マックス・ヴェーバー生誕150年記念シンポジウムに向けて――生誕100年記念シンポジウムを顧みる                                                折原

 

趣旨: 今年は、マックス・ヴェーバー18641920の生誕150周年にあたる。ついては、「ヴェーバー研究会21」と(旧「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」が発展的に解消して成った)「比較法史・比較宗教史研究会」の有志が連携して、生誕150年記念シンポジウム (以下、「150年シンポ」と略称) の企画が立てられ、2014127 () に早稲田大学早稲田キャンパス8号館B101教室で実施される。すでに準備会が二回もたれ、次回・第三回は518 () 14: 0018: 00、東京外国語大学本郷サテライト7階会議室で開かれる。

ちなみに、ヴェーバー没後100周年は2020年で、なんの因縁か、生誕100周年の1964年と同じく、東京オリンピックが開催される。1964年当時、100年シンポの企画者も参加者も、突貫工事で東海道新幹線や (日本橋の上に) 首都高速道を通す「高度経済成長」のインフラ整備と、祭典気分によるベトナム戦争のカムフラージュなど、大状況の問題をにらみながら、故意に地味な研究報告と討論を、128日の「太平洋戦争開戦記念日」直前 (の土日) に設定していた。2020年に没後100年シンポが開催されるとすれば、大状況にたいする批判のスタンスは、どのように堅持されるであろうか。

それはともかく、筆者はかつて、生誕100年シンポの事務方と一報告者をつとめ、その後も一ヴェーバー研究者として生きてきて、150年シンポも迎えられそうなことには、感慨ひとしおである。それにつけても、この機会に、100年シンポを振り返り、その後半世紀の歩みとも併せて、総括を試みたい、という思いがつのっている。

前回38日の第二回準備会でも、100年シンポの経緯と概要については、当事者のうち (準備会への出席者中では) 唯一の生き残りとして、証言を求められ、適宜、応答はした。しかし、筆者自身としては、もう少し立ち入って、一方では、第二次世界大戦敗戦から「1960年安保闘争」と「196263年大学管理法闘争」を経て1964年の100年シンポにいたる前史と、他方では、「196869年大学闘争」を経て現在にいたる半世紀とを、射程に入れ、100年シンポの意義と限界も、そうした1960年代精神史のなかに位置づけるような総括が、いままさに必要ではないか、という思いを禁じえないのである。

とはいえ、150年シンポに向けては、現役の世代が最先端の企画を立て、自由に議論を進めるべきで、100年シンポの回顧に時間を奪われてはなるまい。ただ、老生個人としては、上記のような、いま少し立ち入った総括を抜きにして、この間のヴェーバー研究とその意味を語ることはできない、と思うまでである。そこで、現役世代による150年シンポの準備に側面的に協力し、ヴェーバー文献の読解についてなど、質問と必要があれば、そのつど手短に補充するに止め、むしろそれと並行に、筆者個人としての総括をしたため、このホーム・ページに発表していくことにしたい。そうしておけば、150年シンポの企画者や参会予定者にも、100年シンポとの比較が必要となれば、随時、適宜、参照していただけよう。この点は、生誕100年当時と比べ、IT技術の普及により、はるかに便利になっている。これによって、余暇時間には恵まれても外出が困難な高齢者も、時間的拘束が厳しく多忙になるいっぽうの現役世代と、なお学問的交流は保ち、互いに補い合うことができるのではないか、と思われる [55日記、87日改訂、2015330日再改訂]

 

現在の時点で、100年シンポの記録として、大塚久雄編『マックス・ヴェーバー研究』(1965、東京大学出版会刊) をひもとき、当時の記憶を呼び覚ますと、筆者には、全体としてふたつの問題群が浮上してくる。なるほど、それらをその場で、まさに問題としてはっきり意識したわけではないし、いわんや、会場でしかるべく問題提起できたのでもない。しかし、両日の報告や討論をとおして、何かが欠けている、と漠然と感じ、シンポジウム以後、ある契機 (「196869年東大闘争」) から、それが何か、徐々にはっきり分かってきて、それ以来、自分の問題として引き受け、自分の責任で担おうとつとめてきた、そういう二問題である。

詳述は後段に譲り、当の二問題とは何か、あらかじめ端的に示せば、ひとつには、マックス・ヴェーバーの「実存と学問」のうち、後者が、前者から切り離されもっぱら学知の平面で自足完結的に論じられた、という事実がある。

第一日には、「社会諸科学におけるマックス・ヴェーバーの現代的意義」が、第一報告「社会学とヴェーバー」(担当-富永健一、以下、敬称略)、第二「経済学とヴェーバー」(青山秀夫、欠席で実現せず)、第三「法学とヴェーバー」(広中俊雄)、第四「歴史学とヴェーバー」(堀米庸三) というふうに、専門学科ごとに分割して論じられた。なるほど、第五報告「日本思想史におけるヴェーバー的問題」(内田義彦)と第六報告「戦前における日本のヴェーバー研究」(丸山真男)、とくに前者は、第一~第四報告とはやや性格を異にし、「世界解釈」上の「現代的意義」に止まらず、「世界変革」への実践に連なる緊張を孕んではいる。しかしそれらも、後述のとおり、上記の限界を越えてはいない。

第二日には、「マックス・ヴェーバーにおけるRationalisierung [合理化]の問題」が、社会諸科学に跨がる学知中心テーマとして、採り上げられた。しかし、まさにRationalisierungを問題の中心に据えることが、ヴェーバーの実存にとってどういう意味をもっていたのか、さらに、その関係がわれわれ自身の実存にどう跳ね返ってくるのか[1]は、突き詰めて論じられなかった。第一報告「ヴェーバーにおけるRationalisierungの概念―― 一つのMotivenforschung [動機探求]」にしても、報告者・安藤英治の日頃の問題関心と当日の副題からは、ヴェーバーにおける研究の動因が、かれの実存のうちに、求心的に探求され、解き明かされる、と期待されたが、じっさいの報告内容は、「学知の側から研究動機の統一が探知されるに止まった。当の統一が、ヴェーバーの実存に遡って、その次元から捉え返され、翻っては (安藤自身および参会者一同の実存に) 受け止められ、実践への緊張を孕んで論じられる、ということはなかった。

なるほど、両日のこうしたテーマ設定と内容構成は、「学術シンポジウム」としては当然で、そのかぎりでは、社会科学の諸領域における日本のヴェーバー研究の成果が、一堂に会した専門家によって集約され、中心テーマに即して掘り下げられた、とも評価されよう。しかしいま、あえてその限界を指摘し、その後の50年に開拓され展開された方向も確認して、後続世代の乗り越えにひとつの批判素材を提供することが、必要とされている、と思う。

 

いまひとつ、第一の問題と密接に関連するが、「学知の枠内では、「ヴェーバー自身が他の何学者でなくとも、社会学者であることだけはまちがいない」(丸山: 159. 以下、前掲大塚編『マックス・ヴェーバー研究』所収の論文執筆者名と引用のページをこの形式で略記、下線による強調は引用者)という当の「社会学」について、ではなぜ、かれが「社会学」に至り着いたのか、その事実が、ヴェーバー自身にとって、また、今日のわれわれから見て、どういう意味を帯びてくるのか、その根拠が、掘り下げて取り出されることはなかった。むしろ、この100年シンポは、日本における社会学者のヴェーバー研究が凋落期に入った事実を象徴していたように思う。

まず、外面的なところから始めると、戦前からヴェーバー研究に手を染めていた社会学の教授クラスは、その成果を携えて挑戦し、議論に加わろうとはせず、司会者席に座るか、主催団体(「東大経済学会」と「東大社会学会」)の一方の長として「閉会の辞」を述べるに止まった。この「閉会の辞」は、別人による同じく短い「開会の辞」や「所感」に比べて、内容に乏しかった。率直にいって、報告や討論には、富永健一や筆者のような若い新人をあてて「責を塞ぐ」ほかはない、というのが「東大社会学会」の実情だったと思う。

その後、1970年代にかけては、ヴェーバーの「社会学上の主著」と目される『経済と社会』の全訳計画が立てられ、逐次、刊行された (創文社版)。ところが、そこには、社会学者がひとりも登用されていない。この事実が意味するところは、社会学者の「不面目」には尽きず、「ヴェーバー研究」総体に内在するある根本的欠陥の帰結即規定因でもあった。というのも、当の全訳計画における「ヴェーバー社会学の欠落」のため、まず、テクスト編纂の当初からの不手際と読者誤導が不問に付され、そのまま継承されて、『経済と社会』とくに「旧稿」全篇の読解不全を招いたからである。しかも、この読解不全は、「ヴェーバー社会学のみならず、かれの「理解科学」中、「法則科学」としての「社会学」と、「現実科学」ないし「歴史科学」としての歴史学との相互媒介によって成り立つ、かれの学問世界総体とその意義の把握を妨げ、この点こそ100年シンポ全体の根本限界をなしていたと思われる。しかしこれについては、追って後段で論証することとし、ここではまず誤編纂ゆえの読解不全について、(文献通には不要とも思われるが)いま少し立ち入って解説しよう。

『経済と社会』は、通例「旧稿」(190914) と「新稿」(191920) と呼ばれる、ふたつの未定稿から成っている。双方の関係について、著者ヴェーバー自身は、「旧稿」から「新稿」にかけて「社会学的基礎範疇の術語を変更した」と (「新稿」冒頭の注に明記して) 断っていた。ところが、著者の急逝後、急遽編纂者となった妻のマリアンネ・ヴェーバーは、著者自身が途中までは脱稿して印刷に回してもいた「新稿」を、まずは『経済と社会』「第部」として刊行し、書斎の遺品中に発見された「旧稿」は、同「第部」に後置して出版した。『経済と社会』が、叢書『社会経済学綱要』中、編集主幹マックス・ヴェーバー自身によって執筆された重要巻として、速やかな刊行を期待され、編纂を急かされていた事情に照らすと、成り行き上は、そうした「応急措置」も致し方なかったといえよう。

 ところが、そのように (術語の変更を無視し、著者の執筆順とは逆に) 配置されて日の目を見たテクストを、読者が手にとって、(特別の断り書きも注記もないので) 書籍一般の普通の読解法どおりに (「第一部」から「第二、三部」へと) 読み進めていくと、変更後の「新稿」(「第一部」) の術語に表明された社会学的基礎範疇を、そのまま変更前の「旧稿」(「第二、三部」) に持ち越し、語形は同一ないし類似の術語にかぶせ、双方の概念を混同したまま、「旧稿」を「読む」ことにならざるをえない。そのようにして、著者の執筆後なんと一世紀間、第一次マリアンネ・ヴェーバー編纂の(意図されない)読者誤導と、これを踏襲した第二次ヨハンネス・ヴィンケルマン編および第三次『全集』版の (著者の注記にしたがう義務を怠った) 誤編纂本が、無疑問的に受け入れられ、新旧の基礎範疇が混同されて、「旧稿」をそれ自体の基礎範疇に即して精確に読解する試みは、絶えてなされなかった。それにもかかわらず、「主著『経済と社会』に表明された『ヴェーバー社会学』は、(なんとなく)分かっている、既知のことだ」と思い込む先入観が、「慣習律」として学界に定着し、諸外国語への翻訳にも持ち込まれ、著者が書き下ろしたテクストそのものをとおしてかれ本来の思考に迫ろうとする道は、久しく閉ざされていたのである。この根本的欠落が、100年シンポの議論にいかに反映されているか、については、後段で、四点に大別して、具体的に指摘しよう。

ところで、「社会学上の主著」の「社会学的基礎範疇の術語には変更がある」とは、著者自身が「新稿」冒頭の注に明記していたのであるから、「では、どの術語が、どう変わっているか」、具体的に突き止め、それぞれの変更の射程を「旧稿」全篇にわたって解き明かす課題は、本来は、「他の何学者にもまして」社会学者が負うべきであったろう。ところが、社会学者は、日本ばかりか、ヴェーバーの母国ドイツでも、精確な読解の前提条件をなすテクストの状態には思いをいたさず、基礎範疇を混同した議論に明け暮れ、そうした実情を「ヴェーバー研究」総体における社会学者の責任とは感得しなかった。日本では、後述のとおり、「マルクスヴェーバー」という優勢な「磁場」に引き寄せられて、そもそも「ヴェーバー研究」総体という準拠枠が成立しなかった。その結果、日本の社会学者は、ドイツにおける三次の誤編纂を、そのつど無疑問的に受け入れて怪しまず、創文社版の全訳計画で「蚊帳の外」に置かれた事実も、「不面目」「肩身がせまい」「面子が立たない」とは感じたかもしれないが、社会学者としての責任を自覚し、『経済と社会』のテクスト編纂を改め、「ヴェーバー研究」総体に応分に寄与しようとする契機とはならなかったのである。

というのも、日本の社会学者は、大まかにいって、戦前から敗戦直後まで、数少ない旧制帝国大学の哲学科に身を寄せ、「軒を借りて」「社会学とは何か」を論じ、「社会諸科学における一市民権の獲得」を目指して、そのかぎりでは「自然に」(丸山、159, 163, 169) ヴェーバーの社会学論・社会科学方法論も採り上げていた。ということは、研究者個々人が、自分自身の実存的」問題関心にしたがい、それぞれ理由あって「孤立分散的」にもヴェーバー研究に取り組んだのではなく、「学知」の平面における一専門学科の観念的物質的利害関心」を自明の前提とし、「学界という集合態の大勢」に順応して「自然に」「適応知」を競っていた、ということであろう。したがって、社会学者の関心は、主に社会学論・社会科学方法論にかぎられ、「ヴェーバー社会学」の内容総体とその意義にはおよばず、議論は「時宜に適ったzeitgemäß」一過性関心事の域を出なかった。

なるほど、稀には「儒教と道教」に、内容上の関心も向けられた。しかしそれは、「旧稿」中の「宗教ゲマインシャフト」章における「宗教社会学」的 (そのかぎりで「法則科学」的・「決疑論」的) 展開とも、『宗教社会学論集』に収録された比較歴史社会学的「試論」(「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」) とも、かかわりがなかった。むしろ、侵略先の事情を知る必要という政治的要請に促された、特異な非学問的関心に止まり、さればこそ「儒教と道教」に限定され、自己完結していたのであろう。

ところが、敗戦という政治的与件の激変によっても、敗戦を「終戦」と言いくるめて反省を怠るような思想状況では、戦前・戦中の学問のあり方学者の生き方が根本的に問い直されることはなかった。むしろ、「戦争責任」の直視を避け未来に視線を転ずる格好の方策として、戦勝国アメリカの社会学が、こぞって移入され、滔々と流れ込んだ。それが、「二十世紀科学」として盛行を来し、「社会学科」のみか「社会学部」が続々と誕生し、政治主導で「あっと言う間に」市民権が獲得されたとあれば、ことほどさように「時宜に適った学知を、諸手をあげて歓迎し、成果を競いこそすれ、その前提や意味を問い返す必要がどこにあろう。こうして社会学者は、政治的幸運を言祝ぎ、既得権に「満ち足りgesättigt」て、そういう専門的「学知」を与件として素朴に出発することに馴染んだ。「既知の」「ヴェーバー社会学」を先行学説のひとつに数え、いち早く「卒業」することが、社会学の「進歩」と説かれ、「学界の大勢」ともなったのである。

もっとも、日本の敗戦後社会学は、朝鮮・中国など近隣アジア諸国への侵略と、米英仏ほか「欧米列強」との無思慮・無謀な戦争に動員され、敗戦によって覆された日本人および日本社会の (「戦争責任」追求の回避を含む) 否定的諸側面を、「封建遺制」「前近代性」「官僚主義」「無責任の体系」として、なぜか大学は除き、農村・都市・家族・親族・近隣・町内会・企業・労使関係・労働組合・政党・政府・行政機関・軍部・公教育学校・伝統芸能団体、「(やくざや博徒などの) 病理集団」など、およそ考えられる「社会形象 (構成体) soziale Gebilde」「集合的主体kollektive Subjekte」について、実証的に究明し、克服されるべき問題の所在を具体的に明らかにした。しかし、そうした実証研究の理論的思想的根拠については、大塚久雄『共同体の基礎理論』、川島武宜『日本社会の家族的構成』、丸山眞男『現代政治の思想と行動』など、戦前から戦中にかけて(旧制帝国大学の「奥の院」で)着手され、「孤立分散的」に営まれ、敗戦後に満面開花した、社会学以外の「近代主義者」の研究実績 (内田義彦によると「巨人」の「離れ業」) に、大幅に依存するほかはなかった。100年シンポにおける社会学の凋落は、政治的与件に翻弄され、前提を問わず、「時流のまにまに適応知を競う、日本社会学の帰結であり、東大におけるその集約でもあったろう。

ただ、社会学における敗戦後実証研究の主導者で、さればこそ、そこに潜む問題性を大局的には見抜いていたと思われる福武直は、当時も、そうした実情を秘かに憂慮し、筆者の批判も察知して、「無理に調査をやらなくともよい。理論と思想の研究、とくにヴェーバー研究に専念したまえ。ただ、かたわらには調査に携わる同僚がいることも忘れないように」と助言してくれた。

ちなみに、ヴェーバー自身はもとより、「時宜に適った」「学知」の「専門社会学者」ではなかった。むしろ、「時流に抗するgegen den Strom schwimmen」「反時代的unzeitgemäß」「実存的existentiell」思想家であった。まさにそうであればこそ、初期から蓄積した膨大な歴史的知識を、かれ固有の(ということはつまり、「社会諸形象」「集合的主体」を実体化せず、いったん諸個人の有意味行為に還元したうえ、「秩序づけられた協働行為連関」として構成・定義し、「人間個人の責任」を見失わない)「理解社会学」に集約して、時代状況への実存的批判的投企に活かそうとし、また、そうすることができたのである。かれにおける歴史学(「現実科学」「史実的知識ontologisches Wissen」)と社会学(「法則科学」「法則的知識nomologisches Wissen」)との相互媒介と、その意味については、後段でいま少し立ち入って論ずることになろう。511日記、514日、728日、87日改訂、2015330日、43日再改訂]

 

100年シンポ、第一日の第六報告「戦前における日本のヴェーバー研究」(丸山: 151-72) は、ヴェーバーの没年から戦中にかけての日本におけるヴェーバー研究関連の文献について、金子栄一『マックス・ウェーバー研究――比較研究としての社会学』1957、創文社刊)の巻末に収録された文献表その他の資料から、独自に年譜を作成し、そこから「精神的傾向性」を抽出しようとした論考である。論旨は十分明快なので、ここでは要約や解説はいっさい省き、問題点のみ採り上げよう。

丸山によれば、ヴェーバー病没の翌大正10 (1921)、長崎高商の雑誌『商業と経済』には、早くも追悼文が掲載され、そこではヴェーバーがもっぱら「中世商事会社の歴史を研究した学者」として紹介されているという。ところが、もっぱら法制史家ないし法学者に焦点を合わせるそうしたヴェーバー像は、丸山の学生時代 (193437年、昭和10年前後) には、すでに影が薄くなっていた。その例証に、丸山はつぎのような思い出を語る。すなわち、東大法学部の商法の講義で、田中耕太郎が開講一番、参考書のひとつに『中世商事会社の歴史』を挙げ、つぎのように言葉を繋いだという。「今日、ヴェーバーは経済学、社会学、法律学など、ほとんど社会科学の全領域にまたがる仕事をした学者として知られているが、元来、かれの処女作は商事会社の歴史であり、はじめは商法の講義を受け持っていたと……、やや得意の面持ちで話された ()。あれだけ広い仕事をした人が、はじめは商法の先生だったというわけです」(155) 。このように「広域の万能学者ヴェーバーの出発点は法学にあり」という挿話は、法学部の講義には時折出てくるようで、ほかにも聞いたことがある。

さて、このエピソードは、筆者には、(一瞬間を置いて一堂の笑いを誘う) 丸山の巧みな話術とともに、記憶に鮮やかである。しかし同時に、ある問題を感知したことも否めない。というのも、なるほど「学知の平面にかぎれば、ヴェーバーが商法ないし法律学を出発点として大学教授の経歴を歩み始め、広い他領域でも実績を挙げたという事実に、なにか誇るに足る特別の意味があるかもしれない。しかし、さらに遡って、かれの「学問と実存」に射程を広げてみると、そういう出発点に、どれほどの意味を帰することができようか。どういう事情で、真っ先に商法の講義を担当したのか、それ以前に、かれがそもそも「学者」になろうとしたのか、なろうとしたとすれば、それはなぜか、ほかに選択肢はなかったのか、……というような一連の問いが念頭に浮かび、いきなり「学知」の起点に短絡するのは無意味、とも感得された。ただし、この疑問は、その時点では、一堂の笑いになんとなく唱和できない、一種の「わだかまり」の域を出なかった (丸山報告の本旨についての疑問は、後段で採り上げる)

ところで、ヴェーバーの「実存と学問」、とくに大学問題への関与にかんする研究は、じつは生誕100年シンポの後、それも「196869年全国学園闘争」を経たうえで、まずは阿閉吉男著『初期のマックス・ウェーバー』(1973年、勁草書房刊) と邦訳『マックス・ウェーバー 青年時代の手紙』(上下、1973年、勁草書房刊) によって先鞭をつけられ、ついで上山安敏・三吉敏博・西村稔により、「大学問題」にかんするヴェーバーの状況発言が邦訳・解説され (『ウェーバーの大学論』1979年、木鐸社刊)、やがて野崎敏郎による第一次資料の発掘・調査の結果、以前には知られていなかった(か、マリアンネ・ヴェーバーの『伝記』には誤って記載されていた)諸事実も含め、『大学人ヴェーバーの軌跡』(2011年、晃洋書房刊) が詳細にたどられ、「闘う社会科学者」の実像が明らかにされた。

ただ、筆者は、生誕100年シンポ以前に、「196263年大管法問題」に直面し、これとの関連で、青年ヴェーバーの職業志望と就職事情にも関心を寄せ、マリアンネ・ヴェーバーの『伝記』(Max Weber: ein Lebensbild, 2. Aufl., 1950, Heidelberg: Verlag Lambert Schneider, 邦訳1963年、同1965年、みすず書房刊) だけからとはいえ、いちおうの理解はえていた。すなわち、ヴェーバーは、1886年に司法官試補試験に合格したあと、ベルリン郊外の両親の家で学問研究をつづけたが、1889年に『中世商事会社の歴史』で学位をえた後にも、ブレーメン市の法律顧問になろうとして同市に出掛けて交渉したという (地元の候補者が採用されて、不首尾に終わる)。また、1891年に『ローマ農業史』で大学教授資格を取得した後にも、ベルリンの裁判所や法律事務所で補助業務に携わり、「弁護士として開業しようか」とも思案していた。かれはそのように、「自分は、(なんといっても「余暇仕事」の性格を免れない)学問研究よりも、(たとえば船長のような)責任を負う実践に向いている」と悟り、当初にはむしろ法実務の道を歩もうと志していた。かりに大学教授職に就くとすれば、そういう嗜好と適性は、研究よりもむしろ教育面で発揮されようか、と思念している。ただ、父親への依存をいち早く脱して、職業上も経済上も自立したいという願望も切実で、当面「二股をかけ」て、ベルリン大学の「私講師」にはなった。ところがそのころ、師匠のベルリン大学教授レーヴィン・ゴルトシュミットが、たまたま重病に冒され、ヴェーバーが急遽、員外教授(野崎著によると「員内助教授」)として、商法の代講を引き受ける羽目になったという。

そうこうするうちに、ヴェーバーの関心は、法制史から国民経済学に移り、フライブルク大学から、経済学正教授として招聘された。しかしそのさい、プロイセン邦の大学学術局長フリートリヒ・アルトホフが、ヴェーバーをベルリン大学に引き止めておこうと、手練手管を弄し、その結果、バーデン邦の大学学術局や両大学の教授会も巻き込む軋轢と暗闘が生じたようである。こうした初期条件が、ヴェーバー後年の「実存と学問」にも、「大学問題」への一貫した取り組み、数々の一見「方法論」上の論争、身近な訴訟案件への度重なる関与という形で、影を落としているように見える。しかし、それらの諸事情とヴェーバー「大学論」との詳細に立ち入ることは後段に譲り、ここではむしろ生誕100年シンポとくに丸山報告にたいする筆者の違和感(さらに、その後の「196869年東大闘争」における丸山との対立)の背景として、「1960年安保闘争」および「196263年大学管理法闘争」に遡り、それら政治社会運動へのかかわりとヴェーバー研究との関連に触れておきたい [516日記、729日改稿、つづく]

ちなみに、問題設定の枠組みを、このように「学問から実存へ」と広げると、ヴェーバーにとっては、政治(とくに大状況の政治)への関与が、もっとも切実かつ重要な「実存問題」で、それこそ真っ先に採り上げられるべきではないか、との疑問が投げかけられよう。一般的にいえば、それはまさにそのとおりで、筆者も、ヴェーバー研究に着手した当初から、とりわけ「1960年安保闘争」につづく「196263年大学管理法闘争」以降、「政治と学問」「研究と実践」との関連づけという問題に関心を向け、筆者なりに熟慮を凝らしてきた。そのさい、一個の研究者・教員として、「安全地帯に身を置いて初めて発動する、気楽な他者批判の事後評論」に終始してはならず、自分の現場としての大学で、(いやおうなく「政治」的意義を帯びざるをえない)「大学問題」と取り組み、これに「理解社会学」の方法と知見を投入し、「社会学することSoziologieren」にコミットし、現在進行形で「価値自由」に(ということはつまり、相対立する「蛸壺」の狭間にあえて身を置き、「境界人 (マージナル・マン)」になることで、双方の主張と、双方に絡め取られやすい自己とを、そのつど相対化し、そうすることによって、つとめて先入観から免れて、公正に)理非曲直を明らかにし、そうすることをとおして、問題を (機動隊導入のような強権によってではなく)「学問の府」「理性の府」らしく、「話し合い」により、納得づくで解決する、という方途を模索した。それ以降、こうした「社会学的アンガージュマン」を抜きに、もっぱら学知の平面で自足完結的に、たとえば「ヴェーバーの政治思想」や「ヴェーバーにおける政治と学問」について喋々する (「政治について語ることで、政治的コミットメントからは超越しているような錯覚に耽る」) のは虚しいという思いが、そのつど先行し、つのるばかりであった。

とはいえ、筆者もいつかは、一大学教員また一ヴェーバー研究者として、この問題にたいする長年の批判的態度決定を、切開し、自己対象化して、所見を公表しなければならない、と考えてはいた。ただし、まさにそうであればこそ、この課題は、後段ないし別稿で主題として採り上げ、慎重を期したい85日記、7日改訂、つづく]

 

[さて、去る8月初頭、北川隆吉先生の逝去を「偲ぶ会」の案内で知り、815日には、法政大学の友人から、舩橋晴俊君の急逝を知らされた。

筆者は、1956年から60年代にかけて、東大文学部社会学科主任助手また法政大学社会学部助教授で「民主主義を守る学者・研究者の会」(略称「民学研」)を主宰された北川先生から、学部学生また院生として、多大な影響を受けた。そこで、先生の思い出を点描しながら、筆者が何を教わり、どう受け止めたか、を回想しながら、「北川隆吉先生から学ぶ――ご逝去を悼んで」と題する一文をしたためた。その内容はちょうど、1964年の「ヴェーバー生誕百年シンポ」に先立つ戦後精神史の一齣にあたり、その意味で本稿と相互補完関係にあるので、近々、改訂増補のうえ、「戦後精神史の一水脈――北川隆吉先生追悼」と題して本HP に掲載したいと考えている [102日掲載]

舩橋晴俊君は、理科生として「196869年東大紛争」にかかわったが、その後文転して経済学部を卒業したあと、環境社会学者となり、数年来、原子力市民委員会の座長として、市民運動と社会学研究との狭間に立って、双方の媒介-統合を目指していた。その成果が、『原子力総合年表』として、つい先日公刊されたばかりである。

筆者が思うに、舩橋君は、「196869年東大紛争」から提起された「学問は何のためにあるか」「プロフェッショナルとしていかに生きるべきか」という問いを一身に引き受ける一方、(筆者のように、「当事者性の自覚」に固執して、日本社会学会とも疎遠になった、狷介固陋な生き方を、おそらくは批判し、乗り越え) みずから環境社会学会を立ち上げ、学会のリーダーとして、第一線に立って活躍していた。その点では、同じく日本社会学会に多大の貢献をなさった北川先生の方向を継承していた。

舩橋君のあまりにも惜しまれる早逝はおそらく、学界と市民運動との狭間で、同君らしく双方に誠実に気を配って粉骨砕身したことにともなう疲労が、60歳代の半ばも過ぎて、知らず知らずのうちに溜まっていたからであろう。

筆者は、「戦後精神史の一水脈――北川隆吉先生追悼」の脱稿後、127日に予定されている「ヴェーバー生誕150年シンポ」への側面的協力も済ませたら、舩橋晴俊君の思い出を点描し、同君の厖大な業績も振り返り、「196869年東大紛争」後の精神史の一齣として、再構成を試みたい。さしあたり、「舩橋晴俊君の急逝を悼む」と題する即興の一文と、生前の質問に答えた関連記事「昨今の仕事プラン――戦後精神史の構想とヴェーバー研究の前提反省」を、本HPに掲載する [2014922日、付記、27日、改訂]

この間にはまた、『宇井純セレクション』全三巻が刊行された 731日、新泉社]

筆者はかねがね、「196869年学園闘争」の「後退-壊滅」局面で、学園闘争を反公害市民運動に媒介し、前者の意義を「救い出し」、継承するとともに、反公害の世論を喚起した、宇井さんの功績を、高く評価してきた。それと同時に、1969年に外国出張から帰国し、東大闘争には「一足遅れて」批判的に距離をとって加わった宇井さんの、助手としての「自由な」(教授会メンバーとしての制約を受けない立場をフルに活用しての活躍を注視し、それと対比して、筆者が、当初からいかに教授会メンバーとしての制約に縛られていたか、を知り、そのようにして自己を相対化する準拠枠としても、活かしてきた。また、そのような側面から見て、宇井さんが、(「生存基盤原論」の高橋晄正さん、「反原発運動」の高木仁三郎さん、山口幸夫さんら、とともに)大学闘争を反公害・反原発運動に媒介した「第一世代」として、①既成の大学で、すでに教養を修得し、専門的訓練を受け、(宇井さんと高木さんは) いったんは企業に就職して実験室や工場の現場経験も積み、専門の研究者として自立し、住民運動からの要請に応じて実効ある助言と協力をなしうる実力をそなえていたこと、②個別の反公害-、反原発運動に協力して当面の勝利を目指しながらも、その渦中で教育者としても振る舞い、後継者養成の制度として「公開講座」や「市民学校」を開設すると同時に、運動に参加する学生や院生を、実力ある専門家にしかるべく育成する個別の指導も絶やさなかったこと、公害を除去し、開発を阻止する、その意味で否定的な運動に荷担するばかりでなく、「適性規模」の下水処理施設の建設を目指す「活性汚泥」の専門的研究者として卓越した存在であったことを、「第二世代」以後の若者には、看過されたり、軽視されたり、場合によっては「批判」されたりする「クリティカル・ポインツ」として、さればこそそれだけ強調しておかなければならない、と考え、そうした趣旨で一文をしたため、「『宇井純セレクション』全三巻の刊行に寄せて――逝去八年後の追悼」と題して、同じく本HPに掲載した101日]

これら三追悼文は一見、「ヴェーバー生誕150年シンポに向けて、生誕100年シンポを顧み、この50年を総括する」こととは無関係のようであるが、「60年安保闘争」から「196263年大管法闘争」をへて1964年の生誕100年シンポにいたる前史、そのうえ「196869年学園闘争」で「大学問題」に取り組み、以後、今日にいたる経緯を、それぞれ「戦後精神史」の一齣と捉え、そのなかでヴェーバー研究50年との関連も問いなおそうとする試みとして、本稿と切り離し難い関係にある。たとえば、「第一世代」の代表者を専門家・専門教育者・専門研究者として評価する上記の論点は、「専門化」とくに「早期専門化」をともなう「合理化」につれて、科学-技術製品の日常的利用者である非専門家「大衆」は、科学-技術の合理的原理からはいっそう疎隔され、自分では科学-技術を合理的に制御することができなくなる、というウェーバーの所論 (「合理化」論の一環) と密接不可分の関係にあり、市民運動と学問研究との狭間に立って双方を媒介しようとする闘争者には、回避を許されない問題提起であるといってよいであろう。筆者は、本年12月上旬に迫った「ヴェーバー生誕150年シンポ」に向けて、「生誕100年シンポ」の総括を早く書き上げたいとは思いながらも、以上の趣旨で、三追悼文を間に挟み、それらの執筆に専念した次第である。(2014105日記) ]

 [そうこうするうち、岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」が、2014118日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」に掲載された。これは、2011311日の東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故以来、期待をもって注目してきた、東大現場の学生からの、(筆者の知るかぎり) 初めての発言である。これには、約半世紀前に「196263年大管法」、「196768年東大紛争」にかかわり、大学・学問・「プロフェッショナル」はいかにあるべきか、を現場で問題とした一老先輩として、往時を振り返り、問題提起と参考意見を具体的に伝えて、応答したいと思い立った。現在このHPに、途中稿を連載している2015211日脱稿]。そのために、この「マックス・ヴェーバー生誕150年記念シンポジウムに向けて――生誕100年記念シンポジウムを顧みる」が、途中で滞り、明日に迫った127日「150年シンポ」までには、脱稿できなくなった。

しかし、「100年シンポ」の場合と同様、当日の報告と討論を収録する『論集』が企画され、後に出版される予定となり、筆者にもスペースが与えられることにった。事後にはなるが、そこに寄稿するとともに、この論考の続篇も仕上げて、このHPに収載するつもりでいる。今回、一連の思念を、各所に分散させてしまった不手際を、お詫びする。(126)]

[『論集』に向けて、「ヴェーバー研究会21」の例会が、2015324日に開かれることになり、そのさい、「100年シンポの総括に向けて」の一報告が、筆者に割り当てられた。そこで、当日の「報告レジュメ」と「資料」(大塚編著からの抜き書きと評釈ならびに項目見出し) を、予め315日に、本HP に掲載して、24日当日の討論にそなえた。(320日記)]



[1] 準備会の席上、第二部会の表題にRationalisierungという原語を用いることの是非が問題とされたが、これを「合理化」と訳すと、「理屈をつけて正当化する」という意味に解されかねないので、結局、原語のままに留め置かれた。しかし当時の大状況では、「合理化」とは「機械-自動機械の導入による人減らし」の意味で問題とされ、五桁の郵便番号導入に反対して「合理化」-「粉砕」と記入して投函する申し合わせがなされていた。