「合理化にともなう没理念化」「『外から』の革命と『内から』の革命」(第一部会第二報告草案、その3200639日現在)――3. 1718京都シンポジウムに向けて(10

折原 浩

[承前]

Ⅱ-7.「支配社会学」の一論点(「合理化にともなう没理念化」)に、カテゴリー論文への前出参照指示あり

 ヴェーバーによる「旧稿」執筆「第二局面」の代表作「支配社会学」には、カテゴリー論文に固有の術語である「諒解ゲマインシャフト」「諒解」「諒解行為」の明示的な適用例が見られました。ということは、「第二局面」にも、カテゴリー論文の基礎概念が適用され、その規準的意義が活かされている証拠といえましょう。

 しかし、その事実は、「統合」仮説の主張者としての折原に、あまりにも好都合なので、かえって「自説に好都合な例ばかりを並べ立てても論証にはならない」という警句を思い出させます。そこで、反対に、「不統合」仮説に有利で、折原には不利な事実を取り上げて、検討してみたいと思います。

 シュルフター教授によれば、「カリスマの概念したがって術語は、「第二局面で初めて使われるようになり、カテゴリー論文と「第一局面」に属するテクスト、たとえば「経済と秩序」篇には、登場しません。なるほど、「経済と秩序」篇では、既存の「習俗Sitte」や「慣習律Konvention」にもとづく「大量行為Massenhandeln」や「ゲマインシャフト行為」の規則性を覆す「革新Neuerung」の問題が取り上げられ、そこに「特定の『異常abnormな』体験をなし、これによって他人に影響をおよぼすことのできる個人」という表記は出てきます。ところが、その「個人」は、「カリスマ的」個人とは呼ばれていません。ヴェーバーはむしろ、そうした「『異常な』個人」による影響のあり方につき、(ルドルフ・ゾームではなく)ヘルパッハによる「鼓吹Eingebung」と「感情移入Einfühlung」との区別を導入して、「当為教唆」と「共体験」とに分け、予言を「使命予言Sendungsprophetie ないし倫理予言ethische Prophetie」と「模範予言exemplarische Prophetie」とに分類する伏線を敷いているだけです。もとより、その「予言」の担い手、つまり「予言者」を、「第二局面」の「宗教社会学」篇におけるように、「使命によって神の命令ないし宗教上の教説を告知する個人カリスマの担い手」というふうに定義してはいません。ですから、「カリスマ」というヴェーバーに固有の術語は、「第二局面」から使われるようになる、というシュルフター教授の指摘は、正しいといえます。

 問題は、その正しい事実が、「『第二局面』ではカテゴリー論文の基礎概念までが規準的機能を失う」という主張の証拠となりうるか、にあります。折原からの反証として、ひとつには、ヴェーバーが「第二局面」の「支配社会学」で、「カリスマという術語を明示的に用いて「カリスマ的支配」を論じながら、なおかつカテゴリー論文の参照を指示している事実 [前出参照指示Nr. 474] を指摘することができます。引用資料5.をご覧ください。そこでヴェーバーは、「合理化」とくに「官僚制的合理化」を、「『外から』の革命」として捉え、それが広範な大衆を捉えて実現された暁には、被指導者大衆においてはすでに「没理念化」されている、とう深刻な事態を指摘します。この論点は、引用資料6. にあるカテゴリー論文の末尾に、内容上正確に対応しています。

 さて、この論点はその内容自体、「合理化」の帰結とその意味を考えるばあいに重要です。後にカール・マンハイムが「機能的合理性functional rationality」と「実質的合理性substantial rationality」との齟齬という観点を引き出したのは、多分この箇所からでしょう。しかし、ここではむしろ、ヴェーバーが、「官僚制的合理化」を「『外から』の革命」と呼び、「『内から』の革命」力としての「カリスマ」に対置している事実に注目したいと思います。というのも、この事実は、ヴェーバーがなるほど、直接「内から」の「カリスマ革命」自体についてではないとしても、それとになっている「外から」の革命については、カテゴリー論文の規準的意義を明示的に認めながら草稿をしたためている証左、と解釈せざるをえないからです。「カリスマ的支配」篇では、なるほど、「カリスマ」という術語が新たに導入されたにせよ、そのためにカテゴリー論文の規準的意義が失なわれたわけではなく、いぜんとして活きている、と考えられます。この対比からは、では、「内から」の「カリスマ革命」は、「外から」の「官僚制的合理化」とは異なって、およそ「ゲマインシャフト行為」ないし「社会秩序」の「合理化」の方向には作用しないのか、作用するとすれば、「没理念化」をともなわないのか、といった問題が、ただちに提起されましょう。ところが、そうした問題の解は、やはりカテゴリー論文の「合理化尺度」を規準として、双方を測定し、比較する、という方向で、追求されるよりほかはありますまい。

 いまひとつ、カテゴリー論文には、「カリスマ革命合理化との関係について、規準となる理論的観点ない視角が用意されていないのかどうか、という問題が提起されましょう。この点については、いまのところなにか確定的なことはいえないのですが、つぎの第三報告の担当者がカール・メンガーを専門的に研究してもおられる八木紀一郎氏ですので、ここでひとつ折原から、この問題をメンガー-ヴェーバー関係にかかわらせて、仮説的に提起し、ご教示を請いたいと思います。というのも、カテゴリー論文 (このばあいは「第一部」) には、引用資料7.のような観点が提示されています。この引用のお終いのところで、ヴェーバーが、文化史からいくらでも具体例を引けるといって抽象的に要約している命題は、メンガーとの関連で、どう読まれるでしょうか。

 折原の理解では、メンガーは、社会制度/社会形象の創始(「革新」)に、「実用主義的pragmatisch」と「無反省的unreflectirt」との二類型を考えていました。「実用主義的」とは、目的意識的な立法による制度創設で、ヴェーバーの「新しい制定秩序の授与ないし協定」=「ゲゼルシャフト結成」=「合理化」=「『外から』の変革」に相当するでしょう。それにたいして、メンガーは、社会形象が、歴史の経過のなかで「無反省的」にも成立する、という事実に注目し、そうした社会形象を、オーギュスト・コントやドイツ歴史学派と同じく「有機的organisch」と呼ぶことも容認したうえで、なおかつその成立を、かれの「精密的exact」方針にしたがって「原子論的atomistisch」に説明することができる、と主張しました。たとえば、貨幣制度の発生は、直接的な物々交換の難点を、だれかある個人が、いったん第三の (自分の需求を直接充足するものではないが、「販売力」はある) 財貨と交換し、その特定量を自分の需求に適う財貨と交換する、という具合に、間接交換への突破口を開くことによって克服し、この新機軸が、周辺の諸個人に「模倣」されて「普及」し、やがて「慣習化」する、というふうに説明できる、というわけです。しかも、メンガーは、貨幣制度だけではなく、集落/市場/言語/国家/法など、(立法による創設態を除く) 数多の社会制度も、その始源と変遷を、このように個人的な諸努力の「無反省的」所産/「意図されない合成果」として説明できると述べ、「精密的」「原子論的」方針を、社会諸制度に普遍化的に適用/展開する道を開きました。

 この方針を説くコンテクストのなかで、メンガーは、引用資料22.のように、オーギュスト・コントを批判しています。ヴェーバーはといえば、社会形象の「全体を、個別現象から因果的に説明することは、(事実上のみでなく) 原理的に不可能」というロッシャーの見地を「ドグマ」としてしりぞけ (WL: 35-6)、つぎのような見解を対置し、そのさいメンガーに言及します。すわなち、「われわれは、社会科学Gesellschaftswissenschaftの領域では、社会がそれによって構成され、社会諸関係のすべての糸がそこを通り抜けなければならない『もっとも微細な部分die kleinsten Teile』の内側を覗き込むことができるという幸福な状態にあるから、ほんとうのところ事態は逆である、という異論が、すでにメンガーによって、またその後多くの人々によって唱えられている」(WL: 35 Anm. 1) というのです。つまり、ヴェーバーも、「もっとも微細な部分」すなわち社会を織りなす人間諸個人について、内面的・精神的「動機」を「有意味的に解明」ないし「追体験的に理解」する可能性があり、したがって、社会科学は、「観察」に加えて「理解」もでき、「理解」された意味・動機を因果的契機として行為を「説明」できる、というふうに、積極的に捉え返します。まさにそれゆえ、社会形象ないし「集合的なものthe collective」を実体化してそこから出発するのではなく、それらをいったんは(「意味」の担い手としての)個人の行為にまで還元して、そこから出発し、社会諸形象/ゲマインシャフト諸形象を、「諸個人の行為の多少とも秩序づけられた協働連関」として捉え返していく「方法論的個人主義」の方針を採用するのです。そういうヴェーバーは、「他人の精神生活を解明することは原理的に不可能」というリッカートに反対して、「どんな種類の人間行為ないし人間表現の経過も、意味のある解明sinnvolle Deutungが可能である」(WL: 12-3 Anm.) と主張するかれでもありました。フランス社会学史の系譜に置き換えていえば、ヴェーバーは、メンガーの視点を継受することによって、基本的には、コント-デュルケームの伝統ではなく、ガブリエル・タルドの(「発明-模倣」図式の)見地に立ったといえましょう。

 管見では、デュルケーム社会学は、「集合的なもの」「集団表象」を起点に据えますが、当の「集団表象」の発生成立を、少なくともその個性的な質に立ち入ってまでは説明できない、という難点を抱えています。その点、諸個人の有意味的行為から出発して「社会形象」「ゲマインシャフト形象」の成立変遷(再成立)を説明しようというメンガー-ヴェーバーの「方法論的個人主義」の説明方針は、デュルケーム社会学の難点を越えようとし、それだけ優位にある、といえるのではないでしょうか。そして、ヴェーバーが、ロッシャーやメンガーのみでなく、もとよりシュタムラーのみではなく、ヴント/ジンメル/リッカート/ディルタイなど、同時代の主だった方法論者との批判的対決をとおして進めてきた方法論的模索の積極的集成定式化が、ほかならぬカテゴリー論文にある、ということになるのではないでしょうか。しかし、方法論的諸論稿とカテゴリー論文との関係を、フランス社会学の系譜も対照的類例として射程に入れ、浮き彫りにするという課題は、ここでついでに論じられるものではありません。

 当面の問題は、ヴェーバーが、社会科学の基本的なスタンスを、そのようにメンガーから継受しているとすれば、社会制度/社会形象の成立にかんする「実用主義的」と「無反省的」との区別、とくに後者を、どのように捉え返し、再定式化しているのか、それが「カリスマ革命」とどのような関連にあるのか、という論点にかぎられます。引用資料7.では、まえのコンテクストを少し長めに引用しておきましたが、そこでヴェーバーは、精神分析/ルサンチマン説/「経済的唯物論」を挙げ、それらの理論においては「主観的に目的合理的なものと、客観的に整合合理的なものとが、必ずしも明瞭には区別されない関係に置かれている」といって批判しています。そのうえで、では両者を「明瞭に区別して」かかるとどうなるのか、と問い、「直接『目的合理的』な動機によって生み出されたと見えるものが、発生状況に穿ち入ってみると、じつは『(主観的には目的)非合理的』な動機によって生み出され、それが事後的に、生活技術的な『(客観的)整合合理性』を取得し、それゆえに『生き残り』『普及』もする、――その関係を、後世から『成功物語success story』風に眺めて再構成すると、『成功目当てに主観的に目的合理的に生み出されたかのように』錯視されもする」と答え、文化史からいくらでも例を引ける、と述べていたわけです。そこで、ヴェーバーの数々の文化史的研究から、具体的な例証を探してみますと、「古代ユダヤ教」の一節で、同じように「経済的唯物論」の説明方針に対置して、「主観的目的合理性客観的整合合理性との区別を基礎とするかれの説明方針を具体的に適用しているところが、確かにありますRS: 87-8, 188

 古代パレスチナの砂漠/草原地帯に住んでいた牧羊者Hirten/反遊牧的小家畜飼育者halbnomadische Kleinviehzüchter層において、「氏族Sippe」の規模を越える政治的「部族Stamm」結集は、自然環境/物質的生活諸条件に規定されて、著しく不安定でした。すなわち、人口の自然増と牧草地の稀少化にともない、氏族単位の定住に移行する分解/分散傾向を免れませんでした。ところが、諸氏族が「宗教的兄弟団Bruderschaft」を結成して「部族」をなすばあいには、他のそうでない諸部族の分散傾向/不安定性とは顕著な対照をなして、長期にわたる安定と存続を確保しえたというのです。

 さて、問題は、この事実をどう説明するか、にあります。まず、「経済的唯物論」にしたがって、草原地帯の物質的/経済的生活条件が「土台」ないし「下部構造」をなし、その「イデオロギー」ないし「上部構造」として、宗教の領域に、おのずと「兄弟団」が生み出された、というふうに「客観主義的」に説明するのは、とても無理でしょう。そのように説明できるのはむしろ、繰り返し起きる「氏族」への分解/分散傾向のほうだからです。他方、メンガーの「実用主義」的成立という説明方針にしたがって、諸氏族ないし諸氏族のゆるやかな連合が、自分たちの生活条件に由来する分解傾向を冷厳に認識し、これを克服しようとの目的を設定し、その手段として、初めから主観的に目的意識的/目的合理的に「宗教的兄弟団」を設立した、というふうに解釈するのも、やはり行き過ぎでしょう。

 ヴェーバーが、このふたつの先行方針を考慮に入れ、「経済的唯物論」批判のほうを前面に押し立てながら説くところは、こうです。すなわち、「宗教的兄弟団」の創始そのものは、宗教上の――したがって、政治上/経済上は「偶然」で「非合理――理由によって生起し、「まったく具体的な宗教史的、しかもしばしばきわめて個人的な事情と運命」によってきまる。しかし、ひとたび「宗教的兄弟団」が創始されるや、そのようにして宗教的に裏打ちされた「部族」結集態は、当の社会層の生活諸条件のもとで、他の不安定な政治諸形象――「宗教的兄弟団」はなさない政治的等価態の「部族」結集――に比して、淘汰に耐えて生き延びる、はるかに大きな客観的可能性、つまり「生活技術」「ライフ・スタイル」としての「客観的整合合理性」を取得した。そのうえで、「宗教的兄弟団」の結成が、政治的勢力手段/経済的存続手段としてはからずも有効/適切であると、事後的に証明され、広く認識されると、この認識が翻って、その普及には寄与する。つまり、有効と証明された手段が、いまや競って、こんどは目的意識的――「主観的に目的合理的」――に、採用される。レカブの子ヨナタブの告知も、ムハンマドの宣教も、そういう「意図されない合成果」をともなった、というのです。

 とすると、この説明方針は、社会制度/社会形象の「無反省的」成立にかんするメンガーの「精密的」「原子論的」説明方針を、ヴェーバーが継承し、マルクスやドイツ歴史学派の「総体論的説明方針との相互媒介関係のなかに置いてWL: 163敷衍し、文化史的研究に適用して鍛え上げた成果、といえるのではないでしょうか。ヴェーバーが、一方では「総体論的」説明方針を継受していたために、メンガーの多分に「合理主義」的な適用制限は取り払って、初発の合理的」「革新」「革命」を宗教の領域に求め、その「意図せざる」「合理的合成果」は政治や経済の領域に探る、というような大胆な間領域的適用の道が開けたのではないでしょうか。その意味で、ヴェーバー歴史・社会科学の方法は、メンガーと歴史学派との間で闘わされた「社会科学方法論争」のひとつの創造的な解であり、(歴史学派とじつは等価の)コント/デュルケーム学派の系譜にたいしては「一頭地を抜きん出て」いる、といえるのではないでしょうか。じつは「倫理」論文も、「淘汰」説の批判において、同じ説明方針が貫徹されている、と読めるのではありますまいか。

 ただし、ヴェーバーは、「古代ユダヤ教」でも「倫理」論文でも、初発の「革新」局面に、「カリスマ」概念を術語として明示的に適用してはいません。一方ではレカブの子ヨナタブもムハンマドも、他方ではルターもカルヴァンも、「カリスマ的」な予言者あるいは宗教改革者に違いないのですが。また、「『内から』の革命」としてのカリスマ的「革新」が、必ず「客観的に整合合理的」な帰結をともなうときまっているわけではありません。それがいかなる歴史的運命をたどるのかは、非日常的な「カリスマ」が不可避的に「日常化」していく、そのときどきの諸条件の布置連関によってきまる、と見なければなりません。

 ですから、折原は、「古代ユダヤ教」の一節にもっとも明晰に定式化された、社会制度/社会形象の歴史的創始にかんするヴェーバーの説明方針と、「旧稿」の「支配社会学」に定式化されている「カリスマ的」「突破」「革新」「革命」の理論とを、ここで性急に結合/等置/同一視しようとは思いません。ひとつの仮説的問題提起にとどめて、議論を喚起したいだけです。

 ただ、ここで垣間見てきたような、ヴェーバーの方法論的模索の成果/メンガーと歴史学派との相互媒介の一端が、カテゴリー論文からの引用資料7. にいったん集約されていること、また、「主観的目的合理性」と「客観的整合合理性」との――ヴェーバー、というよりも、かれのカテゴリー論文に独自の――区別にもとづく、そうした理論的着想と視点が、その後の文化史的研究一般(「古代ユダヤ教」では明示的に)適用され、展開されていくことも、確かでしょう。したがって、そのカテゴリー論文と「旧稿」とを切り離し、「旧稿」の「カリスマ的支配」篇を孤立させて読むのでは、その背後にある豊かな理論的含蓄や歴史的適用への潜勢を引き出せずに終わるのではないか、と危惧するのですが、いかがでしょうか。

200639日記、つづく