日記、つづく]

T教官ともう一人とが三重にもなった学生の人垣をかきわけて外に出た。

やっと外に出てふり返ると、中に同僚の先生方がいられるので引き返した。

中にいる先生方をたすけ出そうとしてドアのところにいるうしろ向きの学生の背広のそで口をつかんでひっぱった。

その学生がT教官の胸もとをつかみ、ネクタイをしめあげて『何をするんだよう』などと暴言をはいた。」

その文書はさらに、「追及集会の席上で、築島氏が……『事実』を語ろうとしたとき、となりにすわっていた秋山教官 [当時、国文学科主任教授] はしきりに築島氏の発言をやめさせようとし、 については (それは学生をひきずり出すといったかなり乱暴なものらしかった)、秋山教官は『それはマアマアと制止する行為だった、ネ、ネ、築島君』と同意をもとめるしぐさをした」と報告している。

この証言によるかぎり、やはり築島氏が先手を掛けていた。状況証拠から導かれた (「明証性」と「経験的妥当性」をそなえた認識命題) 仮説が、ここに、直接証拠によっても、事実として立証された。文学部教員は、処分者として不都合なこの事実を直視する「知的誠実性」をそなえていなかった。学生のストライキ継続を背景とする大学院生のイニシアティヴによって、N君との対質を余儀なくされて初めて、築島氏は、真実を明かそうとした。ところが、その場でも、主任教授の秋山氏は、教員の特徴をなす上記の類型的な仕種で、築島氏の供述を抑えにかかったのである。

それにしても、この報告内容が、当事者のみが知りうる、紛うかたない具体性をそなえているとしても、なおそれが、大学院生によってしたためられ、発表されているかぎり、やはり学生側に有利に歪められているのではないか、と疑う人がいるかもしれない。そこで、肝要な築島先手につき、最終的な詰めとして、文教授会側からの裏付けが必要とされよう。

109日、東大当局が、文学部の授業再開に向けての大掃除のため、本郷キャンパスに機動隊を導入した夜、藤堂明保、西村秀夫、農学部助手共闘の塩川喜信氏らと筆者は、正門左手横の工学部列品館前に、北原淳氏ら文学部助手有志は文学部の建物のなかに、踏みとどまった。筆者は、大音量の携帯用アンプを持ち込み、BGMを流しながら、「文処分の理由とされた学生の行為は、『退席阻止』ではなく、すでに退席・退室した築島教員の先手にたいする後手抗議で、当局は相変わらず事実誤認に固執している」と説き、加藤総長と堀米文学部長に「この場に出てきて、話し合いに応じてほしい」と呼びかけた。しかしかれらは、その場に姿を現さず、退去命令を発し、待機していた機動隊員が、不退去者全員を正門の外に押し出した。ただ筆者は、その数日前、不退去の理由として、文処分の事実誤認を論証した、「これだけはいっておきたい――東大文学部問題の真相」と題する論稿を、『朝日ジャーナル』誌の編集部に送り、当夜、不退去罪の現行犯で逮捕されたら、「造反教官逮捕」という「段階の」報道と同時に掲載してほしい、と依頼していた。その後、筆者は、この論稿に109日当夜の経過報告を加え、「『理性の府』の実態――文学部問題に見る東京大学の体質」と改題して、同誌1026日号に発表した。

これにたいして、堀米文学部長は、同誌の次号112日号)に「折原論文に事実の誤り」と題する「反論」を寄せた。ところが、それを読んで驚いた。「T 教官の行為は、N君がT 教官につづいて退出しようとした他の教官を阻止しようとした行為に対し、咄嗟にこれを制止すべく、背後からN君の左袖をおさえたものであ」ると、なんと文学部の責任者が初めて築島先手を活字にして公に認めたのである。

なるほど堀米氏は、T 教官の行為は、「自然に生じた制止行為」で「学生N君の行為を正当化できるような性質のものではない」と釈明している。しかし、人間築島氏が「制止」という動機をもってN君に先に手をかけた事実に変わりはない。堀米氏が、その先手は「学生N君の行為を正当化できないと、価値評価に短絡するのは、ひとまずは致し方ないとしても、当の介在事実を直視すれば、「学生N君の行為」がやはり「後手」であることは確かで、もはや「退席阻止一般には還元できなくなる。したがって、単純にそう断定してきた従来の事実認識が問題とされ、少なくとも再検討が必要となろう。堀米氏にも、加藤一郎氏と坂本義和氏にも、この点は「価値自由認めてもらわなければならない。そして、再検討の結果、事実認識が「(態様はどうあれ) 築島先手にたいするN君の(態様はそれ自体としては不適当としても)後手抗議に改められれば、「先手は不問に付して後手のみを採り上げ、「退席阻止」一般に抽象化して処分理由としてきたことについても、その「公正さ」が疑われ、少なくとも問題として議論されよう。すなわち、「先手」が (堀米氏の主張どおり)自然に生じた制止行為」であったとしても、(堀米氏もはっきり認めたとおり)背後からN君の左袖をおさえた」ことは確かで、そうとすれば、逆方向に動こうとして「背後から咄嗟に左袖をおさえられた」N君が、それだけ大きな手応えを感じ、ふりむきざま同じく咄嗟に後手を掛けること [自体]」は、同じく自然に生じた抗議行為」にちがいない。そこで、先手制止と後手抗議とが、ともに「咄嗟に生じた自然性」にかけては等価な行為として、この点では双方の責任が相殺されるとしても、市民常識によれば通例は後手行為者よりも先手行為者により厳しく問われる責任が、このばあいには正反対に、まったく問われず、もっぱら後手行為者に帰せられるのは、いったいなぜか。後手行為の態様が、先手行為のそれを上回って「悪質」で、後者の「有責性」を棄却してあまりある、とでもいうのか。それでは、つい一年前、「……教授会側委員がすでに開催中の教授会に出席するため退席しようとしたところ、一学生が退席する一教官のネクタイをつかみ罵詈雑言をあびせるという非礼な行為を行った」と明記したうえ、「教授会はこの行為の動機に悪意はないと判断し、……私的な陳謝を再三うながした」19681028日付け「文学部の学生処分について」、東大・弘報委員会『資料』第3号所収)と主張していたのは、いったい誰だったか。堀米氏は、「TN行為連関」にかんする事実認識が変更された事実は認めながら、そうなれば双方の有責性の度合い (価値評価) について、再検討と変更が不可避となる事情には、目をつぶり、いまや確証された築島氏の先手行為も「学生N君の行為を正当化できる性質のものではない」と、当の築島先手を捨象して主張されてきた従来の所見を、そのまま繰り返すだけであった[56] [27日記、つづく]

この点にかかわる堀米投稿のいまひとつ重要な論点として、氏は、築島先手の事実が、文教授会では当初から確認されており、「いわゆる『カン詰団交』ののち、事件の再検討が行われた際 [にも]再度確認された」と、さりげなく伝えている。この「再検討」とは、上記「法華クラブの密議」を指すと思われるが、築島助教授抜きで行われた「再確認」が、築島先手をどのように確認したのか、その結果が、どの程度、どのように文教授会に報告されたのか、たいへん疑わしい。上記のとおり、「121日半日公開文書」には、教授会側委員が築島助教授を先頭に「学生たちをかきわけて扉外に出ようとした [とき]、一学生が、すでに扉外に出ていた築島助教授のネクタイをつかみ、大声を発して罵詈雑言をあびせるという行為に出た」と記されるのみで、その間に介在した築島先手は、相変わらず隠されている。

ところで、196977日の文教授会で、堀米執行部が、築島先手の「新事実」を明らかにしたとき、新任の教員や留学先から帰った教員ばかりでなく、多くの教員が驚いて「初耳だ」という反応を示し、なかにはその点について執行部を追及し始める人も出たとのことである。執行部は、「根掘り葉掘り」問い質さなかったほうがいけない、と居直ったという。

加藤執行部と学部長会議も、この築島先手が「新事実」として明るみに出てくると、それを隠して、あるいは文教授会による隠蔽に気がつかずに、再検討を怠り、少なくとも事実誤認を温存したまま、安田講堂に機動隊を導入した責任を問われかねない、という危機感を抱いたにちがいない。そこで、「[9月の夏休み明けに予定されて議論されていた] N処分『取り消し』の『新措置』については、『新事実』を考慮に入れてはいないし、考慮する必要もない」と「申し合わせ」、各学部長経由で全教授会メンバー宛ての「通達」を発し、「新事実」露顕の影響をくい止めようとした。

筆者は、堀米投稿にたいする反論を同じ雑誌に寄稿し、この間の文教授会・学部長会議・評議会の議事録をすべて公開し、公明正大に事実と理非曲直を争おうと提唱したが、応答はなかった。おそらく、顧慮されもしなかったのであろう。「情報公開」を求める学外の市民運動には参与して、「民主化」の基礎条件として「情報公開」にかかわる専門的学知を活かそうとする啓蒙家はいても、自分の現場で、教授会・学部長会議・評議会の秘密会議制に疑問を抱き、議事録の公開を要求して「特別権力」の牽制・制御に乗り出そうとする教員はいない。[29日記、つづく]

 

小括

そういうわけで、築島先手の態様については、なお疑義を差し挟む余地が残されたとはいえ、文教授会が隠しに隠した築島先手の事実そのものは、確実に立証された。文教授会は、この事実の直視を避け、責任は回避した[57]が、処分は「取り消された」つまり「白紙撤回」された。この問題にかけては、全共闘の「七項目要求」が、ほぼ完全に貫徹されたのである。

権威にとりすがり、組織維持の利害関心に凝り固まって、頑なに非を認めようとはしない人々に、なんとしても(主観的にも)非を認めさせようと骨折っても、始まらない。「104日事件」から二年、おびただしい人身傷害と建物-器物損壊の犠牲を払っての決着ではあった。

「大山鳴動、ネズミ一匹」といえなくもない。しかし、文処分問題の取り扱いという一点に絞って、東大紛争の全経過を通観してみると、ある組織の現場を理非曲直に則って根底から民主化」することが、いかに困難か、が分かる。そうした現実を、「理性の府」と自認していた一「組織」が「理念型」的に示した、ともいえよう。

後日談になるが、1977年の夏、全共闘運動の志を継いだ文学部学生有志が、(「東大紛争」には無反省のまま、その後の「なんとなく振るわない」雰囲気を「創立百年祭」を祝うことで一掃し、併せて「百億円募金」をつのる、という企画に反対-抗議して)文学部長室に泊り込んでいたところ、現場から小火が発生してしまった。直後に学生は、「失火」の疑いで本富士警察署の取り調べを受けたが、署の実験によると、たばこや蚊とり線香の火では床面に火がつかず、『信濃毎日新聞』『西日本新聞』ほか、いくつかの地方紙には「原因不明」との所見が発表された。

ところが、文教授会執行部(学部長今道友信、評議員辻村明の両氏)は、当初には「原因の究明を待って処分する」と言明していたのに、急遽、「床面の発火地点と灰皿との間に、フトンがあり、これが『着火物』となって、床面に火がつき、火災にいたった」との独創的見解を発表して、学生処分を企てた。しかし、『学内広報』(440号、p. 7) に発表された火災現場の見取り図でも、当のフトンは、発火点から約45メートルは離れた位置に、しかも、消化作業の、扉や窓からの放水では、飛ばされようのない方角にあった。文教授会は、19699月には、「『教育的処分』制度と『批判的に訣別』する決意」を高々と掲げたが、「特別権力」とは「訣別」せず、近代市民法の警察権の「上を行こう」としたのである。

なるほど、小火そのものは痛恨の不祥事で、筆者も、まずは学生の闘争規律の甘さないし弛緩を、原則論的に批判した。しかし、だからといって、市民としては刑法の「軽失火」を問われることもない事案について、文教授会が出火原因を捏造して処分することは、容認できない。196869年には、文処分の事実関係にかんする論証の発表が遅れ、機動隊再導入を許す不覚をとったので、こんどは迅速にことを運び、当時本郷で開かれた討論集会で、加藤一郎著からの引用も交えた資料を添えて所見を述べた。この集会には、旧助手共闘とその周辺の批判的少数者が数多く出席していて、文教授会による「特別権力」の恣意的発動には反対し、それぞれの学部教授会の説得に動いたと聞く。処分案は、こんどは評議会で採択されず、葬られた。文教授会は、「いつか来た道」の破局を寸前で免れた。[211日記、完]



[1] たとえば、ある大学教授の、意図して人目を欺くデータ捏造と、これと闘って真実を明らかにした一科学者の記録(石岡繁雄・相田武男『氷壁・ナイロンザイル事件の真実』2006、あるむ)への論評を、本HPに収録

[2] 拙著『東京大学――近代知性の病像』(1973、三一書房)、「医学部処分とその背景」(『学園闘争以後十余年―― 一現場からの大学-知識人論』1982、三一書房、pp. 17-22)、「授業拒否とその前後」(折原浩・熊本一規・三宅弘・清水靖久『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』2013、緑風出版、pp. 17-94)、参照。

[3] 学生は当初「ここは医局だから場所を替えよう」と提案したが、春見氏は青医連室に連れ込まれるのを虞れて拒否したという1970121日の東京地裁牧法廷における豊川証言、拙著『東京大学』pp. 12728参照)

[4] 一度目は、「事情聴取の欠落」を理由に、再考を求められ、医学部に差し戻された。

[5] 後で判明したことであるが、敗戦後初代総長の南原繁氏が、再三、大河内氏に電話し、機動隊導入を使嗾した、とのことである。

[6] 北川氏は、筆者が文学部に進学した三年次(1956年)には、社会学研究室の主任助手で、筆者も多大な影響を受けた。本HP 2014年欄への寄稿「戦後精神史の一水脈――北川隆吉先生追悼」参照。

[7] ドイツ思想の伝統に倣っていえば、「唯物史観」における「生産力」と「生産関係」、ゲオルク・ジンメルにおける「生」と「形式」、マックス・ヴェーバーにおける「精神」とその「凝結態」(「官僚制」もそのひとつ)、それぞれの「弁証法」的発展の関係。ただ、いまにして思えば、「単純な循環」か「螺旋」か、という「(正の)上昇類型」を考えるばかりで、「ジグザグ」を繰り返しながらの衰退、突発的な死滅、加速度的没落、という「(負の)下降類型」を、対照項として熟慮するにはいたらなかった。

[8] 当時の社会学研究室では、そうした方向で、院生のマルクス主義者と近代主義者(「ヴェーバリアン」の筆者もそのひとり)とが、人間として信頼し合える関係を取り結び、実践を孕みながら、「大きな物語」も含め、活発に議論し合えた(後注25参照)。筆者も、「60年安保」闘争へのそうした周辺的関与と議論に熱中して、修士論文の執筆は一年先に延ばした。

[9] 「職業倫理」といってもよいが、「使命」を核心に据えて、「倫理」が「規範」「建前」の域を越えて「身につき」、「血となり肉となった」生活原則ともいうべき側面を強調するとき、「エートス」と呼び替える。

[10] かつては「京都学派」の一員として「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」の「世界史的」意味を唱え、敗戦後には「実存主義」の解説者に転向して論壇に再登場した人物。

[11] 1930年発表の『大衆の叛逆』では、「専門科学者」が、「知識人」ではなく、「大衆人」の一類型として批判的に捉えられている。後年の「大学紛争」における「専門バカ」論の先駆ともいえる。後注3738も参照。

[12] 政府や大学当局などが発する言説を「額面どおり」素朴に受け取って済ます(たとえば下記⑥の論点を、括弧内の補足なしに読む)のでなく、その担い手の「社会的な立ち位置」と「『存在』による拘束」・「存在被拘束性Seinsgebundenheit」に即して、その「意味」を批判的に捉え返そうとする見方。

[13]「境界人marginal man」の概念そのものは、192030年代、移民とくに移民二世の「社会的不適応」「二重人格」「人格解体」が「社会問題」として問われたアメリカ合衆国で、パーク (18641944) らの「シカゴ学派」によって設定され、相応の否定的なニュアンスを籠めて、用いられていた。しかし、そこには、つぎのような積極的展開の可能性が潜んでいると思われた。すなわち、「境界人」が、(たとえば移住前と移住後、移住後の家族と学校といった) ふたつの異質な文化圏の狭間で、動揺を繰り返し、類型的には「情緒的不安定」から「二重人格」ないし「人格解体」に陥ることが多いとしても、そうした「窮境」をみずから引き受けて「逆手」にとれば、むしろ双方の文化に距離をとって批判的に対峙し、そのつど自分自身も相対化しながら、多様な諸文化と自己を客観視し、「現在的文化総合gegenwärtige Kultursynthese(エルンスト・トレルチ) を目指して進み、「ひとつの新しい個性」としての「雑種 (文化)(加藤周一) に到達することも、不可能ではあるまい、と。

「境界人」のそうした可能性は、パークがドイツに留学して「境界人」論の着想をえた、ゲオルク・ジンメル18581918の「異邦人der Fremde」概念にも、示唆されていた。また、ジンメルとほぼ同時代人のマックス・ヴェーバー (18641920) や、ひとつ若い世代のカール・マンハイム (18931947) は、(自分とは異なる「立ち位置」に、相応の「存在被拘束性」を帯びて形成された) 異質な文化 (的閉塞) 圏に「身を閉ざす」のではなく、むしろみずから「越境」して分け入り、そのつど生ずる「自己分裂」の「危機」を、「自己相対化」に活かし、そのようにして視界を広げながら「自己同一性Identity」を回復-把持しては「現在的文化総合」を目指す「自由に漂う知識人freischwebende Intelligenz(マンハイム)として、それぞれの生涯をまっとうした。

そこで筆者も、まずは「欧米近代にたいする後進的な文化的諸境(欧米近代の侵略を被り、少なくともその脅威を受けて、伝統文化の解体と社会の再編制を余儀なくされて以降のインド、ロシア、中国、日本など)に生きる「境域人」広義の「境界人」)と自己規定し、そこに生成してくるさまざまな文化的閉塞圏 (「蛸壺」) にたいしては、意図して「越境」して、狭義の「境界人」の立ち位置を選択しようとつとめた。たとえば「東大紛争」では、教授会と学生との狭間に立ち、双方の主張 (教授会側の甲説と学生側の乙説) を、本稿の後段で詳述するとおり、まずは情報源に遡り、「存在被拘束」的「誇張」「歪曲」「改竄」「隠蔽」等を洗い出して是正したうえ、双方の内容を相互に比較・対照し、それぞれを批判的に「相対化」しながら、「価値自由」に理非曲直を問い、そのようにして突き止められる真実に則って、「紛争」の解決に到達しようとつとめた。「境界人」に関連する理論の収集とヴェーバー論への適用については、拙著『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』1969、未來社)参照。

[14] 文部省はじっさい、後の「学園紛争」のさなか、九州大学が選出した井上正治学長の就任を拒否して認めなかった。

[15] 『現代政治の思想と行動』の著者・丸山眞男氏は、「60年安保」時の活躍で国際的にも注目をあび、2年後、ハーヴァード大学、オックスフォード大学などの招聘を受けて、在外研究中だったそうである。「とびっきりの国際的知識人」として帰国した丸山氏には、その後、自分の現場で学生の「幼い」問いを受け止めるような「愚かな」スタンスは、失われていたのではないか。

[16]「官僚制」については、本節の後段を参照。

[17] 前注13 参照。

[18] かれは、当時、社会科学者にはよく読まれた『ウェーバーとマルクス』の著者で、克明な文献実証に長けた思想史家として知られていた。

[19]「境人」としては、一方ではそのように「欧米近代の思想や学問」に内在して「精神構造の近代化」を目指すと同時に、他方では欧米近代の問題点も探りあて、これまた内在的に」乗り越えようと志した。前項を欠く「近代批判」は、「前近代」と「超近代」との癒着構造に呑み込まれ、これを補強してしまう点で、「相対化」されなければならない問題傾向のひとつと目された。ここでは、問題のこの側面には立ち入らない。

[20] しかし、それでもその後、これと同じような局面にたびたび直面し、そのつど逡巡を繰り返した。その挙げ句、こうした現場の問題については、初発には躊躇してとかく「日和見主義」に陥りもするが、その点を反省して再出発すれば、二度目、三度目には「はっきりと態度決定もできる」、したがって「性急に白黒をつけよう」と焦ってはならない、と考えるようになった。

[21] マルクス主義のいう「資本の集積と集中にともなう労働者の生産手段からの疎外」も、「兵卒や官吏の『物的経営手段』からの疎外」のように、資本主義企業以外にも並行現象が見られ、「全社会的な官僚制化」の一環として捉え返されよう。そのように筆者は、当時の「マルクスヴェーバー」論では「マルクスの理論的枠組みにヴェーバーを任意に取り込む」傾向が優っていたのにたいして、ヴェーバーをむしろ「マルクス以後の思想家」と見て、「マルクス主義の止揚」という側面に注目し、未読の厖大な著作の内在的読解と活用を目指していた。

[22]「理知ratio」をはたらかせて、ものごとや人間の処遇を決めること。したがって、「理知」によって予測・計算・再現が可能となる。ただし「組織の合理化」が、当の組織に編入される「個人の合理化」をもたらすとはかぎらず、かえって「個人の非合理化」をもたらすことが多い。後段の「没意味化」論を参照。

[23] そのさい、この「根底から」には、「現場から」、あるいは「『全社会的な官僚制化』の『抑圧移譲』をもっとも厳しく受けている『社会の底辺』から」という「社会学」的な意味に加えて、「人間存在の根基・原点から」、「水面を流れのまにまに漂い、互いに絡み合って安定を保っている水草群の一葉ではなく、同じ水草でも、川底に根を下ろして『流れに抗せる』茎でありたい」(アンリ・ベルクソン)という根源的・「哲学的」意味も予感されていた。「196869年大学紛争」時には、その延長線上で、滝沢克己の普遍神学(「神-人の不可分・不可同・不可逆の原関係」「インマヌエルの原事実」)に出会うことになった。

[24] 科学研究がどんなに進んでも、既知の限界は「旅人にたいする地平線」のように、そのつど後退して、けっして「完全知」「全体知」にはいたりえない、という洞察。

[25]「科学迷信Wissenschaftsaberglaube」とは、「無知の知」を欠いて科学の権能を過信する態度で、ヤスパース科学論のキーコンセプト。『東大闘争と原発事故』pp. 82-85 参照。

[26] この点は、別稿で詳論されるべき問題であるが、当時の院生仲間のうち、リベラルな(といっては形容矛盾であれば)人間的に信頼し合えるマルクス主義者と筆者との一争点をなしていた。管見によれば、マルクスは、恐慌による資本主義体制崩壊の「危機」までは、経済学批判として論証した(ヴェーバー流に言い換えれば、「禍の予言」「禍の神義論」を構築した)。ただしそのさい、旧体制下、とりわけ資本主義体制下で、飛躍的に発展した生産諸力を引き継ぎその土台のうえに社会主義体制を構築すべき「労働者」層の主体形成・「階級形成については、学問としては未完のままに逝去した。歴史上じっさいには、1929年の「大恐慌」後、「『産みの苦しみ』というにはあまりにも大きすぎる」ファッシズム・ナチズムおよびスターリニズムという犠牲(随伴結果)を生じた。こうした惨事は、「資本主義からの悪辣な包囲攻撃ゆえ」と「ひとのせい」にして済ませられる話ではないし、「唯物史観」の「発展段階論」(学問上は、レーヴィットが、世界史上は特異な一宗教・キリスト教に固有の「終末論」の世俗化形態として捉え返し、その歴史的被制約性を克明に論証した特異な信念)を「全体知」に固定化し、歴史的「必然」ないし歴史的「救済目標」に抽象化して、片づけられる問題でもない。そこは、責任ある社会科学的変革主体として、ヴェーバーのいう「責任倫理」論を体し、突き詰めれば「こうしなければならなかった」と総括し、そのうえで「今後はこうすればよい」との大筋は示すべきではないか。それで納得がいけば、「われわれ近代主義者」も、「根底からの民主化をへた社会主義化と踏み出す (あるいは前者を後者につなげていく) ことができよう。とくに、既存の「官僚機構」は(ヴェーバーが喝破したとおり、「危機」においても、それ自体の規律と大衆の日常的要求に応えて、機能を継続し、どんな「首長」にでも仕えるから)外から強権的に「ひきまわす」こともできようが、労働者層他・人民の「根底からの民主化」と「技術労働者との連帯」にまで、労働者層の「階級」形成が進むかどうか。それが「未熟」というのでは、いったいどうやって、高度化した生産諸力を現場で制御-管理し、社会主義という「過渡期」を乗り切って、共産主義という「目標」にまでこぎつけられようか。

学部学生のころ、日高六郎先生から「マルクス主義と近代主義との協力(相乗的相互交流)という問題提起を受けていた筆者は、(「マルクスヴェーバー」とは豪語せず、むしろ「一ヴェーバリアン」として)「近代主義者」の範疇に属すると自認していたが、(その後は「大きな物語」として忌避される)こうした一連の問いを、誠実なマルクス主義者ないし社会主義者と議論することが、(当時は「大管法」闘争の渦中でも、あるいはまさにそうであればこそ) できたのであった

当時の議論仲間、たとえば元島邦夫君(1936年生まれ)は、「マルクスとヴェーバー」論を、『変革主体形成の理論』(1977、青木書店)に集約・彫琢したうえ、『大企業労働者の主体形成』(1982、青木書店)へと実証的に展開していった。見田宗介君(1937年生まれ)は、周知のとおり、マルクスの「物象化」論を、サルトルの『方法の問題』『弁証法的理性批判』を媒介に、『現代社会の存立構造』(1977 、筑摩書房)論に止揚し、(今夏の急逝が惜しまれる) 舩橋晴俊君初め、多くの優れた弟子・後輩 (「先になるべき後なる者」) を育てた。石川晃弘君 (1938年生まれ) は、東欧諸国に飛んで、社会主義を現場で捉え返し、『くらしのなかの社会主義――チェコスロヴァキアの市民生活』1977、青木書店)を著し、比較研究『職場のなかの社会主義――東欧社会主義の模索と挑戦』1983、青木書店)へと展開していった。こうした業績には、「大管法」闘争時の「思念」が結実しているように思える。それに比して、筆者自身は、その後も「学知と実践との緊張」を生きようとつとめて、教養課程の教材編成には些少の成果をあげえたとしても、「専門的」研究業績となると、「ヴェーバー文献学に後退して、実証研究の実績に乏しい」と批判されてもいたしかたない。「実践と学知との緊張」と「ヴェーバー文献学への『後退』」の関連と意味については、別稿で詳論したい。

[27] その証拠に、当時の東大教養学部では、研究業績と教育経験を積んだ老練な教員が、たとえば法学の教授ならば法学部に進学する文科一類の学生への講義のみを担当し、理科生への大教室講義は、若い助教授や講師に委ねる、という慣行が成立していた。時間割も、理科生への人文-、社会科学講義は、朝早い一時間目か、他の講義・実験・演習で学生が疲れ切った五時間目か、どちらかに割り振られていた。

[28] 教養課程の教員も、「教養課程の理念と使命に生きる」という「プロフェッショナル」の自覚を欠く場合、専門学部から「お声がかかる」と「尻尾を振って」移籍に応ずることになってしまう。

[29] 学部長会議は、この「いったんは差し戻し」措置を、後に (19689) 文学部処分「解除」のさいにも採用している。みずからも、うすうす問題とは感じ、もしも後刻、問題として追及される羽目にでもなったら、「だから差し戻しはした……」と「申し開き」をして、責任を当該学部の再提案に転化する伏線は張っておこうというのであろう。それ自体、無責任体制の一環をなす「安全儀礼」とでもいうほかはない。

[30] 坂本義和『人間と国家――ある政治学徒の回想』下、2011、岩波新書、とくにp. 12

[31] 医処分のさいにも採用されているこの「差し戻し」措置の意味については、前注29参照。

[32] 196894日に、東大医科学研究所の会議室で開かれた、評議会の「記事要旨」から引用。ちなみに、筆者も文学部学生のころ、岩崎氏の『弁証法』(東大出版会刊)という解説書を繙き、明快で分かりやすいと感心して読んだ記憶がある。その哲学教授が、いざ自分の現場の問題となると、このとおり他人の思想・信条を外見から推し量り、「内心では反省している」と推断し、「教育的処分」解除の「要件事実」に仕立てて、「教育的処分」の「教育」を途中で放棄している。評議会も、この「面会」報告を認めて、「教育的処分解除」を決め、文学部の「教育放棄」を追認した。ここからは、遡って文処分決定時の「事情聴取」も、同様に一方的な陳謝請求」で、「事情聴取」の体をなしていなかったのではないか、という疑いが生ずる。

[33] 筆者は、「監禁」との報道に接して驚き、本郷キャンパスに駆けつけたが、会場の入り口で文学部社会学科学生の久保真一君に会った。同君は、教養課程の学生のころから、見田宗介氏と筆者の研究室をよく訪ねてきていたので、信頼できる顔見知りであった。同君の話では、「文学部の教員は、事実関係の議論を詰めようとすると、みな逃げ出して雲隠れしてしまうので、学部長だけは居残ってもらっている。ただし、文学部教員、林健太郎氏夫人その他、関係者の出入りは自由で、林氏の健康には、青医連の医師が付き添って、特別に気を配っている」とのことであった。

さて、628日の大河内一男総長の大衆会見のさいにも、総長が「まず私の説明を聴いてから、質問しなさい」といって話を切り出したが、質疑応答にいたらないうちに、健康上の理由で退出した。しかしそのとき、青医連の医師は、総長の不整脈を確認すると、聴衆の不満ブーイングに逆らっても、総長の退出を遮らずに認めた。筆者は、この前例を思い出し、今回も青医連の医師は久保君ともども信頼できると考えて、駒場に引き返した。

[34] 加藤一郎『東大問題資料1、「七学部代表団との確認書」の解説』(1969328日刊、東大出版会、pp. 75-76

[35] 前掲『人間と国家』下、p. 11

[36]「東大紛争」とくに文処分問題にたいする西村氏の取り組みについては、同氏著『教育をたずねて――東大闘争のなかで』1970年、筑摩書房)参照。

[37] オルテガ・イ・ガセが、『大衆の叛逆』を公刊し、専門科学者は「学問という巻き上げ機につるされた駄馬」で「知識人」ではない、と言い切ったのは、1930年で、「大恐慌」の直後、ファッシズム・ナチズムが台頭して政権を奪う前夜であった。

[38] オルテガは、「そうではない」という。専門科学者は、自分の狭い専門領域で「そこそこの」業績を上げ、その道では「権威者」として遇され、まつり上げられると、自分には皆目分からない他の領域についても、やはりなにか「権威者」になったかのように思い込み、「自分には分からない」と正直にはいえず、愚にも付かぬ意見を「権威者」然と「まことしやかに」語るようになる、というのである。

[39] 丸山氏もその後、「自己内対話」と称して、「東大紛争」中の自分の去就について語り、氏への批判に応酬し、縷々釈明しているが、注目すべきことに、医処分・文処分のような紛争の争点にはまったく触れない。

[40] 苅部直『丸山眞男』2006、岩波新書、p. 209.

[41] 自分の「価値理念」を堅持し、その時々の「価値判断」は明確にくだしながらも、それに囚われたり、引きずられたりはせず、不都合な事実も事実として見据える、というように、「価値判断」と「事実認識」とを範疇として峻別し、緊張関係においてともに堅持する態度をいう。「没価値性」ではない。

[42] 後述のとおり、マックス・ヴェーバーによる「歴史的因果帰属の論理」の定式化と、それにもとづく比較歴史社会学の構築は、まさにこの「素朴実証主義」にたいする批判として位置づけられよう。

[43] そこで、医学生・研修生は当然、その目撃医師の証言を求めて、その氏名を問うたが、豊川医学部長は、「人権の問題があるので、裁判にならなければ、証人の名前も証言内容もいえない」と答えた。ところが、後に裁判になっても (19701114日、東京地裁・牧法廷)、豊川氏は応答せず、沈黙を決め込んだ。

[44] そのうち、「春見事件」については、春見氏が「腕組み」をして「近づいた」うえ、学生の囲みに割って入り、学生を左右に振り払って、上田氏のもとに達した、と推認される。この点は、医教授会側の文書よりも先に発表されていた学生側の文書が、「春見氏は、学生を『肘で打ち』、学生の眼鏡が飛んで縁が壊れた」と主張していた事実と、符牒が合う。「腕で左右に振り払う」行為は、体重がかかるだけ、「手でかき分ける」行為よりもそれだけ激烈であろう。

[45] HP 2014年欄の論稿「マックス・ヴェーバーにおける『歴史-文化科学方法論』の意義――佐々木力氏の質問に答えて」117日)、参照。

[46]「社会学」を市民運動とどう関連づけるか、肝心の結節点にかかわるので、ここで少々、解説を加えよう。このEnklaveとは、「自国から離れた圏外の飛び地」ではなく、「自国 (市民の日常経験知) 内に入り込んだ、異国 (歴史社会学的知識) 飛び地」を意味する。したがって当然、「飛び地」とその「囲繞地」との間には緊張関係がある。日常経験知は、ともすれば「自己中心-自文化中心egozentrischethnozentrisch」の自足完結性を帯びやすく、これを脅かす「知性主義」には稀ならず敵対する。それにたいして、知性のほうも、そうした「反知性主義」との「同位対立」に陥って、これまた純粋な学知に自己完結しやすい。ところが、知性が、市民の日常経験知を、まずは「先入観」として引き受け、学知の普遍史的地平に導き入れ、そのなかで相対化-類型化して送り返すときには、日常経験知が、そうした比較歴史社会学的知見に媒介されて、「自己中心-自文化中心」の制約を脱し、普遍性に向けて開かれるであろう。「ヴェーバー社会学」の主著『経済と社会』は、こうした方法意識とスタンスにもとづく、日常的「社会諸形象」の比較史的・普遍史的相対化・再構成・再定義の企てであった。それは、そのようなものとして、市民の日常経験知を「健全な人間常識」に彫琢し、鋭く研ぎ澄ます媒体として、活かすこともできよう。筆者の専門的ヴェーバー研究は、自足完結的な文献研究と見紛われもするが、じつは、そういう専門超越的な動機に根差している。

[47] ということは、言表や文書の内容を「額面どおり」にではなく「イデオロギー」として捉え返す見方を、敵陣営だけでなく、身方にも自分自身にも普遍的に適用して、観念形象の素朴な「イデオロギー論」的把握一般から「知識社会学」に脱皮することができなかった、ということになろう。

[48] マンハイム流にいえば、「全体的イデオロギー」の一環として、そういう「遠近法的視座」を固定化・絶対化し、「自由な視点転換」がきかず、「エンパシー」(当事者とくに弱者・被害者の身になって「動機」を察知する「想像力」) も呪縛されてはたらかなかった、ということであろう。

[49] ヴェーバーによれば、人間の「行為」には通例、「明証的evident」に「解明deuten」・「理解verstehen」できる「意味上の根拠」すなわち「動機Motiv」があり、それゆえ、外から「観察beobachten」された「行為の経過」について、なぜ「かくなって、別様ではなかったのか」と問い、当の「動機」に遡って、「適切adäquat」に「説明erklären」することができる。こうした「理解科学」の方法を、個性的な生起に適用し、個性的な因果連関を探求する「現実科学 (ないし歴史科学)」が、歴史学であり、反復して観察された諸経過から、一般的・類型的「規則」を抽出する「法則科学」が、社会学である。

[50]N君の処分問題について」より引用。この点は、学生側文書も、上記のとおり、「日程をあらためてのオブザーバー問題での交渉の継続を要求して会議室の入口に全員むらがった」と記し、場所の特定にかけては教授会側と一致している。

[51] 築島助教授が、なぜ真っ先に退室したのか、を問うこともでき、これには、「一斉総退場の第二回目決行」にあたって、予めそういう「役割分担」が取り決められていた、あるいは咄嗟に思いつかれた、という「客観的可能性」も否定はできない。

[52] この点については、「理解社会学」の方法論上の要請を参照。「ある行為が、どれほど『明証的』に『解明』されたとしても、そのこと自体が、当の『解明』の『経験的妥当性』までを証明しているわけではいささかもない。外的な経過や結果においては同一の行為ないし自己行動Sichverhaltenが、きわめて異なった動機の布置連関から生ずることもありうる[分かりやすい例としては、「飛び下り自殺」と「転落事故死」]ので、そうした動機連関のうち、理解できる明証性を最高度にそなえたものが、つねに現実に作用したものdie wirklich im Spiel geweseneでもある、とはかぎらないからである。むしろ、いかに明証的な解明も、それが妥当性もそなえた『理解による説明』となるためには、当の連関の『理解』はさらに、他領域では普通におこなわれている因果帰属の方法によって、できるかぎり検証されなければならない」(M. Weber, Gesämmelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 1922, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 428, 海老原明夫・中野敏男訳『理解社会学のカテゴリー』1990、未來社、pp. 9-10)

[53] 東京大学新聞研究所・東大紛争文書研究会編『東大紛争の記録』(1969年、日本評論社) pp. 339400に、全文と署名者名が収録されている。

[54] 上注2に引用した『東大闘争と原発事故』、pp. 6472

[55] 926日付け堀米文学部長書簡「紛争の解決に向けて文学部学生諸君に訴える」、『学内広報』No. 43 (929日発行), pp. 34.

[56] 加藤一郎総長も同断である。坂本義和氏にいたっては、東京地裁の木梨法廷 (1972628) で、「121日半日公開文書」の「……扉外に出ようとした。このとき、……すでに扉外に出ていた」という記述を示して、字間に隠され、いまや明るみに出た事実について問い質そうとしたところ、「言葉尻を捉えた揚げ足取り」と決めつけて逃げた。

[57] ただし、当初からN君処分に疑問を呈していた藤堂明保、佐藤進一の二教授が、一年後、「教授会が責任をとらないのなら、せめてわれわれが」と辞職された。